ふれあい広場は、教会から坂道を下り、ヨスガシティの中心を少し外れた場所にあった。低い柵の向こうには広い芝生と浅い池が広がり、木々の間を縫う散歩道には、人とポケモンが思い思いの速さで歩いている。夕方になっても人の姿は多く、ベンチで話す親子の足元ではエネコが丸くなり、少し離れた場所ではミミロルと子どもたちが芝生を駆け回っていた。入口を抜けた途端、ホゲータとイワンコは競うように飛び出し、キルリアも二匹を追いかけて走り始める。進化したばかりの脚にまだ慣れていないのか、何度か歩幅が合わなくなったものの、転びそうになるたびに両腕を広げて踏み止まり、そのまま何事もなかったように駆けていった。
「無理するなよ。また転びそうになってるぞ」
『なってないよ! ちゃんと止まれたもん!』
「転びそうにはなったんだろ」
『今のは走り方を試してたの!』
遠くから返ってくる声に、アイが小さく笑った。ラルトスだった頃なら、あの距離から俺たちの会話へ割り込むことも、言い返すためにわざわざ振り向くこともなかっただろう。思ったことが次々に言葉になり、それを伝えること自体が楽しいらしい。
ドオーは池を見つけると迷うことなく水辺へ向かい、浅い場所へ腹をつけた。体の半分ほどを水へ沈め、目を細めたまま動かなくなる。アイが帰る時には出てきてと声を掛けても、返ってきたのは間延びした鳴き声だけだった。
「本当に水が好きなんだな」
「ドオーは元々水辺で暮らすポケモンだからね。池とか川を見つけると、だいたいこうなるよ」
「……今、ドオーって言ったよな?」
「説明する時に正式な名前を使わないと、何のポケモンか伝わらないでしょ」
「じゃあ普段のドーは何なんだよ」
「呼びやすいから」
「最初からドオーって言えるじゃん」
「言えるよ?」
アイは何を今さらという顔で首を傾げた。
「じゃあ、あのやり取りは全部わざとか?」
「どのやり取り?」
「『ドオーだろ』『うん、ドーだよ?』ってやつだよ」
「うん」
「うん、じゃないだろ」
「キミが毎回同じ反応するから、説明する機会を逃したんだよね」
「絶対わざとだろ」
「さぁ、どうだろうね」
悪びれもせず答えるアイを見ていると、初めて会った時からずっとからかわれていたことになる。胸の話で怒らせたことを考えれば、あれくらいは仕返しのつもりだったのかもしれない。
広場の中央にある木陰へ荷物を置き、クチートのボールを手に取る。ジム戦で受けた傷はポケモンセンターで診てもらい、激しく動かなければ外へ出ても問題ないと言われていた。
「クチート、少し休むか?」
赤い光が芝生へ落ち、その中からクチートが現れる。足元を確かめるように一度体を動かしたあと、広場を見回し、いつものように俺の少し後ろへ立った。人が近くを通れば視線を向けるものの、以前のように大顎を開いて身構えることはない。すぐに興味を失い、木陰の端へ腰を下ろした。
「傷、まだ痛む?」
アイが尋ねると、クチートは一度だけそちらを見て、大顎を短く鳴らした。
ガチッ。
「大丈夫だって」
「分かるんだ」
「全部じゃないけど、これくらいなら」
クチートがわずかにこちらを見る。以前なら、今の音が本当に肯定なのか自信を持てなかった。今も言葉のようにすべてを理解できるわけではない。それでも、何を嫌がり、何を受け入れ、どんな時に俺の指示を待っているのかは、少しずつ分かるようになってきた。
ホゲータと走り回っていたイワンコがクチートへ気づき、勢いよく方向を変えた。尻尾を大きく振りながら一直線に駆け寄り、クチートのすぐ隣へ座る。
「ワンッ!」
クチートは横目でイワンコを見たあと、分かりやすく顔を逸らした。
イワンコは気にせず体を寄せるとクチートが少しだけ横へ移動する。イワンコも同じだけついてくる。もう一度離れると、また隣へ座る。
「相変わらずだな、お前たち」
