繋がりの王者   作:宵取与一

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7話

朝、目が覚めた。窓の外ではムックルが鳴いていて、開けたままの隙間から入ってきた風がカーテンを揺らしている。机の上には鉛筆が転がり、本棚の端には読みかけの本が斜めに挟まっていて、いつもと同じ見慣れた部屋だ。けれど、布団の端には昨日までいなかった小さな白い体が丸くなっている。ラルトスは膝を抱えるように眠っていて、片方の手で俺の布団の端を掴んでいた。時々、細い指がぴくりと動くたび、俺は起こさないように息を小さくした。

 

 しばらく見ていると、ラルトスの瞼が震えた。赤い目がゆっくり開き、最初に天井を見る。次に窓、机、本棚、それから俺。目が合った瞬間、ラルトスは瞬きを忘れたみたいに俺を見た。布団を掴んでいた指が、布の端をくしゃっと寄せる。昨日のことを思い出したのだと思う。洞窟、コドラ、ガブ、父さんと母さん、そしてこの知らない家。ラルトスは飛び起きるわけでも、逃げるわけでもなく、布団の上で小さく背筋を伸ばした。

 

「おはよ」

 

『……おはよう』

 

「ここ、俺の部屋。昨日はすぐ寝たから、ちゃんと見てなかっただろ」

 

 ラルトスは返事の代わりに部屋を見回した。壁に掛けた上着、机の上の木彫り、床に置いたリュック、窓の外に見える家の庭。ひとつずつ確かめる目の動きはゆっくりで、最後にもう一度俺へ戻ってくる。

 

『……いえ』

 

「そう。俺の家」

 

 ラルトスは窓の方を見た。洞窟の中では見えなかった朝の光が、床の上に四角く落ちている。ラルトスはその光へ手を伸ばしかけ、途中で止めて、自分の指を見る。

 

『……ここ、へいき』

 

 言い終えるまでに、少し間があった。

 

「そっか」

 

 俺がそう返すと、ラルトスは小さく頷いた。布団の端を掴んでいた手は、まだ離れていなかった。

 

ーー

 

 朝食の時間になると、ラルトスはテーブルの横に置いたクッションの上へ座った。母さんが用意してくれた場所だったが、最初はそこへ乗っていいのか分からなかったらしく、俺の顔を見てから、そっと腰を下ろした。父さんが椅子を引くと、ラルトスの視線だけが音の方へ走る。母さんが味噌汁を置くと、今度は湯気の行方を目で追った。テーブルにはご飯と焼いた魚と、ラルトス用に小さく切った木の実が並んでいる。ラルトスは父さんを見る。母さんを見る。俺を見る。それから、自分の前の小皿を見る。

 

「そんなに構えなくても大丈夫だって。朝ごはんが急に襲ってくることはないから」

 

 ラルトスは小皿を見たまま小さく頷いた。頷きはしたけれど、膝の上の手はまだ開いたまま止まっている。父さんも黙ってラルトスを見ていて、ラルトスもときどき父さんを見上げる。昨日、コドラの前に立っていた父さんと、今、湯呑みを持っている父さんを同じものとして扱っていいのか、まだ決められていないみたいだった。やがて父さんが箸を置いた。

 

「ユア、その子のことを改めて聞く。昨日はお前を連れて帰るだけで精一杯だったが、このまま家に置くなら話は別だ。助けた勢いだけで言っているなら反対する。一緒に暮らすなら、怪我が治るまで面倒を見るだけじゃ済まない。嫌なこともあるし、言うことを聞かないこともある。お前はそのラルトスをどうしたい」

 

 俺も箸を置いた。昨日から考えていた。考えたというより、寝る前からずっと頭の中に残っていた。ラルトスを山へ戻すところを想像しても、洞窟へ返すところを想像しても、どうにも変だった。

 

「一緒にいたい。助けたからっていうだけじゃなくて、ここまで来たのに、じゃあもう山へ帰れっていうのは違うと思う。ラルトスがどうしたいかもあるけど、俺は一緒にいたい。まだ何ができるか分からないけど、途中で嫌になったからやめるとか、そういうのはしない」

