翌朝、目を覚ますと、すぐ隣にキルリアの顔があった。
進化して少し大きくなった体で枕の半分を使い、長くなった腕を俺の胸元へ乗せている。寝ている時までテレポートを使えるか分からないと言っていたが、少なくともベッドから落ちずには済んだようだった。
「キルリア、朝だぞ」
『……もうちょっと』
「昨日までなら、とっくに起きてた時間だろ」
『昨日、いっぱい戦って、いっぱい勉強したから眠いの……』
「勉強はほとんど聞いてただけじゃん」
『聞くのも疲れるんだよ』
目を閉じたまま言い返す。ラルトスだった頃なら、眠いと伝えるだけでも短い言葉を探していたのに、今は起きる気がない理由まで滑らかに続く。話せるようになったことがよほど嬉しいのか、昨日から言葉が途切れる様子がない。
向かいのベッドではアイがすでに起きており、荷物を鞄へ詰め直していた。ホゲータは毛布の中で丸まり、寝返りを打つたびに赤い鼻先だけが覗く。ドオーは壁際から一歩も動いておらず、掛けられた毛布を背中へ乗せたまま目を閉じていた。窓際の椅子にはクチートが座り、その足元ではイワンコが体を寄せて眠っている。クチートは起きているようだったが、イワンコを退かすことも、自分から離れることもせず、朝の通りへ顔を向けていた。
「おはよう」
「おはよう。よく眠れた?」
「うん。キルリアにベッドを半分以上取られたけど」
『半分も取ってないよ』
寝ていると思っていたキルリアがすぐに反論する。
「起きてるなら退いてくれよ」
『今起きたところ』
キルリアは大きく伸びをし、俺の上を跨いで床へ降りようとした。長くなった脚の位置をまだ掴み切れていないのか、毛布へ爪先を引っかける。慌てて腕を伸ばした時には、白い体が一瞬で消え、ベッドの横へ何事もなかったように立っていた。
『転んでないよ』
「転びかけるたびにテレポートで誤魔化すのやめない?」
『ちゃんと技を使いこなしてるだけだもん』
「便利な言葉覚えたな……」
アイは俺たちのやり取りを聞きながら、昨夜使った本を鞄へしまっている。机の上には、譲ってもらったノートだけが残されていた。改めて手に取ると、表紙の角は擦れ、開いた跡がいくつもついている。写した方だから返さなくていいと言われたものの、アイが旅の途中まで持ち歩き、自分で書き足してきたものには変わりない。
「これ、本当に俺がもらっていいんだよな?」
「まだ言ってるの? あげるって何度も言ったでしょ」
「だって、かなり書き込んであるし」
「だから読んで。大事そうに鞄の奥へしまって、そのまま忘れたら取り返すからね」
「忘れないって。キルリアとクチートも一緒に読むから」
『うん! 私、サイコショックのところをもう一回読みたい!』
キルリアが横からノートを覗き込み、クチートも窓際から一度だけこちらへ視線を向けた。勉強に興味があると認めるつもりはないらしく、すぐに外へ顔を戻してしまう。
「クチートも聞いてたもんな」
ガチン。
「否定するの早いな」
大顎の音で目を覚ましたイワンコが顔を上げ、そのままクチートの膝へ前脚を掛けた。クチートは嫌そうに眉を寄せたものの、大顎を向けることもなく、仕方なさそうにイワンコの頭を片手で押し下げる。イワンコは構ってもらえたと思ったのか、尻尾を床へ何度もぶつけ始めた。
「昔からあんな感じだったの?」
アイが笑いながら聞く。
「ああ。イワンコは人には簡単に近づかなかったのに、クチートにはやたら寄っていってた。クチートは毎回、興味ないふりしてたけど」
ガチン。
「はいはい、違うんだな」
クチートは完全に顔を逸らし、イワンコだけが嬉しそうに鳴いた。
朝食を済ませ、宿を出る準備を整える。アイは今日、ヨスガから東へ向かうらしい。俺は南へ進み、次の街を目指すつもりだった。同じ方向を歩ける時間は、宿から街の分かれ道までしかない。
荷物を背負い、忘れ物がないか部屋を見回していると、アイだけがまだ自分の鞄の前で動かなかった。中へ手を入れたまま、何かを確かめるようにこちらを見る。
「ユア」
「何?」
「渡したいものがあるんだけど」
「ノートならもうもらったぞ」
「それとは別」
アイは鞄の奥から、布に包まれたものをゆっくり取り出した。両腕で抱えるくらいの大きさがあり、丸い形を崩さないよう厚い布が何重にも巻かれている。
机の上へ置かれた包みを見て、キルリアがすぐに近づいた。
『なに、それ?』
「開けてみれば分かるよ」