声を掛けると、イワンコは嬉しそうに鳴き、クチートは聞こえなかったふりをして芝生の反対側を向いた。
「昔からこうだったの?」
アイが二匹を見ながら尋ねる。
「ああ。イワンコ、人にはなかなか近づかなかったのに、クチートにはやたら寄っていったんだ。クチートが鉱山の中を歩いてると、少し後ろからついていってさ。クチートは毎回、今みたいに興味ないふりしてた」
「追い払わなかったんだ」
「そこが不思議なんだよ。作業員が近づいたらすぐ離れるか、大顎を鳴らしてたのに、イワンコだけは好きにさせてた」
クチートの耳がぴくりと動いた。話を聞いているのは明らかなのに、こちらを向こうとはしない。イワンコはそんなことも気にせず、クチートの袖へ鼻先を押しつけている。
「人間には簡単に触らせなかったくせに、こいつには昔から甘かったよな」
ガチン。
今度は強い否定が返ってきた。
「違うのか?」
ガチン。
「じゃあ、なんで追い払わないんだよ」
クチートは答えず、さらに顔を逸らした。イワンコが立ち上がって少し離れた木の方へ走っていくと、その背中を視線だけが追う。俺と目が合うと、すぐにまた反対側を向いた。
「やっぱり気にしてるじゃん」
ガチン!
大顎の音に驚いた近くのムックルが飛び立ち、アイが口元を押さえて笑った。
「クチート、ユアに見抜かれるようになったね」
クチートは今度こそ完全に俺たちへ背中を向けた。
イワンコは木の根元に落ちていた小さな木の実を咥えて戻り、クチートの前へ置く。クチートはしばらく見ないふりをしていたが、イワンコが尻尾を振りながら待ち続けると、諦めたように木の実を拾い上げ、大顎の奥へ隠した。
「ワンッ!」
イワンコが満足そうに鳴き、今度はホゲータの方へ走っていく。クチートはその背中を一度だけ見送り、何事もなかったように膝へ手を置いた。
「鉱山で作業員さんから、イワンコがユア以外にはあまり懐かなかったって聞いた。でも、クチートとのことまでは知らなかったな」
「俺にもよく懐いてたけど、クチートに対しては別だった。見つけると必ず近づいていったから」
「似たところがあると思ったのかもね」
「クチートとイワンコが?」
「どっちも人を簡単には信用しなかったんでしょ」
アイの言葉に、二匹を見比べる。イワンコは人を怖がっていたというより、近づく相手を選んでいたように見えた。クチートはもっとはっきりと人間を拒み、鉱山の約束が守られてからも、長い間距離を取り続けていた。
「そういえば、お父さんからクチートの話も聞いたよ」
「父さんから?」
「うん。鉱山で重機が壊されたことや、奥の住処が破壊されていたこと。キミが間に入って、人間とポケモンの境界を決めたことも」
「そんなに話したのか」
「ボクが、クチートも一緒に旅をしてるって言ったから。お父さんも知らなかったみたいで驚いてた」
「クチートがついてきたのも、町を出たあとだったからな」
旅立ちの日、ラルトスと歩き始めた俺たちの少し後ろに、いつの間にかクチートが立っていた。仲間になってほしいと頼んだわけでも、一緒に来るよう説得したわけでもない。クチート自身が決め、一定の距離を保ったまま俺たちについてきた。
「お父さん、ずっとクチートは鉱山や境界を監視してるんだと思ってたんだって。でも、ボクが旅先でもクチートがユアをよく見てたって話したら、少し考えてた」
「俺を?」
「うん。街を歩いてる時も、誰かと話してる時も、バトルの時も。少し離れてるのに、何度もキミを見てたよ」
「……そうだった?」
「やっぱり気づいてなかったんだ」
「そんなこと言われても、後ろにいるんだから見えないだろ」
「振り返ればいいじゃん」
「クチートが嫌がると思ってたんだよ。近づこうとすると距離を取ってたし」
アイは何か言いかけたが、すぐには続けなかった。クチートが何を考えて俺を見ていたのか、アイにも分からないのだろう。俺にも分からない。ただ、父さんがどう受け取ったのかは少し気になった。
