応接室を出ると、ウラヤマは赤い絨毯の続く廊下をゆっくり歩き始めた。執事は扉の脇で一礼し、空になった茶器を片づける使用人へ声を掛けている。案内まで任せきりにせず、自分の屋敷を自分の言葉で見せたいらしい。胸元の卵を片手で支えながら後へ続くと、キルリアはウラヤマと俺の間を歩き、壁に掛けられた絵や棚の置物を見つけるたびに顔を上げた。クチートはいつものように俺の少し後ろへ位置を取り、大顎が壁や家具へ触れないよう体の内側へ寄せている。
「この屋敷そのものは先祖から受け継いだものですが、中にある品は代々集められてきた物ばかりではありません。私が若い頃に旅先で見つけた物や、友人から譲り受けた物も数多くございます」
ウラヤマは窓と窓の間に掛けられた風景画の前で足を止めた。青い屋根の家々を大きな塔が見下ろし、道の中央を見慣れない形の車が走っている。空の色は少しくすみ、建物の輪郭も今の町を描いた絵ほど鮮やかではない。
「こちらはジョウト地方の画家が描いたものです。絵の具の色こそ褪せましたが、当時の街並みは今よりよく残っている。新しいものへ作り替える時、人は以前そこにあった景色を案外簡単に忘れてしまいますからね」
『ウラヤマさんは、ここに行ったことがあるの?』
「ええ、随分昔に。絵の中にある店で食事もしました。今は別の建物になっているそうですが、この絵を見ると味まで思い出せる気がします」
キルリアはもう一度絵を見上げ、どの建物がその店なのか探し始めた。ウラヤマが道の角にある小さな赤い屋根を教えると、目を近づけて店の窓まで確かめている。俺にはどこも似たような建物に見えたが、ウラヤマにとっては、一枚の絵の中に歩いた道や食べた物、その時一緒にいた人まで残っているのだろう。
さらに進むと、棚には大小の器や古い時計、石を削って作られたポケモンの置物が並んでいた。金色の飾りが付いた物もあれば、欠けた部分を直した跡が残る物もある。どれも磨かれていたが、新しく見せるために傷を消しているわけではない。過ごしてきた時間ごと残すように、割れ目や色の薄れた部分まで手入れされている。
「高そうな物ばっかりですね」
「高価な物もございますが、値段を知らない物の方が多いかもしれません。人から頂いた品へ、いくらの価値があるのか尋ねる機会はあまりありませんから」
「聞かないんですか?」
「私にとっては、値段よりも気持ちの方が大切ですからね」
ウラヤマは棚の端に置かれた、小さな木彫りのムックルへ指を添えた。片方の翼が少し短く、目の位置も左右でずれている。並んでいる器や時計と比べれば、誰かが慣れない手で削った物に見えた。
「これは、以前この屋敷で働いていた庭師の息子が作ってくれました。初めて完成させた木彫りだそうです。当人は不格好だから捨ててほしいと言いましたが、私は今も気に入っております」
『かわいいよ。ちゃんとムックルに見える』
「そうでしょう。本人へ聞かせてあげたいものです」
キルリアが木彫りへ笑いかけると、ウラヤマの目元にも柔らかな皺が寄った。豪華な屋敷へ通された時は、何を見ても値段が分からない俺が場違いに思えた。ウラヤマが並べているのは、高い物ではなく、どこで誰から受け取ったのかを覚えていたい物なのかもしれない。
廊下の突き当たりで、ウラヤマが濃い色の扉を開いた。中から紙と乾いた木の匂いが流れ、応接室とは違う静けさが廊下まで広がる。
「こちらが私の書斎です。散らかっておりますが、どうぞ」
部屋へ入ると、壁のほとんどが本棚で埋まっていた。背表紙の色も本の厚さも揃っておらず、上の棚には脚立がなければ届きそうにない。中央には何枚もの紙が広げられた大きな机があり、その脇へ地球儀と古いランプが置かれている。窓際には葉の大きな植物が並び、その向こうには庭園を見渡せる大きな窓があった。門から屋敷へ続く一本道だけでなく、斜面に広がる花畑や、庭師たちが働く細い道まで見える。
『本がいっぱい』
「読みたい物があれば、滞在中は自由に手に取って構いませんよ」
『お花の本もある?』
「もちろん。庭にある品種をまとめた本もございます。あとで庭師へ尋ねれば、実物と一緒に教えてくれるでしょう」
キルリアは本棚へ近づきかけたが、まずは案内の途中だと思い直したらしく、伸ばした手を引いて俺の隣へ戻った。クチートは窓際へ立ち、庭よりも窓へ映る室内の方を見ている。俺たちの後ろへ誰かが近づけば、外を見るより早く気づける位置だった。
机の周りを通り、部屋の奥へ進んだところで、ほかとは置かれ方の違う物が目に入った。一体の銅像が台座へ載せられ、その周囲だけ低い柵で囲まれている。窓際には、庭を見るクチートとは別に制服姿の警備員が一人立ち、俺たちが近づいても姿勢を崩さなかった。廊下や書斎には、壊せば弁償できそうにない品がいくつも並んでいた。その中で、柵と警備員の両方に守られているのは、この銅像だけだった。
