1話
旅を始めてからは、目覚ましがなくても早く起きれるようになった。荷車が石畳を転がる音、店先を掃く箒の音、開いた窓から飛び込んでくる人やポケモンの声。知らない街は朝の音までがどこか新鮮で、耳を澄ませているうちに、もう一度眠るのは諦めた。
「……朝か」
布団から体を起こすと、床ではドーが大きな体を丸めて眠っていた。平たい背中が呼吸に合わせて上下し、ボクが起きても薄く目を開いただけで、立ち上がるつもりはないらしい。
「ドー、朝だよ」
「どおぉー……」
「返事だけしても、起きたことにはならないからね」
「どおー」
「二回返事をしても同じだよ」
ドオー。もちろん、ボクだってちゃんと呼べる。ただ、毎回すべて口にするより、ドーと呼ぶ方が楽だからそうしているだけだ。本人も自分のことだと分かっているし、困ることは何もない。
昨日ユアには、すぐに突っ込まれた。
【「ドオーだろ」】
【「うん、ドーだよ?」】
略しているだけだと説明することもできた。でも、何が伝わっていないのか分からず困っていたユアの顔が少し面白くて、種明かしはしなかった。次に会った時も同じように呼べば、きっとまた同じ顔をする。それを考えると、今さら直す理由もなかった。
「……何笑ってるんだろ、ボク」
「どお?」
「キミの名前の話」
「どおぉー」
「たぶん分かってないよね」
ドーがゆっくり瞬きをする。その反応を返事として受け取っていると、もう一匹が妙に静かなことに気づいた。
「ホゲータ?」
「ほげっ!」
窓際から元気な声が返ってきた。小さな赤い体を窓へ押しつけ、短い前脚を何度も動かしながら、通りの向こうを夢中で見つめている。
ホゲータは、ボクがパルデアで旅を始めた時、一番最初にゲットした仲間だ。落ち着いているドーとは正反対で、気になるものを見つければすぐに走り出すし、食べ物の匂いがすれば呼び止めてもなかなか戻ってこない。昨日ユアたちと会った時は、ボールの中で昼寝をしていたので、まだ顔を合わせていなかった。
「何を見てるの?」
「ほげっ、ほげ!」
ホゲータが窓の外を示す。その先では、向かいのパン屋が焼きたてのパンを店先へ並べていた。
「やっぱり食べ物か」
「ほげっ!」
「褒めてないよ」
ホゲータはまったく気にせず、扉の前へ走っていく。まだ着替えてもいなければ、荷物もまとめていないのに、気持ちだけはもうパン屋へ着いているらしい。
「先に準備。パンは逃げないから」
「ほげぇ……」
「そんな悲しそうな声を出しても駄目」
ホゲータは扉へ鼻先をつけたまま、何度もこちらを振り返った。ドーはようやく体を起こしたが、その場に座ったまま、眠そうな目でボクが荷物をまとめる様子を眺めている。
「ドーも少しくらい手伝ってよ」
「どおぉー」
「応援じゃなくて」
結局、二匹が手伝ってくれたことといえば、忘れ物がないか確認するボクの邪魔をしたくらいだった。
宿を出てパンを買うと、ホゲータは包みを開く前から足元で跳ね始めた。ドーは隣へ座り、急かすことなく、パンとボクの手を交互に見ている。
「ドーはちゃんと待てるのにね」
「ほげっ」
「自分も待ててるって顔をしないで。ずっと跳ねてるから」
「ほげ?」
「首を傾げても駄目」
朝食を済ませたら、そのままシンジ湖へ向かうつもりだった。けれど地図を広げてみると、急いで出発しなくても十分に辿り着けそうだった。昨日まで予定を立てろと言っていたユアの顔が一瞬浮かんだが、時間に余裕があるなら寄り道をしても問題はない。
近くに公園があると宿の人から聞き、街を出る前に少しだけ立ち寄ることにした。
公園の中央には大きな噴水があり、その周りを子どもたちが走り回っていた。噴き上がった水が朝日にきらきら光るたび、ホゲータは首を左右へ動かして追いかけている。
「噴水には入らないでね」
「ほげ?」
「何も考えてませんって顔をしても無駄だよ。入ろうとしてたでしょ」
ホゲータは噴水から一歩だけ離れた。諦めたというより、隙を待つことにした顔だった。
近くで遊んでいた子どもの一人が、ホゲータを見つけて駆け寄ってくる。
「お姉ちゃん、その赤いポケモンなに?」
「ホゲータ。パルデア地方のポケモンだよ」
「パルデア?」
「海の向こうにある、ここからずっと遠い地方」
子どもは目を丸くし、ホゲータの前へしゃがみ込んだ。見たことのない相手に近づかれても、ホゲータは警戒するどころか、撫でてもらう準備をするように頭を差し出している。
「触ってもいい?」
「ホゲータがいいならね」
