雨音が窓を打ち付けている。ラルトスは絵に触れたまま涙を流し、クチートは壊れたクローゼットの中で吹き飛ばされた時の状態のままこちらを見ていて、シロナはまだ眠ったまま動かない。
誰も声を出せない中で、ゲンガーだけが絵から目を離せずにいた。
手を繋いで笑う女の子とゲンガー。
今この空間にあるのは、この館に渦巻いていたものとは違って見えた。暗く沈んだものでも、誰かを拒むものでもなく、ただ明日も同じように続くと信じていた時間だった。だからこそ、あの絵を見つめるゲンガーの姿は、さっきまでよりずっと小さく見えた。大きな口は開きかけては閉じ、赤い瞳は絵から逃げようとして戻り、その繰り返しのたびに、俺の中で日記の文字と先程の男、女の子の父親の言葉が少しずつ重なっていく。
女の子はゲンガーを嫌っていなかった。日記にも、絵にも、ラルトスが受け取った気持ちにも、それははっきり残っている。だからこそ、父親の話が頭から離れなかった。母親だけが違っていた。娘を守りたいと言いながら、ゲンガーを遠ざけようとしていた。
窓の外を見るな、森へ行くな、雨の日は特に気をつけろ。
きっとその言葉は、ただの注意じゃなかった。女の子をゲンガーから離すための言葉で、女の子自身が何を望んでいるかとは関係ない言葉だった。
母親は本気で娘を守ろうとしていたのかもしれない。けれど、その守ろうとしたものは、女の子が大切にしていたものとは重なっていなかった。
【妻はゲンガーを嫌っていた】
【娘を守りたかったんだと思う】
父親の声が頭の中で蘇る。守る、という言葉だけなら分かる。大切なものを危ないものから遠ざけたいと思うことも、きっと分からなくはない。
けれど、絵の中の女の子は笑っている。日記の中でもまた遊ぶと書いている。ラルトスが拾い上げた言葉も同じだった。女の子にとってゲンガーは危ないものじゃなかった。少なくとも、あの子自身はそう思っていなかった。
だから、母親の「守る」は、女の子の気持ちを守ることじゃない。母親が怖がっていたものから、認めたくないものから、無理やり引き離すことだった。
抱えていた日記の重さが、急に手の中で増したように感じた。何度も読んだ最後のページが頭に浮かぶ。そこには、次は自分が見つける番だと書かれていた。明日へ繋がるはずの言葉。かくれんぼの続きを楽しみにしている言葉。そこで日記は終わっている。次の日のことも、ゲンガーを見つけられたのかどうかも、どこにも残っていない。
けれど、その終わり方は、最初から終わるつもりだったものには見えなかった。続きを書くつもりだったから、明日も遊ぶつもりだったから、あんなふうに終わっていたのだと思う。
日記の最後が怖かった理由が、今になって少しだけ形を持つ。あれは終わりの言葉じゃない。続きがあるはずだった言葉だ。
ーー来なかったんじゃない。
胸の奥で言葉が形になる。
ーー来られなかったんだ。
その瞬間、ゲンガーの肩が大きく震えた。俺はまだ何も言っていない。けれど、同じ場所へ辿り着こうとしている俺の思考を、ゲンガーだけはどこかで感じ取っているように見えた。赤い瞳がゆっくりこちらを向く。睨まれているはずなのに、そこにはさっきまでの圧がない。代わりに、見られたくないものを見られた時のような、逃げ場を探す動きだけがあった。
俺は日記を抱え直し、一歩だけ前へ出る。近付きすぎればまた襲われるかもしれない。けれど、もうさっきまでと同じには見えなかった。ゲンガーは戦うためにこちらを見ているんじゃない。絵と日記とラルトスの言葉が同じ場所を指しているのを見せられて、それでもまだ目を逸らそうとしている。
「……ゲンガー」
名前を呼ぶと、赤い瞳が揺れた。
「女の子は、お前を嫌ってなかった」
ゲンガーは答えない。けれど大きな口が僅かに開き、すぐに閉じる。声にならない何かを飲み込むみたいな動きだった。ラルトスが絵へ触れたまま顔を上げる。
『また、あそぶ』
