アイが泊まっている宿は、ふれあい広場から歩いて十分ほどの場所にあった。コンテスト会場にも近いためか、入口には旅人の鞄や大きな荷物がいくつも並び、受付の前では部屋を探す人たちが順番を待っている。空が暗くなってから宿を探すには遅かったらしく、俺の前に並んでいた人も空室がないと断られていた。
「一部屋、空いてますか?」
受付へ尋ねると、女性は帳面をめくり、申し訳なさそうに首を横へ振った。
「ごめんなさいね。朝からお客様が多くて、先ほど最後のお部屋も埋まってしまったの」
「やっぱり遅かったか……。近くに別の宿ってありますか?」
「南側まで行けば、空いているところがあるかもしれないけれど、この時間だとどうかしらね」
「じゃあ、ボクの部屋でいいよ」
隣にいたアイが、何でもないことのように言った。
「え?」
「二人部屋だから、使ってないベッドが一つあるの。勉強もするんだし、わざわざ遠くまで探しに行く必要ないでしょ」
「一人で泊まるつもりだったのに、二人部屋を取ったのか?」
「それしか空いてなかったから。追加料金だけ払えば問題ないよね?」
受付の女性は俺たちを見比べ、知り合いなら構わないと頷いた。俺も断る理由はなく、追加の宿泊代を支払う。その間、ホゲータとイワンコは早く部屋へ行きたいのか、階段の方を見ながら落ち着きなく足を動かしていた。ドオーは受付の横ですでに腹を床へつけ、キルリアは壁へ掛けられた絵を眺めながら、話が終わるのを待っている。
階段を上がると、ホゲータとイワンコはどちらが先に部屋へ着くか競うように廊下を走り出した。アイに宿の中では静かにしてと言われ、二匹とも一度は振り返ったものの、歩くつもりはないらしい。足音だけを少し小さくして、そのまま先へ進んでいく。ドオーは一番後ろを変わらない速さで歩き、クチートは俺の少し後ろから、並んだ扉やすれ違う人へ時々視線を向けていた。
アイが鍵を開けると、中には二つのベッドと、その間に小さな机が置かれていた。窓際には椅子が二脚あり、壁には荷物を置くための棚もある。広い部屋とは言えないが、二人と六匹が一晩過ごすくらいなら何とかなりそうだった。
「そっちのベッドを使って。ボクは荷物を置いてある方で寝るから」
「ああ。助かる」
「同じ部屋に泊まってあげるけど、変なことしないでね?」
鞄を床へ置こうとしていた手が止まった。
「……変なこと?」
アイは何も言わず、数秒ほど俺の顔を見た。それから肩の力を抜き、机の横に置いていた荷物を少しだけ端へ寄せる。
「その反応なら、たぶん大丈夫」
「何が?」
「分からなくていいよ。荷物を置いたら勉強するから」
「また話を逸らしただろ」
「逸らしてない。最初から、そのために同じ部屋へ泊めることにしたんだから」
聞き返しても教える気はなさそうなので、諦めて鞄をベッドの横へ置いた。キルリアはすぐに俺のベッドへ腰を下ろし、柔らかさを確かめるように何度か体を弾ませる。ホゲータはアイのベッドへ登ろうとして頭から毛布へ突っ込み、そのまま抜け出すこともなく動かなくなった。イワンコは机の下やカーテンの裏まで匂いを嗅ぎ、部屋の端から端を一周している。ドオーは扉から数歩進んだところで腹を床へつけたため、俺とアイで体を押し、どうにか扉の前から壁際へ移動させた。
「ドオー、重すぎないか?」
「ドーは見た目通りずっしりしてるからね」
「ドオーだろ」
「説明は終わったから」
「使い分けが勝手すぎるだろ」
アイは聞こえなかったふりをして机へ向かい、手帳と薄い本を何冊か並べた。その間に、ホゲータは毛布から顔だけを出して寝息を立て始める。イワンコも一度は隣へ登ろうとしたものの、アイに寝る時まで待つよう言われ、仕方なく窓際の椅子へ座ったクチートの足元へ丸くなった。クチートは一度だけ下を見てから、何事もなかったように顔を外へ向ける。
「お前たち、本当に昔から変わらないな」
クチートの耳が動き、大顎が短く鳴った。
ガチッ。
