翌朝、目を覚ますと、ラルトスは窓際に座っていた。
昨夜はなかなか眠れなかったはずなのに、俺より先に起きている。窓の外ではヨスガの街が少しずつ動き始め、店の前を掃く音や、石畳を進む荷車の音が部屋まで届いていた。ラルトスは膝の上へ両手を置き、その様子を静かに眺めている。
「おはよう」
『……おはよう』
返ってきた声はまだ小さい。ただ、昨日の朝とは少し違った。起きてすぐ荷物の前へ立ち、出発を急かすような硬さがない。
壁際を見ると、クチートはすでに目を覚ましていた。背中をこちらへ向けて座っているが、大顎の内側から木の実の種が一つ覗いている。昨夜ラルトスへ半分渡したものと同じ種類だった。
「二人とも早いな」
クチートの大顎が短く鳴る。
ガチッ。
ラルトスもそちらを見た。クチートは振り向かず、種を大顎の奥へ隠す。昨夜のことをなかったことにするつもりなのかもしれない。
「腹減ってる?」
『……ちょっと』
「なら、昨日残した分も食べないとな」
鞄から包みを取り出し、残していた木の実を渡す。ラルトスは受け取ると、しばらく見つめてから小さく齧った。昨日は半分も食べられなかったのに、今日は一口ずつ時間をかけながらも、最後まで残さなかった。
笑ってはいない。
それでも、木の実を食べ終えたあと、口元へついた汁を拭う動きには、昨日までのような焦りがなかった。
「ジム、行くか?」
ラルトスはすぐには答えず、窓の外から俺へ視線を戻した。
『……うん』
「今すぐじゃなくてもいいぞ」
『だいじょうぶ』
「本当に?」
『……ユアと、いっしょに、たたかう』
その言葉を聞いて、ようやく胸の奥に引っかかっていたものが少し軽くなった。
「ああ。今日は三人で戦おう」
クチートがこちらを見る。
「もちろん、お前もな」
ガチン。
昨日より強い音が返ってきた。
宿を出ると、朝のヨスガには昨日とは違う静けさが残っていた。コンテスト会場の前にはまだ人だかりもなく、通りへ渡された旗だけが風に揺れている。花屋が店先へ色とりどりの鉢を並べ、散歩中のエネコが道端の花へ鼻を近づけていた。
昨日のラルトスなら、見向きもしなかった光景。
だけど、今日は花屋の前で一度足を止め、エネコがくしゃみをしたのを見て、小さく首を傾げた。
「気になる?」
『……ちょっと』
「帰りに見ようぜ。勝っても負けても」
ラルトスは何も言わなかったが、今度はすぐに歩き出さず、エネコが飼い主に抱き上げられるまで見送っていた。
ヨスガジムは街の北側に建っていた。コンテスト会場ほど大きくはないが、入口の上には紫色の布が垂れ、その中央へゴーストタイプを思わせる印が描かれている。扉を開けると、外の明るさが一度に途切れた。中は薄暗く、床へ細い灯りが並んでいる。奥へ続く通路の両側には黒い幕が垂れ、風もないのにゆっくり揺れていた。コンテスト会場の華やかさとは違う。それでも、ただ怖がらせるための暗さではない。どこへ目を向けさせるかまで考えられているような空間だった。
「昨日の舞台と、ちょっと似てるな」
『……うん』
灯りを辿って進むと、広いバトルフィールドへ出た。床は円形に区切られ、周囲を囲む壁には青紫の炎を模した照明が浮かんでいる。正面の高い場所では、メリッサが腕を組んで待っていた。昨日の舞台衣装とは少し違うが、黒と紫を基調にした服は変わらず、ジムの薄暗さの中でもすぐに見つけられる。
「来たのね」
メリッサは俺たちを順番に見たあと、ラルトスで視線を止めた。
「おはようございます。もう一度、挑戦しに来ました」
「そのようね」
メリッサはすぐに受けるとも断るとも言わず、ラルトスをじっと見ている。ラルトスも逃げずに見返していた。昨日のように拳を強く握ってはいない。両手は体の前へ自然に下ろされ、呼吸も落ち着いている。
「昨日とは、少し違う顔をしているわね」
「分かるんですか?」
「ええ。ポケモンはとても正直だもの。隠しているつもりでも、目や姿勢や呼吸に全部出てしまうわ」
ラルトスが少しだけ俺を見た。
「何を話したのかは聞かないんですか?」