「……あれ?」
足が止まった。
初めて見る形ではない。丸みのある台座も、上へ伸びた部分の歪みも、どこかで見た覚えがある。正面からでは思い出せず、柵に触れない位置で少し横へ移る。光の当たる角度が変わり、表面に刻まれた模様が見えた。
「あ……」
雨の音が屋根を叩いていた夜、薄暗い廊下の奥に同じ輪郭が立っていた。
「ハクタイの森の洋館に、これと同じ銅像があった」
キルリアも俺の隣へ来て銅像を見上げ、赤い目を細めた。
『うん。あった。廊下のところ』
ウラヤマの足音が止まる。振り返ると、驚いたように俺とキルリアを見比べていた。
「ハクタイの森にある洋館をご存じなのですか?」
「中へ入ったことがあります。雨がひどくて、泊まれる場所を探してて……」
閉じた扉、誰もいない廊下の足音、子ども部屋で見つけた日記。続きを話そうとすれば、どこから説明すればいいのか分からなくなる。ウラヤマは俺の口が止まった理由を問い詰めず、銅像へ顔を向けた。
「そうでしたか。あの洋館へ……」
穏やかな声は変わらなかったが、銅像を見る目に、さっきまで骨董品を紹介していた時とは違う時間が重なった。
「この銅像は、あの洋館に暮らしていた友人から贈られた物です。二体で一組として作られ、一体を洋館へ、もう一体を私の書斎へ置くことになりました。互いの家を訪ねるたび、同じ物が迎えてくれるのは面白いだろうと、彼が言い出したのですよ」
「友達だったんですか」
「ええ。若い頃から、長い付き合いでした。旦那様とはよく盤を挟みましたし、庭を造り始めた頃には、植える木の種類を巡って何度も意見を交わしました。私が華やかな花を増やそうとすれば、彼は森の景色へ馴染むものを選ぶべきだと言う。互いに譲らず、奥様から二人とも子どものようだと笑われたものです」
ウラヤマの口元がわずかに緩む。銅像の向こうでは、警備員が黙って前を向いている。毎日ここへ立ち、この品を守っているのだろう。
「奥様は人の話をよく聞く、聡明な方でした。お二人のお子さんも、幼い頃から何度かこの庭へ遊びに来てくれました。花の間へ隠れては、使用人たちを困らせていたものです」
ハクタイの洋館で見た少女の絵が浮かんだ。ゲンガーと手を繋ぎ、何も知らず笑っていた小さな姿。父親の霊が話した夜も、あの家族には事件が起こる前の時間が確かにあった。ウラヤマの話す庭で、その少女が花の陰へ隠れていた。
ウラヤマは銅像の前へ進み、柵の外から台座へ視線を落とした。
「本当に、悲しい事件でした。何が起きたのか、今もすべてが明らかになったわけではありません。私にできたのは、残されたこの品を手元へ置き、友人たちを忘れないことだけでした」
「だから警備員がいるんですね」
「ええ。ほかの品を軽んじているわけではありませんが、これは失えば同じ物を買い直せる品ではございません。あの一家が私へ贈ってくれた、この一体でなければ意味がないのです」
値段ではなく、贈られた理由が分かれば十分だと、さっきウラヤマは話していた。木彫りのムックルも、この銅像も、残している理由は同じなのだろう。
ポケットへ手を入れると、指先へ硬い石が触れた。テンガン山でラルトスだったキルリアが拾い、両腕で抱えるように持ち歩いていたものだ。あの時、なぜこの石を大切にしていたのかは今も分からない。マーズに負けたあと、キルリアは自分の手から石を離し、俺へ預けた。大切なものを託してくれたことを考えると、正体が分からないままでも手放す気にはなれなかった。
石を握ったまま、銅像を見上げる。
「その友達のこと、この銅像を見るたびに思い出すんですか?」
「毎回同じことを思い出すわけではありません。共に旅をした日もあれば、意見が合わず口を利かなかった日もある。最後に会った時の顔が浮かぶこともございます。思い出は、しまっておいた箱から同じ形で出てくる物ではないようです」
ウラヤマは少し考え、銅像から俺へ顔を向けた。
「手元へ残った物に触れた時、忘れていた声や景色が戻ってくる。それだけで支えられる日もあります。私にとって、この銅像はそのためにあるのでしょう」
ポケットの石は、形も色も銅像とは似ていない。俺にとって大切なのは石そのものより、キルリアがこれを託した時の手だった。いつか正体を知り、使い道が見つかったとしても、あの夜のことまでなくなるわけではない。
「……俺にも、預かってる物があります」
キルリアが俺のポケットへ目を向ける。何のことか気づいたらしく、何も聞かずに小さく笑った。
