負けた、という事実だけが、しばらく頭の中に残っていた。ナエトルはもうボールに戻され、ラルトスもクチートも手元のボールの中にいる。フィールドにはさっきまでの戦いの跡だけが残っていて、土の上に刻まれた足跡や削れた跡を見るたびに、最後の衝突の音がもう一度耳の奥で響く。勝てるはずだった。ラルトスがチェリンボを倒し、ナエトルにも傷を残してくれた。クチートは無傷で出て、攻撃も当てて、ナエトルを追い詰めていた。それでも負けた。俺はボールを握ったまま動けず、理由を探そうとすればするほど、頭の中がぐちゃぐちゃになっていった。
「ユア」
ナタネに名前を呼ばれて顔を上げる。さっきまで元気よく笑っていたジムリーダーは、もうフィールドの向こうで跳ねるようには動いていなかった。ナエトルを労ったあと、俺の方へ歩いてきたナタネの顔には笑みが残っている。けれどそれは、挑戦者が来て喜んでいた時の笑い方とは少し違った。
「悔しい?」
「……悔しいに決まってるだろ」
「うん。悔しがれるのはいいことだよ。ちゃんと勝つつもりで戦ってたってことだから」
そう言われても、胸の重さは消えなかった。慰められたいわけじゃない。褒められたいわけでもない。俺が欲しいのは理由だった。なんで負けたのか。どこで間違えたのか。どうすれば勝てたのか。それだけが知りたかった。
「俺、そんなに悪かったか」
「悪いっていうより、惜しかったかな」
「惜しかった?」
「うん。ラルトスはちゃんと見えてたと思う。チェリンボの動きも、ナエトルへの切り替えも、あの子なりに反応してた。指示も悪くなかったよ」
だったら、と思った。悪くなかったなら、どうして負けたんだ。そう言いかけた俺より先に、ナタネは少しだけ視線を落とす。そこには、さっきクチートが倒れていた場所があった。
「でもクチートの時は、ちょっと違った」
「違ったって何が」
「君、クチートを勝たせようとしてた」
「当たり前だろ」
思わず声が強くなる。ジム戦だ。勝たなきゃバッジはもらえない。ラルトスが繋いだ流れを無駄にしたくなかった。クチートだって戦っていた。なら勝たせようとするのは当然のはずだ。
「そう、当たり前なんだよ。勝たせようとするのは悪いことじゃない。でも、”それだけだった”」
ナタネの声は明るすぎず、怒ってもいなかった。だから余計に反発しにくい。
「それだけって」
「君はクチートに指示を出してた。クチートもちゃんと従ってた。そこまでは見えてたよね。でも、クチートが何を見てたかは見えてた?」
「何をって……相手だろ。ナエトルを見てた」
「本当に?」
その問いに、言葉が詰まる。クチートはナエトルを見ていた。間違いない。攻撃もしていた。指示にも従っていた。なのに、ナタネが聞いているのはそこじゃない気がした。
「クチート、何回か君を見てたよ。完全に振り返ったわけじゃないけどね。君の声を聞く前とか、動く前とか、ほんの少しだけ。でも君は次の指示を探してた」
胸の奥が嫌な音を立てる。そんなの、戦ってる最中だったからだ。相手の動きを見て、どう攻めるか考えて、勝つために指示を出す。ジム戦なら当然だ。そう言いたかった。けれどナタネは、俺が言い訳を探す前に続けた。
「君はクチートを見てるようで、見てなかったんだと思う」
その言葉が、思ったより深く刺さった。
「見てなかったって……見てたよ。ちゃんと見てた。攻撃も当てたし、ナエトルの動きだって見てた。クチートが動けてるかも見てた」
「うん。動きは見てたね」
「じゃあ何が違うんだよ」
ナタネはすぐには答えなかった。少し困ったように笑って、けれど視線は逸らさない。
「それは、あたしが全部言うことじゃないかな。ジムリーダーとして言えるのはここまで。あとは君が気付かないと意味がないと思う」
「……意味分かんねぇよ」
そう言うしかなかった。分からない。何を言われているのか分からない。クチートは戦った。俺は指示を出した。勝とうとした。何が足りなかったのか、どこを見ていなかったのか、どうしてナタネがそんなふうに言うのか、何一つ形にならない。ボールを握る手に力が入る。
「ユア」
「もういい」
ナタネの声を遮るように言ってしまってから、自分でも少しやってしまったと思った。けれど止まれなかった。これ以上ここにいたら、何か余計なことを言いそうだった。俺はラルトスとクチートのボールを握ったまま踵を返し、ジムの出口へ向かう。背中にナタネの視線が残っているのが分かったが、振り返らなかった。
「……また来てね」
最後に聞こえたナタネの声は、思ったより柔らかかった。俺は返事をしなかった。扉を押し開けると、外の空気が一気に流れ込んでくる。ハクタイシティの明るい通りが目の前に広がっていたのに、さっきまでとは違って見えた。俺はそのままジムを出て、どこへ行くかも決めないまま歩き出した。