「父さん、何て言ってた?」
「クチートはユアを信じようとしてるのかもしれないって。だから次は、ユアがクチートを信じられるかだって言ってた」
ハクタイジムでナタネに言われたことが浮かぶ。
【見ているだけで、中身を見ていない】
あの時までの俺は、クチートが何を望んでいるのかを考えず、攻撃を任せることすら怖がっていた。傷つけたくないと思うばかりに、クチートの力も覚悟も信じ切れていなかった。
「父さん、そんなことまで分かったのか」
「長く見てたからじゃない?」
「俺の親なのに、俺よりクチートのこと見てたみたいで何か嫌だな」
「お父さんはキミのことも見てたよ。見てたから、問題はユアの方だって思ったんでしょ」
「……それ、褒められてないよな」
「たぶんね」
アイは少しだけ笑った。クチートは俺たちの会話を聞いていないふりを続けていたが、大顎の先が一度だけ小さく閉じる。
広場の芝生へ腰を下ろすと、アイも隣へ座った。キルリアたちは少し離れた場所で遊び続けている。ホゲータが歌うように鳴きながら体を揺らし、キルリアがその動きを真似して回る。イワンコは二匹の周囲を跳ね回り、時々足を滑らせて芝生へ転がっていた。池ではドオーが相変わらず動かず、首から上だけを水面へ出している。
「テンガン山のこと、もう少し聞いてもいい?」
アイの声から、さっきまでの笑いが消えた。
「教会で話したこと以上に?」
「ギンガ団が怪しいって分かっただけじゃ、次に会った時どうするか決められないから。どんなポケモンを使って、どんなふうに負けたのか知りたい」
俺はテンガン山での戦いを、覚えている順番に話した。マーズという女がいたこと。クチートとラルトスの技がほとんど通じず、相手は攻撃を避けながらこちらの動きを止め、最後には二匹とも倒されたこと。途中から何を指示すればいいのか分からなくなり、声だけが空回りしていたことも隠さなかった。
アイは話の途中で勝手に結論を出さず、時々相手の技や動きを確かめる質問を挟みながら最後まで聞いた。
「相手は強かったんだね」
「強かった。俺たちが今まで戦った誰よりも」
「なら、負けたこと自体は不思議じゃないよ。経験も知識も違う相手に、初めて戦って勝てるとは限らない」
「でも、何もできなかった」
「何もできなかったのと、何も分からなかったのは少し違う。今は、何が分からなかったか言える?」
すぐには答えられなかった。相手のポケモンの特徴も、使われた技の正体も、どうしてこちらの攻撃が通じなかったのかも分からなかった。分からないまま焦り、とにかく技を出すことしか考えられなくなった。
「……相手のこと、何も知らなかった」
「うん」
「でも、戦ってる途中で考える余裕もなかった」
「それは相手が上手かったのもあると思う。でも、戦う前から知っていれば、考えなくても選べることは増えるよ。タイプ相性とか、技の特徴とか、状態異常とか」
「タイプ相性なら少しくらい知ってる」
「じゃあ、さっきクチートの“かみつく”がゴースに効いた理由は?」
「あくタイプの技だから」
「そこは知ってるんだ」
「ナタネ戦のあとに調べた」
「じゃあ、やけどになると何が起きる?」
「熱い」
アイの目が細くなる。
「それは見れば分かるでしょ。ほかには?」
「……体力が減る?」
「それもあるけど、物理技の威力が落ちる。クチートがマジカルフレイムでやけどを負っていたら、“かみつく”や大顎を使う技にも影響が出る可能性がある」
「そうなの?」
「知らなかったんだ」
「今知った」
「開き直らないで」
アイは呆れたように息を吐いたが、テンガン山で負けたのは知識不足だけだとは言わなかった。相手が強かったことを先に認めた上で、知っていればもう少し違う戦い方ができたかもしれないと話している。
「アイはそういうの全部覚えてるの?」
