クチートがナエトルの前に立つと、フィールドの空気が少し変わった。ラルトスとの戦いでナエトルはすでに傷を負っている。呼吸も荒いし、足元の土にはさっきの戦いで出来た跡が残っていた。対してクチートはまだ無傷だ。小さな体で静かに立ち、ナエトルを見ている。勝てる。そう思った。思ってしまった。ラルトスが繋いでくれた流れを、クチートならそのまま持っていけるはずだと、俺はフィールドを見ながら息を整える。ナタネも同じことを分かっているのか、さっきまでの明るい笑顔を少しだけ引っ込めて、ナエトルとクチートを交互に見ていた。
「ナエトル、まだいける?」
ナエトルが短く鳴いて前足を踏み直す。傷はある。けれど目は折れていない。ナタネはそれを見て頷き、俺の方へ視線を戻した。
「じゃあ続けるよ、ユア!」
「ああ。クチート、行くぞ」
クチートは振り返らなかった。ただ、大顎だけが短く鳴る。
ガチン。
その音を合図にしたみたいにナエトルが動いた。さっきラルトスを押し切った時と同じ、正面からの突進。速さだけなら見切れる。重さはあるが、クチートなら受け止められるはずだ。
“たいあたり”
「クチート、受けてから返せ!」
クチートはその場から動かず、ナエトルの突進を真正面から受けた。小さな体が少しだけ後ろへ押される。けれど倒れない。踏みとどまった瞬間、大顎がナエトルの横へ回り込むように動いた。
“かみつく”
ナエトルの体が大きく揺れる。効いた。ラルトスが削った分もある。ナエトルの足が一瞬乱れ、俺はそこへ続けて声を飛ばす。
“アイアンヘッド”
クチートが踏み込む。額に力を集めるようにして低く突っ込み、ナエトルへぶつかった。鈍い音がして、ナエトルの体が土の上を滑る。今度こそいける。そう思った瞬間、ナタネの声が飛んだ。
「ナエトル、足元!」
“からにこもる”
ナエトルが体を低く沈めた。直前までふらついていたはずなのに、甲羅を前へ出すようにしてクチートの追撃を受ける。クチートの一撃は当たった。けれどさっきほど通らない。ナタネはそこを見逃さなかった。
“すいとる”
ナエトルがクチートの体へまとわりつくように緑の光を伸ばす。クチートが少しだけ顔を歪め、ナエトルの傷がわずかに戻る。嫌な技だった。ラルトスが作った差が、少しずつ埋められていく。
「距離を取るな、もう一回押し切れ!」
俺の声にクチートは従った。横へ回り込み、ナエトルの正面を外すように動く。判断は悪くないはずだった。ナエトルはラルトスほど小回りが利かない。だから動かして、崩して、もう一度重い一撃を入れればいい。そう考えていた。
“だましうち”
クチートが一瞬姿勢を沈め、ナエトルの死角へ入り込む。ナエトルの反応が遅れた。攻撃が入る。確かに入った。けれどナエトルは倒れない。むしろ一撃を受けながら体を捻り、低い位置からクチートへぶつかってきた。
“たいあたり”
クチートの体が横へ弾かれる。土を削りながら着地したクチートはすぐに体勢を戻したが、さっきより呼吸が乱れていた。ナエトルも限界に近い。なのに倒れない。俺は焦りを押し込めるように奥歯を噛み、フィールドを見る。勝てるはずだ。流れはこっちにある。クチートは動けているし、指示にも従っている。なのに、何かが噛み合っていない。そう思った瞬間、クチートの大顎が短く鳴った。
ガチッ。
俺は一瞬、そちらを見た。クチートはナエトルを見ている。視線は逸れていない。なら問題ない。そう判断して、俺は次の指示を出した。
「クチート、正面からいけ!」
クチートは動いた。けれど踏み込む直前、ナタネが小さく目を細める。
「ナエトル、待って」
ナエトルは動かない。クチートだけが距離を詰める。正面からぶつかれば押し切れる。そう思った。だが、ナエトルはぎりぎりまで動かず、クチートの間合いに入る直前で体を沈めた。
