ナタネが差し出したフォレストバッジは、手のひらに乗せると思っていたより小さかった。けれど指先で触れると、昨日ジムを飛び出した時の悔しさも、ラルトスに怒られた時の痛みも、クチートの背中を見てやっと気付いた瞬間も、全部がその小さな形の中に収まっているように思えた。勝った。ただ相手を倒しただけじゃない。分からないまま戻ってきて、分からないまま戦って、それでも戦いの中でようやく一つだけ見えた。その結果として、今このバッジが手の中にある。ナタネは俺が黙っているのを急かさず、にっと笑ってから少しだけ胸を張った。
「改めて、ハクタイジム勝利おめでとう! フォレストバッジ、ちゃんと受け取ってね!」
「……ありがとう」
「うん。昨日逃げるみたいに出ていった時はどうなるかなって思ったけど、ちゃんと戻ってきたね」
「逃げるみたいに、じゃなくて逃げたんだよ」
言ってから、自分でも少し驚いた。昨日なら絶対に認めたくなかったと思う。悔しかったから、分からなかったから、これ以上何かを言われたら余計に分からなくなりそうで、俺はあの場から逃げた。ナタネは俺の言葉を聞いて少しだけ目を丸くしたが、すぐにいつもの明るい顔に戻った。
「そっか。じゃあ、戻ってきた分だけ強くなったんだね」
「強くなったかは分からない」
「でも見えたでしょ?」
ナタネはそう言ってクチートを見た。俺もつられて振り返る。クチートは少し離れたところに立っていて、いつものように何も言わない。ただ、さっきまでの青白い光はもう消えていた。フィールドで見たあの光は本当に一瞬だったのに、目に焼き付いて離れない。クチートの体が少しだけ重く、少しだけ速くなったように見えた瞬間。俺が
【信じてる】
と言った直後に鳴った、二度の大顎の音。あれが何だったのか、俺にはまだ分からなかった。
「やっと見たね」
ナタネが昨日と同じように、けれど今度は少し柔らかく言った。
「全部じゃないけどな」
「全部いきなり見えたら、逆に怖いよ」
「それもそうか」
「そうそう。ポケモンも人も、分かったつもりになった時が一番危ないからね」
軽い調子で言っているのに、その言葉は妙に残った。分かったつもり。俺はずっとそうだったのかもしれない。クチートは少し後ろにいる。クチートは大顎を鳴らす。クチートはまだ俺を信じていない。そうやって勝手に決めて、分かったつもりになっていた。けれど本当は違った。離れていたんじゃない。俺の背中を見ていた。後ろは私が見ているから、お前は前を向け。そういう意味だったのだと、戦いの中でようやく辿り着いたばかりだった。
「私からも、おめでとう」
背後から聞こえた声に振り返ると、入口の近くにシロナが立っていた。いつからいたのか分からない。けれど驚いた様子はなく、昨日ナタネと話していた時と同じような穏やかな顔をしている。ナタネはすぐに反応して、少しだけ楽しそうに目を細めた。
「シロナさん、やっぱり来ましたね」
「ええ。ちょうど近くにいたもの」
「絶対ちょうどじゃないですよね」
「どうかしらね」
「ほらまたそれ!」
ナタネが笑う。シロナは軽く受け流しながら、俺の前まで歩いてきた。ラルトスは俺の隣で少しだけ背筋を伸ばし、クチートは少し後ろでシロナを見ている。シロナの視線はバッジへ向いたあと、俺の顔へ戻った。
「おめでとう、ユア」
「……見てたのか?」
「少しだけね」
「少しだけ?」
「ええ。少しだけ」
信用できなかった。けれど、今はそれを追及する気にもなれなかった。シロナが何を見ていたのか、どこから分かっていたのか、聞きたいことはある。でもたぶん、全部聞いても全部は答えてくれない。この人はそういう人だ。答えを渡すのではなく、答えに向かう場所だけをそっと用意する。ハクタイシティの石像をジム側から見せたことも、俺たちだけを残して離れたことも、偶然だったのかどうか、今なら少しだけ疑える。けれどシロナは何も言わない。だから俺も、今は深く聞かなかった。
「さっきの光、見たか?」
俺が聞くと、シロナの表情が少しだけ真面目になった。ナタネも横で腕を組み、クチートを見る。
「ええ。あれは普通の技ではないわね」
「ナタネも知らないって言ってた」
「うん。あたしも初めて見た。草タイプの技でもないし、鋼タイプの技って感じでもなかったよ。クチート自身から出てたっていうか、あの子の中にあったものが一瞬だけ外に出たみたいだった」
ナタネの言葉に、シロナは静かに頷いた。
「私も近い印象を受けたわ。確信はないけれど、魂性かもしれない」
「魂性?」
聞き慣れない言葉だった。ラルトスも首を傾げる。クチートは何も言わない。