アイが布を解いていく。最後の一枚が外れると、中から淡い模様の浮かんだ卵が現れた。
「ポケモンの卵……?」
『中にいるの?』
「うん。まだ何のポケモンかは分からないけど」
キルリアは目を輝かせ、卵へ顔を近づける。触っていいか尋ねると、アイは優しくならと頷いた。キルリアは両手をそっと殻へ置き、何かを確かめるように目を閉じる。
『……いる』
「分かるのか?」
『うん。まだ小さいけど、ちゃんといるよ』
クチートも椅子から降り、少し離れた位置から卵を見た。イワンコとホゲータも集まり、ドオーまで重そうに体を起こして机の方へ顔を向けている。
「それをどうするんだ?」
尋ねると、アイは卵ではなく俺を見た。
「ユアに預かってほしい」
「俺が?」
「うん」
「でも、アイが持ってた卵だろ。自分で育てればいいじゃん」
「育てられないから渡すわけじゃないよ」
アイはすぐに否定した。いつものように強く言い返すのではなく、自分の中にある言葉を選ぶように少し間を置く。
「ボクが育てても、この子はきっとちゃんと育つと思う。ドーも、ホゲータも、イワンコもいるし。でも、クロガネへ行って、キミの家や鉱山を見てから、ずっと考えてたんだ」
「俺の家?」
「うん。キミの部屋に泊まって、お父さんとお母さんの話を聞いて、鉱山で人とポケモンが一緒に働いているところを見た。あのクチートがキミについていくことを選んだ理由までは、ボクには分からない。でも、簡単には人を信じなかったクチートが、自分から鉱山を離れたことには意味があると思う」
クチートの耳がわずかに動いたが、アイはそちらを見ずに続けた。
「イワンコを託された時、作業員さんが、あのユアをライバルだと言い切れるなら信用できるって言ったんだ。正直、その時は少し勝手な理由だと思った。でも、テンガン山で負けた話を聞いて、昨日のバトルを見て、夜も一緒に過ごして……少し分かった気がする」
「何が?」
「キミは、まだ知らないことも多いし、周りが見えなくなることもあるし、変なところで鈍いけど」
「悪いところばっかりじゃん」
「最後まで聞いて」
アイに止められ、口を閉じる。
「それでも、分からないことを分からないままにしたくないとは思ってる。失敗したら悔しがるし、仲間が苦しんでたら自分のせいかもしれないって考える。考えすぎて、また違う方向へ行くこともあるけど、そこで終わらない。ちゃんと話して、次へ進もうとする」
「……」
「だから、この子もキミたちと旅をする方がいいと思った。キルリアやクチートと一緒に、色んな場所を見られるから」
言葉がすぐには出てこなかった。
卵へ目を向ける。淡い殻の内側で、まだ見たことのないポケモンが眠っている。どんな姿なのか、いつ生まれるのか、俺に育てられるのかも分からない。
「俺でいいのかな」
「そう思ったから渡してる」
「でも俺、昨日まで状態異常のこともよく知らなかったぞ」
「だからノートも渡したんでしょ。読んで覚えればいいよ」
「簡単に言うな……」
「最初から何でもできる人にしか卵を預けられないなら、誰も新しいポケモンと出会えないよ」
アイは卵を包み直し、俺の方へ差し出した。
「それに、キミ一人で育てるわけじゃないでしょ?」
キルリアがすぐに頷く。
『私もいるよ! この子が生まれたら、いっぱいお話しする!』
クチートは卵をしばらく見たあと、大顎を短く鳴らした。
ガチッ。
「クチートも手伝うって」
もう一度、大顎が鳴る。
ガチン。
「違うの?」
クチートは答えず、卵の横へ座った。興味がないと言い張るには、少し近すぎる位置だった。
「……分かった」
両腕で卵を受け取る。見た目より温かく、その温度が布越しに伝わってきた。
「俺が預かる。ちゃんと生まれるまで守るし、生まれたあとも一緒に旅する」
「うん。お願い」
「ありがとな」
「それは生まれてから言って。まだキミを選ぶか分からないんだから」
「卵から出て、すぐ逃げられるかもしれないってこと?」
「ポケモンにも気持ちはあるからね」
『大丈夫だよ。私がユアはいい人だって教えるから!』
「キルリアが一番信用されなかったらどうする?」
『失礼だよ!』
キルリアが頬を膨らませ、アイが笑う。その声につられるようにホゲータが鳴き、イワンコも尻尾を振りながら卵の周りを回り始めた。ドオーだけは興味があるのかないのか分からない顔で、元いた場所へ戻っていく。
卵を鞄へ直接入れるわけにはいかないため、アイに包み方を教わり、胸元で固定できるよう布を巻き直した。歩いた時に揺れすぎないことを確かめ、ようやく宿を出る。