小さな声が落ちる。その言葉に、ゲンガーの指先が震えた。絵へ触れようとして、触れないまま止まる。その仕草を見た瞬間、俺の中に残っていた迷いが少し薄れる。ゲンガーは知らなかったわけじゃない。ただ、受け取れば終わってしまうものを、ずっと手前で止めていたのだと思う。
「日記にも書いてあった。あの子はまた遊ぶつもりだった。次は自分が見つける番だって、そう書いてあった。絵にも残ってる。ラルトスが今拾い上げている気持ちも同じだ」
俺の言葉が進むたびに、ゲンガーの視線は絵へ戻る。戻ってしまう、と言った方が近かった。何度目を逸らしても、結局そこに描かれた女の子へ引き寄せられる。手を繋いで笑う自分と、隣で笑う女の子。そこにあるのは責める顔じゃない。拒む顔でもない。だから逃げられない。ゲンガーが逃げたいのは絵そのものではなく、その絵が残している答えの方なのだと思った。
【窓の外を見るな】
【森へ行くな】
【雨の日は特に】
父親から聞いた言葉が、雨音と重なる。雨の日。森。ゲンガー。女の子。そして、最後の日記。
お母さんはゲンガーを嫌っていた。女の子を守ろうとしていた。
だから、会わせないようにした。遠ざけようとした。そこまでは繋がる。けれど、その先がまだ見えなかった。
遠ざけようとしただけなら、日記がそこで終わる理由にはならない。女の子が帰ってこられなくなる理由にもならない。父親があんな顔で話していた理由にもならない。
ーーじゃあ、何をした。
言葉が胸の内側で重く沈む。考えたくないのに、考えないと先へ進めない。母親は娘を守りたかった。けれど、女の子はゲンガーに会いたかった。二人の気持ちはぶつかっていた。雨の日にゲンガーは来る。女の子は会いに行こうとする。母親は止める。何度も、何度も。その先にあったものが、ただの言い争いで終わったとは思えなかった。
だって女の子はもう帰ってこない。日記の続きを書けなかった。ゲンガーは絵から目を離せないまま、この洋館に縛られている。
「この子のお母さんは、この子をお前から離そうとしたんだ」
ゲンガーの黒い体が揺れる。ラルトスが息を呑む気配がした。俺は自分の声が少しずつ震えていくのを感じながら、それでも言葉を止めなかった。
「お前が嫌いだったから。お前が娘を連れていくと思ったから。だから、窓の外を見るなって言った。森へ行くなって言った。雨の日は特に、って」
言いながら、俺は日記の最後を思い出していた。
【つぎは、わたしがみつけるばん】
その言葉は、女の子にとって約束だったはずだ。遊びの続きで、明日へ繋がる言葉だったはずだ。けれど、今目の前にいるゲンガーにとっては違う。たぶんその言葉は、ずっと終わらないかくれんぼの始まりになってしまった。
「あの子は、お前に会うつもりだったんだと思う。だけど、来られなかった」
ゲンガーが小さく首を振る。違う、と言いたいようにも、聞きたくないと言いたいようにも見えた。けれど、その首の振り方には力がなかった。さっきまで俺たちを襲っていた時の勢いは、もうどこにも残っていない。黒い気配がまた少しほどけ、部屋の空気へ溶けていく。
「来なかったんじゃない。来られなくなったんだ」
言葉にした瞬間、子供部屋の空気が沈んだ。
ゲンガーはただ絵を見ていた。手を繋いで笑う女の子を、もう何度見たか分からないくらい見つめている。
そこで、もう一つのことを思い出す。
あの子はかくれんぼが好きだった。ゲンガーはそれが上手かった。姿を隠すのが上手くて、見つけるのも上手かった。日記の中にも、何度もそう書かれていた。見つけられない。けれど楽しい。次は自分が見つける番。女の子はそう書いていた。なら、ゲンガーはきっと、最後まで探したのだと思う。いつもの遊びの続きみたいに。女の子が隠れているのだと信じて。森の中を、館の中を、雨の中を、何度も探したのだと思う。
そして、見つけてしまった。
その考えが浮かんだ瞬間、喉が詰まる。ここから先は、言葉にすれば戻れない。けれど、戻れないのは俺じゃない。ゲンガーの方だ。
