翌朝、階下から漂ってきた料理の匂いで目を覚ました。知らない部屋で眠ったはずなのに、起きた瞬間にどこにいるのか迷うことはなかった。壁に貼られたシンオウの地図と、机の端に並んだ使い込まれた図鑑が、ここはユアの部屋だと思い出させてくれる。床ではドーが大きな体を丸め、ホゲータはベッドの横で毛布へ鼻先を埋めていた。
「朝だよ。二人とも起きて」
「どおぉー……」
「ほげぇ……」
「返事だけは揃うんだね」
身支度と荷物の整理を済ませ、二匹を連れて居間へ下りると、ユアの両親はすでに朝食を用意していた。母親が食卓へ皿を並べ、父親は作業着の袖をまくりながら飲み物へ口をつけている。ホゲータは料理を見つけた途端に眠気を忘れ、昨日と同じ場所へ急いで座った。
「よく眠れた?」
「はい。急に泊めてもらったのに、ありがとうございました」
「気にしなくていいのよ。ユアに、こんなに優しい男友達ができたと分かって、私も安心したわ」
パンへ伸ばしていた手が止まった。
「……男友達?」
「え?」
母親の手も止まる。父親がカップを置き、二人揃ってこちらを見た。
「ボク、女ですけど」
短い沈黙が食卓へ落ちた。母親はボクの顔、短い髪、制服のズボンを順番に見たあと、慌てて口元へ手を当てる。
「ご、ごめんなさい。ずっと男の子だとばかり……」
「よく間違われるので、別に気にしてません」
「だが、昨夜は女の子をユアの部屋へ泊めたことになるな。すまない。最初から分かっていれば、別の部屋を用意したんだが」
父親が真面目な顔で頭を下げる。
「本人はいませんでしたし、寝ただけなので本当に大丈夫です」
「言っていることは正しいんだが、少し返事に困る言い方だな……」
「どう言えばよかったんですか?」
「いや、そのままでいい。こちらが勝手に勘違いしたんだ」
父親は困ったように眉を寄せ、母親も申し訳なさそうに何度も謝った。本当に慣れているので気にしていないと説明すると、二人もようやく少し表情を緩める。
「ユアにも、最初は男の子だと思われました」
「ユアも?」
「はい。声も服も髪も男に見えるって悩んだ末に、胸を見て男の子だと思ったらしいです」
今度はさっきより長い沈黙が落ちた。
「……胸を見て?」
「胸が小さいから男だと思ったみたいです。初対面でそんなことを言われて腹が立ったので、勝負でボコボコにして謝らせました。それから話してるうちに、なんとなく仲良くなりました」
父親は片手で目元を押さえ、母親は笑っていいのか怒るべきなのか決められない顔をしている。
「帰ってきたら、一度きちんと話をしよう」
「そうね。女の子へ言っていいことと悪いことを、もう一度教えないと……」
「もう謝ってもらったので大丈夫ですよ」
「それでも親として聞き流すわけにはいかないのよ」
ユアが帰ってきた時に何を言われるのか少しだけ気になったが、原因を作ったのは本人なので黙っておくことにした。朝食を終え、旅支度を整える頃には、父親も仕事へ出る準備を済ませていた。
「私はこれから鉱山へ行く。ヨスガへ向かう前に、少し寄っていくか?」
「鉱山へ?」
「ああ。ユアが作り上げたものを見ていくか?」
昨日聞いたクチートとの話が浮かんだ。境界を作り、人とポケモンの間を繋いだ場所。断る理由はなかった。
「見たいです」
「なら一緒に行こう。仕事へ入れば長くは案内できないが、見るだけなら問題はないだろう」
母親へ礼を言い、持たせてもらった食べ物を鞄へしまって家を出る。朝のクロガネはすでに動き始めており、鉱山へ向かう作業員やポケモンたちが同じ方向へ歩いていた。父親はすれ違う人たちへ短く声を掛けながら進み、町の端を越えて坑道の入口へ入っていく。
入口で渡されたヘルメットを被ってから中へ進むにつれて、機械の音や作業員の声が大きくなった。けれど、昨日の話から想像していたような、人間だけが鉱石を掘る場所ではなかった。作業員とゴーリキーが並んで大きな資材を運び、その近くでは野生のイシツブテが砕かれた石を転がしている。別の場所ではワンリキーが落ちた道具を拾って作業員へ渡し、受け取った人間が当たり前のように礼を言っていた。命令されて動いている様子はなく、手伝いを終えれば好きな場所へ戻り、疲れれば壁際へ座り込む。
