十歳の誕生日の朝、窓の外ではいつも通りムックルが鳴いていた。開けたままの隙間から入り込んだ風がカーテンを揺らし、朝日が床の上に四角く落ちている。俺は目を擦りながら体を起こし、隣を見た。布団の端では、ラルトスが自分用の小さな布団を抱えるようにして眠っている。長い睫毛が少し動き、赤い目がゆっくり開いた。
『……おはよう』
「おはよう。今日は俺の誕生日だから、もうちょっと元気よく起きようと思ってたんだけど、普通に眠いな」
ラルトスは返事をせず、布団の上で起き上がると、しばらく俺の顔を見ていた。
「なに?」
ラルトスは自分の頭を軽く叩いてから、俺の頭を指差した。俺は髪に触る。指に、変な方向へ跳ねた毛先が引っかかった。
「寝癖? 嘘だろ。十歳の朝からこれかよ。そんなひどい?」
ラルトスは少し考えてから、こくりと頷いた。
「そこは迷えよ。いや、迷った結果がそれなら余計ひどいけど」
ラルトスは膝立ちになって、俺の髪へ手を伸ばした。小さな手がぺたぺたと毛先を押さえる。けれど俺の髪は一度寝癖がつくとなかなか戻らなくて、ラルトスが手を離すたびにまたぴょんと跳ねた。
『……なおらない』
「だろ。俺も無理なんだよ、それ。父さんにもよく変な頭してるって言われるし」
『……つよい』
「寝癖を褒めるな。強い寝癖ってなんだよ」
ラルトスはもう一度だけ髪を押さえてから、諦めたように手を下ろした。俺が笑うと、ラルトスは少しだけ目を細める。朝の光の中で、そんなやり取りをすることが、いつの間にか普通になっていた。
ーー
部屋を出ると、階段の下から味噌汁の匂いが上がってきた。ラルトスは俺の少し前を歩き、途中で足を止めて振り返る。俺がついてきているのを確かめると、また階段を下りる。最後の一段だけ少し跳ねる癖は、何度見ても直らない。台所では母さんが鍋を見ていて、父さんはもう席についていた。障子の向こうでは、庭にいるガブの青い背中が見える。
「おはよう。十歳になった朝は、ちゃんと起きられたみたいね。昨日の夜、明日は誕生日だから一回で起きるって言ってたけど、本当に一回で起きたの?」
「起きた。ちゃんと起きた。目は開いたし、体も起こしたし、寝癖もラルトスに直してもらおうとした。直らなかったけど」
「そこまで言えるなら起きてるわね」
母さんがそう言って笑う。ラルトスは俺より先に椅子の横へ行き、自分用の小さな座布団を引っ張って位置を直していた。父さんがそれを横目で見る。
「ラルトス、その座布団は昨日より少し右だ。そこだとユアが味噌汁をこぼした時に巻き込まれるぞ。こいつは気をつけている時ほど変なところに肘をぶつけるからな」
「なんで俺がこぼす前提なんだよ。昨日のはちょっと手が滑っただけだし、そもそも今日は誕生日だからこぼさない」
『……きのう、ちょっと、じゃない』
「お前まで言うな。というか、そこだけ覚えてなくていいんだよ」
ラルトスは座布団へ座ると、母さんが置いた小皿へ視線を落とした。切った木の実が三つ。ラルトスは一つ摘まみ、すぐには食べず、父さんの方を見る。
『……いただきます』
「ああ、食べろ。今日はユアの誕生日だから、お前の木の実も少し多めに切ってある。母さんに礼を言うなら、あとでちゃんと皿を下げるのを手伝え」
『……うん。ありがとう』
ラルトスは木の実を齧り、赤い目を少し細めた。母さんはその様子を見て、何も言わずにもう一切れだけ小皿へ足す。ラルトスはそれに気づくと、母さんへ小さく頭を下げた。母さんも軽く頷く。たったそれだけで、朝はそのまま進んでいった。
「それで、今日はどうするの?」
母さんが俺の前にご飯を置きながら聞いた。
「父さんが、少し歩くかって。山の方の道だけど、奥までは行かないって言ってた。ガブも来るし、ラルトスも水筒持っていく」
「十歳になったからって、山の奥まで行っていいわけじゃないからね。あの時のことを忘れてないなら、分かってると思うけど」
「分かってる。勝手に行かないし、足跡を見つけても一人で追いかけない。……たぶん」
「たぶん?」
「いや、追いかけない。絶対」
そう言うと、父さんが湯呑みを置いた。
「分かってるならいい。今日はガブもいるし、近くの道だけだ。ユア、お前はもう十歳だが、十歳になったから急に何でもできるわけじゃない。行ける場所が増えるんじゃなくて、気をつけなきゃいけないことが増えるんだ。そこを間違えるな。山も野生のポケモンも、お前の誕生日だから優しくなるわけじゃない」
「……うん」
父さんの言葉に、ラルトスも木の実を持ったままこっちを見た。俺が頷くと、ラルトスも小さく頷く。
『……きをつける。ユア、すぐ、見るから』
「お前もだ。ユアが調子に乗ったら止めろ。止まらなかったらガブを呼べ」
『……うん』
「おい。俺の信用どうなってるんだよ」
父さんは何も答えず、味噌汁を飲んだ。ラルトスは木の実をもう一つ齧った。
ーー