ーーーーーーーー
ナタネは閉じた扉をしばらく見つめていた。ジムの中には、先ほどまでの戦いの熱がまだ残っている。土の上にはクチートとナエトルがぶつかった跡があり、少し離れた場所にはラルトスが倒れた時の小さな跡もある。ナタネはそれらを順に見たあと、腰のボールへ手を添えた。
「ちょっと言い過ぎたかな」
独り言のように呟く。けれど後悔している声ではなかった。言葉を選んだつもりだった。それでも、あの少年にはまだ届かなかった。いや、届いたからこそ飛び出したのかもしれない。そう考えていると、入口の扉が再び開いた。
「お疲れさま、ナタネ」
入ってきたのはシロナだった。ナタネはぱっと顔を上げ、さっきまでユアへ向けていた表情とは別の緊張を浮かべる。
「シロナさん! 来てたんですか?」
「ええ。少し遅かったかしら」
「ちょうど終わったところです。挑戦者くん、飛び出していっちゃいましたけど」
「そう」
シロナは驚かなかった。まるでそうなることも分かっていたみたいに、静かにフィールドへ視線を向ける。ナタネはその横顔を見て、少しだけ口を尖らせた。
「シロナさん、わざとですよね」
「なにが?」
「あの子がここへ来ること、分かっててけしかけましたよね。多分、あの二つの像を見る時に、わざとジム側から見せたとかそんな感じで」
「……どうかしらね」
シロナは否定しなかった。肯定もしない。ただ、困ったように笑ってフィールドの中央を見る。ナタネはその反応だけで十分だと言いたげに肩を竦めた。
「やっぱり。チャンピオンって怖いですね」
「人聞きが悪いわね。私はただ、ハクタイシティを案内していただけよ」
「その結果、あの子がジムに来たんですよね?」
「偶然かもしれないわ」
「偶然にしては出来すぎです」
ナタネは笑う。シロナもそれ以上は言い訳しなかった。ナタネはフィールドに残る跡へ視線を戻し、さっきまでの軽さを少しだけ引っ込める。
「あのクチート、変わってますね」
「でしょう?」
「否定しないんですね」
「する理由がないもの」
シロナの声は穏やかだった。ナタネは少し考えるように首を傾げる。
「あの子、ちゃんと戦ってました。指示にも従ってたし、勝つ気もあった。でもそれだけじゃないっていうか……なんだろう、待ってるのはあの子の指示じゃなくて…あれは多分…」
「……そう」
「シロナさんは分かってるんですか?」
「たぶん、少しだけ」
「教えないんですか?」
「教えたら意味がないわ」
シロナの返事は早かった。ナタネはその言葉に納得したような、していないような顔をする。
「ジムリーダーも同じこと考えますよ。答えを言ったら勝負じゃなくなっちゃう。でも、分かってるのに言わないのって結構むずむずしますね」
「ええ。とても」
シロナは小さく笑った。その表情を見て、ナタネは何かに気付いたように目を細める。
「……シロナさん」
「なにかしら?」
「あの子のこと、すごく気にかけてますよね」
「旅の途中で何度か一緒にいただけよ」
「ふーん」
ナタネの声が少しだけ跳ねる。シロナはその変化に気付いて眉を寄せた。
「何?」
「いやぁ、チャンピオンがそんなに気にかけるなんて珍しいなーって」
「別に珍しくはないでしょう」
「はっ!」
ナタネが急に両手を合わせた。
「まさか!」
「……何かしら」
「好きなんですか!」
「んな!?っなんでそうなるのよっ!」
シロナの声がジムの中へ響く。ナタネは楽しそうに笑い、シロナは一瞬だけ頬を赤くしてから咳払いをした。
「違うわ。あの子はまだ旅を始めたばかりで、危なっかしいところが多いから見ているだけよ」
「それ、気にかけてるって言うんですよ」
「そういう意味ではそうね」
「じゃあ好きってことで」
「違うって言ってるでしょう」
ナタネは笑いながらも、すぐに表情を戻した。空気を軽くしたのはわざとだったのかもしれない。シロナもそれに気付いたのか、今度は何も言わず、フィールドの中央へ視線を落とす。
「でも、あと少しだと思います」
「ユアが?」
「はい。あたしの言葉はたぶん今すぐには分かってないです。でも、刺さってはいると思います。あの悔しがり方、ただ負けたからじゃないですよ」
「そうね」
「次に来た時、変わってますかね」
「変わっていなければ、もう一度負けるだけよ」
「厳しいなぁ」
「それがジムリーダーでしょう?」
「そうでした!」
ナタネは明るく笑う。その笑い声がジムの木々に反射して、少しだけ柔らかく広がった。シロナは出口の方を見る。ユアが出ていった扉は、もう静かに閉じている。
「気付けるかどうかは、あの子次第ね」
シロナがそう呟くと、ナタネも同じ方を見た。
「じゃあ、待ってます。挑戦者が戻ってくるのも、ジムリーダーの仕事ですから」
そう言って笑ったナタネの声は、最初にユアを迎えた時と同じくらい明るかった。