「聞く必要があるかしら? ワタシが知りたいのは答えそのものではなく、アナタたちが自分で見つけたかどうかよ」
メリッサはフィールドへ降り、昨日コンテストで見せた時と同じように片手を差し出した。
「昨日は一緒に踊れないと言ったけれど、今日は楽しめそうね。勝ちたいだけではなく、誰と戦うのかが見えている顔をしているわ」
『……たたかいたい』
「どうして?」
昨日と同じ質問を、メリッサは投げかけた。ラルトスは少し考え、俺とクチートを順番に見た。
『みんなで、つよくなりたい』
言葉はまだ途切れがちだった。それでも、昨日のように強さだけを見つめた声ではない。
メリッサの口元がゆっくり上がる。
「それなら、喜んでお相手するわ」
フィールドの端にいた審判が中央へ進み、ルールを読み上げた。使用できるポケモンは二体。どちらかの手持ちがすべて戦闘不能になった時点で決着。交代は挑戦者側のみ認められる。
俺はクチートとラルトスを見る。
「最初はクチート、頼めるか?」
クチートが前へ出る。
ガチン。
指示を待っていたというより、俺が自分を選ぶと分かっていたような歩き方だった。
「ラルトスは後ろで見ててくれ」
『……うん』
ラルトスはフィールドの端へ下がった。昨日までなら、自分が先に出たいと言ったかもしれない。今日はクチートへ視線を向け、何も言わずに送り出した。
「最初からあの子ではないのね」
「今日は三人で戦うって決めたので。誰が先でも同じです」
「あら、いい答え」
メリッサは腰のボールを一つ手に取り、軽く回してからフィールドへ放った。
「それなら、まずはこの子と踊ってちょうだい。ゴース、カモン!」
白い光が薄暗いフィールドへ広がり、その中から黒い球体のようなポケモンが現れた。周囲を紫色のガスが包み、大きな目と口だけが闇の中へ浮かんでいる。
「ゴース……」
図鑑で見たことはある。体の大半がガスでできているゴーストタイプ。触れようとしてもすり抜け、壁や床まで通り抜けると書かれていた。
審判が片腕を上げる。
「それでは、ヨスガジム公式戦。挑戦者ユア対ジムリーダー・メリッサ。バトル開始!」
「ゴース、さいみんじゅつ!」
開始と同時に、ゴースの目が怪しく光った。
「クチート、目を見るな! 横へ!」
クチートは顔を逸らしながら跳び、光の正面から外れる。着地した瞬間にはすでに体の向きを変え、ゴースの位置を確認していた。
「そのまま“かみつく”!」
クチートが床を蹴る。大顎が開き、ゴースの体を捉えようと振り下ろされた…だけど、手応えはなかった。大顎が紫のガスを裂き、ゴースの姿が霧のように崩れる。
「消えた?」
「ウフフ。ゴーストとのダンスでは、見えているものばかり追っていては駄目よ」
メリッサの声と同時に、クチートの背後でガスが集まった。
「後ろだ!」
「ゴース、“したでなめる”!」
長い舌が伸びる。クチートは振り向きながら腕で受けたが、触れた場所から体が一瞬固まり、片膝をついた。
「クチート!」
すぐに立ち上がったものの、左腕の動きが少し鈍い。舌で触れられた影響が残っているらしい。
「相手は姿を消したんじゃない。ガスを散らして移動してる」
ゴースは再び距離を取り、笑うように口を広げた。正面から追えば、また同じことをされる。
ナタネとの戦いが頭へ浮かぶ。
【見ているだけで、中身を見ていない】
あの時の俺は、クチートの大顎や力ばかりを見ていた。でも今は違う。クチートはゴースを追わず、フィールドの中央で足を止めている。目だけを動かし、周囲のガスの流れを見ていた。
俺へ視線が向く。
ほんの一瞬。
「待とう」
クチートは頷き、自身の周りへ集中力を注いだ。
「攻めないのかしら?」
「ええ、まだね」
「待っているだけでは勝てないわよ。ゴース、もう一度“さいみんじゅつ”!」
ゴースの姿がガスへ溶け、青紫の照明の前を、薄い影が横切る。
「クチート、右じゃない」
クチートの耳が動く。床近くのガスは右へ流れている。それなのに、クチートの髪だけが左からの風でわずかに揺れた。
「見えた、左上だ!」
クチートが踏み込み、振り向かないまま大顎を頭上へ振り上げる。
ガチン!