“からにこもる”
また防がれる。クチートの攻撃が甲羅に弾かれ、わずかに体勢が浮いた。その隙へナタネの声が入る。
“たいあたり”
低い位置からの突進がクチートの腹へ入った。小さな体が持ち上がり、地面へ叩きつけられる。俺は思わず声を上げかけたが、クチートはすぐに起き上がった。まだ立てる。まだいける。そう思いたかった。けれどナタネは俺ではなく、クチートを見ていた。さっきからずっと、俺の指示の隙間にあるものを探すみたいに。
「……なるほどね」
小さな声だった。俺には聞こえたが、意味は分からない。何がなるほどなんだ。そう思う前に、ナエトルがもう一度構える。ナエトルだって限界だ。息は荒いし、足元も揺れている。あと一撃。あと一撃入れれば倒せる。
「クチート!」
名前を呼ぶと、クチートがわずかにこちらへ顔を向けた。ほんの少しだけ。完全には振り返らない。だが大顎が鳴る。
ガチン。
その音を聞いて、俺は勝つための指示を探した。ナエトルは低く構えている。正面は固い。横へ回ればいける。いや、さっきは返された。なら一度引かせて、相手の突進を誘う。ラルトスの時みたいに、相手の動きに合わせればいい。
「下がって誘え!」
クチートは一歩下がる。ナエトルが前へ出る。狙い通りだった。そう思った。けれどナエトルは途中で止まった。ナタネが手を上げていた。
“すいとる”
また緑の光。距離を取ったことで、逆に避ける時間がなくなった。クチートの体へ光が絡みつき、力が吸われる。ナエトルの呼吸が少しだけ戻る。俺の中で焦りが膨らんだ。
「近付け! 今度こそ押し切れ!」
クチートは従った。従ってくれた。前へ出て、ナエトルへ迫る。けれどその背中を見た瞬間、なぜか胸の奥が引っ掛かった。クチートは命令通りに動いている。ならいいはずだ。そう考えたのに、ナタネの視線が俺ではなくクチートへ向いていることが気になった。
“アイアンヘッド”
クチートが低く突っ込む。ナエトルも動く。真正面からぶつかる。今度こそ決まると思った。
“たいあたり”
二匹が衝突した。土が跳ね、音がジムの中へ響く。ナエトルの体が後ろへ滑る。クチートも弾かれる。それでもクチートの方が先に立ち直るはずだった。そう思っていた。
けれど先に動いたのはナエトルだった。
小さな足で土を踏み、もう一度前へ出る。クチートは反応しようとしたが、さっきのすいとるで動きが鈍っている。避けられない。
“たいあたり”
最後の突進がクチートへ入った。クチートの体が土の上を転がり、大顎が重い音を立てて地面を打つ。フィールドが静かになる。俺は声を出せなかった。ナエトルもその場で膝を折りそうになっている。けれど立っていた。クチートは起き上がろうとして、体に力を込める。もう一度立とうとする。だが、大顎が小さく揺れただけで、体は持ち上がらなかった。
「クチート、戦闘不能! 勝者、ジムリーダー・ナタネ!」
審判の声が響いた。
負けた。
勝てるはずだった。ラルトスがチェリンボを倒して、ナエトルにもダメージを残した。クチートは無傷で出た。技も当てた。指示にも従っていた。それなのに負けた。理由が頭の中で形にならないまま、俺はフィールドのクチートを見る。クチートはまだナエトルの方を向いていた。悔しそうにも、怒っているようにも見えない。ただ、倒れたまま動かない。
ナタネは勝ったナエトルへ駆け寄り、しゃがみ込んで頭を撫でた。
「よく頑張ったね、ナエトル」
ナエトルが疲れた声で鳴く。ナタネはそれをボールへ戻すと、今度はゆっくりこちらを見た。いつもの明るい笑顔はまだある。けれどその奥に、戦っている間ずっと何かを見ていた人の目があった。
「ユア」
名前を呼ばれて、俺はようやく顔を上げた。
「ちょっと、話そっか」
その声は責めるようなものではなかった。だからこそ、余計に胸の奥が重くなった。