 

 言ってから、少しだけ顔が熱くなった。父さんは笑わなかった。母さんも茶化さなかった。ただ、父さんの視線が俺からラルトスへ移る。

 

「ユアの考えは分かった。じゃあ、今度はお前だ。無理に残れとは言わない。山に戻りたいなら止めないし、少し休んでから考えたいならそれでもいい。ここにいるなら、俺たちは面倒を見る。ただし、ここは洞窟じゃない。人の家だ。お前にも慣れる時間がいるし、俺たちもお前のことを知らない。だから、お前がどうしたいかを聞きたい」

 

 ラルトスは目をぱちぱちさせた。そんなふうに聞かれるとは思っていなかったのかもしれない。小皿の木の実を見て、俺を見て、父さんを見て、それから自分の膝へ視線を落とす。

 

『……わからない』

 

 声は小さかった。けれど、そこで終わらなかった。ラルトスは膝の上の手を少し動かし、俺の袖をそっとつまんだ。

 

『……でも、ここに、いる』

 

 父さんは腕を組んだまま、しばらくラルトスを見ていた。ラルトスは袖をつまんだことに気づいたのか、慌てて離そうとして、途中で止める。母さんが小さく笑った。父さんはようやく箸を持ち直した。

 

「なら、それでいい。ユア、お前が連れてきたからには、お前もちゃんと見るんだ。ラルトスも、分からないことは勝手に怖がらずに、まずユアを見る。それで駄目なら俺たちを見る。家で暮らすなら、家のことを少しずつ覚えろ」

 

「うん」

 

 俺は頷いた。隣を見ると、ラルトスも少し遅れて頷く。父さんは小皿を指で示した。

 

「それと、食べろ。見てるだけじゃ腹は膨れんぞ」

 

 ラルトスは木の実を見た。俺が一つ摘まんで食べてみせると、ラルトスも両手で小さな欠片を持ち上げ、前歯で少しだけ齧る。赤い目が一度大きくなった。

 

『……あまい』

 

「だろ」

 

 ラルトスはもう一口齧った。今度は、さっきより早かった。

 

ーー

 

 朝食の後、ラルトスと一緒に庭へ出た。玄関を抜けるだけでもラルトスは一度足を止め、外の明るさに目を細める。朝の庭には草の匂いがあって、土にはまだ少し湿り気が残っていた。昨日の夕方に見た外とは違う。草の葉についた水が光り、塀の向こうでムックルが鳴いている。ラルトスは一歩出て、すぐ足元を確かめた。土。草。小石。洞窟の硬い岩と違って、細い足が少し沈む。

 

『……ひろい』

 

「庭だぞ。山よりは狭いと思うけど」

 

『……でも、ひろい』

 

 ラルトスはそう言って、ゆっくり歩き出した。一歩進んでは止まり、草の葉先が足に触れるとつま先を引っ込める。風が吹けば顔を上げ、木の枝が鳴ればそちらへ赤い目を向ける。俺は少し離れてついていった。急かすと転びそうだし、手を出しすぎるとまた怖がらせるかもしれない。ラルトスは庭の真ん中まで来ると、両手を胸の前で軽く握り、目を閉じた。しばらくそうしてから目を開け、俺の方を見る。

 

『……いっぱい、いる』

 

「ポケモン?」

 

『……うん。ちかくに、いる。こわくないのも、いる』

 

「怖いのもいるのかよ」

 

『……すこし』

 

「言うなよ、そういうの」

 

 俺が顔をしかめると、ラルトスは口元を隠すように指を上げた。笑ったのか、考えただけなのかは分からない。庭の端まで歩いたところで、ラルトスは膝をつく。小さな草の葉を指でつまみ、離す。葉が戻るのを見て、もう一度つまむ。何が気になるのか分からないが、真剣だった。

 

「それ、草だぞ」

 

『……しってる』

 