現れかけたゴースの体を、大顎が挟み込んだ。
「ゴォッ!?」
「見つけた! そのまま床へ叩きつけろ!」
クチートが腰を落とし、大顎を振り下ろす。ゴースの体がフィールドへぶつかり、紫のガスが大きく弾けた。
「まだよ! ゴース、“ナイトヘッド”!」
倒れたままゴースの目が赤く光る。黒い影がクチートへ伸びた。
「離れろ!」
クチートは大顎を開き、後ろへ跳ぶ。影が足元をかすめ、床へ黒い跡を残した。ゴースも浮かび上がる。さっきまでの余裕は消え、輪郭を作るガスが乱れていた。
「今度は逃がすな。“おどろかす”!」
クチートが大顎を大きく開く。
ガチン!
フィールド全体へ響いた音に、ゴースの体が跳ね、動きが一瞬止まる。
「続けて“かみつく”!」
クチートが距離を詰め、今度は正面から大顎でゴースを捉えた。黒い体へ牙が食い込み、ゴースが苦しそうに声を上げる。
「振り払って!」
メリッサの指示でゴースが体を揺らすが、クチートは離さない。足を床へ踏ん張り、大顎へさらに力を込める。
「そのまま押し切れ!」
大顎が閉じると、ゴースの体を包んでいたガスが一気に散り、力を失った本体が床へ落ちた。
「ゴース、戦闘不能! クチートの勝利!」
審判の声が響く。
「やった!」
クチートが大顎を開き、ゴースを放す。呼吸は少し荒いものの、まだ立てる。俺の方へ顔を向けると、大顎が一度だけ鳴った。
ガチッ。
「ちゃんと見えてたな」
クチートは当然だと言うように前へ向き直った。フィールドの端では、ラルトスが両手を胸元へ寄せている。
『……クチート、すごい』
クチートの耳がわずかに動いたが、振り返りはしなかった。
メリッサはゴースをボールへ戻すと、手の中のボールへ小さく礼を言った。
「メルシー、ゴース。よく踊ってくれたわ」
それから俺とクチートを見る。
「素敵だったわ。姿を追うのではなく、相手が動かしたものを見たのね」
「前に、見てるだけじゃ駄目だって教えられたので」
「それをもう自分のものにしている。アナタとクチート、とてもいいパートナーね」
クチートは何も答えなかった。けれど、俺の前へ立つ位置が、ほんの少しだけ近くなった。
メリッサは次のボールを取り出すと会場の空気が変わった。
昨日、コンテストの舞台で見たボールだ。
「次は、この子よ」
メリッサが頭上へ放る。
「ムウマージ、カモン!」
白い光の中から、紫色の影が浮かび上がった。大きな帽子のような頭、赤い宝石、細く広がる体。昨日の舞台で青紫の炎をまとい、メリッサと楽しそうに踊っていたムウマージが、今度はクチートの正面へ降り立つ。
クチートが大顎を開く。
ラルトスが小さく息を呑んだ。
ムウマージは昨日と同じように笑っていた。