「それは、大切になさってください。物を残すことだけが思い出を守る方法ではありませんが、触れられる形があるのは、悪いことではございません」
「はい」
ウラヤマはそれ以上尋ねなかった。俺も洋館で知った真実を話さない。母親が少女を森へ連れ出したことも、ゲンガーが長い間あの場所へ残っていたことも、父親の霊が最後に娘へ謝り続けていたことも、ここで口にすればウラヤマの知る友人たちの姿まで変えてしまう気がした。父親の霊が望んでいたのは、誰かへ真相を言いふらすことではない。残された少女とゲンガーを、あの夜から解放することだった。
窓の外から光が差し、銅像の表面を細く照らす。キルリアはしばらく同じ場所を見ていたが、庭から吹き込んだ風に花の香りが混ざると、顔を窓へ向けた。
『あっ』
「どうした?」
キルリアが窓へ近づき、両手を枠へ添える。俺も隣へ並ぶと、書斎からは屋敷へ来る途中に通った花壇が見下ろせた。白い花の列の奥で、緑色の小さな影が葉の間から顔を出している。
『あの子、またいる』
門へ着く前から俺たちを見ていたポケモンだった。距離があるため細かな姿までは分からないが、丸い体の上に葉が重なり、赤い目だけがこちらへ向いている。俺と目が合った時には少し身を引いたものの、今度は花の中へ完全には隠れなかった。視線の先にいるのは、俺ではなくキルリアだった。
『こんにちは』
キルリアが窓越しに手を振る。
声が届いたのかは分からない。小さな影は動かず、白い花のそばからキルリアを見上げている。キルリアが窓際の花瓶へ顔を寄せると、影の頭にある葉がわずかに持ち上がった。
「ご存じのポケモンですか?」
ウラヤマも窓へ近づき、庭へ目を細めた。
「名前は知りません。屋敷へ来る途中から、何度か見かけてて」
「なるほど。あの子がこれほど長くお客様を眺めているのは珍しい」
『ウラヤマさんは知ってるの?』
「ええ。チュリネというポケモンです。以前からあの庭で暮らしておりますが、人の前へ進んで姿を見せることはほとんどございません。庭師たちにも必要以上には近づかず、花の陰から仕事を見ていることが多い子です」
「俺たちを警戒してるんですか?」
「警戒しているなら、もう姿を隠しているでしょう。どうやら、キルリアが花をご覧になる様子を気に入ったようですね」
『私を?』
キルリアは自分を指差し、もう一度庭を見る。チュリネは白い花の横へ立ったまま、今度は顔を隠そうとしなかった。
「花を摘まず、長い時間眺めていたからでしょうか。あの子は庭の花をよく見ております。どの花が咲き、どの葉が弱っているのか、庭師より先に気づくこともあるのですよ」
『お花が好きなんだ』
「きっと、あなたも同じだと思ったのでしょう」
キルリアは嬉しそうに笑い、窓へ額が触れそうなほど身を乗り出した。胸元の卵まで庭へ見せようと、俺の服を引いて隣へ呼ぶ。
『この子もいるよ。まだ生まれてないけど、私たちの家族になるの』
「窓からじゃ見えないだろ」
『でも声は聞こえるかもしれないよ』
庭のチュリネが聞いているかは分からない。キルリアは気にせず、花がたくさんあったことや、卵がまだ一度も動いていないことまで話し始めた。言葉の意味が伝わらなくても、楽しそうな声だけは窓越しに届いているかもしれない。
ウラヤマはキルリアと庭を交互に見て、先ほど銅像へ向けていたものとは違う笑みを浮かべた。
「書斎の案内は、ひとまずここまでにいたしましょう。庭に興味を持ってくださったお客様を、いつまでも窓の内側へ留めておくわけには参りません」
『庭に行っていいの?』
「もちろんです。花を近くでご覧いただきながら、庭師たちもご紹介しましょう。運が良ければ、あのチュリネも少し近くまで来てくれるかもしれません」
キルリアはすぐに窓から離れ、扉へ向かおうとして、銅像の前で足を止めた。ウラヤマへ振り返り、丁寧に頭を下げる。
『お友達のお話、聞かせてくれてありがとう』
ウラヤマは少し目を見開いたあと、同じように頭を下げた。
「こちらこそ、聞いてくださってありがとう。友人たちも、花を大切にしてくださる方へ話を聞いてもらえたことを喜ぶでしょう」
クチートは窓際を離れ、俺の横へ戻ってきた。銅像には最後まで興味を示さなかったが、ポケットへ入れた俺の手を一度だけ見ている。石を握っていたことに気づいていたらしい。
「行こうか」
ガチッ。
ポケットから手を抜き、胸元の卵を抱え直す。キルリアは扉の前で待ちきれないように庭の方角を見ていた。
ウラヤマが書斎の扉を開く。
「それでは、庭園へ参りましょう」
廊下の先から差し込む光の中へ、花の香りが流れ込んでいた。