書斎を出て廊下を進むと、ウラヤマは屋敷の裏手にある大きなガラス扉の前で足を止めた。扉の向こうには石造りのテラスがあり、その先へ書斎の窓から見下ろしていた庭園が広がっている。使用人が左右の取っ手へ手を掛け、二枚の扉を外側へ開くと、屋敷の中に留まっていた静かな空気が、流れ込んできた風に押されて動いた。土と水、いくつもの花が混じった香りが廊下まで届き、キルリアはウラヤマが声を掛けるより先にテラスへ踏み出した。
『近くで見ると、もっといっぱいある!』
書斎から見えた花壇は庭園の一部に過ぎなかった。テラスから三段ほど階段を下りた先で白い石畳がいくつもの方向へ分かれ、その間を形の違う花壇が埋めている。背の低い花を同じ色で揃えた場所もあれば、赤や黄色、紫の花が高さを変えて重なる場所もあり、さらに奥には人の背丈より高い生垣と、枝を丸く整えられた木々が並んでいた。庭師たちは花壇へ膝をついて土を返し、葉の裏側を一枚ずつ確かめている。水路の近くでは、コダックが小さなじょうろを咥えて歩き、その後ろから庭師が零れた水を踏まないよう追いかけていた。
「この庭を全部、毎日手入れしてるんですか?」
「ええ。花は咲いている時だけ世話をすればよいものではございません。芽を出す前も、花を落としたあとも、次の季節へ向けて少しずつ準備をしております。一日で目に見えるほど変わることは少ないのですが、何もしなかった日は、後になって必ず庭へ残るものです」
ウラヤマは石畳を歩きながら、近くの花壇で作業していた庭師へ軽く手を上げた。庭師は立ち上がろうとしたが、そのままで構わないと止められ、再び土へ視線を戻す。屋敷の主人が来たからといって仕事の手を止める必要はなく、ウラヤマも自分が歩くために道を空けさせようとはしない。庭師の道具が石畳へ置かれていれば、それを避けて花壇側へ寄り、踏みそうな枝があれば先に拾い上げていた。
キルリアは少し先へ進んでは立ち止まり、花壇の前へしゃがみ込んだ。白い花の中央へ淡い黄色が広がるもの、鈴のような形で下を向いて咲くもの、細い花弁が何枚も重なり、風を受けるたびに柔らかく形を変えるもの。名前を知らない花を見つけるたびに俺やウラヤマを呼び、答えを聞くと忘れないよう何度か繰り返している。花へ触れる時も、指先で花弁の縁をなぞるだけで、茎が傾けばすぐに手を離した。
「そんなに好きなら、一輪くらいもらえるか聞いてみるか?」
『咲いてるところがきれいだから、このままでいい』
「持って歩くより?」
『うん。ここなら、明日も咲いていられるでしょ』
キルリアは花壇の前から立ち上がり、隣に咲いた別の花へ移った。ソノオで花冠を作った時は、摘んだ花を自分で組み合わせることが楽しかったのだと思っていた。今の様子を見ると、花冠にしたかったから花を見ていたのではなく、最初から一つずつ違う形や匂いを眺めることが好きだったらしい。言葉が少なかった頃には、同じ景色を見ながら俺が気づけなかったことが、まだいくつも残っているのかもしれない。
クチートはテラスを下りたところで一度庭園を見渡し、花壇から少し離れた木陰へ向かった。幹へ背中を預けて座り、大顎を自分の横へ置く。花を見るつもりはなさそうだが、屋敷へ戻りたがる様子もない。庭師やポケモンが近くを通るたびに視線だけを動かし、誰もこちらへ近づいてこないと分かれば、すぐに顔を逸らしていた。
「クチートは花に興味なさそうだな」
ガチッ。
「今のは、あるってことか?」
もう一度大顎が鳴った。
ガチン。
「じゃあ、ないのか」
クチートは答える代わりに反対側を向いた。どちらでもいいから放っておけという意味かもしれない。キルリアが少し離れた花壇から『この花、クチートの色に似てるよ!』と呼ぶと、耳だけが一度動いたものの、立ち上がろうとはしなかった。
胸元の卵へ強い日差しが当たらないよう、布の上へ手をかざしながらキルリアの後を追った。花壇の間を通る道は細く、卵をぶつけないよう体を横へ向ける場所もある。書斎から見えていた緑色の影は、庭へ出てから一度も姿を現していない。人の前へ出たがらないと聞いていた以上、俺たちが近くへ来たことで奥へ逃げた可能性もあった。