「ほげっ!」
頭を撫でられたホゲータが、得意そうに胸を張る。その様子を見ていたほかの子どもたちも集まり、今度はドーの周りを囲み始めた。
「こっちの大きいのは?」
「ドーだよ。パルデアにいるドオーっていうポケモン」
「ドーなの? ドオーなの?」
「名前はドオー。ボクがドーって呼んでるだけ」
ユアには教えなかったことを、子ども相手にはあっさり説明する。少し不公平な気もしたが、困った顔を見て楽しみたい相手は、今のところ一人しかいない。
「ヌオーじゃないの?」
「似ているけど違うよ。ドーはどく・じめんタイプ」
「触っていい?」
「ドーが嫌がらなければね」
ドーは子どもたちに囲まれても動じず、その場へ腹をつけて座り込んだ。一人が平たい背中を撫でると、柔らかさが気に入ったらしく何度も手を往復させる。
「やわらかい!」
「おっきい!」
「背中に乗れる?」
「一人ずつならね。急に飛び乗らないで、ドーにもちゃんと聞くこと」
子どもたちの視線が一斉に集まる。
「乗ってもいい?」
「どおぉー」
「いいって」
最初の子が恐る恐る背中へ乗ると、ドーは体を揺らさないよう、いつも以上にゆっくり立ち上がった。高くなった視界に子どもが歓声を上げ、周りで待っていた子たちも、次は自分だと飛び跳ねる。
「ドー、走って!」
「走らなくていいからね」
「どおー」
「その速さでちょうどいいよ」
ドーは子どもを乗せたまま、公園の道をゆっくり一周し始めた。乗っている子は速さなど気にしていないらしく、少し進むたびに周りへ手を振っている。
一方、みんなの注目がドーへ移ったことで、ホゲータは少し面白くなくなったらしい。噴水の前まで歩くと、大きく息を吸い込んだ。
「ホゲータ?」
「ほげぇー、ほげっ、ほげぇー!」
聞き慣れた、少し調子の外れた歌が公園へ響いた。
「今、歌うの?」
「ほげっ!」
ホゲータは返事をすると、歌いながら左右へ体を揺らし始める。最初に頭を撫でていた子が面白がって真似をし、両腕を広げて同じように踊った。
「ほげぇー!」
「ほげぇー!」
別の子も加わり、すぐに歌声が増えていく。歌詞はない。ホゲータの鳴き声を真似しながら、みんな好きなように跳ね、回り、手を叩いている。
「ほげっ、ほげっ!」
「ほげっ、ほげっ!」
ホゲータはすっかり気を良くし、その場で一回転しようとして自分の足につまずいた。芝生へ転がったが、すぐに立ち上がり、最初から踊りの一部だったように歌を続ける。
「今のは絶対転んだだけでしょ」
「ほげ!」
「踊りだって言い張るんだ」
子どもたちは大笑いし、転ぶところまで真似して芝生へ寝転がった。立ち上がって戻ってきたドーは、背中へ次の子を乗せながら、踊るホゲータたちをぼんやり眺めている。
「ドーも歌いたい?」
「どおぉー」
「それは歌なの?」
「どおー」
「いつもと同じ声にしか聞こえないな」
やがて、ドーの背中へ乗る順番と、ホゲータと踊る順番が自然にできていた。ボクは背中から落ちそうになる子を支え、勢い余って噴水へ飛び込みそうなホゲータを引き戻し、気づけば公園を出る予定だった時間をとっくに過ぎていた。
最後の子がドーの背中から降りる頃には、太陽も少し高くなっていた。
「もう行っちゃうの?」
「うん。ボクたちも旅の途中だから」
「また来てね!」
「次もドーに乗せて!」
「ホゲータも歌ってね!」
「ほげっ!」
「どおぉー」
二匹は迷わず返事をした。次にコトブキへ来る日なんて決まっていないのに、もう約束したつもりらしい。
公園を出たあとも、ホゲータは子どもたちと歌った調子を繰り返し、楽しそうに体を揺らしていた。ドーは何人も背中へ乗せたせいか、歩きながら何度も大きなあくびをしている。
「人気者だったね、二人とも」
「ほげっ!」
「どおー」
「旅してること、忘れてない?」
ホゲータとドーが顔を見合わせた。
「ほげ?」
「どおぉー?」
「二人とも忘れてたんだ……」
呆れながら地図を開き、シンジ湖へ続く道を確かめる。予定より少し遅くなったが、まだ困るような時間ではない。
「まあ、急ぐ理由もないか」
「ほげっ!」
「どおぉー」
「寄り道を認めた時だけ返事が早いね」
ボクが地図を畳むより先に、ホゲータは道の向こうへ走り出した。ドーは慌てず、その後をいつもの速さで歩き始める。
「ホゲータ、そっちじゃないよ!」
「ほげ!?」
「……やれやれ」
振り返って戻ってくる赤い体と、それを待つ大きな背中を追いかけながら、ボクはシンジ湖へ続く道へ足を向けた。