あの絵の前で止まっているゲンガーは、たぶんもうずっと前からそれを知っていた。
見つけた時から先へ進めず、終わってしまったかくれんぼを終わっていないことにして、女の子を奪われることだけを恐れていた。だから俺たちがこの部屋へ来た時、シロナが倒れた時、次は俺がやられると思ったクチートが前へ出た時、全部が同じ場所へ繋がっていたのだとようやく思った。
「お前は、知っていたんだな」
ゲンガーの赤い瞳が大きく見開かれる。俺は続けた。
「かくれんぼが上手かったから。誰よりも早く、見つけてしまったんだろ」
それは問いの形をしていた。けれど、答えを求めているわけじゃなかった。ゲンガーの反応が、もう答えになっていたからだ。肩が震え、指先が絵の端へ触れる。触れた瞬間にまた離れる。触れたいのに触れられない。そこに描かれた女の子へ手を伸ばすことさえ、もう何かを認めることになってしまうのかもしれなかった。
「女の子がいなくなったことも、もう帰ってこないことも、本当は知ってたんだろ」
ゲンガーは動かない。けれど、赤い瞳だけが揺れ続けている。俺はその沈黙を見ながら、ようやく気付いた。
ゲンガーは真実を知らなかったんじゃない。知ってしまったからこそ、この洋館に縛られていたのだと思う。受け入れれば終わってしまうから、終わらせないために、ずっとかくれんぼを続けていた。
女の子はどこかにいる。まだ見つけていないだけ。そう思えれば、まだ探せる。まだ待てる。まだ奪われずに済む。
けれど絵と日記とラルトスの言葉は、その逃げ道を一つずつ塞いでいく。女の子はゲンガーを嫌っていなかった。会いたかった。また遊ぶつもりだった。けれど来られなくなった。
そしてゲンガーは、それを見つけてしまった。
ーー見つけたくなかったのに。
その言葉は口には出なかった。出してしまえば、目の前のゲンガーを完全に壊してしまう気がした。けれど、たぶんゲンガー自身はもう分かっている。大きな口が震える。赤い瞳は絵を見ている。そこに描かれているのは、まだ何も知らなかった頃の女の子だ。手を繋いで、笑っていて、また明日も続くと信じていた頃の女の子だ。
「……でも」
そこで一度、言葉が詰まった。慰める言葉なんてどれも軽く思えたし、大丈夫だなんて絶対に言えなかった。けれど、ここで黙ってしまえばゲンガーはまた絵の前で止まってしまう。だから俺は日記を握り直し、喉の奥に引っかかった言葉を押し出した。
「あの子はお前を忘れたんじゃない。嫌いになったんじゃない。会うつもりだった。遊ぶつもりだった。だから日記を書いて、絵を残したんだと思う」
ラルトスが小さく頷く。
『また、あした』
その声はもうほとんど消えそうだった。けれど、子供部屋にははっきり届いた。ゲンガーの体が震える。今度は小さくではなく、体の奥から崩れかけるような震えだった。
俺はゲンガーを見る。
「それでも、もう戻らない」
言葉が落ちた瞬間、ゲンガーの瞳から力が抜けた。けれどまだ崩れない。まだ立っている。まだ絵を見ている。だから今はまだ、受け入れたわけじゃない。ただ、もう逃げられない場所まで来てしまっただけだった。ゲンガーは絵へ視線を落としたまま、初めて何かを探すように指先を動かす。そこにある女の子の笑顔へ触れようとして、触れる寸前で止まる。その動きがひどくゆっくりで、子供部屋の時間まで引き延ばされていくようだった。
「……ゲンガー」
名前を呼ぶ。赤い瞳はもうこちらを見ない。ただ、絵の中の女の子を見ている。
「お前は、もう分かってるんだろ」
その言葉に返事はなかった。けれど、ゲンガーの肩が一度だけ震える。強く拒むための震えではなく、堪えていたものが限界に近付いているような震えだった。俺はそれ以上、言葉を重ねられなかった。答えはもう目の前にある。けれど、それを受け入れるかどうかは、俺が決めることじゃない。
ゲンガーは絵を見つめ続けていた。手を繋いで笑う女の子と、そこに描かれた昔の自分を。