「違うって言ってるよ」
「分かってる」
分かっていると言われたことが気に入らなかったのか、もう一度少し強い音が返ってきた。俺が机の向かいへ腰を下ろすと、キルリアも勉強へ参加するつもりらしく、ベッドから降りて俺の隣へ立った。
『私も聞く!』
「もちろん。技を使うのはキルリアたちなんだから、一緒に知ってた方がいいよ」
「俺だけだと頼りないみたいな言い方だな」
「まぁ、実際そうだよね」
「否定できないのが腹立つ」
アイは手帳を開き、タイプごとの名前が書かれたページを俺の方へ向けた。いくつもの文字が矢印で繋がれ、どのタイプが何に強く、何に弱いのかがまとめられている。ほのお、みず、くさの関係は分かる。けれど数が増えるほど、知っているつもりで曖昧なものが多かった。
「最初から全部覚えようとすると混乱するから、今日のバトルから考えよう。クチートは、はがねとフェアリー。キルリアはエスパーとフェアリー。まず二人の弱点は分かる?」
「クチートは、えっと、ほのおとじめん…か?今日マジカルフレイムを受けてたから、ほのおは分かる」
「うん。はがねタイプはほのおとじめんが苦手。でも、どく技は効かない。フェアリーだけならどくが弱点だけど、はがねがそれを消してるから」
「タイプが二つあると、片方の弱点がなくなることもあるのか」
「逆に、弱点が重なってもっと危なくなることもある。二つのタイプを持つポケモンを見る時は、片方ずつ覚えるだけじゃなく、組み合わせた結果まで考えないといけない」
『私は?』
「キルリアはゴースト、はがね、どくが弱点。エスパータイプはあく技が苦手だけど、フェアリーはあく技に強いから、キルリアの場合は普通くらいになる」
「進化する前から同じ?」
「ラルトスもエスパーとフェアリーだから、タイプ相性は変わってないよ」
キルリアは自分の腕や腰の白い部分を見下ろし、見た目が大きく変わっても苦手なものは同じなのかと不思議そうにしている。
「じゃあ今日、ムウマージのゴースト技をまともに受けてたら危なかったんだな」
「そうだね。テレポートで避けたり、ねんりきでシャドーボールを逸らした判断は正しかった。でも、タイプ相性より先に、今日ユアが一番見落としていたのはクチートの状態だと思う」
アイの視線が窓際へ向いた。
「クチートの?」
「ゴースの“したでなめる”を受けたあと、左腕の動きが鈍くなってたでしょ。立ち上がる時も一瞬体が固まってた。あれ、多分麻痺してたんだと思う」
ゴース戦の光景が浮かぶ。長い舌が腕へ触れた直後、クチートは体を固めて片膝をついた。そのあとも左腕だけ動きが遅れ、ゴースを倒した時にはすでに、いつもの速さではなかった。
「麻痺……。でも、動けてたぞ」
「麻痺したら絶対に動けなくなるわけじゃないよ。動きが遅くなったり、急に体が動かなくなったりする。症状が軽く見えても、いつ止まるか分からない状態で戦ってたことになる」
「俺、少し痺れただけだと思ってた」
「少しでも麻痺は麻痺だよ。その状態でムウマージへ続投させるなら、動きが遅いことを前提に指示を変えるか、交代を考えないといけなかった」
クチートはまだ戦えると大顎を向けた。俺もクチートなら届くと思い、その意思を信じて続投させた。けれど、信じることと状態を正しく見ることは別だった。
「クチートが戦うって言ったから」
「それを尊重するのはいいと思う。でも、続けさせるか決めるのはトレーナーの役目でしょ。本人が戦いたいと言っても、体の状態が危ないなら止めないといけない」
「……うん」
「今日の続投が全部間違いだったって言ってるわけじゃないよ。クチートはゴースを倒して、ムウマージにも攻撃を当てた。それがキルリアへ繋がった。でも、もし途中で完全に体が動かなくなって、もっと大きな攻撃を受けていたら、結果は違ったかもしれない」
クチートへ目を向ける。外を見たまま、こちらへ顔を向けない。ただ、耳だけはこちらの会話を聞くように動いていた。
