ムウマージがフィールドへ降り立つと、昨日コンテストで見た時とは違う空気が広がった。青紫の炎をまとい、メリッサと楽しそうに舞っていた姿は変わらない。それでも今は、観客へ向けていた笑みをクチートへ向け、細められた目は大顎の動きも足の位置も見落とさない。
「クチート、まだいけるか?」
クチートはゴースの舌が触れた左腕を一度振り、床へ大顎を打ちつけた。
ガチン。
「分かった。ただし無理はするなよ。危ないと思ったら、俺が戻すからな」
クチートは返事をせず、ムウマージへ大顎を向け直した。まだ戦えることを、言葉より分かりやすく示している。
「ゴースとのダンスで、ずいぶん疲れているようだけれど、本当に交代しなくていいのかしら?」
「こいつがまだ戦うって言ってます。それに、俺もクチートなら届くと思ってる」
「あら、素敵ね。パートナーを信じられることは、強い技を覚えるより大切かもしれないわ」
メリッサが片手を掲げると、ムウマージの前へ黒い球体が生まれた。
「ムウマージ、“シャドーボール”!」
「横へ!」
クチートが床を蹴り、放たれた球体の外側へ回り込む。シャドーボールは背後で弾けたが、足を止めず、そのままムウマージとの距離を詰めた。
「“かみつく”!」
大顎が横から閉じる。ムウマージはわずかに浮き、牙の間を抜けようとした。
「閉じ切るな、引っかけろ!」
クチートが首をひねる。閉じかけた牙の先がムウマージの裾を捉え、浮かんでいた体を崩した。
「そのまま床へ!」
大顎が振り下ろされる。ムウマージは体を霧のように揺らし、床へ叩きつけられる直前で牙から抜けた。重い音だけが響き、クチートの大顎が床を砕く。
「いい判断よ。でも、捕まえるだけでは終わらないわ。ムウマージ、“あやしいひかり”!」
淡い光の球がクチートを囲む。
「目を閉じろ! 俺の声だけ聞け!」
クチートが瞼を伏せる。光は左右から回り込み、視界へ入り込もうと動き続ける。
「右へ二歩。止まって、後ろ!」
俺の声に合わせてクチートが進む。二歩目で足を止め、体ごと後ろへ向き直る。
「“おどろかす”!」
ガチン!
開いた大顎が空気を震わせ、背後へ現れたムウマージの体が一瞬強張った。行ける。ナタネから学んだ事が、今生きてる!
「今だ、“かみつく”!」
クチートが飛び込み、大顎でムウマージを挟み込む。紫色の体へ牙が食い込み、ムウマージが甲高い声を上げた。
「離すな!」
「ムウマージ、落ち着いて。“マジカルフレイム”!」
その技名を聞いた瞬間、昨日の舞台が頭へ浮かんだ。ムウマージの周囲を飾り、進む道を照らしていた青紫の炎。同じ炎が、今はクチートの大顎の内側で生まれた。
「クチート、離れろ!」
大顎が開くより早く、炎が弾けた。
青紫の光がクチートを包み、焼ける音と一緒に大きく膨らむ。クチートはムウマージを放して床へ転がり、炎の外へ逃れたものの、片膝をついたまま動かなかった。服の端から細い煙が上がり、開かれた大顎も小さく震えている。
「クチート!」
呼びかけると、クチートは片腕を床へつき、ゆっくり立ち上がった。ムウマージへ向けた牙はまだ閉じていない。それでも右脚に力が入らず、一歩踏み出しただけで体が傾いた。
「もういい、戻ってこい」
クチートが俺を見る。
「ゴースを倒して、ムウマージにも届いた。十分だ。あとは俺たちに任せろ」
クチートはすぐには頷かなかった。ムウマージを睨んだまま、大顎を一度だけ閉じる。
ガチッ。
いつもより小さな音だった。
「ありがとう」
ボールを向けると、クチートはようやく力を抜き、赤い光へ包まれた。
「クチート、戦闘不能!」
審判の声が響く。手の中へ戻ったボールは熱を持ち、表面へ指を置くと、内側から短い音が返ってきた。
ガチッ。
「ちゃんと見てろよ。三人で戦うんだからな」
腰へボールを戻し、ラルトスを見る。呼ぶ前から、ラルトスは前へ出ていた。倒れたクチートがいた場所を見つめ、そこからムウマージへ視線を移す。昨日コンテストで笑っていた相手が、今は正面へ浮かんでいる。
「いけるか?」
『……うん』
「怖くない?」
ラルトスは少しだけ黙り、ムウマージを見上げた。
『……こわい。でも、たたかいたい』