「ポケモンが持っている性質や、心のあり方が、特別な形で力として表れることがあると言われているの。研究としてもまだ分からないことが多いし、私自身も実際に見た例はほとんどないわ」
「じゃあ、あれが本当にそれかは分からないのか」
「ええ。だから、かもしれない」
シロナはそう言ってから、クチートへ視線を向けた。
「ただ、今日のものは完全な覚醒ではないと思う。攻撃の重さが少し増して、動きもほんのわずかに速くなった。けれど長くは続かなかったし、相手を圧倒するような力でもなかった。あくまで兆し。まだ芽が出たばかりの力、という方が近いわね」
「兆し……」
その言葉を口の中で転がす。完成した力ではない。まだ途中。そう聞いて少しだけ安心した。いきなり自分の知らない場所へクチートだけが行ってしまったわけじゃない。これから見ていけばいい。これから一緒に知ればいい。そう思えるだけで、あの青白い光が怖いものではなくなった。
「でも、なんで今出たんだ?」
そう聞くと、シロナは少しだけ笑った。
「それは、あなたの方が分かっているんじゃない?」
「俺が?」
「ええ」
また答えを言わない。ナタネも何も言わない。ただ二人とも、俺ではなくクチートを見ている。俺も同じようにクチートを見る。ジムの看板を見つめていた背中。昨日の敗北。ラルトスの怒った声。ナタネの問い。今日、俺が言った言葉。
「信じてる」
声に出したつもりはなかった。けれど小さく漏れていたらしく、ラルトスが俺を見上げ、ナタネがにやりと笑った。シロナは何も言わずに微笑む。クチートの大顎が短く鳴った。
ガチン。
その音を聞いて、俺は少しだけ顔が熱くなる。
「……今のは忘れろ」
「えー、いい言葉だったのに?」
「ナタネ、うるさい」
「はいはい」
ナタネは楽しそうに笑った。シロナも少しだけ肩を揺らしている。ラルトスまで小さく笑っているのが見えて、俺は余計に居心地が悪くなった。けれど嫌ではなかった。昨日は同じジムの中にいても、何も分からなくて苦しかった。今も全部分かったわけじゃない。それでも、笑えるくらいには呼吸が戻っている。
ナタネは改めて俺の前に立つと、軽く拳を突き出した。
「ユア、もう一回おめでとう。いい勝負だったよ」
「ああ」
俺は少し迷ってから、その拳に自分の拳を合わせた。ナタネの拳は小さいが、しっかり力がある。勝った相手と交わす挨拶というより、また来いと言われているみたいだった。
「昨日、飛び出して悪かった」
「もう謝ったでしょ?」
「もう一回言っとく」
「そっか。じゃあ受け取っとく!」
ナタネは明るく笑い、それからクチートへ視線を向けた。
「クチートもまた来てよ。次はもっとちゃんと見せてね、さっきの青白いやつ」
クチートは返事をしない。ただ大顎が小さく鳴った。
ガチッ。
「今の、来るってこと?」
「分かるのか?」
「分かんない!」
「分かんないのかよ」
「でも悪い感じじゃなかったからいいじゃん」
ナタネらしい答えだった。俺はクチートを見る。今の音の意味はまだ分からない。けれど分からないことを、すぐに拒絶だと決めつける必要はない。そう思えるようになっただけでも、昨日とは違う。
ジムを出る前に、シロナが俺を呼び止めた。ナタネはフィールドの片付けへ戻り、ラルトスは俺の隣で待っている。クチートはやはり少し後ろにいた。
「ユア」
「なんだよ」
「良い顔になったわね」
「……そうか?」
「ええ」
シロナはそれ以上詳しく言わなかった。けれど今は、その言葉を無理に聞き返す必要はない気がした。良い顔とは何なのか分からない。けれど、昨日よりは前を向けている。それだけは自分でも分かった。
「シロナ」
「なに?」
「ありがとう」
言うと、シロナは少しだけ驚いた顔をした。それから、いつものように柔らかく笑う。
「どういたしまして」
「何に対してか聞かないんだな」
「聞かなくても分かるもの」
「そういうとこだよな」
「どういうところかしら」
「別に」
シロナは少しだけ笑った。俺はバッジをしまい、ラルトスを見る。ラルトスは小さく頷く。クチートは何も言わない。けれどそこにいる。少し後ろ。振り返ればいる場所。今はその距離が、前よりずっと近く感じた。
ジムの扉を開けると、ハクタイシティの光が入ってきた。外の空気は少し冷たくて、街のざわめきがジムの中へ流れ込んでくる。昨日はこの音がやけに遠く聞こえた。今日は違う。俺は一度だけ振り返る。ナタネが大きく手を振っていて、シロナはその隣で静かに見ていた。
「また来なよー!」
「ああ!」
そう返して、俺は外へ出た。ラルトスが隣を歩き、クチートが少し後ろを歩く。いつもの並びだった。けれど、もう同じには見えなかった。