キルリアが淡い青色の花の前で足を止めた時、向かい側の葉がわずかに揺れた。
風は俺たちの背中から吹いている。花弁は同じ方向へ傾いているのに、葉の間だけが逆へ動き、すぐに止まった。キルリアも気づいたらしく、花へ向けていた顔を上げる。
白い花の陰から、赤い目がこちらを見ていた。
書斎の窓から見下ろした時よりも近い。緑色の丸い体の上へ数枚の葉が重なり、足元は花壇の葉に隠れている。俺と視線が重なると体を引いたが、姿を消すところまでは下がらない。目はすぐに俺から外れ、キルリアへ戻った。
「チュリネ……だよな」
ウラヤマが教えてくれた名前を口にすると、頭の葉が小さく動いた。キルリアは振り返らず、その場へゆっくり膝をつく。近づけば花壇へ足を入れることになるため、石畳から動かない。手も伸ばさず、目の高さだけをチュリネに近づけた。
『こんにちは』
返事はなかった。
チュリネは白い花の陰に立ったまま、キルリアの顔と、その前に咲く青い花へ交互に目を向ける。キルリアも言葉を続けようとはせず、風に揺れる花とチュリネを見ていた。遠くでじょうろから水の落ちる音がし、木の上ではムックルが短く鳴いている。庭師たちも二匹に気づいていたが、手を止めて近づく者はいなかった。
しばらくして、青い花の一本が風に押され、隣の茎へ倒れかかった。キルリアが手を動かすより早く、チュリネが花の間から体を出した。頭の葉を茎の下へ差し入れ、折れないようゆっくり持ち上げる。傾いた根元へ前脚で土を寄せ、何度か押し固めると、花は元の位置に近いところまで戻った。
『お花を直したの?』
チュリネは花を見上げたあと、キルリアへ顔を向けた。
『ありがとう。このお花も、きっと嬉しいと思う』
赤い目が一度細くなったように見えた。すぐに白い花の近くへ戻ったが、最初より体の半分ほどが花壇の外へ出ている。キルリアは青い花へ顔を寄せ、茎が倒れないことを確かめた。
『チュリネも、お花が好きなんだね』
頭の葉がわずかに上下する。頷いたのか、風で動いただけなのかは分からない。キルリアは自分の胸元へ手を置き、笑った。
『私も好き。匂いも、色も、咲いてるところを見るのも好きだよ』
チュリネはその言葉を理解したのか確かめるように、キルリアが触れずに眺めていた青い花へ目を向ける。庭へ来るまで、チュリネは花の陰から何度もキルリアを見ていた。花を摘まず、近づくたびに立ち止まり、香りを楽しんでいる姿も見えていたはずだ。自分と同じように花を大切にする相手なのか、遠くから確かめていたのかもしれない。
「やはり、あなたに興味があったようですね」
少し後ろからウラヤマの声が届いた。キルリアはチュリネを驚かせないようゆっくり振り返る。
『私に?』
「この子が庭を訪れた方の前へ、ここまで姿を見せることはほとんどございません。庭師たちも、姿を見かければ無理に近づかず、向こうが離れるまで仕事の場所を変えることがあります」
近くで土を整えていた庭師が手袋についた泥を払い、俺たちへ頭を下げた。
「私もこの庭で長く働いておりますが、チュリネが初めて会った方の前へ出るところは見たことがありません。いつもなら、生垣の奥から様子を見ているだけです」
『どうして私のところに来たのかな』
「それは、チュリネにしか分からないでしょう」
ウラヤマは理由を決めつけず、キルリアとチュリネを見守っていた。キルリアも答えを聞き出そうとはせず、もう一度チュリネへ向き直る。
『私、キルリア。こっちがユアで、木のところにいるのがクチートだよ』
紹介され、クチートは木陰から一度だけこちらを見た。チュリネもそちらへ顔を向けたが、背中の大顎が目に入った途端、白い花の後ろへ一歩下がる。
「クチートは怖くないよ。多分」
ガチン。
「多分は余計だってさ」
クチートが立ち上がる。チュリネの体が強張ったように見えたが、クチートは近づかず、木の裏へ移ってこちらから姿が見えにくい位置へ座り直した。花に興味がないふりをしたまま、チュリネを怖がらせないよう距離を取ったのだろう。キルリアはその意味に気づいたのか、木の方へ小さく笑いかけた。
『クチートも優しいんだよ』
木の向こうから、低い音が返る。
ガチン。
『違うって言ってるけど嘘だよ』
「俺もわかった、ただの照れ隠しだ」