「分かった。一緒にいこう」
『……うん』
ラルトスがフィールドの中央へ進む。メリッサはムウマージの様子を確かめながら、楽しそうに目を細めた。
「昨日よりいい目になったわ。でも、この子は簡単には踊らせてくれないわよ。ムウマージ、“シャドーボール”!」
三つの黒い球体が現れる。
「全部止めるな! 一つだけ“ねんりき”で逸らせ!」
ラルトスの目が淡く光る。右端のシャドーボールが軌道を変え、中央の球体へぶつかった。二つが空中で弾け、残った一つだけが正面から迫る。
「左へ!」
ラルトスが跳ぶ。球体は足元をかすめ、床で弾けた黒い波に押されて体勢を崩す。
「そのまま“チャームボイス”!」
ラルトスの声がフィールドへ広がり、音の波がムウマージの体を後ろへ押した。
「届いた!」
「ええ。でも浅いわ。“あやしいひかり”!」
ムウマージの宝石が赤く光り、淡い光の球がラルトスを囲む。
「俺を見ろ!」
ラルトスが振り返る。
「前へ三歩。二歩目で右、そのあとテレポート!」
俺の声に合わせて走り出し、二歩目で方向を変える。光が追ってきた瞬間、ラルトスの姿が消え、ムウマージの背後へ現れた。
「“ねんりき”で叩き落とせ!」
淡い光がムウマージを包む。ラルトスが両手を振り下ろすが、紫色の体は空中でわずかに揺れただけだった。
「その力では足りないわ。“マジカルフレイム”!」
青紫の炎がムウマージの周囲から噴き上がり、ねんりきの光を押し返す。
「離れろ!」
ラルトスが目を閉じる。テレポートするより先に炎が足元へ届き、小さな体を弾き飛ばした。
「ラルトス!」
床を何度も転がり、うつ伏せのまま止まる。しばらく動かなかった。やがて小さな手が床を掴み、震える腕で体を起こす。
『……まだ』
「無理するな。きつかったら戻っていい」
『……だいじょうぶ』
その言葉に、前の日までの硬さが混じっていた。大丈夫だから戦えるのではない。大丈夫でなければならないと、自分へ言い聞かせている声だった。
「ラルトス、俺を見ろ」
ラルトスはムウマージから目を離さない。
「ラルトス!」
強く呼ぶと、ようやくこちらを見た。
「また一人で勝とうとしてるだろ」
『……でも、クチートが』
「クチートが繋いでくれた。だから俺たちが続く。でも、全部お前が背負うって意味じゃない」
『……わかってる』
「本当に?」
ラルトスの口が止まる。メリッサは攻撃を急がず、俺たちを見ていた。ムウマージもいつでも技を放てる位置へ浮かんだまま、ラルトスが顔を上げるのを待っている。
『……かちたい』
「俺もだ」
『クチートの、ぶんも』
「それも同じ。でもここにいるのはお前だけじゃない。俺がいる。クチートもボールの中で見てる」
腰のボールから、小さな音が響いた。
ガチッ。
ラルトスの耳が動く。
「聞こえたろ?」
『……うん』
「三人で戦おう。昨日、そう決めただろ」
ラルトスは目を閉じた。
テンガン山の冷たい岩肌。
まだ小さかった俺の前へ立ち、コドラを見上げた背中。
クロガネの家で、初めて同じ食卓を囲んだ夜。
アイに負けて、悔しかった初めてのバトル。
ソノオの花畑で頭へ乗せた花冠。
少し離れた場所から俺たちを見ていたクチート。
雨の洋館。
隣に座ったクチートが差し出した、半分の木の実。
【強くなるなら、一緒だろ?】
ラルトスが目を開く。
俺を見る。
『……ユア』
「いるよ」
『クチートも』
「いる」
『わたし、ひとりじゃない』
「ああ」
呼吸がゆっくり整っていく。傷が消えたわけでも、ムウマージとの差がなくなったわけでもない。それでも、握りしめられていた指が開き、肩から余計な力が抜けた。
「ようやく、ワタシたちを見てくれたわね。なら続きを始めましょう。ムウマージ、“シャドーボール”!」
「ラルトス、“ねんりき”!」
飛んできた球体を正面から止めず、横へ力を加える。シャドーボールは肩のすぐそばを通り、背後で弾けた。
「前へ!」
ラルトスが走る。
「“マジカルフレイム”!」
炎が扇状に広がる。
「全部避けようとするな! 隙間を見ろ!」
揺れる火柱の間へ飛び込み、服の端を熱に焦がされながらも足を止めない。
