門から屋敷へ続く一本道へ足を踏み入れると、左右の花壇は外から見ていた以上に奥行きがあった。赤や白、黄色の花が背の高さまで揃えて植えられ、その間には人が一人通れるほどの細い道が伸びている。庭師らしい人たちが土を返し、伸びた枝を切り、噴水から流れた水を小さな水路へ導いていた。大勢が働いているのに慌ただしさはなく、それぞれが自分の担当する場所を分かっているように動いている。風が吹けば花は一斉に揺れ、重なった香りが一本道まで流れてきた。
キルリアは俺の隣を歩きながら、右を見たかと思えばすぐ左へ顔を向けた。道中で見つけた花には一つずつ立ち止まっていたのに、ここでは目を留めたいものが多すぎるらしい。少し先へ進んでは振り返り、俺とクチートが来ていることを確認してから、次の花壇へ視線を移している。
『同じ色でも、形が違うよ』
「本当だな」
『こっちは匂いも違う。少し甘い』
キルリアは道の端へしゃがみ、白い花へ顔を近づけた。鼻先が触れそうなところで止まり、花弁の重なりを横から覗き込む。手を伸ばしたものの、摘むことも茎を曲げることもなく、指先で風に揺れる動きを追った。
「持っていかないのか?」
『ここのお花だから』
当たり前のことを聞かれたように答え、キルリアは立ち上がった。道端に咲いていた花と違い、この庭の花には育てている人がいる。毎朝水を与え、傷んだ葉を取り、同じ時期に咲くよう手をかけているのだろう。俺も近くで見るまで、どの花も勝手に咲いているようにしか思っていなかった。
背後から大顎が一度だけ鳴る。
ガチッ。
振り返ると、クチートが花壇ではなく、その奥にある生垣へ顔を向けていた。葉の隙間がわずかに揺れ、緑色の小さな影が奥へ沈んだように見える。さっき見かけたものと同じかもしれないが、姿を確かめる前に葉は元の位置へ戻ってしまった。
「またいたな」
クチートは返事をせず、しばらく同じ場所を見ていたが、こちらへ襲いかかる相手ではないと判断したのか、先へ進んだ俺たちの後ろへいつもの距離で続く。
花壇のさらに外側には、斜面に沿って広い庭園が造られていた。門から続く道だけでなく、噴水も、庭を歩く人も、その向こうの屋敷まで見渡せる。さっきの影がこの庭に暮らしているなら、俺たちが門へ着く前から見えていたはずだ。何を気にしているのかは分からないが、キルリアが花へ近づくたびに、葉の間で何かが動いているように見えた。
胸元の卵を片手で支えながら歩く。花壇を覗き込もうとしたキルリアが少し道の外へ寄ると、卵へぶつからないよう体の向きを変えた。布の結び目に緩みはなく、内側から動く気配もない。外からこれほど香りが届いているなら、卵の中にいるポケモンにも何か伝わっているのだろうか。
『この子も、お花の匂い分かるかな』
「殻の中まで届くのか?」
『分からない。でも、いっぱいあるよって教えてあげたい』
キルリアは卵へ直接触れず、胸元の包みへ顔を近づけた。
『きれいなお花がたくさんあるよ。生まれたら一緒に見ようね』
返事はない。それでもキルリアは満足そうに離れ、また屋敷へ向かって歩き始めた。斜面の花畑から、小さな葉が一度だけ持ち上がる。そこにいる何かも、キルリアの声を聞いていたのかもしれない。
一本道の途中にある噴水まで来ると、屋敷の全体がようやく見えるようになった。白い壁には大きな窓が等間隔に並び、中央の玄関から左右へ建物が広がっている。赤い屋根の上には煙突がいくつも立ち、少し離れた場所には本館より小さな建物まで続いていた。これほど大きいと、一つの家というより壁のない町に近い。
「迷子になりそうだな」
『ユア、道覚えるの苦手だもんね』
「そんなことないだろ」
『テンガン山で迷った』
「あれは七歳の時だし、山の中だろ。家の廊下とは違う」
『洋館でも一人になった』
「シロナがいなくなったから探してたんだよ」
キルリアは納得していない顔でこちらを見た。洋館でのことを明るく話せるようになったのは、すべて終わったからなのかもしれない。それでも、赤い絨毯や長い廊下と聞けば、閉じ込められた夜の光景が少しだけ浮かぶ。
屋敷の正面へ近づくにつれて、窓や扉の大きさが分かってきた。玄関前には二本の柱が立ち、その間に黒い大扉がある。左右には同じ形へ整えられた低木が並び、石段の両端へ置かれた鉢にも花が咲いていた。扉の前には黒い燕尾服を着た年配の男性が一人立っている。背筋を真っすぐ伸ばし、白い手袋をした両手を体の前へ重ねていた。
男性は俺たちへ気づくと、石段を下りてきた。卵を抱えていることへ一度視線を向けてから、穏やかに頭を下げる。
「ようこそお越しくださいました。旅をされている方でございますね」
「はい。道から屋敷が見えたので、少し庭を見てもいいのかなって」
「もちろんでございます。この庭園は旦那様の自慢でして、旅の方々にもご覧いただけるよう開放しております。花がお好きなお連れ様にも、楽しんでいただけたようで何よりです」