「クチート。あの時、左腕だけじゃなくて、ほかも動きにくかったか?」
少し間があり、大顎が一度鳴る。
ガチッ。
「やっぱり麻痺してたんだな」
クチートは面倒そうに顔を逸らした。隠すつもりだったのか、自分では大したことではないと思っていたのかは分からない。
「次からは、俺にもちゃんと教えろよ」
ガチン。
「なんで否定するんだよ」
「クチートは、自分ならまだ戦えるって思ってたんじゃない?」
「それでもだよ。俺が気づけなかったら、また無理させるかもしれないだろ」
クチートがこちらを見る。しばらく視線が重なり、やがて大顎が小さく閉じた。
ガチッ。
「分かったって」
「今のは分かるんだ」
「間を開けて鳴らす時は大体了承だ」
「そこは自信を持っていいの?」
「前よりはな」
アイは少しだけ笑い、手帳の別のページを開いた。
「状態異常は麻痺だけじゃない。毒、眠り、やけど、凍り。細かいものはほかにもあるけど、まずはこの辺りを覚えればいいよ」
「毒は少しずつ体力が減る。麻痺は動きが遅くなったり、動けなくなることがある。眠りは寝る」
「最後だけそのままだね」
「間違ってないだろ」
「間違ってはいないけど。例えばやけどは少しずつ体力が減る上に、物理技の力が落ちる。クチートみたいに“かみつく”や大顎を使った直接攻撃が中心のポケモンには大きいデメリットだね」
「マジカルフレイムでやけどした可能性もあった?」
「マジカルフレイム自体は、普通はやけどを起こす技じゃないよ。相手の特殊な技を弱める効果がある。今日のクチートは麻痺とゴース戦の消耗が残ったまま、弱点のほのお技を受けて戦闘不能になったって考える方が自然」
「技ごとに追加の効果まで違うのか」
「そういうこと。だけど威力だけじゃなく、命中しやすさや相手へ与える変化、自分に起きる反動もある。強そうだからって威力だけで選んだら、使いにくいこともある」
『サイコショックは?』
キルリアが身を乗り出す。
「サイコショックは少し特殊な技だね。エスパータイプの技だけど、相手の特殊な守りじゃなくて、物理的な守りへ影響する。だから特殊攻撃に強い相手でも、物理防御が低ければ通りやすい」
『難しい……』
「使う時は、相手のどっちの守りが弱いか分かると便利って覚えればいいよ」
「それを戦いながら見分けるの?」
「すぐに全部は無理。まずは図鑑で知っているポケモンを増やして、攻撃を受けた時の反応を見る。メリッサさんが言ってたみたいに、相手を見ることが大事なんだと思う」
ナタネにも、同じことを言われた。見ているだけで、中身を見ていない。タイプや技を知ることは、相手を数字に当てはめることではなく、目の前の動きから何が起きているか考えるために必要なのだろう。
「じゃあ、アイと最初に戦った時、ラルトスの技がドオーへあまり効かなかったのもタイプ相性?」
「それだけじゃないよ。ドーは耐久力が高いし、ボクも攻撃を受ける場所を考えて指示してた。エスパー技が特別効きにくい相手ではないけど、同じ技を正面から何度も撃ってきたから、守りやすかった」
「途中から何をすればいいか分からなくなった」
「でも今なら、ねんりきでドーの体を動かそうとするだけじゃなく、足元の土を崩したり、周囲の物を使って視界を遮ったりも考えられるでしょ?」
『次はできるよ! 私、テレポートも前より速くなったし、サイコショックもあるから!』
「ボクたちもあの時のままじゃないけどね」
『じゃあ、もっと強くなった同士で戦えるね!』
「そうだね」
アイはキルリアへ笑い返し、次のページへ進む。そこには特性という言葉が書かれていた。ポケモンが生まれつき持つ性質で、同じ種類でも違う場合があり、技や天候、戦い方そのものへ影響を与えるらしい。
「同じポケモンでも違うの?」
「種類によるよ。特性が一つしかないポケモンもいるし、いくつかの可能性があるポケモンもいる。相手を見ただけでは分からないこともあるから、行動から予想する」
