洞窟の外へ出ると、冷たくて重い岩の匂いが背中の方へ遠ざかり、代わりに草と土の匂いが鼻へ入ってきた。空はもう夕方の色をしていて、山の向こうへ沈みかけた太陽がテンガン山の稜線を赤くなぞっている。洞窟の中では出口の光だけを見て走っていたから、外へ出てもすぐには足が止まらなかった。風が頬に触れて、地面に生えた草が靴の横で揺れて、ようやく俺は外に戻ってきたのだと分かった。ラルトスは俺の後ろに隠れたまま、眩しそうに空を見上げている。赤い光を受けた白い体には土がつき、傷の跡も残っていた。
「ユア」
父さんの声が低かった。振り向くと、父さんは腕を組んで立っていた。母さんも隣にいる。顔はは笑っているけれど目は笑っていなかった。それがなにより怖い。
「ちょっとこっち来い。コドラから逃げられて安心した顔をしているところ悪いが、こっちはまだ何も終わってない」
「……はい」
これは逃げられない。俺はラルトスの方を一度見た。ラルトスは俺と父さんを交互に見て、俺の服の裾を少しだけ掴む。助けてほしいのはこっちだったが、さすがにラルトスにどうにかできる場面ではなかった。父さんは俺の泥だらけの服を上から下まで見て、擦り傷のついた手で視線を止める。
「なんで勝手に山の奥へ入った。足跡を見つけたからって普通は追いかけない。しかも途中で戻らずに洞窟まで入って、迷って、野生のポケモンに追われてる。何かあったらどうするつもりだった」
「足跡が珍しくて、少しだけ見て戻るつもりだったんだ。でも途中で見失って、洞窟があって、その……ほんとに、ちょっとだけのつもりで」
「その“ちょっとだけ”で何時間も探すことになったんだぞ」
父さんは怒鳴らなかった。けれど、その静かな声は怒鳴られる以上に俺に深く刺さる。母さんは俺の袖についた土を払うように触れ、それから擦りむいた手のひらを見て、小さく息を吐く。
「ユア、珍しかったとか、気になったとか、そういう気持ちは分かる。でも、あなたがいなくなった時、私たちがどれだけ探したと思ってるの。山の中で名前を呼んでも返事がないのよ。足跡を追ったかもしれない、洞窟に入ったかもしれない、どこかで怪我をしているかもしれないって、ずっと考えることになるの」
「……ごめん」
今度はすぐに出た。言い訳を探しても、何も出てこない。父さんはしばらく俺を見ていたが、最後に俺の頭を軽く叩いた。
「もう二度と、勝手に山へ行くな。返事だけじゃなくて、ちゃんと覚えろ。帰ってからも話す」
「えっ、まだあるの?」
「当たり前だ」
母さんが笑顔で頷く。
「もちろん。お風呂に入って、ご飯を食べて、落ち着いてからもう一回ね」
「……はい」
コドラより怖いかもしれない。そう思ったが、口には出さなかった。
父さんの視線が、俺の後ろへ動いた。ラルトスは父さんと目が合うと、俺の背中へ隠れる。俺は慌てて、洞窟でラルトスと会ったこと、怪我をしていたこと、コドラに追われていたこと、途中から一緒に逃げたことを話した。話している間、父さんは俺ではなくラルトスを見ていた。母さんもしゃがみ込んでラルトスに目線を合わせる、けれど手は伸ばさない。ガブは少し離れたところで座り、鼻先だけをこちらへ向けている。ラルトスはその三人の視線を受けて、俺の後ろから出たり引っ込んだりを繰り返した。
『……』
何も言わない。けれど、指だけは俺の服から離れなかった。俺が「出口の近くでまたコドラに見つかって」と言った時、母さんの目が細くなり、ラルトスの手にも少し力が入った。父さんはしばらく黙っていたが、やがてラルトスの前にしゃがみ込む。ラルトスは隠れようとして、途中で止まった。父さんはそれ以上近づかず、地面に片膝をつけたまま、ラルトスと目線を合わせる。
