ジムを出てから、どこを歩いたのかよく覚えていなかった。気付けば公園の端にあるベンチに座っていて、目の前には昼下がりのハクタイシティがいつも通りに流れている。道を歩く人も、花壇の前で立ち止まる人も、遠くで笑っている子供たちも、俺がジムで負けたことなんて知らない。当たり前だ。俺が勝とうが負けようが、街は何も変わらない。けれど手の中にある二つのボールだけは重くて、ラルトスとクチートがそこにいると思うたび、ナタネの言葉が頭の中で何度も引っかかった。
【君はクチートを見てるようで、見てなかったんだと思う】
見ていた。そう言い返したかったし、攻撃も見ていたし動きも見ていた。クチートがナエトルの突進を受け止めたところも、反撃したところも、最後まで立とうとしたところも、ちゃんと見ていたはずだった。それなのに、ナタネは違うと言った。動きは見ていた、と。じゃあそれ以外に何があるんだ。ポケモンバトルで見るものなんて、相手の動きと自分のポケモンの状態と技の入り方くらいだろう。そう考えてから、胸の奥が少しだけ嫌な沈み方をした。
【もっとちゃんと見なよ】
アイに言われた言葉を思い出す。コトブキで負けた時、俺は同じようなことを言われた。あの時は悔しくて、恥ずかしくて、何も分かっていなかったのだと思った。だからスクールで学んだし、旅の中でラルトスの動きを見るようにした。クチートのことだって前より見てきたつもりだった。森の洋館では日記と絵とラルトスの言葉を繋いで、ゲンガーの気持ちにも辿り着いた。あの時は見つけられたはずだった。
なのに。
「……なんでだよ」
声に出しても答えは返ってこない。俺はラルトスのボールを開き、続けてクチートのボールも開いた。光の中から出てきたラルトスはすぐに俺を見上げ、クチートは少し離れた場所に立って、公園の人通りへ視線を向けた。ジムへ向かった時だけ少し違ったのに、今はもう、いつも通り少し後ろにいる。俺はその姿を見て、余計に分からなくなった。
「ナタネに言われたんだ。俺はクチートを見てるようで見てないって。アイにも前に似たようなことを言われた。だから直したつもりだったんだよ。ラルトスのことも、クチートのことも、ちゃんと見てきたつもりだった。なのに何が違うんだ。俺は何を見てなかったんだよ」
ラルトスは答えなかった。いつもなら短く何かを返す。分からないなら分からないと首を傾げるし、気になることがあるなら小さな声で言う。それなのに、今のラルトスは黙っていた。俺を見上げたまま、瞬きもしない。何かを我慢しているように見えた。そう思った瞬間、ラルトスの小さな手が震えた。
『……どうして』
声は静かだった。けれどいつもの静けさとは違った。細くて、低くて、押し殺したみたいな声だった。
「どうしてって、俺が聞きたいんだよ」
『……どうして、わからないの』
胸の奥が詰まる。ラルトスが怒っている。それが分かった。声を荒げているわけじゃない。大きな動きもしていない。でも、いつものラルトスなら絶対にしない目をしていた。
「分からないから聞いてるんだろ」
『……ずっと』
ラルトスはクチートを見た。クチートは何も言わない。こちらを見てもいない。ただ少し離れた場所で、公園の端に立っている。
『……ずっと、いたのに』
「クチートがか?」
ラルトスは答えない。けれど否定もしない。
「いたのは分かってる。旅に出てからずっと一緒だったし、今日だって戦ってた。だから見てたって言ってるだろ」
『……ちがう』
「何が違うんだよ」
『……みてない』
ナタネと、アイと同じ言葉を、ラルトスは小さく漏らした。けれどラルトスに言われると、胸の奥を直接掴まれたみたいに痛かった。
「だから、何をだよ」
『……クチート』
「見てるだろ!」
思わず声が大きくなった。近くを歩いていた人が一瞬こちらを見る。すぐに視線は外れたが、俺は自分の声で少し冷静になりかけて、それでも止まれなかった。
「クチートのことなら見てる。戦ってるところも、後ろにいるところも、ジムを見てたところも、今日は先に歩いたところも見てた。見てたんだよ。なのに何が違うんだよ」
『……じゃあ』
ラルトスの声が震えた。
『……なんで、わからないの』
それ以上、ラルトスは言わなかった。答えを出すつもりはないのだと分かった。怒っているのに、全部は言わない。言えないのか、言わないのかは分からない。ただ、ラルトスは俺から目を逸らさなかった。小さな体で俺の前に立ち、まるで逃がさないみたいに見上げている。その後ろで、クチートの大顎が短く鳴った。
ガチン。
俺もラルトスも、同時にそちらを見る。クチートは相変わらず少し離れた場所にいた。けれど今度は、こちらを見ていた。怒っているのか、呆れているのか、何を考えているのかは分からない。分からないから苦しい。見ているはずなのに、何も分からない。
「……分かんねぇよ」
そう呟くと、ラルトスの表情が少しだけ歪んだ。怒っているのに、泣きそうにも見えた。けれどラルトスは涙を流さず、ただ小さく首を振った。
『……ユアが、かんがえて』
それだけ言って、ラルトスは俺の隣に座った。クチートは近付いてこない。離れていくこともない。いつもの距離で、俺たちを見ていた。俺は何も言えないままベンチに座り直し、膝の上で拳を握る。アイにも言われた。ナタネにも言われた。ラルトスにも言われた。見ていない。分かっていない。けれど何を見ればいいのか、何を分かればいいのか、答えはまだどこにも見えなかった。