メリッサと別れてから、ラルトスは一度も口を開かなかった。
コンテスト会場を出ると、外は夕暮れに染まっていた。通りの上に渡された色とりどりの旗が風を受けて揺れ、会場から出てきた人たちは、ムウマージの演技や結果発表の話をしながら街の中へ散っていく。俺たちもその流れに混ざって歩いたが、ラルトスは舞台のことにも、メリッサの言葉にも触れず、俺の隣で俯いたまま足を動かしていた。
「……腹減ってないか?」
『……へいき』
「宿を見つけたら何か食べようぜ。今日は結構歩いたし」
『……うん』
返事は返ってくる。ただ、それだけだった。
少し後ろではクチートがいつもの距離を保っている。人が近づくたびに視線を向け、俺たちから離れすぎないよう歩幅を合わせていたが、何度かラルトスへ目を向けていた。ラルトスは気づいていないのか、気づいていても見ないようにしているのか、前だけを向いていた。
メリッサの言葉が頭から離れない。
【今のアナタは、誰かと戦おうとしていないもの】
あれがどういう意味なのか、俺にはまだ分からなかった。ラルトスは戦おうとしている。むしろ、今までよりずっと強く戦おうとしている。ヨスガへ着いてから何度もジムを急かし、コンテストを見ている間も早く勝負がしたいと言っていた。戦う気がないようには見えない。
でも、メリッサはラルトスを一目見て断った。
俺には見えていないものが、あの人には見えたのだろうか。
宿を見つけて部屋を取り、夕食を済ませても、ラルトスの様子は変わらなかった。普段より食べる量が少なく、木の実を半分ほど残したまま、窓際へ座って外を眺めている。通りでは街灯が一つずつ灯り始め、昼間より落ち着いた光が窓へ差し込んでいた。
「もういらないのか?」
『……うん』
「嫌いなやつだった?」
『……ちがう』
「なら、あとで食べろよ。腹減って眠れなくなるぞ」
ラルトスは頷いたが、残した木の実へ手を伸ばさなかった。
クチートは部屋の隅で背中を壁へ向け、持っていた木の実をゆっくり齧っている。普段と変わらないように見えたが、大顎は閉じたままで、ラルトスが動くたびに耳だけがわずかにそちらを向いていた。
何か聞いた方がいい。
そう思っても、何を聞けばいいのかが分からなかった。
テンガン山で負けたことが悔しいのか。メリッサに断られたことが嫌だったのか。早く強くなりたいのか。どれも間違ってはいない気がする。それでも、どれか一つを聞いてしまえば、ラルトスの中にあるものを勝手に決めつけることになりそうだった。
「明日、もう一回ジムへ行こう」
窓際の背中へ声を掛ける。
『……うん』
「メリッサが何を見てたのか、俺にはまだ分からない。でも、今日のまま行っても、また断られるかもしれない」
ラルトスの肩がわずかに動いた。
「だから、明日までに考えよう。俺も考えるからさ」
『……わかった』
返事はしたものの、ラルトスは振り返らなかった。
俺は鞄を開き、荷物の整理を始めた。取り出した水筒の下から、赤と橙の光が混ざった丸い石が覗く。ラルトスがテンガン山で拾い、あれほど大切にしていた石だ。預かってから一度も返してほしいと言われていない。
石を掌へ乗せる。
宿の明かりを受けても、何の石なのかは分からなかった。ただ、ラルトスが何度も取り出して眺め、眠る時には枕元へ置いていた姿は覚えている。
「あんなに気に入ってたのにな」
聞こえないくらいの声で呟き、石を鞄の奥へ戻した。
夜が深まり、部屋の明かりを消しても眠気は来なかった。窓から差し込む月明かりが床へ細い形を作り、遠くから聞こえていた街の音も少しずつ減っていく。クチートは壁際で体を丸め、ラルトスは俺の隣に敷いた毛布へ入っていた。
いつもなら、ラルトスの呼吸はすぐに一定になる。
今夜は違った。
何度も寝返りを打ち、毛布が擦れる音が暗い部屋へ小さく響いている。目を閉じたまま待ってみたが、その音は止まらなかった。
