1話
ユアたちがジムを出ていった後、ハクタイジムには少しだけ静かな時間が戻っていた。フィールドの土にはナエトルとクチートがぶつかった跡がまだ残っていて、踏み荒らされた草の匂いと、バトルの熱が薄く混ざっている。ナタネは剪定ばさみを腰に戻しながらその跡を見て、思わず小さく笑った。昨日は悔しさを抱えたまま飛び出していった少年が、今日はちゃんと戻ってきて、分からないと言いながらもう一度挑み、最後には自分で答えを掴んだ。ジムリーダーとしては、こういう瞬間を見るのが一番楽しい。勝つことも負けることも大事だけれど、それ以上に、挑戦者が昨日とは違う顔で帰っていくのを見ると、この場所で待っていてよかったと思える。
「ずいぶん嬉しそうね」
背後から声がして、ナタネは振り返った。シロナはまだジムの入口近くに立っていて、帰るでもなく、フィールドに残った跡を静かに眺めている。チャンピオンらしい落ち着いた立ち姿なのに、どこか満足そうな顔をしているのが少し面白かった。ナタネはにっと笑って、わざとらしく肩を竦める。
「そりゃ嬉しいですよ。挑戦者がちゃんと戻ってきて、ちゃんと変わって、ちゃんと勝って帰ったんですから。ジムリーダー冥利に尽きるってやつです」
「良い勝負だったわ」
「ですよね!」
ナタネは即答した。少し声が大きくなって、ジムの中の葉が揺れる。シロナはそれを見て小さく笑った。ナタネはフィールドへ視線を戻し、クチートが最後に踏み込んだあたりを見つめる。あの青白い光は、今思い返しても普通の技には見えなかった。強くなったというより、内側にあった何かが一瞬だけ外へ零れたようだった。けれど、それを引き出したのは技でも相性でもない。あの少年が、やっと相棒を見ることができた瞬間だったのだと思う。
「でも意外でした」
「何がかしら」
「シロナさんが、あそこまで待つ人だったことです」
シロナの視線がゆっくりこちらへ向く。ナタネはフィールドの土を軽く踏みながら続けた。
「だって、分かってたんですよね。ユアくんが何を見落としているのか。クチートが何を待っているのか。なのに言わなかった」
「あなたも言わなかったでしょう?」
「私はジムリーダーですから。挑戦者に答えをそのまま渡しちゃったら、勝負じゃなくなります」
「私も同じよ」
「チャンピオンだから?」
「旅の先輩として、かしら」
「ずるい言い方ですね」
「そう?」
「そうです。なんか綺麗にまとめようとしてます」
ナタネがそう言うと、シロナは少しだけ困ったように笑った。ナタネはその顔を見て、やっぱりこの人は全部を教えない人なのだと思う。答えを置くのではなく、答えに気付ける場所へ人を歩かせる。優しいようで、結構厳しい。けれど、だからこそユアは自分であの言葉に辿り着いたのだろう。
「でも、本当は少し怖くないですか?」
「怖い?」
「だって、気付けなかったらまた負けるだけじゃないですか。下手したら、あのまま来なくなるかもしれない」
「そうね」
「そうねって、軽いですね」
「軽くはないわ。けれど、気付く前に答えを渡してしまったら、たぶんもっと遠回りになる」
シロナはフィールドへ視線を落とした。ラルトスが倒れた跡、クチートが踏み込んだ跡、ナエトルが踏ん張った場所。そこに残ったものを、まるで文字を読むみたいに順に見ていく。
「誰かに教えられて言う『信じてる』と、自分で辿り着いて言う『信じてる』は違うもの」
その言葉に、ナタネは少しだけ黙った。さっきユアがクチートへ向けて叫んだ声を思い出す。綺麗な言葉ではなかった。落ち着いていたわけでもない。必死で、不器用で、でも確かに届いていた。だからクチートは応えてみせたのだ。
「……それは、確かに違いますね」
「でしょう?」
「でもシロナさん、やっぱりかなり気にかけてますよね」
「またその話?」
「だって今の言い方、完全に保護者でしたよ」
「保護者ではないわ」
「じゃあ何ですか?」
「少し旅を共にした先輩」
「言い方が固い!」
ナタネが笑うと、シロナは軽くため息をついた。けれど本気で嫌がっているわけではない。むしろ、からかわれるのに少し慣れてきたようにも見える。
「シロナさんって、真面目な顔して結構分かりやすいですよね」
「それは初めて言われたわ」
「本当ですか? 神話の話になると顔が変わるし、ユアくんのことになるとちょっと柔らかくなるし」