「“チャームボイス”!」
至近距離から放たれた声がムウマージを揺らす。今度は浅くない。紫色の体が大きく後退し、笑みが消えた。
「いいわ! もう一度“マジカルフレイム”!」
ムウマージが上昇し、頭上から炎を降らせる。
「テレポート!」
ラルトスの姿が消えた。ムウマージが背後を振り返る。だがそこにはいない。
「ムウマージ!下よ!」
ラルトスは真下へ現れ、両手を上へ向けていた。
「“ねんりき”!」
淡い光がムウマージを包み、天井へ押し上げる。ムウマージが右へ体を傾け、力から抜けようとする。
「ムウマージの力に逆らうな!右へ投げろ!」
ラルトスが腕を振り、ムウマージを壁際へ放る。完全には叩きつけられなかったが、紫色の体が空中で何度も回り、壁の手前でようやく止まった。
「届いてるぞ!」
『……うん』
ラルトスが俺を見る。次にどう動けば一緒に届くのか。それだけを待っている目だった。
「ムウマージ、決めるわよ。“シャドーボール”!」
これまでより大きな球体が一つ生まれ、周囲の光まで吸い込むように膨らんでいく。
「横へ!」
放たれた瞬間、ラルトスが跳ぶ。しかしシャドーボールも曲がってラルトスを追ってきた。
「追ってくるのか!」
「同じ技でも、踊り方は一つではないわ!」
黒い球体が背後へ迫る。
「俺の方へ走れ!」
ラルトスがこちらへ向かってくる。距離が縮まり、シャドーボールがすぐ後ろまで迫った。
「今、しゃがめ!」
ラルトスが床へ身を沈める。球体は頭上を通り、その先へ浮かぶムウマージへ向かった。
「ムウマージ、上へ!」
自分の技をかわすため、ムウマージが浮き上がる。
「“チャームボイス”!」
ラルトスの声が正面から届き、避ける途中だったムウマージを空中から叩き落とした。
「やった!」
ラルトスが息を弾ませ、こちらを見る。ほんの少しだけ、口元が緩む。その直後、床へ落ちたムウマージの目が開いた。
「まだ終わっていないわ。“マジカルフレイム”!」
「ラルトス!」
間近で炎が弾け、小さな体が青紫の光へ呑み込まれた。床へ落ちる音が響く。ラルトスはうつ伏せのまま動かなかった。
「ラルトス、聞こえるか! もういい、戻れ!」
ボールへ手を伸ばす。ラルトスの指が動いた。床を押し、震える腕で体を起こそうとする。何度も肘が崩れ、そのたびにもう一度力を入れた。
『……まだ』
「倒れるまで戦えって意味じゃないぞ」
『……わかってる』
膝をつき、それでも俺を見上げる。
『いっしょに、たたかうって、いった』
「言った。でも戻ることだって一緒に決められる」
『わたし、かちたい』
「俺も勝ちたい」
『ユアと』
「ああ」
『クチートと』
腰のボールが小さく揺れる。
『みんなで』
「うん」
ラルトスが床へ手をつき、もう一度立ち上がろうとする。足に力が入らず体が傾いても、目は閉じなかった。俺を見て、クチートのボールを見て、ムウマージを見た。その時、体から、淡い光が漏れた。
「……ラルトス?」
ムウマージの技が残っているのかと思った。
違う。
光は体の内側から生まれ、白く、強く広がっていく。小さかった輪郭が光の中で伸び、細い腕と脚が形を変える。頭を覆っていた緑色の部分は短く整い、腰の周りへ広がった白い体が、舞台衣装のように揺れた。
メリッサも指示を止め、目を見開いている。ムウマージは攻撃せず、光の中心を見つめていた。やがて光が薄れ、その場所に立っていたのは、もうラルトスではなかった。
伸びた体。
白い脚。
緑色の髪の隙間から覗く赤い角。
炎の跡は残っている。それでも、さっきまで床へ手をつかなければ立てなかった足が、今はまっすぐ体を支えていた。
「ラルトス……なのか?」
その子が振り返る。
テンガン山を越えてから一度も見せなかった表情が、目の前で大きくほどけた。
『ユア!』
頭の奥へ届いた声は、今までよりずっとはっきりしている。短い言葉を探し、途切れながら話していた声ではなかった。
『私、強くなった!!』
ラルトスから進化したキルリアは嬉しそうに一度回った。腰の白い部分が軽く広がり、コンテストで見たポケモンたちの衣装のように揺れる。
腰のボールから、大顎の音が響いた。
ガチン!