「……あのポケモンたち、誰かの手持ちじゃないんですよね」
「ああ。鉱山で暮らしている野生のポケモンだ。仕事を手伝えば食べ物を分けてもらえると覚えた子もいれば、単純に人間と一緒に体を動かすのが好きな子もいる。無理に働かせることはないし、向こうも嫌なら来ない」
父親は足を止め、人間とポケモンが行き交う坑道を見渡した。
「境界を決めた時には、互いに踏み込まないことだけが目的だった。人間は住処を壊さず、ポケモンたちは作業場を荒らさない。それだけ守れれば十分だと思っていたんだ。だが、約束が続くうちに、少しずつこうなった」
「これが、ユアが作ったもの?」
「あいつ一人だけで作ったわけじゃない。作業員も、鉱山のポケモンたちも、自分たちで関係を変えてきた。ただ、その始まりを作ったのはユアだ。あいつが間へ入らなければ、今も互いを危険な相手だと思ったままだったかもしれない」
ユアと戦った時の姿を思い返す。途中から何をすればいいのか分からなくなり、迷いがそのまま指示へ出ていた。勝負だけを見れば、まだ経験の浅いトレーナーだった。
でも、ここにあるものは、バトルの上手さだけでは作れない。
「……すごいんですね、ユア」
「本人へ言えば、たぶん大したことはしていないと言うだろうな」
「言いそう」
「そこは親の私より分かっているみたいだな」
父親が小さく笑った。その時、足元へ柔らかなものが触れた。見下ろすと、一匹のイワンコがボクの靴へ鼻先を寄せ、匂いを確かめるように何度も動かしている。
「……なに?」
「ワンッ」
しゃがんで手を差し出すと、イワンコは警戒するどころか、自分から手のひらへ頭を押しつけた。尻尾は忙しなく左右へ揺れ、撫でるたびにさらに勢いが増していく。
「珍しいな」
後ろから声がした。振り返ると、一人の作業員がゴーリキーを連れて歩いてくる。父親が、クチートの件で一緒に住処まで行った作業員だと教えてくれた。
「そいつ、作業員にもあまり懐かねぇんだ。餌はもらいに来るくせに、触ろうとするとすぐ逃げる。ユアが来た時だけは、よく後ろをついて歩いてたんだが」
「ユアを知ってるんですか?」
「知ってるも何も、あいつには随分世話になった。俺とゴーリキーがクチートを怒らせた時、間へ入ったのもユアだ」
作業員の隣にいるゴーリキーは、ボクを見たあと、足元のイワンコへ視線を落とした。あの時クチートの怒りを正面から受けたポケモンなのだと思うと、昨日父親から聞いた話が急に近く感じられる。
「この子は旅先でユアと知り合ったそうだ」
父親がそう説明すると、作業員がこちらを見る。
「友達か?」
少しだけ考えたが、答えは決まっていた。
「ライバルです」
作業員はすぐには何も言わなかった。ボクの顔を見たあと、もう一度イワンコへ目を向ける。
「ライバル、ねぇ」
「それから、クチートもユアと一緒に旅をしているそうだ」
父親の言葉に、作業員の表情が止まった。
「……っ、あいつが……ユアと?」
「ああ。この子が一緒にいるところを見ている」
作業員は目を見開いたまま、しばらく黙っていた。ゴーリキーも小さく声を漏らし、何かを思い出すように腕へ力を入れている。
「クチートは、どんな様子だった?」
「人が多い場所では警戒してました。ユアの近くへ行くことも少なかったです。でも、ずっとユアを見てました。街を歩いてる時も、誰かと話してる時も、バトルしてる時も。自分からついて行ったって聞いても、ボクはあまり驚かないです」
作業員はゆっくり息を吐き、坑道の奥へ目を向けた。
「そうか……あのクチートが、自分からな」
心配が消えたわけではないようだった。それでも、口元には少しだけ笑みが浮かんでいる。
「あいつの怒りは、俺とゴーリキーが一番近くで見た。住処を壊されて、それでも人間には手を出さず、重機だけを壊してた。怖かったよ。けど、筋は通してた。そんなクチートが鉱山を離れてまでユアについて行く気になったなら、あのガキは俺たちが思ってた以上に大したやつだったんだろうな」
作業員の視線が、今度はボクへ向く。
「そのユアを、迷わずライバルだと言えるのか」
「はい」
「友達じゃなく?」
「友達かどうかは分かりません。でも、ライバルです。次に会ったら、また戦いたいと思ってます」