「……そうかしら」
「そうですよ」
ナタネはそこで何かを思いついたように、ぱっと目を見開いた。
「はっ」
シロナの眉がぴくりと動く。
「まさか好きなんですか!!」
「だからなんでそうなるのよ!!」
シロナの声がジムの中へ跳ねた。ナタネは声を出して笑い、シロナは一瞬だけ頬を赤くしてから、誤魔化すように咳払いをする。その反応があまりに分かりやすくて、ナタネはさらに笑いそうになったが、さすがに怒られそうだったのでなんとか堪えた。
「いやぁ、だってあんなに気にかけてるから」
「違うわ。あの子はまだ危なっかしいところが多いし、放っておくと無茶をするから見ているだけよ」
「それ、結構気にかけてますよ」
「そういう意味ではそうね」
「じゃあ好きってことで」
「違うって言っているでしょう」
シロナは少し強めに言ったが、その顔は完全に怒っているわけではなかった。ナタネは笑いながらも、そこで一度空気を戻す。からかいすぎると、本当に言いたいことが遠くなる。フィールドに残った跡へ目を向けると、さっきまでの笑い声が少しだけ落ち着いた。
「でも、良かったですね」
「ええ」
「あの子、まだ全部分かってないと思いますよ」
「そうね」
「でも、前よりちゃんと見てました。クチートのことも、ラルトスのことも。昨日は勝たせようとしてるだけだったけど、今日は知ろうとしてました」
シロナは何も言わずに頷いた。ナタネは続ける。昨日のユアは、勝つためにクチートを見ていた。今日のユアは、クチートを知るために見ていた。その違いは小さいようで、バトルの中でははっきり現れる。指示の出し方、待つ時間、名前を呼ぶ声。全部が少しずつ違っていた。
「クチートも、不思議な子ですね」
「そうね」
「最初からあの子を信じてないって感じじゃなかった。むしろ……信じたいから見てた、みたいな」
言ってから、ナタネは自分の言葉に少しだけ首を傾げた。はっきり分かるわけではない。クチートが何を思っていたのかまでは、ナタネにも分からない。けれどフィールドで見えた行動は嘘をつかない。昨日も今日も、クチートはユアの声を聞いていた。指示に従っていた。ただ、それだけでは足りなかったのだ。
「シロナさんは、気付くと思ってました?」
「思っていたわ」
「そんなに?」
「ええ」
「どうしてです?」
シロナは少しだけ考えるようにフィールドを見たあと、柔らかく笑った。
「だって、あの子の隣にはラルトスがいたもの」
ナタネはその言葉を聞いて、少しだけ黙った。なるほど、と素直に思った。ユアが分からなくても、ラルトスは見ている。言葉が少なくても、ずっと隣で見ている。クチートが少し後ろにいることも、ユアがそれをどう受け取っているかも、きっと誰より近くで見ていたのだろう。だからこそ、あの少年は完全には迷子にならなかった。導いてくれる相手がいるというのは、たぶんかなり幸運なことだ。
つまり、彼は1人ではない、ということ。
「いいチームですね」
「ええ。まだまだ危なっかしいけれど」
「そこが面白いんじゃないですか?」
「あなたらしいわね」
「ジムリーダーですから!」
ナタネは明るく言って、剪定ばさみを手に取った。フィールドの端で折れた枝を拾い、乱れた草を整える。ジムはまた次の挑戦者を迎える場所に戻らなければならない。ユアたちの戦いの跡も、今日のうちに少しずつ消えていく。けれど、それでいい。跡が消えても、あの勝負が無くなるわけではない。
「また来ますかね」
「来ると思うわ」
「ユアくんが」
「ええ」
「クチートも?」
「きっと、そしてもちろん、ラルトスも、今度は今よりずっと強くなって」
シロナの返事は静かだった。ナタネは満足そうに頷き、フィールドの土を軽く踏み固める。
「じゃあ、次に来た時は本気で戦わないとですね、ジムリーダーとしてじゃなく、1人のトレーナーとして」
「あなたも負けていられないわね」
「もちろんです!」
そう言ってナタネは笑った。シロナも小さく笑う。ハクタイジムの中には、もうバトルの熱はほとんど残っていなかった。代わりに、整えられた草の匂いと、次の挑戦者を待つ静けさが戻ってくる。ナタネは入口の方を一度だけ見た。ユアたちが出ていった扉は閉じている。それでも、あの少年とラルトスとクチートが、またどこかで前を向いて歩いていることだけは、はっきり想像できた。