「全部じゃないよ。でもパルデアの学校で習ったし、分からないことは旅をしながら調べてる。覚えるだけじゃ実際のバトルで使えないけど、知らなければ選択肢にすら入らないから」
「俺、スクールでそれに気づいたはずなんだけどな」
「気づいただけで勉強しなかったんでしょ」
「旅に出たら色々あったんだよ。洋館に閉じ込められたり、ジムに挑んだり、テンガン山でギンガ団と戦ったり」
「色々あったからこそ、必要だったんじゃない?」
言い返せない。コトブキのスクールで、俺には知らないことが多すぎると分かった。それでも旅を続けていれば自然に覚えると思い、分からないことを一つずつ調べる時間を作らなかった。ラルトスとクチートの強さに頼り、自分はその場で指示を考えればいいと思っていた。
「キルリアが一人で強くならなきゃって思ったのも、俺が頼りなかったからかな」
「全部を自分のせいにするのは違うと思う。キルリアにはキルリアの考えがあったし、キミは話し合って立て直した。今日のバトルでも一緒に勝ったんでしょ?」
「うん。でも、メリッサに言われるまで気づけなかった」
「次はもう少し早く気づけばいい。知らないことも、今から覚えればいいだけ」
アイは難しいことではないように言った。できなかったことを責めるのではなく、次にどうするかだけを見ている。
「負けたって聞いて、笑わないんだな」
「どうして笑うの?」
「アイなら、俺が誰かに負けたって聞いたら、少しくらい喜ぶのかと思った」
「ボクがキミに勝ったなら嬉しいよ。でも、知らない人にキミが負けても嬉しくない。それどころかムカつく」
「ムカつく?」
「キミが負けていいのは、ボクにだけだよ。まさか、諦めた訳じゃないよね?」
「諦めないよ」
すぐに答えると、アイは俺の顔をしばらく見たあと、小さく頷いた。
「うん。知ってる」
「何で?」
「キミの両親に会って、鉱山の話を聞いて、キミの生き方を知ったから、ギンガ団に一回負けたくらいで、全部投げ出す人とは思ってないよ」
父さんと母さんが、俺のいないところで何を話したのかは分からない。アイはそれを詳しく教えるつもりもないらしい。ただ、クロガネへ立ち寄る前よりも、俺のことをよく知っているような話し方をする。
日が沈むにつれて、広場を出る人が増え始めた。橙色だった空は青紫へ変わり、池から上がったドオーの体から水がぽたぽたと芝生へ落ちている。キルリアとホゲータは遊び疲れて木陰へ戻り、イワンコはまたクチートの隣へ座っていた。クチートはそっぽを向いているが、今度は離れようとしなかった。
「そろそろ宿を探さないとな」
荷物へ手を伸ばすと、アイも立ち上がった。
「ボクはもう取ってあるよ。ヨスガに着いた時に、先に荷物を置いてきたから」
「じゃあ俺は近くで探すか」
「同じ宿にすればいいでしょ」
「空いてればな」
「受付で聞けば分かるよ。それに、今夜少し教えるから」
「何を?」
「さっきの続き。タイプ相性とか、状態異常とか。全部は無理でも、最低限くらいは知っておいた方がいい」
「今日やるの?」
「次にギンガ団と会う日がいつか分からないでしょ」
アイは当然のように先へ歩き始めた。ドオー、ホゲータ、イワンコもその後を追い、キルリアは少し遅れて俺の隣へ並ぶ。
『お勉強するの?』
「そうらしい」
『私も一緒に聞く! 強くなるために必要なんでしょ?』
「キルリアは楽しそうだな……」
ラルトスの時は勉強嫌いだったのに、あの頃とは大違いだ。
『ユアも楽しもうよ』
「勉強を?」
『メリッサが言ってたよ。何でも楽しまなきゃ』
「バトルの話だろ、あれ」
キルリアは気にせず笑い、アイたちを追って歩き出した。俺もクチートをボールへ戻し、広場の出口へ向かう。
前を歩くアイへ声を掛ける。
「宿、部屋空いてなかったらどうする?」
「その時に考える」
「適当だな」
「キミに言われたくない」
夕暮れのふれあい広場を出て、俺たちはアイが泊まっている宿へ向かった。