キルリアが笑うと、チュリネは二人のやり取りを不思議そうに見ていた。白い花の陰から少しずつ体を出し、最初にいた場所まで戻ってくる。
その後も、キルリアはチュリネへ近づこうとはしなかった。花壇に沿って歩き、気になった花を見つければ立ち止まる。チュリネは同じ花壇の中を移動し、一定の距離を保ったままついてきた。キルリアが花の名前をウラヤマへ尋ねれば、チュリネはその花へ頭の葉を寄せる。香りを確かめて笑えば、少し離れたところで赤い目が細くなる。二匹が直接触れ合うことはなかったが、最初より距離は半分ほどに縮まっていた。
胸元の卵を抱え直すと、キルリアがこちらへ戻ってきた。
『この子にも見せてあげたい』
「チュリネに?」
『うん。お花が好きなら、卵の子も好きになるかもしれないでしょ』
「まだ中の子が花を好きかは分からないぞ」
『今からいっぱい見たら好きになるかも』
キルリアは卵へ手を当て、チュリネからも見えるよう俺の体を少し花壇側へ向けた。
『この中に、まだ生まれてない子がいるの。私たちと一緒に旅するんだよ』
チュリネは卵へ視線を移した。すぐには近づかず、布に包まれた丸い形を長く眺めている。キルリアが何も起きないと説明すると、頭の葉を傾けた。
『今日はまだ動いてないけど、いつか生まれるの。私、お姉ちゃんになるんだ』
「いつからお姉ちゃんになったんだよ」
『卵貰った時から決めてた』
「初めて聞いたぞ」
『今言ったもん』
チュリネの視線が卵からキルリアへ戻り、頭の葉が小さく揺れた。キルリアは同意してもらえたと思ったのか、胸を張る。
庭園を歩いているうちに、花壇へ落ちる影が少しずつ長くなっていた。昼間は白く光っていた屋敷の壁も薄い橙色に染まり、庭師たちは使った道具を集め始めている。水やりを終えたコダックが空になったじょうろを置き、その場へ座り込んだ。
ウラヤマは懐中時計を取り出し、針を確かめてから西の空へ顔を向けた。
「楽しい時間は、過ぎるのが早いものです。もうすぐ日が暮れますね」
俺も空を見上げる。屋敷を出て南へ進んでも、暗くなる前に次の町へ着ける距離ではない。道の途中で野宿することはできるが、卵を抱えたまま夜道を歩く必要はなかった。
「そろそろ出た方がいいですか?」
「お急ぎのご予定があるのでなければ、今夜はこちらでお休みになってはいかがでしょう。客室ならいくつも空いておりますし、旅のお話もまだ伺いたい。庭にも、明日の朝にしか見られない花がございます」
最後の言葉へ、キルリアがすぐに反応した。
『朝にしか咲かないの?』
「朝の光を受けた時だけ花を開き、昼前には閉じてしまう品種があるのです。今から出発すれば、残念ながら見ることはできません」
キルリアは俺を見上げた。泊まりたいとは言わないが、赤い目には答えが出ている。クチートへ視線を向けると、木の陰から大顎が一度だけ鳴った。
ガチッ。
「クチートもいいって」
もう一度音が返る。
ガチン。
「違うのか?」
クチートは立ち上がって屋敷の方へ歩き始めた。泊まるかどうかの話を待つより、先に戻るつもりらしい。
「いいみたいです」
「それは何よりです。旅は先へ進むことも大切ですが、足を止めた場所でしか出会えないものもございます。どうぞ遠慮なくお過ごしください」
「じゃあ、一晩だけお願いします」
「一晩と言わず、気に入っていただけたなら何日でも構いませんよ」
「それはさすがに悪いです」
「では、まずは今夜をお楽しみください。夕食までにはお部屋をご用意いたしましょう」
ウラヤマが近くの使用人を呼び、客室の準備を頼む。キルリアはもう一度花壇へ向き直った。チュリネは白い花のそばに立ち、こちらを見ている。
『私たち、今日はここに泊まるんだって』
チュリネの頭の葉が持ち上がった。
『明日の朝も、お花を見に来るね』
キルリアが手を振る。チュリネは手を振り返すことも、声を出すこともなかった。花の陰へ隠れず、キルリアがウラヤマの後を追って歩き出すまで同じ場所に立っていた。
石畳を少し進んだところで、キルリアが振り返る。
チュリネもこちらを見ていた。
目が合うと、キルリアはもう一度だけ手を振った。チュリネの頭に重なる葉が、小さく左右へ揺れた。