朝食の後、俺とラルトスは庭へ出た。草にはまだ朝露が残っていて、踏むと靴の横が少し濡れる。ラルトスは縁側から降りる時だけ足元を見て、それから庭の端へ歩いていく。ガブはいつもの場所で寝転がっていた。青い背中が朝日に照らされ、尻尾だけがゆっくり動いている。
「おはよう、ガブ。今日は父さんと少し歩くんだろ。俺、十歳になったからさ、ちゃんと山の歩き方を教えてもらうんだって」
「ガブ」
返事なのか寝ぼけただけなのか分からない声が返ってくる。ラルトスはガブの前で立ち止まり、しばらくその顔を覗き込んだ。ガブは目を開けない。けれど、少しだけ体をずらした。ラルトスが座れる分の場所が空く。ラルトスは何も言わず、そこへ腰を下ろした。ガブの横腹に背中を預け、朝食で残した木の実を小さく齧る。
「お前ら、いつの間にそんな感じになったんだよ。昔はガブが片目開けただけで、俺の後ろに隠れてたのに」
『……ガブ、あたたかい。あと、あまり、しゃべらない』
「理由そこかよ。まあ、確かに父さんよりは静かだけど」
「ガブ」
ガブが短く鳴いた。文句なのか、許可なのかは分からない。けれどラルトスは動かない。ガブもそのまま寝転がっている。俺が少し笑うと、ガブが片目だけ開けた。
「なんでもない。いや、ちょっと面白いなって思っただけ。お前、ラルトスには場所空けるんだな」
「ガブ」
「はいはい、俺にも優しいよ。分かってるって」
ガブはじっと俺を見てから、また目を閉じた。たぶん信じていない。
父さんが庭へ出てきたのは、その少し後だった。腰に小さな道具袋を提げ、手には俺の古い帽子を持っている。近くを歩くだけだと言っていたくせに、父さんはこういう時ちゃんと準備してくる。
「行くぞ。遠くまでは行かないが、今日は少しだけ山の方の道を歩く。ユア、帽子を被れ。ラルトス、水筒は持ったな。歩きながら、道の見方とポケモンとの距離を教える。遊びに行くわけじゃないが、怖がって歩く必要もない。見て、覚えて、危ないと思ったら止まる。それを練習する」
『……もった。あと、ユア、帽子』
「分かってるって」
ラルトスは縁側に置いていた小さな水筒を両手で抱え、ついでに俺の帽子を指差した。俺は父さんから帽子を受け取り、寝癖の上からかぶる。これで少しは隠れるはずだ。ガブはゆっくり立ち上がり、大きく伸びをする。ラルトスは立ち上がる時、ガブの横腹に手を置いた。ガブは何も言わなかった。
ーー
家の外へ出ると、クロガネシティの朝の音が少しずつ聞こえてきた。遠くで鉱山へ向かう人たちの声がして、道の端ではイシツブテが岩の上でじっと日を浴びている。ラルトスは俺の隣を歩きながら、時々そのポケモンたちへ顔を向けた。知らない相手に近づきすぎることはない。けれど、すぐ俺の後ろへ隠れることもない。相手がこちらへ来ないと分かると、ラルトスは前を向いてまた歩き出す。
道の向こうには、テンガン山が見えていた。三年前、俺が迷い込んだ山。今見ても大きい。晴れているのに、奥の方は少し暗く見える。父さんは俺の横を歩きながら、その山へ一度だけ目を向けた。
「覚えてるか」
「忘れるわけないだろ。あの洞窟の暗さも、コドラの足音も、ガブが来た時のことも覚えてる。父さんと母さんにめちゃくちゃ怒られたのも覚えてる」
「ならいい。怖かったことを忘れるな。怖かった場所へ二度と行くなという意味じゃない。行くなら、怖い場所だと知ったまま行けという意味だ。お前が十歳になったから、少しずつ教える。山の歩き方も、ポケモンとの距離も、戻る判断もだ。戻る判断ができないやつは、どれだけ進めても強くない」
俺は父さんの横顔を見る。説教の時ほど怖い顔ではなかった。でも、冗談で言っている顔でもない。
「うん。俺、ちゃんと覚えるよ。一人で突っ走らないようにする。……たぶんじゃなくて、ちゃんと」
ラルトスが俺の袖を少し引いた。見ると、ラルトスはテンガン山ではなく、道端の小さな足跡を見ていた。
『……これ、ムックル。たぶん、朝、ここで、とまった』
「分かるのか?」
『……足、ちいさい。あと、近くに、気持ち、残ってる』
「気持ちも残るのかよ」
『……すこし。ユアよりは、わかる』
「お前、そういうとこ変わんないよな。俺だって三年前よりは分かるようになったぞ。たぶん」
『……たぶん』
「そこ拾うなって」
ラルトスは答えず、足跡から顔を上げた。父さんは少しだけ口元を動かし、ガブは俺たちの後ろでゆっくり歩いている。道の先には草むらがあり、その向こうで風が通っていた。
十歳になったからといって、何かが急に変わったわけじゃない。朝起きて、飯を食べて、父さんに注意されて、ラルトスに少しからかわれる。いつもと同じだ。けれど、父さんが山の方の道を歩いていて、ガブが後ろにいて、ラルトスが隣にいる。
『……ユア』
「ん?」
『……きょう、たのしい。ユア、うまれた日で、みんなで、歩いてるから』
「まだ始まったばっかだぞ。まあ、俺も楽しいけど」
『……じゃあ、いい』
「いいのかよ」
ラルトスは前を向いたまま、小さく頷いた。テンガン山の方から風が吹き、草の匂いが混じる。俺は帽子を押さえ、ラルトスと並んで歩いた。隣の足音は、もう遅れていなかった。