作業員は少し目を細め、それから声を上げて笑った。
「なるほど。あのガキを相手に、そんな真っ直ぐ言い張れるなら、お前も相当なんだろうな」
「言い張ってるわけじゃないです」
「そこを言い返すあたりも含めてだよ」
作業員はしゃがみ込み、まだボクの足元から離れないイワンコの頭を撫でた。
「ユア以外にこいつが自分から近づくのも、初めて見た。人を見る目は、俺よりこいつの方が確かかもしれねぇな」
「ワンッ」
「お前、この子と行きたいのか?」
イワンコは迷う様子もなく、ボクの脚へ体を寄せた。ホゲータも興味津々で近づき、鼻先同士を触れ合わせる。ドーは少し離れた場所に座り、いつもの眠そうな目で眺めていた。
作業員はイワンコの背中をゆっくり撫でたあと、こちらへ顔を上げる。
「連れて行ってやってくれないか」
「ボクが?」
「ああ。こいつは鉱山で生まれて、ここしか知らない。俺たちと一緒にいても困りはしないが、自分から旅人を選んだなら、止める理由もねぇ。あのクチートがついて行くほどのユアをライバルだと言えるトレーナーなら、任せても大丈夫だと思う」
「でも、今会ったばかりですよ」
「だから、俺の判断だけなら頼まねぇよ。こいつが先に選んだ。それに、お前はユアがどんなやつか分かった上で、同じところへ立とうとしてる。なら、信用してみてもいい」
足元のイワンコを見る。
大きな目はまっすぐこちらへ向けられ、迷いは見えなかった。ドーやホゲータへ目を向けても嫌がる様子はなく、すでに一緒に歩くつもりでいるようにさえ見える。
「旅は楽しいことばかりじゃないよ。湖で野宿することもあるし、たくさん歩くし、ボクもまだ知らないことが多い。それでも来たい?」
「ワンッ!」
「……そっか」
鞄から空のモンスターボールを取り出し、イワンコの前へ差し出す。
「じゃあ、これからよろしく」
イワンコは嬉しそうに一度鳴き、自分からボールへ鼻先を触れた。赤い光に包まれた小さな体が中へ入り、ボールが手のひらで一度、二度と揺れる。やがて小さな音を立てて止まった。
「仲間が増えたね」
「ほげっ!」
「どおぉー」
ホゲータはすぐにボールの周りを跳ね、ドーも返事をするように鳴いた。作業員は立ち上がり、どこか寂しそうにしながらも笑っている。
「たまには顔を見せに来いって、あいつに伝えといてくれ」
「イワンコにですか?」
「ユアにもだよ」
「会ったら言っておきます」
父親はここから仕事へ戻るため、坑道の途中で別れることになった。もう少し鉱山を見てから町を出ると伝えると、ヨスガまでの道と危険な場所を簡単に教えてくれる。
「アイ」
「はい」
「ユアに会ったら、元気だったと伝えてくれ。それだけでいい」
「クチートのことは?」
「言わなくていい。あいつ自身が気づくべきことだからな」
「分かりました」
父親と作業員が仕事へ戻ったあと、ボクはドーとホゲータを連れて、もう少しだけ鉱山の中を歩いた。人とポケモンが声を掛け合い、互いの邪魔にならないよう道を譲り、同じ場所で働いている。その始まりにユアがいたことを知ると、一つ一つの光景が少し違って見えた。
「キミ、思ってたよりすごいことしてたんだね」
もちろん本人はいないので、返事はない。
「でも、本人には言わないけど」
「ほげ?」
「調子に乗ったら困るから」
「どおぉー」
「ドーもそう思うでしょ?」
ドーの返事を勝手に賛成として受け取り、ボクたちは鉱山を出た。
クロガネシティを離れる前に、新しく仲間になったイワンコをボールから出す。初めて見る町の外へ踏み出したイワンコは、少しだけ足を止めて後ろを振り返った。遠くには鉱山の入口が見え、作業の音が風に乗って届いている。
「戻りたい?」
「ワン」
イワンコは首を振ると、今度は前へ顔を向けた。
「次はヨスガシティ。ボクも行ったことがないから、どんな場所かは分からないよ」
「ワンッ!」
「ほげっ!」
「どおぉー」
「みんな返事が早いね」
ホゲータが先頭へ飛び出し、イワンコも負けないようにその隣へ並ぶ。ドーだけは変わらない速さで二匹の後を追い、ボクも鞄を背負い直して歩き始めた。
三匹になった足音が、ヨスガシティへ続く道へ響いていた。