1話
テンガン山を下りて最初の休憩を取った時、ラルトスはあの石を俺へ差し出した。
丸く磨かれたような表面に、赤と橙の光が薄く混ざっている。山の中で拾ってからというもの、ラルトスは歩いている時も両手で抱え、食事中は膝の上へ置き、眠る時には枕元へ運んでいた。何の石なのかは分からなくても、気に入っていることだけは見れば分かった。
「どうした?」
『……もってて』
「俺が?」
ラルトスは小さく頷き、もう一度石を前へ押し出した。
「でも、これ、お前が見つけたんだろ。ずっと大事にしてたじゃん」
『……いい』
落とすのが怖くなったのかと思い、怪我をしていないか両手を確かめた。傷も腫れもなく、石を持てない理由は見当たらない。それでもラルトスは手を引き、空になった指を握ると、休んでいた岩から立ち上がった。
「本当に預かってていいんだな?」
『……うん』
石を鞄へしまう間も、ラルトスは一度もそちらを見なかった。
テンガン山を越えてから、そんな小さな違いが増えていた。歩く速さも、俺の隣を選ぶことも変わらない。声を掛ければ返事をするし、疲れていないかと聞けば首を振る。ただ、朝は俺より先に荷物のそばで待ち、休憩を取ろうとすれば、まだ歩けると道の先へ顔を向ける。前なら道端の花や見慣れないポケモンを見つけるたびに足を止めていたのに、今は何かへ目を向けても、すぐに歩き出してしまう。
笑わなくなったのも、山を下りてからだった。
「見えてきたぞ」
坂道を下った先に、ヨスガシティの街並みが広がっていた。丸みを帯びた屋根の建物が並び、広い通りの上には色とりどりの旗が渡されている。街の奥には白い壁と高い尖塔を持つ建物が立ち、別の通りでは、花やリボンで飾られた大きな看板が風に揺れていた。クロガネの鉱山とも、コトブキの高い建物とも、ハクタイの古い町並みとも違う。華やかなのに騒がしすぎず、道を歩く人や連れられたポケモンまで、少し身なりを整えているように見える。
『……ジム』
隣から聞こえた声に目を向けると、ラルトスは街並みではなく、通りの先を見つめていた。
「まだ着いたばっかりだろ。先に宿を探して、少しくらい街を見ようぜ」
『……はやく』
ラルトスに急かされるとは思わなかった。勝負が嫌いなわけではないが、自分からすぐに戦いたいと言うことはほとんどない。アイに負けた時だって悔しがってはいたものの、次の街まで道を急ごうとはしなかった。
「そんなに戦いたいのか?」
『……つよく、なる』
「強くなるのは俺も同じだけど、焦っても仕方ないだろ。ジムがどこにあるかも分かってないんだぞ」
ラルトスは何も返さず、小さな指を握ったままヨスガへ続く道を歩き出した。俺の言葉を聞いていないわけではない。それでも、納得した様子もなかった。
街へ入ると、入口近くの広場に人だかりができていた。帽子を被った男が三匹のマネネと一緒に芸を披露し、杖を振るたびに色のついた光が宙へ浮かぶ。少し離れた場所では、毛並みを整えたミミロルが音楽に合わせて跳ね、そのたびに見物人から拍手が起きていた。前のラルトスなら、何をしているのか確かめるまで動かなかったはずだ。
「少し見ていくか?」
『……いい』
「珍しいな。こういうの好きそうなのに」
『……ジム』
「だから、場所もまだ分からないって」
ラルトスは人だかりの向こうへ目を向けたまま動かない。芸を見ているのではなく、通りのどこかにジムの看板がないか探しているようだった。
少し後ろから歩いてきたクチートが、ラルトスの横顔へ視線を向ける。ラルトスも気づいているはずなのに、そちらを見ようとはしなかった。クチートは何もせず、いつもの距離まで下がって俺たちの後ろへ戻った。
広場の端に立つ案内板には、ヨスガジムが街の北側にあることと、今日の午後からポケモンコンテストが開かれることが書かれていた。会場はすぐ近くで、観覧席にはまだ空きがあるらしい。
「コンテストって、ポケモンの技を見せるやつだよな。ジムへ行く前に見てみようぜ。技の使い方なら、バトルの参考になるかもしれない」
『……バトルじゃ、ない』
「だからこそだろ。同じ技でも、違う使い方があるかもしれない。知らないものを見ないで強くなるなんて、たぶん無理だぞ」
ラルトスはしばらく案内板を見上げ、やがて小さく頷いた。興味を持ったようには見えない。俺が行くなら、その間だけ待つと決めたような頷きだった。