「怖かったか」
ラルトスはすぐには動かなかった。俺の服を掴んだまま父さんを見て、それから小さく頷く。父さんは何も言わず、ただ立ち上がった。
「家に連れて帰るか。もう遅いし、山の夜は冷える。このまま置いていくわけにもいかないだろ」
「その子、怪我もしてるしね。まずは汚れを落として、傷を見ないと」
俺はラルトスを見る。ラルトスも俺を見ていた。
『……いいの?』
頭の中に声が届く。俺は父さんと母さんを見る。父さんはガブに目配せし、母さんは持っていた荷物を持ち直している。もう答えは出ているらしい。
「……いいみたいだぞ」
ラルトスは少しだけ目を開いた。それから、俺の服の裾を掴んだまま、小さく頷いた。
ーー
家に着いた時には、空はすっかり暗くなっていた。玄関の明かりがついていて、窓の向こうからいつもの家の匂いがする。さっきまで洞窟の中にいたせいか、木の床の匂いも、夕飯の残りみたいな匂いも、全部が変に近く感じた。ラルトスは玄関の前で足を止める。戸の隙間から中を覗き、靴を脱ぐ場所で俺の足元を見て、自分の足を見る。俺が先に靴を脱ぐと、ラルトスはそれを真似するように片足を上げかけて、途中で止まった。どうすればいいか分からないらしい。
「大丈夫だって。ここで靴を脱ぐだけ。……いや、お前、靴ないけど」
言ってから自分で変なことを言ったと思った。ラルトスは俺の足元と自分の足元をもう一度見比べ、母さんが持ってきたタオルに視線を移す。母さんはラルトスの前でしゃがみ、床にタオルを広げた。
「ここに乗ってくれる? 足の裏を拭いてから上がろうね。急に触ったりしないから、嫌だったらユアの後ろに隠れていいよ」
ラルトスは俺を見る。俺が頷くと、そっとタオルの上に乗った。母さんは約束通り、いきなり触らなかった。まずタオルの端で自分の手を拭くような仕草を見せ、それからラルトスの足元へゆっくり手を伸ばす。ラルトスは肩を縮めたが、逃げなかった。
「まずは汚れを落とそうね」
『……?』
「お風呂」
その言葉にラルトスが固まった。浴室の方から湯気が廊下へ薄く流れてきている。ラルトスはそれを見て、俺の手を握り直した。
『……おふろ?』
「お湯に入るんだよ。あったかいやつ。洞窟の水みたいに冷たくないし、たぶん気持ちいい」
「たぶんじゃないでしょ」
母さんに言われて、俺は口を閉じた。ラルトスはまだ湯気を見ている。白い煙みたいに見えるそれが、ラルトスには何なのか分からないのだろう。俺の手を握る指に、また力が入った。
ーー
風呂場へ入ると、湯気で視界が少し白くなった。ラルトスは浴槽の縁にしがみつき、湯気を見て、湯を見て、最後に俺を見る。俺は洗面器にお湯を少しだけ汲み、指先で温度を確かめてから、まず自分の腕にかけて見せた。
「ほら、こんな感じ。熱くない」
次にラルトスの足元へそっとかけると、体がびくっと跳ねた。
『……!』
「熱かった?」
『……びっくり、した』
「そっちか」
もう一度、今度はゆっくりお湯をかける。ラルトスは逃げようとはしなかった。最初は肩を強く縮めていたが、湯が土を流し、白い体から汚れが落ちていくにつれて、浴槽の縁を掴む指が少しずつ緩む。傷のある場所へ触れないように気をつけながら洗っていると、擦り傷や青くなった跡が湯気の中ではっきり見えた。俺はそこで手を止める。ラルトスは浴槽の縁に額を近づけ、じっとしていた。さっきまで何度も周りを見ていた目も半分閉じかけている。
「痛かったら言えよ。言わないと分かんないから」
『……うん』