キルリアがそちらへ顔を向ける。
『クチート! 私、進化したよ!』
ボールがもう一度小さく揺れた。
ガチッ。
「話し方まで変わってないか?」
『そう?』
「そうだよ。急にいっぱい喋るじゃん」
『だって、言いたいことがいっぱいあるから!』
キルリアはもう一度笑い、ムウマージへ向き直った。進化したから傷が消えたわけではない。呼吸はまだ荒く、体には炎の跡も残っている。それでも、立ち姿はさっきまでとは違う。一人で勝つためではなく、俺たちと一緒に戦うために前を向いている。
「メルヴェイユ。とても素敵な進化ね。ようやく本当の笑顔を見せてくれたわ」
『うん! 今は楽しい!』
「それなら、ダンスを続けましょう。ムウマージも、まだ踊り足りないようだから」
ムウマージが浮かび上がり、帽子の影から笑みを覗かせる。
「キルリア、まだいけるか?」
名前を呼ぶと、キルリアが勢いよく振り返った。
『いける! ユア、一緒に勝とう!』
「ああ!」
「ムウマージ、“シャドーボール”!」
黒い球体が放たれる。
「キルリア、“ねんりき”!」
淡い光がシャドーボールを包み、正面から受け止めた。進化する前なら押し返されていた球体が、今は空中で止まり、震えている。
『前より、ずっと見える!』
「なら返せ!」
『うん!』
キルリアが腕を振る。シャドーボールの軌道が大きく変わり、ムウマージのすぐ背後で弾けた。黒い風に体を揺らされ、ムウマージがわずかに高度を落とす。
「“マジカルフレイム”!」
青紫の炎が広がる。
「テレポート!」
キルリアの姿が消え、炎が空を切った。次の瞬間にはムウマージの横へ現れ、両手の間に淡い紫色の光を集めている。
『ユア、これ……新しい技!』
光は丸い塊となり、その周囲へ細かな粒がいくつも生まれた。ねんりきともチャームボイスとも違う。目に見えない力が、確かな形を持って集まっている。
「いけ、キルリア!」
『サイコショック!!』
紫色の光が放たれ、無数の衝撃がムウマージへ殺到した。防ごうと広げた腕の外側で弾けず、その奥まで突き抜けるように一撃ずつ体を打つ。
ムウマージが大きく吹き飛び、フィールドの端へ落ちた。何度か床を滑り、帽子の先を震わせながら顔を上げる。
まだ倒れてはいない。
キルリアも肩で息をしながら、俺の隣へテレポートで戻ってきた。
『届いた!』
「ああ、ちゃんと届いた!」
キルリアはムウマージから目を離さない。それでも、口元には笑みが残っている。
「素晴らしいわ。では、ここからがフィナーレね」
ムウマージが再び浮かび上がる。赤い宝石が強く光り、周囲へ青紫の炎と黒い球体が同時に生まれた。キルリアの両手にも、もう一度紫色の光が集まり始める。
『ユア!』
「分かってる。最後まで一緒だ!」
ムウマージの炎が渦を巻き、シャドーボールがその中心へ重なる。キルリアのサイコショックも、さっきより大きく膨らんでいく。
どちらが先に届くか。
これで、勝負が決まる。