「眠れないか?」
少し間があり、頭の奥へ声が届く。
『……うん』
「俺も」
上体を起こして壁へ背中を預ける。ラルトスも毛布の中から顔を出したが、俺を見ようとはせず、膝を抱えて座った。
「メリッサに断られたこと、気にしてる?」
『……ちょっと』
「俺も気になる。誰かと戦おうとしてないって、どういう意味なんだろうな。お前はあんなにジムへ行きたがってたのに」
『……』
「俺には、ちゃんと戦おうとしてるように見える」
ラルトスの指が、膝の上で強く組まれた。
『……ちがう』
「え?」
『メリッサの、いったこと。たぶん、あってる』
初めて、ラルトスがこちらを見た。月明かりに照らされた目は揺れていたが、涙は落ちていない。
「何が違うんだ?」
すぐには答えが返ってこなかった。
ラルトスは何度か口を開きかけ、そのたびに閉じた。短い言葉しか使わないラルトスが、頭の中にあるものをどう伝えればいいのか探している。
急かさず待つ。
やがて、ラルトスの声が途切れながら届いた。
『……テンガンざんで』
「ああ」
『……ぜんぜん、だめだった』
マーズの顔が浮かぶ。
こちらの技はほとんど届かず、相手の攻撃を受け止めることさえできなかった。クチートもラルトスも倒れ、俺は指示を出すことしかできないまま、最後まで何一つ変えられなかった。
「俺もだよ。何をすればいいのか、途中から分からなくなった」
『……でも』
「でも?」
『ユアは、トレーナーだから』
「それがどうした?」
『わたしが、つよかったら』
ラルトスは一度言葉を切り、俯いた。
『ユアは、まけなかった』
「そんなわけないだろ」
思わず返すと、ラルトスの肩が縮こまった。声が少し強くなっていたことに気づき、息を吐いてから続ける。
「俺の指示だって全然駄目だった。相手のことも見えてなかったし、お前たちがどこまで動けるかも分かってなかった。ラルトスだけのせいじゃない」
『……でも、たたかうのは、わたし』
「戦うのはお前でも、戦わせてるのは俺だろ。二人で負けたんだよ」
ラルトスは首を振った。
『……いや』
今まで聞いたことのない、はっきりした拒み方だった。
『ユアは、いっしょにいてくれた。こわくても、にげなかった。わたしが、もっとつよかったら、ユアをまもれた』
「守るって……俺はお前に守ってもらうためだけに一緒にいるんじゃないぞ」
『……しってる』
「なら」
『でも』
ラルトスが顔を上げる。
『また、まけたら』
そこで声が止まった。
組んだ指が震えている。
『また、なにもできなかったら』
ラルトスは息を吸い、細い声を押し出した。
『ユアに、もうしわけない』
ようやく、メリッサの言葉が少しだけ分かった気がした。
ラルトスが見ていたのは相手じゃない。
勝つことでもない。
負けた時の俺の顔と、その先にある自分への責めだけを見ていた。
だからコンテストも、街の景色も、あれほど大切にしていた石も見えなくなった。楽しむことより、早く強くなることだけを選び、次の勝負で失敗しないために急いでいた。
「俺、そんなこと言ったか?」
『……いってない』
「負けたら申し訳ないって思ってほしいって、一度でも言った?」
『……いってない』
「じゃあ、勝手に決めるなよ」
ラルトスが目を伏せる。
責めるつもりはなかった。ただ、その考えだけは否定したかった。
「俺も悔しかった。テンガン山で何もできなかったの、今でも腹立つし、次にあいつらと会ったら絶対に勝ちたい。でも、それはラルトスに勝たせてもらいたいって意味じゃない」
『……?』
「強くなるなら、一緒だろ?」
ラルトスの目がわずかに開いた。
「お前だけが強くなって、俺を勝たせるんじゃない。俺も相手を見る。指示の出し方も覚える。クチートだっている。みんなで強くなって、次はみんなで勝つんだよ」
『……いっしょ』
「ああ。最初からそうだっただろ。テンガン山で会った時も、クロガネを出た時も、アイに負けた時も。俺がお前を連れてきたんじゃない。俺たち、一緒に旅してるんだろ?」