コンテスト会場は、ヨスガの中でもひときわ目立っていた。正面にはポケモンをかたどった大きな像が置かれ、入口から続く階段には花びらを模した飾りが並んでいる。中へ入ると天井は高く、丸い舞台を囲むように客席が広がっていた。俺たちが席へ着いて間もなく照明が落ち、重なっていた話し声が静まる。舞台の中央へ一筋の光が降りると、司会の声が会場全体へ響いた。
最初に現れたのは、青い衣装を着た女の人とポッチャマだった。ポッチャマが舞台へ水を吹き上げ、照明を受けた水滴が無数の光を散らす。続いて放たれた冷気が水滴を凍らせ、空中に小さな氷の花を作った。技は相手を倒すためではなく、ポッチャマ自身を綺麗に見せるために使われている。
「すげぇな。同じ技なのに、バトルと全然違う」
『……うん』
ラルトスの返事は短く、舞台を見ている時間より、膝の上で組んだ指へ目を落としている時間の方が長かった。
次の出場者はロゼリアを連れていた。舞い上がった葉の間を縫うように光の玉が走り、最後には一輪の花を描いて弾ける。観客から歓声が上がり、ロゼリアは舞台の中央で優雅に頭を下げた。
「ラルトスなら、どんな技が似合うかな。ねんりきで花びらを浮かせて、その中をテレポートで移動したら面白そうじゃないか?」
『……ジム、いつ?』
「コンテストが終わってから行こう。今から抜けるのも変だろ」
『……うん』
ラルトスの指先に、また力が入った。
テンガン山でマーズのポケモンに追い詰められた時も、ラルトスは最後まで立とうとしていた。技が届かなくても、何度倒されても、俺の声を聞いて前を向いた。それでも勝てなかった。俺も、何もできなかった。
負けたことを気にしているのは分かる。俺だって悔しい。ただ、ラルトスの中に残っているものは、俺が考えていたよりずっと大きいのかもしれない。
何人かの演技が続いたあと、司会の声がわずかに弾んだ。
「続いては、ヨスガが誇るトップコーディネーター! 華麗なるゴーストタイプの使い手、メリッサさんとムウマージ!」
会場の空気が変わった。
舞台を横切った紫色の光の中から、一人の女の人が姿を現す。紫の髪を大きくまとめ、黒と紫を基調にした衣装を身につけていた。服には大きな装飾がいくつもついているのに、本人の動きを邪魔するどころか、歩くたびに後を追って揺れ、舞台の一部として馴染んでいる。隣へ浮かぶムウマージも同じだった。照明を浴びながら、最初からこの場所のすべてを知っているように目を細めていた。
メリッサが片手を上げると、ムウマージの周囲にいくつもの黒い球体が生まれた。
”シャドーボール”。
本来なら相手へ放つはずの技はすぐには飛ばず、ムウマージを囲むように舞台の上を巡っていく。球体が残した影は幾重にも重なり、やがて大きな輪を描いた。ムウマージがその中心を滑り抜けると、影の輪は音もなく弾け、代わりに青紫の炎が舞台を包む。
”マジカルフレイム”。
ムウマージが進む道を照らすように広がり、尾を引きながら次々と形を変えていく。ムウマージが炎の間を泳ぐように飛び、その後ろをメリッサが追う。どちらが技を見せ、どちらが相手を引き立てているのか分からない。人とポケモンが別々に動いているのに、最初から一つの生き物だったように呼吸が揃っていた。
「……すげぇ」
それ以外の言葉が出てこなかった。
クチートの大顎が一度鳴る。
ガチン。
「お前もそう思う?」
クチートは舞台から目を離さず、もう一度短く鳴らした。技の派手さに驚いているというより、ムウマージの動きから何かを読み取ろうとしているように見える。
ラルトスも舞台を見ていた。
シャドーボールでも、青紫の炎でもない。ムウマージがメリッサと視線を合わせ、楽しそうに目を細めた瞬間だけを、じっと見つめていた。
最後にムウマージが舞台の中央へ浮かび、広がっていた炎が一斉に消える。暗闇が訪れた直後、弾けたシャドーボールの欠片が無数の小さな光となって現れ、夜空の星のように二人の周りへ降り注いだ。
会場が揺れるほどの拍手が起こった。
結果発表でメリッサの名前が呼ばれても、驚く人はほとんどいなかった。周囲からは「やっぱりメリッサさんだ」「これで三連覇だ」と声が飛び、メリッサはムウマージと並び、笑いながら観客へ手を振っている。
「あれがコンテストの一番か……」
バトルが強いだけではできない。技を知っているだけでも足りない。ムウマージがどう動けば一番綺麗に見えるのか、どの瞬間に技を出せば、そのポケモンらしさが伝わるのか。全部分かった上で舞台を作っている。