朝のヨスガは昨日と変わらず賑やかだった。コンテスト会場の前では次の催しの準備が始まり、ジムへ続く通りには新しい挑戦者らしいトレーナーが歩いている。街へ来た時、ラルトスは景色へ目を向けず、早くジムへ行こうと俺を急かしていた。その隣を歩くキルリアは、店先へ並ぶ花や、空を飛ぶムックルや、俺が抱えている卵まで、気になるものを見つけるたびに言葉にした。
『ユア、この子、揺れてない?』
「大丈夫。さっき確認しただろ」
『寒くないかな?』
「今日は暖かいし、布も巻いてる」
『私の手も当てた方がいい?』
「歩きにくくなるからいいよ」
『生まれるの、今日かもしれないよ?』
「そんなにすぐなの?」
「分からないよ」
アイが隣から答える。
「卵によって違うから。たくさん歩いた方が生まれやすいとは言われてるけど、焦らせるものじゃないよ」
『じゃあ、いっぱい歩こう!』
「キルリアは歩きたいだけだろ」
『それもある!』
街の南東にある分かれ道へ着く。右へ進めば東の街道、左へ曲がれば南へ続く道。ここから先は、俺とアイの進む方向が分かれる。
「じゃあ、ボクはこっち」
アイが東の道を指す。ドオーがその隣へ並び、ホゲータとイワンコも少し先まで進んでから振り返った。
「俺は南だな」
「ノート、ちゃんと読んでね」
「分かってる」
「卵も、地面へ直接置かないこと。夜は冷えないようにして、強く揺らさない。何か変わったことがあったら、すぐポケモンセンターへ行く」
「一気に言うなよ。覚えてるって」
「本当に?」
「ノートに卵のことも書いてある?」
「少しだけ。足りないところは自分で調べて」
「結局勉強が増えてる……」
「仲間が増えるんだから当たり前でしょ」
アイは呆れたように言いながらも、卵を包んだ布が緩んでいないか最後に確かめた。
「それじゃあ」
「ああ」
短い沈黙が落ちる。
コトブキで別れた時も、次にいつ会うのかは分からなかった。それでもクロガネを経て、ヨスガでまた会えた。次も、どこかの街か道の途中で、何でもないように顔を合わせるのかもしれない。
アイが先に口を開いた。
「次は負けないから」
「それ、俺の台詞だからな」
「早い者勝ち」
「何だよ、それ」
以前と同じやり取りだった。けれど今度は、キルリアが隣で嬉しそうに笑い、イワンコも俺を覚えているように一度だけ駆け寄ってくる。頭を撫でると、イワンコは満足したようにアイのところへ戻った。
「じゃあな、アイ」
「うん。またね、ユア」
『アイ、またね! 次は私、もっと強くなってるから!』
「楽しみにしてる。キルリアも、その子のことよろしくね」
『任せて!』
クチートの大顎が一度鳴る。
ガチッ。
アイはクチートへも小さく手を振り、東へ歩き始めた。ドオー、ホゲータ、イワンコがそれぞれの速さで後を追う。イワンコだけは何度か振り返ったが、やがて街道の先へ続く坂道に姿が隠れた。
俺たちも南へ向かう。
ヨスガシティの建物が少しずつ後ろへ遠ざかり、道の両側には草原が広がっていく。クチートはいつものように少し後ろを歩き、キルリアは俺の隣から卵を何度も覗き込んでいた。
『ねえ、ユア』
「ん?」
『この子、どんなポケモンかな?』
「分からない」
『私みたいにお喋りできるかな?』
「生まれたばっかりなら、すぐには無理じゃない?」
『じゃあ、私が言葉を教える! ユアの名前も、クチートの名前も、旅のことも、いっぱい教えるね』
「生まれた初日から話しすぎて嫌われるなよ」
『嫌われないもん』
キルリアは頬を膨らませたあと、すぐに卵へ笑顔を向ける。
『早く会いたいな』
「俺も」
口にしてから、胸元の卵へ手を添えた。殻の向こうにいる命が、俺たちの声を聞いているかは分からない。それでも、そこにいると分かっただけで、抱えているものの重さが少し変わった。
「生まれてきたら、一緒に旅しよう」
キルリアが大きく頷く。
『うん! みんなで!』
少し後ろを歩いていたクチートが、俺たちへ追いつく。卵へ一度だけ視線を落とし、すぐに前を向いた。
ガチッ。
ヨスガへ来た時、ラルトスは笑うことも、周りを見ることも忘れ、あれほど大切にしていた石まで俺へ預けていた。
街を出る今、隣には未来を楽しみに笑うキルリアがいる。
そのすぐそばにはクチートがいて、俺の胸元には、まだ名前も姿も知らない新しい仲間が眠っている。
俺たちはヨスガシティを背に、南へ続く道を歩き始めた。