声を掛けられたキルリアは少し驚いたあと、嬉しそうに頷いた。
『すごくきれい! 全部、あなたが育てたの?』
男性はキルリアのテレパシーの声に驚いた様子を見せながらも、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「私は屋敷の中をお預かりする者です。庭については、庭師たちが毎日心を込めて世話をしております。もっとも、彼らだけで育てているわけではないようですが」
「ほかにも誰かいるんですか?」
「ええ。庭を気に入って住み着いた野生のポケモンたちも、時折手を貸してくれるのですよ」
男性は花畑の方へ顔を向けた。俺も振り返ったが、さっきの影はもう見えない。キルリアだけが花壇の向こうへ目を凝らし、誰かいるのかと探していた。
「私はこの屋敷で執事を務めております。旦那様はお客様と旅のお話をすることを何より楽しみにしておられますので、お時間がございましたら、お会いになっていかれませんか?」
「俺たちが入っても大丈夫なんですか?」
「ええ。旦那様からも、若いトレーナーがお見えになった時にはぜひお通しするよう言いつかっております」
俺の後ろにいるクチートを見る。屋敷へ入るのを嫌がっている様子はない。キルリアはすでに玄関の大きさを見上げていた。
「じゃあ、お願いします」
「かしこまりました。どうぞこちらへ」
執事が扉へ手を掛けると、重そうな見た目に反して音もなく内側へ開いた。外から見えていた庭園の明るさとは入れ替わるように、屋敷の中には落ち着いた光が広がっている。正面には二階へ続く大階段があり、その上から大きなシャンデリアが下がっていた。床へ敷かれた赤い絨毯は廊下の奥まで続き、壁には風景画や人物画、古い時計が一定の間隔で並んでいる。磨かれた床や家具には埃一つなく、窓から入った光が木目の上へ細く反射していた。
足を踏み入れたキルリアが、声を漏らさないようにするつもりだったのか、小さく息を吸った。
『外も広かったけど、中も広いね』
「本当に迷いそうだな……」
『やっぱり』
「まだ迷ってないからな」
執事は俺たちの会話へ口元を緩めながら、正面の廊下へ進んでいく。クチートは入口で一度だけ周囲を見回したあと、屋敷の人間や飾られた品に興味を示すことなく、俺の少し後ろへついた。ただ、大顎だけは壁の置物へ触れないよう体の内側へ寄せている。鉱山で重機の間を歩いていた頃には考えられなかったほど、周囲の物へ気を配るようになっていた。
廊下を歩くたび、靴音が高い天井へ静かに返る。壁には見たことのない土地を描いた絵や、珍しい形の器、古そうな道具が飾られていた。金や宝石で飾られた物もあったが、どれも見せつけるように並べられているのではなく、誰かが一つずつ選び、置く場所まで考えたように見える。庭と同じだ。広く豪華だから目を引くのではなく、長い間手を入れ続けてきたことが、どこを見ても残っていた。
大きな窓の前を通った時、外の庭園が一望できた。門から屋敷まで続く一本道も、俺たちが立ち止まった噴水も、キルリアが花を覗き込んでいた場所も見える。庭の斜面からなら、こちらへ近づいてくる人の姿をかなり遠くから見つけられるはずだ。
花壇の陰で、緑色の小さな影がこちらを向いていた。
「……いた」
俺が足を止めると、影はすぐに葉の間へ身を沈めた。
『さっきの子?』
「多分」
『どんなポケモンだった?』
「ちゃんとは見えなかった。緑色で、小さくて……」
クチートは窓越しに花壇を見たあと、興味をなくしたように前へ顔を戻した。姿は見えていたのかもしれないが、教えるつもりはないらしい。
「庭に暮らしているポケモンでしょうか」
執事が歩みを緩める。
「ええ、おそらく。庭には人前へ出ることを好まない子もおります。ですが、花を傷つけたり、お客様へ危害を加えたりはいたしません。どうか無理に追わず、向こうから姿を見せるまで待ってあげてください」
「分かりました」
『仲良くなれるかな』
「なれますよ、花を愛でる気持ちがあれば、きっと」
キルリアは窓の外をもう一度見て、花壇へ向かって小さく手を振った。隠れた影がそれを見ていたかは分からない。けれど、俺たちが歩き出したあと、葉の先が一度だけ揺れた。
執事に案内された応接室には、大きな窓と低い机、向かい合うように置かれた長椅子があった。庭を見渡せる窓際には花瓶があり、庭園で咲いていたものと同じ白い花が数本生けられている。俺たちが部屋へ入ると、奥の椅子へ座っていた老人がゆっくり立ち上がった。
白い髪を後ろへ整え、深い緑色の上着を身につけている。豪華な屋敷の主人と聞いて、もっと近寄りがたい人を想像していたが、老人は俺たちの泥のついた靴や旅装を気にする様子もなく、目元へ穏やかな皺を寄せた。