隣へ目を向けると、ラルトスはもう舞台を見ていなかった。
『……ジム』
「分かってる。終わったら行こう」
会場の照明が戻り、観客が立ち始める。俺たちも人の流れに混ざって出口へ向かった。舞台を降りても興奮が残っているのか、前を歩く人たちはムウマージの技やメリッサの動きについて途切れず話している。
「すごかったな、メリッサって人。コンテストだけであれなら、バトルも見てみたいけど」
「それなら、すぐに見られるかもしれないわよ」
背後から聞こえた声に振り返る。
さっきまで舞台に立っていたメリッサが、ムウマージを連れて廊下の壁際に立っていた。衣装はそのままだが、舞台の上で見せていた大きな身振りはなく、面白いものを見つけたように俺たちを眺めている。
「さっきの……メリッサさん?」
「楽しんでもらえたかしら?」
「はい。技の使い方がバトルと全然違ってて、同じポケモンでもあんなことができるんだって驚きました。シャドーボールもマジカルフレイムも、攻撃に使う技だと思ってたから」
「あら、嬉しいわ。技は使い方次第で、強さにも美しさにも変わるもの。ムウマージが一番輝ける形を、ワタシたちで考えたのよ」
ムウマージがメリッサの周りを一度回り、小さく頭を下げる。舞台を降りたあとでも、その動きには見られることを楽しむ余裕があった。
「でも、どうしてすぐ見られるんですか?」
「アナタたち、ヨスガジムへ行くのでしょう?」
「はい。ジムリーダーに挑戦しようと思ってます」
「それなら、ワタシが相手になるもの」
「……え?」
メリッサは胸へ片手を添え、楽しそうに笑った。
「ワタシはメリッサ。コンテストにも出るけれど、ヨスガジムのジムリーダーでもあるの」
「あれがジムリーダー……コンテストまでできるのかよ……」
「どちらも、ポケモンと心を合わせることに変わりはないわ。見せ方が少し違うだけ」
舞台でムウマージと動いていた姿を思い返す。あれだけの演技をしながら、ジムでは挑戦者と戦う。俺には、どちらか一つでもまともにできる気がしなかった。
「ちょうどよかった。今から挑戦してもいいですか?」
メリッサの視線が俺から離れ、ラルトスへ向かった。
ラルトスもまっすぐ見返している。怯えてはいない。体調が悪そうにも見えない。それでもメリッサはすぐに答えず、頭の先から足元まで確かめるのではなく、表情の奥へ手を伸ばすように目を細めた。
「アナタは、今すぐバトルをしたいの?」
『……したい』
「どうして?」
『……つよく、なりたい』
「強くなって、何をしたいのかしら?」
ラルトスの口が止まった。
メリッサは答えを急かさず、今度は俺へ顔を向けた。
「アナタは?」
「俺も強くなりたいです。酷く負けて、このままじゃ駄目だって分かったから。次に同じ相手と会った時は、何もできないまま終わりたくない」
「そう」
短く答え、メリッサはもう一度ラルトスを見た。
ラルトスは小さな体をまっすぐ立たせ、両手を強く握っている。迷っているようには見えない。戦えと言われれば、今すぐにでも前へ出るはずだ。
それなのに、メリッサはゆっくり首を横へ振った。
「ごめんなさい。今のアナタたちとは、バトルをしたくないわ」
「なんでですか?」
「バトルは勝つためのもの。でも、それだけではないの。相手を見て、パートナーを見て、技を交わす時間を一緒に楽しむ。ワタシにとっては、それも大切なことよ」
「楽しむ?」
「ええ。今のその子は、勝つことしか見ていない。いいえ、勝つことさえ見えていないのかもしれないわね」
ラルトスの肩が小さく揺れた。
「どういう意味ですか?」
「それをワタシが教えてしまったら、アナタたちが見つけるはずの答えを奪ってしまうでしょう?」
メリッサは少しだけ悪戯っぽく目を細めたが、その視線はラルトスから離れなかった。
「また明日、ジムへいらっしゃい。その時、ワタシが一緒に踊りたいと思えたなら、喜んで相手をするわ」
『……今じゃ、だめ?』
ラルトスの声は、いつもより細かった。
「今のアナタは、誰かと戦おうとしていないもの」
メリッサはそれだけ言い残し、ムウマージと並んで廊下の向こうへ歩いていった。
俺は追いかけることもできず、その場でラルトスを見る。
「ラルトス」
『……だいじょうぶ』
顔を上げたラルトスは、やっぱり笑っていなかった。