クチートは、何を待っているんだろう。
その問いが胸の中に残ったまま、俺はフィールドの向こうにいるナエトルを見る。ラルトスが繋いでくれた傷は残っている。呼吸も荒い。足元も少しだけ揺れている。昨日と同じだ。クチートは無傷で、ナエトルは削れている。状況だけ見れば、勝てるはずだった。けれど昨日も俺はそう思った。勝てるはずだと思って、クチートに指示を出して、クチートはその通りに動いて、それでも負けた。だから今度は、すぐに勝ち筋だけを探すのをやめた。ナエトルを見る。ナタネを見る。そして、クチートを見る。小さな背中は昨日と変わらず静かで、けれど大顎だけが短く鳴った。
ガチン。
「……行くぞ、クチート」
クチートは振り返らない。ナタネはその様子を見て、少しだけ目を細めた。
「ナエトル!」
“たいあたり”
ナエトルが走り出す。昨日と同じ重い突進。まともに受ければ押される。横へ避ければ追撃が来る。止めようとすれば、ナエトルの踏ん張りに押し返される。そこまでは分かっている。だから俺は、昨日と同じように正面から受けさせることをやめた。
「クチート、横へずらせ!」
クチートは一歩横へ動き、ナエトルの突進を真正面ではなく肩で受け流すように外した。完全には避けられない。体が少しだけ押される。けれど倒れない。そのまま大顎がナエトルの横へ回り込む。
“かみつく”
ナエトルの体が大きく揺れた。効いている。昨日と同じように、いや、昨日より良い入り方だった。俺は続けて指示を出そうとして、そこで一瞬止まる。クチートはナエトルを見ている。けれどほんのわずか、耳だけがこちらへ向いたように見えた。指示を待っている。そう思った。なのに、昨日のナタネの言葉が頭を過る。
【君はクチートを見てるようで、見てなかったんだと思う】
見ている。今度は見ている。そう言い聞かせながらも、俺は次の言葉を飲み込んだ。クチートは何を待っている。俺の指示か。勝つための命令か。それとも別の何かか。考えるより先に、ナタネの声が来る。
「ナエトル、足元!」
“からにこもる”
ナエトルが体を低く沈める。昨日も見た守り方だ。正面から押せば弾かれる。だから今度は。
「無理に押すな、回れ!」
クチートはナエトルの硬い正面を避け、横へ回り込む。動きは悪くない。ナエトルの反応が少し遅れる。そこへ大顎が低く入った。
“だましうち”
ナエトルが土の上を滑る。ナタネが小さく笑った。
「いいね、昨日より考えてる!」
褒められているのに、胸の奥は軽くならなかった。考えている。確かに昨日より考えている。相手の動きを見て、クチートの位置を見て、技の入り方も見ている。けれど、それでもまだ何かが足りない。クチートは俺の指示に従って動く。攻撃も入る。ナエトルは追い詰められている。なのに、クチートの大顎がまた短く鳴った。
ガチッ。
今の音は何だ。攻めろなのか。違うのか。俺はクチートを見る。クチートはナエトルを見ている。けれど完全に俺から意識を切っているわけではない。昨日、ナタネは言っていた。クチートは何度か俺を見ていたと。君の声を聞く前とか、動く前とか、ほんの少しだけ。昨日の俺は、その視線を見ていなかった。
「ナエトル、待って!」
ナタネの声で、ナエトルが動きを止める。昨日と同じだ。こちらが攻め急ぐのを待っている。俺は一歩前へ出そうになったクチートの背中を見て、声を出す。
「止まれ!」
クチートの足が止まった。ナエトルも動かない。フィールドの空気が一瞬だけ固まる。ナタネが少しだけ目を開いた。俺はクチートの背中を見る。止まった。指示には従った。けれどクチートの大顎は鳴らない。
分からない。
まだ分からない。
でも、昨日より見えているものはある。クチートは戦っている。勝つ気もある。ナエトルから目を逸らしていない。それでも、ただ勝つためだけに動いているわけじゃない。あのジムの看板を見ていた時も、俺より先に歩いた時も、昨日このフィールドへ立った時も、クチートは何かを待っていた。俺に何かを伝えようとしていたのかもしれない。けれど俺はそれを、戦いたいんだとしか見なかった。勝たせればいいと思った。指示を出して、技を当てて、相手を倒せばそれでいいと思った。
『……どうして、わからないの』
ラルトスの声が頭の奥で響く。昨日の声。怒っていた。悲しそうでもあった。
『……ずっと、いたのに』
ずっといた。クチートはずっといた。少し後ろに。振り返ればいる場所に。近付きすぎず、離れすぎず、いつでも大顎を鳴らしていた。俺はずっと、それを拒絶だと思っていた。こっちを見るな。近付くな。そういう意味だと思っていた。けれど本当にそうだったのか。ゲンガー戦で、俺が命令するより先に飛び出したのは誰だった。シロナが倒れて、次に狙われたのが俺だと分かった瞬間、誰が俺の前へ出た。あれは偶然じゃない。間に合ったんじゃない。最初から、そこにいた。
守れる場所に。
後ろにいたんじゃない。
