シンジ湖へ着いた頃には、太陽がだいぶ高くなっていた。木々の間を抜けた先に広がっていた湖は、地図で見ていたよりもずっと大きく、向こう岸の森が水の上に小さく映っている。風が吹くたび、静かな湖面に細かな波が走り、水が岸へ触れる音だけが繰り返されていた。
「……広い」
思わず足が止まる。パルデアにも大きな湖はあるけれど、目の前の景色には、それとは違う静けさがあった。近くに人の姿はなく、ボクたちが来るまで、誰にも触れられていなかったような変な神聖さがある。
「ほげ……」
隣ではホゲータも足を止めていた。昨日、公園の噴水には飛び込みそうなくらい興味を示していたのに、今日は水際へ一歩だけ近づき、揺れる湖面を覗くと、すぐにボクの足元まで戻ってくる。
「怖い?」
「ほげ……」
小さく頷き、もう一度だけ湖を見た。噴水くらいなら底まで見えるし、水がどこから出て、どこへ流れていくのかも分かる。でも、この湖はどこまで続き、どれくらい深いのかも見ただけでは分からない。ほのおタイプのホゲータにとって、大きすぎる水は、さすがに楽しそうだけでは済まないらしい。
「無理して入らなくていいよ」
「ほげ」
一方、ドーは湖の大きさを気にした様子もなく、水際へ歩いていった。前脚を浸け、そのまま浅いところまで進むと、大きな体をゆっくり水へ沈める。ドーはもともと水辺に暮らすポケモンだ。川や沼にも慣れているので、冷たい水の中へ入る方が落ち着くらしい。
「どおぉー」
「気持ちよさそうだね」
ドーは目を細め、浅瀬へ腹をつけたまま動かなくなった。
「そこで寝ないでよ」
「どおー」
「寝ないって言った?」
「どおぉー」
「もう寝そうな声に聞こえるけど」
返事はあったものの、目はほとんど閉じている。ボクも岸辺の岩へ荷物を置き、靴と靴下を脱いだ。裸足のまま水際へ立ち、片足を恐る恐る入れてみる。
「冷たっ……!」
思わず足を引くと、ドーがゆっくりこちらを見た。
「今、笑った?」
「どおー」
「絶対笑ったでしょ」
もう一度足を入れ、今度は引かずに我慢する。最初は刺すように冷たかった水も、少し待てば気持ちよくなり、足首まで浸かりながら柔らかな砂の上を歩いた。ホゲータは岸からボクとドーを交互に見ている。
「ここなら浅いよ」
「ほげ……」
「来なくてもいいけどね」
ホゲータはしばらく迷い、水際まで近づくと前脚を伸ばした。けれど、水へ触れる直前で引っ込め、その場へ座り込む。
「まだ無理?」
「ほげ」
「そっか」
それでも最初よりは近い。ボクはそれ以上呼ばず、足元に沈んでいた平たい小石を拾った。湖面へ向けて投げると、小石は一度、二度、三度と跳ね、最後に小さな波紋を残して沈んでいく。
「三回か」
「ほげっ!」
「やってみる?」
嬉しそうに寄ってきたものの、ホゲータの前脚では石を投げられない。足元にあった小石へ鼻先を押しつけ、少しずつ水際まで転がすと、そのまま湖へ落とした。
ぽちゃん。
「……一回だね」
「ほげっ!」
「満足ならいいけど」
ホゲータはすぐ次の石を探し始め、もう一つ転がしては、自分で前脚を叩いて喜んでいる。その様子を見ていた時、湖の中央で小さな光が揺れた。
「……ん?」
太陽の反射かと思ったが、光は湖面から離れ、こちらへ向かってゆっくり近づいてくる。淡いピンク色の頭部に灰色の小さな体、頭から伸びた飾りのようなもの。二股に別れたシッポ。水の上を泳ぐように空を飛び、ボクたちから少し離れたところで止まった。
見たことのないポケモンだった。
図鑑へ手を伸ばしかけたものの、ピンク色のポケモンが首を傾げるように体を傾けたので、そのまま手を止める。こちらを怖がっている様子はなく、むしろ何をしているのか気になって近づいてきたように見えた。
「野生のポケモン……?」
「ほげ?」
湖を警戒していたことも忘れ、ホゲータが相手を見上げる。ピンク色のポケモンが少しだけ高度を下げると、ホゲータも一歩だけ近づいた。
「ほげっ」
短く鳴く。
返事の代わりなのか、ピンク色のポケモンは空中でくるりと一回転した。
「遊びたいのかな」
言葉が通じたわけではない。それでも、そうとしか見えなかった。
ホゲータが走り出すと、ピンク色のポケモンは捕まる直前でふわりと浮かび、少し先まで逃げる。速く飛ぼうと思えばいくらでも逃げられそうなのに、ホゲータが追いつけそうで追いつけない距離を保ち、時々わざと近くまで戻ってきた。
「ほげっ、ほげ!」
「転ばないでよ」
声をかけた直後、ホゲータは木の根につまずき、前のめりに芝生へ転がった。
「ほげぇ……」
「言ったそばから」
