冷たくて重い岩の匂いが消えて、代わりに草と土の匂いが鼻を抜ける。
気付けば夕方になり、辺りは赤く染っていた。
山の向こうに沈みかけた太陽が、テンガン山の稜線を赤く染めている。
その光を見た瞬間、ようやく実感が湧いた。
生きて出られたんだ、と。
だがその安心は長く続かなかった。
「ユア」
父さんの声が低い。
振り向くと、腕を組んだまま立っていた。
「ちょっとこっち来い」
「……はい」
とても重い声が、怖い。
説教だ。
逃げられないやつだ。
父さんの横にたっている母さんも、笑顔だけど目が笑ってない。
その笑顔がなにより怖かった。
「まず」
父さんが一歩近づく。
「なんで勝手に森の奥に入った」
「……足跡があって」
「だからって付いて行くか普通」
「でも珍しくて……」
「珍しいで済ませていい話じゃない」
ぐうの音も出なかった。
母さんがため息をつく。
「しかも洞窟まで入って、結果、迷ってるじゃない」
「はい……」
完全に詰んでいた。
横でラルトスが小さくこちらを見ている。
なんとなく申し訳なくなる。
でも、助かったのも事実だ。
ガバイトがいなかったら今頃どうなっていたか分からない。
説教はしばらく続き、気付けば夕日が落ちて辺りが暗くなり始めていた。
「もう二度と勝手に山へ行くな」
「……はい」
最後に父さんがため息をついて頭を軽く叩く。
それでようやく解放された。
母さんがラルトスを見る。
「で、その子は?」
「あ、えっと」
そういえば、父さん達になにも説明をしていなかったことを思い出す。
俺は慌てて説明する。
洞窟で出会ったこと。
怪我をしていたこと。
コドラに追われていたこと。
助けたこと。
全部。
父さんは腕を組んでラルトスを見つめる。
ラルトスは少し緊張したように身を縮めた。
『……』
何も言わないけど、不安は伝わってくる。
「ふむ」
父さんが小さく頷いた。
「なるほどな」
「え?」
「お前が助けたのか」
「う、うん」
父さんは少しだけ表情を緩める。
「ならいい」
「いいの!?」
母さんが呆れたように肩をすくめる。
「この人、そういうとこあるから」
「褒めてるのかそれ」
少しだけ空気が和らいだ。
父さんはしゃがみ込み、ラルトスと目線を合わせる。
「怖かったか」
『……』
ラルトスは少し迷ってから、小さく頷いた。
父さんはそれ以上何も言わず、ただ静かに立ち上がる。
「家に連れて帰るか」
「え?」
「もう遅いしな、それに、山の夜は冷える」
「その子、怪我もしてるしね」
父さんの言葉の後に、母さんが続ける。
俺はラルトスを見る。
ラルトスは戸惑っていた。
『……いいの?』
頭の中に声が響く。
「…みたいだね」
ラルトスは少しだけ目を見開く。
そして、小さく頷いた。
⸻
家に着いた時にはすっかり夜になっていた。
灯りのついた家を見ると、妙に安心する。
ラルトスは玄関で少し躊躇していた。
「大丈夫だって」
俺は手を引く。
中へ入ると母さんがタオルを持ってきた。
「まずは汚れ落とすよ」
「え?」
「お風呂」
その言葉にラルトスが固まる。
『……おふろ?』
「そ、張ったお湯に浸かるの」
俺は笑う。
「気持ちいいよ」
俺とラルトスは風呂場に向かった。
湯気が立つ。
ラルトスは最初、完全に警戒していた。
浴槽の縁にしがみついている。
『……あつい』
「熱くないって」
「ほら」
そっとお湯をかける。
ラルトスは一瞬びくっとしたが、すぐにお湯の心地よさに目を細める。
やがて。
少しずつ体の力が抜けていく。
湯気の中で、ラルトスの傷がはっきり見えた。
「やっぱり結構ひどいな」
『……いたい』
しばらく沈黙。
でもその沈黙はもう怖くなかった。
⸻
風呂から上がった後、ラルトスはタオルで包まれていた。
もふっとした姿になっている。
「なんか変だな」
『……へん?』
「いや、かわいいって意味」
『……かわいい?』
「うん」
ラルトスは少し考えてから、視線を逸らした。
どうやら恥ずかしがっているらしい。
⸻
部屋に戻った俺たちは、各々の時間を過ごしていた。
ラルトスは俺のベッドの上で丸くなっている。
まだ落ち着かない様子だ。
でも逃げようとはしなかった。
「そろそろ寝るか」
立ち上がり、部屋の明かりを消す。
静かな夜。
外では風の音がする。
しばらくして。
『……ユア』
小さな声。
「ん?」
『……ありがとう』
俺は少し驚く。
「急にどうした」
『……たすけてくれた』
そう言ったラルトスのその声には、安心感が含まれているような気がした。
少し間があいて。
『……わたしも』
そこで止まる。
言葉を探しているようだった。
『……つよくなる』
「強く?」
『……たすけるために、ユアと一緒にいるために』
その声は震えていなかった。
さっきまでの怯えとは違う。
小さくても、確かな意志だった。
俺は布団の中で笑う。
「そっか」
「じゃあさ」
「一緒に強くなろうぜ」
ラルトスは少しだけ目を閉じる。
『……うん』
その返事は、とても小さかった。