「それを戦ってる途中に?」
「慣れればね。最初は知っている種類を増やすだけでも違う。効くはずの技が効かなかった時、何かの特性かもしれないって考えられるから」
「覚えること、多すぎない?」
「まだ能力の変化も、天候も、技の優先度も、持ち物も説明してないけど」
「今日はここまでにしない?」
「ここまでって…あー、もうそんなに経ってたんだ」
時計へ目を向けると、思っていたより長い時間が過ぎていた。アイの説明を聞き、分からないところを質問し、それを今までのバトルへ当てはめているうちに、窓の外は完全に暗くなっている。ホゲータは最初から変わらず眠り続け、ドオーも壁際で目を閉じていた。イワンコは一度だけ寝返りを打ち、椅子の下からクチートの足へ背中を寄せている。クチートは窓の外を見ていたが、話が自分のバトルへ戻るたびに耳をこちらへ向けていた。
『私、もっと聞きたい』
「キルリアは元気だな」
『知ったら、次のバトルでもっと上手く戦えるんでしょ?』
「そうだけど、一晩で全部覚える必要はないよ」
アイは手帳を閉じ、机の上に広げていた紙を揃えた。これで終わりかと思ったが、片づける代わりに、鞄からもう一冊のノートを取り出す。表紙の角は少し擦れ、何度も開いた跡が残っていた。
「今日はここまで。続きは時間がある時に自分で読んで」
そう言って、ノートを俺の前へ差し出す。
「これ、あげるから」
「え?」
「学校で習ったことと、旅の途中で覚えたことをまとめたノート。タイプ相性も状態異常も特性も、さっき話したことより詳しく書いてある」
「でも、アイが使ってたんだろ?」
「元のノートは別にあるよ。それは旅に出る時に写した方。最近覚えたことは少し書き足してあるけど、また作ればいいから」
受け取って中を開く。細かな字で書かれた説明の横に、実際に戦ったポケモンの特徴や、使われた技への感想までまとめられている。教科書を写しただけではなく、アイが自分で考え、分かりやすい形へ直したものだった。
「本当にいいのか?」
「うん。キミ、一晩で全部教えても覚えられそうにないし」
「それは否定できないけど」
「時間がある時に読んで。分からないことがあったら、次に会った時にでも教えてあげる」
「次に会うまで持ってていいんだな」
「あげるって言ったでしょ。返さなくていいよ」
ノートを持つ手に、少しだけ力が入る。アイが学校で学び、旅の中で書き足してきたものだ。それを簡単に受け取っていいのか迷ったが、返そうとすればきっと怒られる。
「……ありがとう。大事にする」
「使ってくれればそれでいいよ。大事にしまって読まないのが一番困るから」
「読むって」
「次に会った時、抜き打ちで聞くからね」
「それは聞いてない」
「今言った」
キルリアが俺の手元を覗き込み、楽しそうに目を輝かせる。
『私も一緒に読む!』
「ああ。もちろんクチートもな」
窓際から低い音が返ってくる。
ガチッ。
「嫌そうだな」
「でもクチートも、聞いてなかったふりして結構聞いてたよ」
アイに言われ、クチートは完全に窓の方へ顔を向けた。否定の音が鳴らないあたり、図星なのかもしれない。机を片づけ、寝る準備を始める。キルリアは俺のベッドへ上がり、枕の横へ座った。ラルトスだった頃は俺のすぐ隣で眠ることが多かったが、進化して体が大きくなった分、同じように横になると少し狭い。
『私、大きくなったから、もうユアと一緒に寝られない?』
「寝られなくはないけど、前より狭いな」
『じゃあ、ユア壁側ね』
「寝返り打ったら落ちるぞ」
『落ちる前にテレポートするから大丈夫』
「寝てても使えるのか?」
『……分からない』
「床へ毛布を敷く?」
『嫌。今日はユアの隣がいい』
結局、俺が壁側へ入り、キルリアが少し端へ寄ることになった。クチートには窓際へ毛布を敷いたが、椅子から降りようとはしない。イワンコもその下から動かず、二匹はそのまま眠るつもりらしい。