離れていたんじゃない。
俺の背中を見ていたんだ。
息が止まった。フィールドの音が一瞬だけ遠くなる。ナエトルの呼吸も、ナタネの声も、葉の擦れる音も遠くなって、代わりに今までのガチンという音がいくつも頭の中で重なった。振り返るたびに鳴った音。森の中で後方を警戒していた姿。花畑で居心地悪そうにしながら離れなかった姿。ジムの看板を見つめていた背中。昨日の戦闘中、ほんの少しだけ俺を見ていたというナタネの言葉。全部が同じ場所へ繋がっていく。
ーーこっちを見るな、じゃない。
ーー後ろは私が見てる。
ーーだからお前は前を向け。
クチートはナエトルの前で静かに立っている。昨日と同じように小さな背中。けれど今は違って見えた。いや、違うのはクチートじゃない。俺の方だ。俺がようやく、少しだけ見え始めただけだった。
「クチート」
名前を呼ぶと、クチートの大顎が小さく揺れた。振り返りはしない。けれど聞いている。
「俺、ずっと勘違いしてた」
ナタネが何も言わずに見ている。ナエトルも動かない。俺はクチートの背中を見たまま続ける。
「お前が距離を置きたがってるんだと思ってた。俺をまだ信じてないから、近付かないんだと思ってた。けど違ったんだな」
クチートは何も言わない。
「お前は、ずっと後ろから俺たちを見てたんだ…いつでも守れる位置で」
ガチン。
大顎が鳴る。短い音だった。けれど今までで一番まっすぐ聞こえた。
ナタネが静かに笑った。
「ナエトル、いくよ」
“たいあたり”
ナエトルが走り出す。もう考える時間はない。俺はクチートを見る。勝てる指示を探すんじゃない。クチートが何をしようとしているのかを見る。クチートは逃げない。下がらない。受け止めるつもりだ。でも昨日とは違う。俺が勝たせるんじゃない。クチートが前に出るなら、その背中を信じる。
「クチート!」
声が出た。
「……頼んだ!」
クチートの足がわずかに沈む。ナエトルが迫る。俺はその背中を見る。まだ足りない。頼んだだけじゃない。任せるだけでもない。クチートがずっと待っていた言葉は、たぶんそれじゃない。俺は奥歯を噛み、胸の奥から言葉を引きずり出す。
「信じてる!」
その瞬間、クチートの大顎が鳴った。
ガチン。
そして、もう一度。
ガチン。
二つ目の音がジムの中へ響いた瞬間、クチートの体を青白い光が薄く包んだ。強い光じゃない。燃えるような派手さもない。けれど確かに、クチートの輪郭が一瞬だけくっきりと浮かび上がる。ナタネの目が見開かれた。ナエトルの突進は止まらない。クチートは真正面から踏み込み、今度は押されなかった。
“アイアンヘッド”
鈍い音が響く。クチートの一撃がナエトルの体へ入り、ナエトルの足が大きく滑った。昨日ならそこで弾かれていた。昨日なら押し返されていた。けれど今のクチートは、もう一歩前へ出た。ほんの少しだけ速い。ほんの少しだけ重い。その差が、今のナエトルには大きすぎた。
「ナエトル、踏ん張って!」
ナタネの声が飛ぶ。ナエトルは土を掻くようにして耐えようとする。クチートは大顎を低く構えた。
“かみつく”
ナエトルの体が揺れる。まだ倒れない。けれどもう踏ん張りきれない。俺はクチートの背中を見る。今なら分かる。俺が次を探さなくても、クチートは前を見ている。だから俺はただ、同じ方向を見るだけでいい。
「もう一回!」
“アイアンヘッド”
クチートが踏み込む。青白い光が一瞬だけ尾を引いた。ナエトルへぶつかる。土が跳ねる。ナエトルの体が後ろへ飛び、フィールドに倒れた。静寂が落ちる。ナエトルは起き上がろうとして、前足に力を入れた。けれど立ち上がれなかった。
「ナエトル、戦闘不能!」
審判の旗が上がる。
「勝者、チャレンジャー・ユア!」
勝った。
その言葉が頭に届くまで少し時間がかかった。ナタネがナエトルをボールへ戻し、クチートはフィールドの中央に立ったまま動かない。青白い光はもう消えている。まるで最初から何もなかったみたいに、いつものクチートがそこにいる。けれど俺には、さっきの光が見間違いだとは思えなかった。
「クチート」
呼ぶと、クチートはようやく少しだけこちらを向いた。完全には振り返らない。けれど大顎が短く鳴る。
ガチン。
今度は、少しだけ分かった気がした。
「……ありがとな」
クチートは何も言わない。ただ、いつものように俺から少し離れた場所へ戻っていく。けれどその距離が、昨日までと同じには見えなかった。離れているんじゃない。そこにいる。それだけだった。
ナタネがこちらへ歩いてくる。負けたばかりなのに、悔しそうというより嬉しそうだった。
「やっと見たね」
今度は、分からないとは思わなかった。全部が分かったわけじゃない。クチートの気持ちを全て理解できたわけでもない。それでも、昨日まで見えていなかったものが少しだけ見えた。ナタネはそれ以上何も言わず、笑って手を差し出す。
「おめでとう、ユア。あなたの勝ちだよ」