シロナの姿が人混みの向こうへ消えてからも、俺はしばらくその方向を見ていた。広場には相変わらず人がいて、噴水の音も聞こえている。何かが変わったわけじゃないはずなのに、隣にいた人がいなくなっただけで、さっきまでより少し空気が広くなったように感じた。ラルトスはまだディアルガとパルキアの石像を見上げていて、クチートは少し後ろにいる。そう思って振り返ると、クチートは石像ではなく、通りの向こうにある緑色の看板をじっと見ていた。葉の紋章が描かれた看板。その下にある文字を目で追って、俺もようやく気付く。
ハクタイジム。
クチートは動かなかった。通りを歩く人が間を横切っても、風で花壇の草が揺れても、視線は看板から外れない。俺は看板を見て、クチートを見て、もう一度看板を見た。さっきまで石像を見上げていたラルトスも気付いたらしく、俺の隣まで来て同じ方向を見る。ジム。ジムリーダー。バッジ。そういう言葉は頭に浮かぶのに、クチートがそこを見続けている理由までは分からない。
「気になるのか?」
返事はない。ただ、ガチン、と大顎が一度鳴った。
「……行くか」
そう言うと、クチートはようやく看板から視線を外し、そのまま俺より先に歩き出した。思わず足が止まる。クチートが自分から前を歩くことはほとんどない。いつもなら少し後ろ、振り返ればいる場所にいて、近付きすぎることも離れすぎることもない。それなのに今は、迷う様子もなくジムへ向かっている。ラルトスも同じことに気付いたのか、小さく目を瞬かせた。
『……めずらしい』
「…だな」
クチートは振り返らない。その背中は小さく見えるのに、足取りだけははっきりしていた。俺とラルトスは顔を見合わせ、それから後を追う。通りを渡っている間もクチートは一度も立ち止まらず、ジムの入口の前まで来て、そこで初めて足を止めた。俺が隣に並ぶと、クチートは扉を見上げたまま動かない。もう一度、大顎が短く鳴る。
「本当に挑戦するんだな」
今度も返事はない。けれどクチートは扉から目を離さなかった。俺は小さく息を吐き、ラルトスを見る。ラルトスは静かに頷いた。ここまで来たなら、もう戻る理由はない。扉へ手をかけると、木と草の匂いが先に流れてきた。
中へ入ると、そこはジムというより小さな温室に近かった。壁際には鉢植えが並び、天井近くまで伸びる木の枝が柔らかい影を落としている。床はきちんと整えられているのに、空気には森の奥みたいな湿り気が残っていて、足を踏み入れた瞬間に外の街とは別の場所へ来たように思えた。奥から、シャキ、シャキ、と何かを切る音が聞こえる。俺たちがそちらへ進むと、緑のポンチョを羽織った女の子が大きな木の枝を手入れしていた。茶色の短い髪が揺れ、橙色の服の裾には剪定で落ちた葉が少し付いている。こちらに気付いた瞬間、彼女はぱっと顔を上げた。
「あれ? 挑戦者?」
声が明るい。女の子は剪定ばさみを器用に閉じると、作業を中断してこちらへ駆け寄ってきた。距離が近い。思わず半歩下がると、彼女はそんなことを気にした様子もなく、俺とラルトスとクチートを順番に見て、それからにっと笑った。
「初めまして! あたしナタネ。ハクタイジムのジムリーダーだよ。ジム戦しに来たんだよね?」
「ああ。俺はユア。こっちはラルトスとクチート」
『……ラルトス』
ラルトスが小さく頭を下げる。クチートは何も言わない。ただナタネを見ている。ナタネはそんなクチートの前で少しだけ目を細めた。さっきまでの元気な笑顔はそのままなのに、視線だけが変わった。枝の伸び方や葉の向きを見る時みたいに、相手の立ち方まで確かめている目だった。
「へぇ、クチートか。珍しいね!」
「珍しいのか?」
「うん、少なくともこのジムに来る挑戦者ではあんまり見ないかな。草タイプ相手にクチートを連れてくるの、結構面白いと思うよ」
面白い。そう言ったナタネの声は軽いのに、目はまだクチートを見ていた。クチートは反応しない。大顎も鳴らさない。ただ、ナタネを見返している。
「ますます楽しみになってきた!」
ナタネはそう言うと、明るく手を叩いて踵を返した。
「じゃあ準備しよっか。挑戦者が来たなら、こっちもちゃんとジムリーダーしないとね!」
ナタネは奥のバトルフィールドへ向かって歩き出す。俺はラルトスとクチートを見る。ラルトスは少し緊張した顔で俺を見上げ、クチートはナタネの背中を見ていた。シロナはいない。ここからは俺たちだけだ。そう思うと胸の奥が少し固くなる。それでも、最初にあの看板を見たのは俺じゃない。クチートだった。
「行こう」
俺がそう言うと、ラルトスが頷き、クチートの大顎が短く鳴った。俺たちはナタネの後を追って、緑に囲まれたフィールドへ足を踏み入れた。