アイは眠っているホゲータをベッドの端へ移し、ドオーへ大きな毛布を掛ける。体をすべて覆うことはできず、背中の半分ほどがはみ出していた。
「ドオーは、ボールに戻して寝ないの?」
「ドーが外で寝たい時は、そのままにしてる。宿の人に駄目って言われたら戻すけど、今日は大丈夫だったから」
「ドオーだろ?」
「うんドーだよ」
部屋の明かりを消すと、窓から差し込む街灯の光だけが床を照らした。昼から動き続けた体は疲れているのに、頭の中には覚えたことがいくつも残っている。麻痺していたクチート。炎を受ける前から遅れていた左腕。まだ戦えるという意思だけを見て、その状態まで考えられなかった自分。そして、枕元の鞄にはアイからもらったノートが入っている。
「アイ」
向かいのベッドへ声を掛ける。
「何?」
「ありがとな」
「ノートのこと?」
「それもだけど、クチートが麻痺してたことも、言われるまでちゃんと分かってなかった。俺一人だったら、少し痺れてただけで終わらせてたと思う」
「次から気づけばいいよ。今日のことを覚えていれば、同じ見落としは減らせるから」
「でも、アイは俺に勝ちたいんだろ? 強くなるのを手伝っていいの?」
「キミが何も知らないままじゃ、勝っても面白くないでしょ。それに、知らない誰かに負けたままなのも嫌だし」
「変なの」
「キミに言われたくない」
「俺は普通だろ」
「初対面の女の子の胸を見て、男の子だと思う人が?」
「まだ言うのかよ」
隣でキルリアがくすくす笑う。
『私、その時ずっと見てたよ』
「……そうだった」
『アイ、すごく怒ってたよね。ユアが胸を見て、男の子だって言ったから』
「キルリア、そこまで詳しく言わなくていい」
「事実でしょ」
『それでバトルしたんだよね』
「うん。ボコボコにして謝らせた」
『でも、そのあと仲良くなった』
「仲良く……か」
「てよりはライバルだよ、少なくともボクにとっては」
キルリアは楽しそうに笑い、椅子の下ではイワンコが寝返りを打つ。クチートの大顎も小さく鳴ったが、笑われたのか呆れられたのかは分からなかった。
「でもアイ、あの時のことまだ怒ってるかな?」
『もう怒ってないと思うよ。怒ってたら同じ部屋に泊めないもん』
キルリアが先に答えると、向かいのベッドから少し間を置いて声が返ってくる。
「忘れてないだけだよ」
「同じじゃないの?」
「違うよ。忘れたら、また同じこと言われそうだから覚えてるの」
「もう言わないって」
「ならいいけど」
しばらくすると、部屋は少しずつ静かになった。ホゲータの寝息とドオーの低い呼吸が重なり、イワンコもクチートの椅子へ体を寄せたまま動かない。キルリアは俺の隣で目を閉じ、進化したばかりの長い腕を毛布の上へ置いている。
「アイ」
「今度は何?」
「さっきのありがとう、本当だからな。ノート、ちゃんと読む。また分からないことがあったら聞いていい?」
「次に会った時にね。それまでに、自分でも考えておいて」
「先生みたいだな」
「やめて。キミの先生になるつもりはないから」
「じゃあ、どうしてそこまでしてくれるんだよ」
少しだけ間が空いた。
「ライバルだから」
それだけ答えると、アイは毛布を動かし、こちらへ背中を向けたようだった。
「そっか」
目を閉じる。
明日になれば、また別々の道へ進む。けれど次に会う時まで、何も変わらないわけではない。俺もアイも、それぞれ知らないものを見て、戦い、少しずつ強くなる。次に再会した時、今日キルリアへ進化したことも、今夜受け取ったノートも、その先で覚えたことも、全部を持ってもう一度戦える。
隣から、キルリアの柔らかな声が届いた。
『ライバルって、いいね』
「ああ」
返事をすると、向かいのベッドからアイの声が飛んでくる。
「二人とも、まだ起きてたの?」
「今から寝るところ」
「なら、もう話さないで寝よう。明日も歩くんだから」
「分かってるよ」
今度こそ目を閉じる。
静かになった部屋の中で、クチートの大顎が最後に一度だけ鳴った。
ガチッ。