ラルトスは何も答えなかった。
代わりに、膝の上で組んでいた指が少しずつほどけていく。
「それにさ、負けるたびに申し訳ないって思われたら、俺も困る。これから絶対に一回も負けないなんて無理だろ。俺たちより強いやつなんて、まだいくらでもいる」
『……また、まけても?』
「悔しいに決まってる。でも、負けたら次に勝てるように考えればいい。アイに負けた時だって、旅をやめようとは思わなかっただろ?」
『……うん』
「今回だって同じだよ。相手がちょっと強すぎただけだ。次は追いつく」
『……つぎ』
「次がある。だから、今すぐ全部できなくてもいい」
ラルトスは俯いたまま、自分の手を見つめていた。
『……わたし』
声がまた少し細くなる。
『ユアと、いっしょに、つよくなりたい』
「うん」
『ユアを、まもりたい』
「それも嬉しい。でも、俺もお前を守りたい」
『……ふたりとも?』
「そう。どっちかだけじゃない」
ラルトスは何度か瞬きをし、それから小さく頷いた。
部屋の隅で布が擦れる音がした。
クチートが起き上がり、俺たちの方へ歩いてくる。眠っていたと思っていたが、どこから聞いていたのかは分からない。大顎を閉じたままラルトスの横へ座り、手に持っていた木の実を見下ろした。
少し齧った跡がある、自分の木の実だった。
クチートはそれを両手で掴み、力を込める。柔らかな実が二つに割れ、一方をラルトスの前へ置いた。
ガチッ。
短く大顎が鳴る。
ラルトスは目の前の木の実と、隣に座ったクチートを交互に見た。
『……くれるの?』
クチートは答えず、残った半分を自分の口へ運ぶ。
ガチン。
今度の音は、少しだけ強かった。
「食べろってさ」
『……わかってる』
ラルトスが両手で木の実を持ち上げる。少し迷ってから一口齧り、ゆっくり飲み込んだ。
『……おいしい』
クチートの耳が一度だけ動く。
『ありがとう』
ラルトスがそう言っても、クチートはそちらを見なかった。ただ隣から離れず、自分の分を同じ速さで食べ続けている。
ラルトスも、もう一口齧った。
笑ってはいない。
それでも、ずっと持ち上がっていた肩が少し下がり、強く握っていた指は木の実を潰さない程度に緩んでいた。
「残してた分も、明日の朝に食べろよ」
『……うん』
「それから、あの石」
ラルトスが顔を上げる。
「返そうか?」
鞄を指すと、ラルトスはしばらく考え、小さく首を振った。
『……いまは、もってて』
「分かった。なくさないようにしとく」
『……おねがい』
預けた理由は、まだ聞かなかった。
ただ、今度の声は石を手放した時よりも少しだけ柔らかかった。
クチートが木の実を食べ終え、元いた場所へ戻ろうと立ち上がる。その袖をラルトスがそっと掴んだ。
クチートが振り返る。
『……ここに、いて』
クチートはしばらくラルトスを見下ろし、何も言わず、その場へ座り直した。
三人で同じ場所にいるには少し狭かったが、誰も動こうとはしなかった。
窓から差し込む月明かりが、ラルトスとクチートの間へ落ちている。ラルトスは木の実を食べ終えると、その種を丁寧に包みの上へ置き、毛布へ戻った。クチートも壁際へ戻らず、ラルトスのすぐ横で体を丸める。
「明日、もう一回行こう」
『……うん』
「今度はメリッサに、戦いたいって思わせようぜ」
ラルトスはしばらく黙り、それから俺を見た。
『……ユア』
「ん?」
『いっしょに、たたかって』
「ああ。最初からそのつもりだよ」
ラルトスは毛布へ顔を半分埋めた。
『……おやすみ』
「おやすみ、ラルトス」
クチートの大顎が、暗闇の中で小さく鳴る。
ガチッ。
「クチートも、おやすみ」
今度は返事の代わりに、ラルトスの呼吸が少しずつ一定になっていった。笑顔はまだ戻らないけど、それでも、眠りについたラルトスの手は、もう何も握りしめていなかった。