立ち上がろうとしたボクより先に、ピンク色のポケモンがホゲータの前へ降りた。心配するように顔を覗き込み、小さな手で頭を軽く撫でる。
「ほげっ!」
ホゲータはすぐに立ち上がり、何事もなかったように追いかけっこを再開した。さっきまでの落ち込んだ声はどこへ行ったのだろう。ドーもいつの間にか目を開け、岸辺を走り回る二匹を眺めている。ピンク色のポケモンはしばらくホゲータと遊んだあと、今度は湖の上へ飛び、ドーの頭へ降りた。
「どお?」
ドーが顔を上げるけれど、頭の上に誰かが座っていても気にする様子はなく、そのままゆっくり瞬きをした。
「そこに座るんだ」
「どおぉー」
ホゲータも乗りたくなったらしく、ドーの背中へ前脚をかける。
「キミは駄目」
「ほげ!?」
「乗るなら後ろからゆっくり。今みたいに飛びついたら落ちるでしょ」
ホゲータは納得していない顔をしたが、ピンク色のポケモンがドーの頭から飛び降りると、すぐにそちらを追いかけていった。
三匹で遊び始めてからは、時間が過ぎるのが早かった。ピンク色のポケモンが水面すれすれを飛び、ホゲータが岸から追いかける。ドーは浅瀬をゆっくり進み、相手が近づいてくるたび、大きな尻尾で水を跳ね上げた。
「ほげっ!」
水を浴びたホゲータが大きく飛び退く。
「ドー、水かけすぎ」
「どおー」
ピンク色のポケモンが楽しそうに宙を回り、今度は尻尾の先で水面へ触れた。跳ねた小さな水滴が、ホゲータの鼻先へ落ちる。
「ほげ……」
ホゲータは一瞬だけ固まった。けれど、目の前の相手が楽しそうに回っているのを見ると、自分から水際へ近づき、浅いところへ前脚をつける。
「ほげっ」
冷たさに驚いてすぐ引っ込めたが、後ろへ逃げることはなかった。
「冷たかった?」
「ほげ」
「でも、触れたね」
ホゲータは少し得意そうに胸を張る。湖が怖くなくなったわけではない。それでも、目の前の相手と遊びたい気持ちが、ほんの少しだけ警戒を上回ったらしい。
ボクは岸辺の岩へ腰を下ろし、足だけを水へ浸けたまま三匹を眺めていた。図鑑を使えば、何か分かったかもしれない。けれど、今は知らないままでもいいと思った。どこから来たのか、何というポケモンなのか、どうしてボクたちのところへ現れたのか。答えを探している間に、この時間が終わってしまう方が惜しかった。
やがてホゲータが歌い始めた。
「ほげぇー、ほげっ、ほげぇー!」
公園で子どもたちと歌っていた、少し調子の外れた歌だ。ピンク色のポケモンは驚いたように目を開き、すぐに空中でくるくる回りながら踊り始めた。ドーも湖の中から間延びした声を重ねる。
「どおぉー」
「ドーも歌ってるの?」
「どおー」
「やっぱり、いつもの鳴き声にしか聞こえないな」
三匹はボクの言葉など気にせず続けている。ホゲータが歌い、ピンク色のポケモンが踊り、ドーが時々低い声を重ねる。ボクも少しだけ笑い、歌に合わせて足先で水を揺らした。
気づけば、湖の向こうへ太陽が傾いていた。水面は赤く染まり、岸に並ぶ木々の影が長く伸びている。
「……もうこんな時間?」
ここへ着いた時には、まだ昼を少し過ぎたくらいだったはずだ。湖を見たあと、近くを歩いてから戻るつもりだったのに、ほとんど一日ここで過ごしてしまった。
「そろそろ戻ろうか」
「ほげ……」
「どおぉー」
「暗くなる前に出ないと、今度こそ野宿だよ」
二匹ともまだ遊び足りない顔をしていたが、帰らないとは言わなかった。ボクは水から上がり、岸辺へ置いていた荷物のところまで戻る。足を拭き、靴下を履き、靴へ足を入れる。
ほんの少しだけ、湖から目を離した。
「忘れ物は……」
振り返るとホゲータとドーは、さっきと同じ場所にいたけれど、ピンク色のポケモンだけがいなかった。
「……あれ?」
木の陰にも、草むらにも、湖の上にも姿はない。ホゲータも辺りを見回し、さっきまで遊んでいた場所へ駆けていく。
「ほげ?」
「どおー」
ドーが湖へ顔を向け、低く鳴いた。
「帰ったのかな」
返事はない。
湖面には夕方の空と、向こう岸の森が映っているだけだった。ホゲータはしばらくその場を動かず、ピンク色のポケモンが飛んでいた空を見上げている。
「また会えるといいね」
「ほげ……」
「どおぉー」
荷物を背負い、湖を離れようとした時、静かな水面に小さな波紋が広がった。魚が跳ねたのかもしれない。風が触れただけかもしれない。
それでもホゲータは顔を上げ、嬉しそうに声を上げた。
「ほげっ!」
「……いたの?」
波紋はもう消えている。ホゲータは答えず、湖へ向かって大きく前脚を振った。ボクも少しだけ迷い、同じように手を上げる。
「またね」
夕暮れの湖から、返事は聞こえなかった。