「これはこれは。ようこそ、我がウラヤマ邸へ。私がこの屋敷の主人、ウラヤマです」
「ユアです。こっちはキルリアとクチート」
紹介すると、キルリアは頭を下げ、クチートは俺の後ろからウラヤマを見る。ウラヤマは二匹へも同じように頭を下げた。
「お会いできて光栄です。キルリアにクチート、それから……大切な卵も一緒のようですね」
「昨日、友達から預かったんです」
「そうでしたか。まだ生まれていない命を連れた旅は、何かと気を使うでしょう。どうぞこちらでは、ゆっくりお休みください」
ウラヤマが長椅子を勧める。卵を圧迫しないよう体の向きを確かめて腰を下ろすと、キルリアは俺の隣へ座り、クチートは少し迷ったあと窓に近い場所へ立った。庭を見渡せる位置を選んだらしい。
ほどなくして、別の使用人が茶と焼き菓子を運んできた。机へ置かれた皿には、小さな花の形をした菓子が並んでいる。キルリアは菓子と窓際の花瓶を見比べ、同じ花なのか確かめるように首を傾げた。
「どうぞ、遠慮なく召し上がってください。旅人をもてなして、その道中のお話を聞くことが、年を取った私の楽しみでしてね」
「俺たちの話でいいんですか?」
「もちろんです。自分の足で各地を巡ることが難しくなれば、旅をする方々の目を借りるのが一番です。どこからいらしたのですかな?」
「クロガネシティです。そこからコトブキやソノオを通って、ハクタイとテンガン山を越えてきました」
「それは随分と歩かれましたね。まだお若いのに、大したものです」
「迷ったり、寄り道したりもしてますけど」
「それも旅の一部でしょう。何も失敗しなかった旅より、道を間違えた時に何を見つけたかの方が、後々まで残るものです」
ウラヤマは詳しく聞き出そうとせず、俺が話した町の名前を一つずつ確かめるように頷いた。自分の屋敷や持ち物を自慢するために客を呼んでいるのではなく、本当に外の話を聞くことが好きなのだろう。俺がヨスガでジムへ挑んだと話すと、キルリアの進化を祝い、クチートがゴースを倒したことにも素直に驚いた。キルリアは嬉しくなったのか、自分からムウマージとの戦いを話し始めたが、次々に言葉が出るせいで、途中から何をどこまで説明したのか分からなくなっている。
『それでね、クチートが先に戦ってくれて、私は一人で勝たなきゃって思ってたんだけど、ユアとクチートがいるって分かって、それから光って、体が大きくなって、新しい技も使えるようになったの!』
「なるほど。大変素晴らしい戦いだったのですね」
「今の説明で分かったんですか?」
「大切な方々と力を合わせ、進化を遂げた。それだけ分かれば十分でしょう」
キルリアは満足そうに頷き、花の形をした焼き菓子を一つ取った。食べる前に少し眺め、壊すのが惜しいように端から小さく口へ運ぶ。クチートには必要ないかと思ったが、皿を向けると一度だけ菓子を見て、大顎で一つ受け取った。
ウラヤマはその様子を見たあと、キルリアへ尋ねた。
「庭の花もご覧になりましたかな?」
『うん! いっぱいあって、全部きれいだった!』
「それは嬉しい。あの庭は、この屋敷で私が最も誇りにしている場所の一つです。季節が変われば花も入れ替わりますから、いつ訪れても同じ景色にはなりません」
『全部、庭師さんが育ててるの?』
「庭師たちの力はもちろんですが、庭に暮らすポケモンたちにも助けられております。人の手だけでは、あれほど多くの花を健やかに保つことは難しいのですよ」
キルリアは窓の外を見た。花壇の陰にいた影を思い出したのだろう。すぐに探しに行きたい様子だったが、ウラヤマとの話を途中で終わらせるのは失礼だと思ったのか、席を立たずにいる。
ウラヤマはそんなキルリアへ笑いかけ、ゆっくり椅子から立ち上がった。
「せっかくお越しいただいたのです。お時間が許すのでしたら、屋敷の中をご案内いたしましょう。庭のことも、ここでお話しするより、窓から実際に眺めながらの方が分かりやすい」
「入っていい場所なんですか?」
「もちろん。すべての部屋とは参りませんが、旅の方へお見せしたいものはいくつもございます」
ウラヤマが扉へ向かうと、執事が先回りして静かに開いた。キルリアは残っていた菓子を急いで口へ入れようとしたが、喉へ詰まらせそうになり、俺が水を差し出す。クチートはすでに窓際を離れ、廊下へ出る準備をしていた。
「慌てなくても、お菓子は逃げないぞ」
『だって、案内が始まっちゃうと思って』
「食べ終わるまで待ってもらえばいいだろ」
ウラヤマは廊下から俺たちを振り返り、楽しそうに笑っていた。
「どうぞごゆっくり。屋敷も花も、急いで見て回るものではありませんから」
キルリアが最後の一口を飲み込むのを待ち、俺たちは応接室を出た。胸元の卵を支え直し、ウラヤマの後ろへ続く。
「まずは、私の書斎へご案内いたしましょう」
その言葉とともに、ウラヤマは赤い絨毯の続く廊下を歩き始めた。