返事は小さかった。母さんにもらった布で泥を落としていくと、ラルトスの指が一度だけ俺の手を掴んだ。俺が止まると、ラルトスは少しだけ首を横に動かす。続けていい、ということらしい。俺は頷いて、またゆっくり手を動かした。湯が流れるたびに、足元の泡が土で薄く濁っていく。洞窟の匂いが少しずつ消えて、石鹸の匂いが代わりに残った。
ーー
風呂から上がると、ラルトスは大きなタオルに包まれていた。母さんが全身を拭いてくれたせいで、緑の髪も白い体もふわっと膨らんでいる。ラルトスは自分の姿を見下ろし、タオルの端を両手で掴んだまま固まっていた。
「なんか……丸いな」
『……まるい?』
「悪口じゃないって。えっと、なんか、さっきよりふわっとしてる」
『……ふわっと』
「そう。ふわっと」
ラルトスはじっと俺を見て、それからタオルの中へ少し顔を埋める。母さんは小さく笑いながら薬箱を開け、俺はラルトスの隣に座った。母さんが傷に薬を塗る間、ラルトスの手が動かないようにそっと支える。薬がしみたのか、ラルトスの指が一度だけ俺の手を強く握った。
「痛い?」
『……すこし』
「我慢できる?」
『……できる』
ラルトスはそう言って、タオルの端を口元まで引き上げた。母さんは薬を塗り終えると、小さな布を傷の上に当てて、動かないようにそっと押さえた。ラルトスはその作業をじっと見ていた。何をされているのか分からないままでも、俺の手だけは離さなかった。
ーー
部屋に戻った頃には、体の力がほとんど残っていなかった。俺はベッドに座り、ラルトスはその端にちょこんと腰を下ろしている。部屋の中を何度も見回し、本棚、机、窓、床に置いたリュックを順番に確かめていた。窓の近くまで行って外を見る。扉の方へ戻る。ベッドの下を覗く。最後にはまた俺の近くへ戻ってきて、布団の端に座った。
「そろそろ寝るか」
立ち上がって部屋の明かりを消す。窓の外では風が吹いていて、遠くで鉱山の機械の音がかすかに聞こえた。俺が布団へ入ると、ラルトスはベッドの端でしばらく座ったままだったが、やがて布団の上に膝を抱えて丸くなった。暗くなった部屋で、白い体だけがうっすら見える。
しばらく何も言わなかった。俺も、もう眠かった。瞼が重くなりかけた頃、頭の中に小さな声が届く。
『……ユア』
「ん?」
『……ありがとう』
俺は目を開けた。暗くてラルトスの顔はよく見えない。けれど、ベッドの端で丸くなった小さな影は、こっちを向いていた。
「急にどうした」
『……たすけてくれた』
「まあ……たまたまだよ。俺も迷子だったし、助けるっていうより、一緒に逃げただけだし」
『……ばか』
「おい。今日それ何回目だよ」
暗い部屋で、少しだけ笑いそうになった。ラルトスはしばらく黙っていた。風が窓を揺らし、布団の上でラルトスの指がゆっくり開いて、また閉じる。
『……わたしも』
そこで止まる。
「ん?」
『……つよくなる』
「強く?」
『……ユア、まもる』
その声は小さかった。けれど、途中で消えなかった。俺は布団の中で少しだけ体を起こし、暗闇の中のラルトスを見る。ラルトスは顔を伏せなかった。布団の端を握ったまま、こっちを見ていた。
「そっか」
俺は布団の端に座ったままのラルトスを抱き寄せながら、少し考えた。
「じゃあさ」
ラルトスが顔を上げる。
「一緒に強くなろうぜ。俺も、今日みたいに走ってるだけじゃ嫌だし。お前だけが守るんじゃなくて、俺もちゃんと守れるようになりたい」
返事はすぐには来なかった。ラルトスは俺を見て、それから布団の上に視線を落とした。小さな手が、布団の端を握る。
『……うん』
その声は、とても小さかった。けれど、夜の部屋の中で、ちゃんと俺まで届いた。