「本当に?」

 

『……たぶん』

 

「たぶんかよ」

 

 ラルトスは答えず、また草をつまんだ。俺はその隣にしゃがむ。草を触っているだけなのに、ラルトスは何かを確かめているみたいだった。洞窟の岩でも、家の床でもない場所。踏むと沈んで、触ると戻る。ラルトスはもう一度葉を離し、戻った草を見て、小さく頷いた。

 

ーー

 

 午後になると、ラルトスは縁側に座っていた。朝よりは部屋と庭を行き来できるようになっていて、それでも知らない音がするとすぐ俺の方を見る。母さんが洗濯物を干す音には首だけを向け、ガブが庭の端で寝返りを打つと木目をなぞっていた指が止まり、台所から包丁の音が聞こえると、音の回数を数えるみたいに耳を澄ませた。何も起きないと分かると、また縁側の木目へ視線を落とす。

 

 父さんが近づいてきたのは、その時だった。手には木の実が握られている。ラルトスは父さんを見上げ、次に木の実を見る。父さんは縁側から少し離れたところで立ち止まり、いきなり近づかず、木の実を軽く持ち上げた。

 

「食べるか。朝に出したのと同じやつだ。無理に受け取らなくてもいいが、腹が減っているなら置いておく。俺が近づくと落ち着かないなら、そこから取ればいい」

 

 父さんは縁側の上に木の実を置いて、一歩下がった。ラルトスはしばらくそれを見つめる。俺を見る。父さんを見る。木の実を見る。それからそっと手を伸ばし、両手で拾って、小さく齧った。

 

『……あまい』

 

「そうか」

 

 父さんはそれだけ言って、庭の方へ戻っていった。ラルトスは木の実を持ったまま、その背中を見送っている。父さんがガブのところまで戻ると、ガブが片目だけ開け、ラルトスの方を見た。ラルトスは慌てて木の実を胸元に抱えたが、ガブは何もせず、また目を閉じる。

 

「取らねぇよ」

 

『……』

 

「たぶん」

 

『……たぶん』

 

「いや、今のは違う。取らない。ガブは俺のおやつを横取りしたことはあるけど、お前のは取らない」

 

 ラルトスは俺を見た。ガブも片目だけ開けた。俺は少しだけ視線を逸らす。昔、俺の干し肉を半分持っていかれたことはある。でも今それを言うとガブの印象が悪くなる気がした。ラルトスは木の実を見下ろし、もう一口齧る。今度は、ガブを見ながら食べた。

 

ーー

 

 夕方になって、空が赤くなり始めた。俺は縁側に座るラルトスの隣へ腰を下ろす。朝は部屋の中を何度も見回していたラルトスが、今は庭を見ている。風が通るたびに草が揺れ、遠くでムックルが鳴き、ガブは庭の端で丸くなっていた。父さんは道具を片づけ、母さんは台所から夕飯の匂いを運んでいる。ラルトスは木の実の残りを両手で持ったまま、沈みかけた太陽を見ていた。

 

『……ユア』

 

「ん?」

 

『……ここ』

 

 ラルトスは家を見た。玄関、窓、縁側、庭。朝から何度も目で追っていた場所を、もう一度ゆっくり確かめる。

 

『……あたたかい』

 

 小さな声だった。

 

『……こわくない』

 

 俺はすぐには返事をしなかった。ラルトスはこっちを見ていない。ただ、夕日の方を見たまま木の実を握っている。昨日、洞窟で「こないで」と言っていたポケモンが、今はうちの縁側に座っている。父さんからもらった木の実を持って、母さんの作る夕飯の匂いの中で、ガブの近くにいても逃げない。

 

「そっか」

 

 それだけ返すと、ラルトスは小さく頷いた。やがて木の実の最後の欠片を口へ運ぶ。赤い夕日がテンガン山を染めていて、庭の草も、縁側の木目も、ラルトスの横顔も同じ色に沈んでいく。俺は隣に座ったまま、しばらくその景色を見ていた。

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