庭園をあとにすると、ウラヤマに呼ばれた使用人が俺たちを客室まで案内してくれた。二階へ上がり、長い廊下の突き当たりにある扉を開く。中には大きなベッドが二つ並び、窓際へ丸いテーブルと椅子が置かれていた。壁には庭園を描いた絵が掛けられ、足元には靴の泥が目立ちそうなほど白い絨毯が敷かれている。ヨスガでアイと泊まった部屋も二人で使うには十分な広さだったが、ここはベッドの周りを歩くだけでも部屋の端まで何歩もかかった。
「一人ずつ寝ても、まだ余るな」
『私、ユアと寝るよ』
「聞く前から決めてるのか」
『いつも一緒だもん』
キルリアは当然のように答え、真っ先に窓へ向かった。分厚いカーテンの隙間から外を覗くと、夕日に照らされた庭園が眼下に広がっている。昼間に歩いた白い石畳や噴水も見えたが、建物の影が花壇まで伸び始め、色鮮やかだった花々も少しずつ薄暗さの中へ沈んでいた。
『チュリネ、いるかな』
キルリアは窓へ顔を近づけ、花壇から花壇へ視線を移した。緑色の小さな体は見当たらない。庭師たちも仕事を終える準備を始め、使った道具を集めながら屋敷とは別の建物へ運んでいる。
「暗くなる前に、自分の寝る場所へ戻ったんじゃないか」
『どこで寝てるんだろう』
「花の中とか?」
『寒くないかな』
「ずっとあの庭で暮らしてるなら、自分で安全な場所を知ってるだろ」
キルリアは納得したように頷いたものの、窓から離れる前にもう一度花壇を見回した。明日の朝に会えると約束したつもりでいるらしい。チュリネが同じように受け取ったのかは分からないが、最後に揺れた頭の葉を思い出せば、キルリアが庭へ来ることくらいは待っているのかもしれない。
俺は部屋の奥へ鞄を置き、胸元へ固定していた布の結び目を解いた。抱えていた卵を両手で持ち上げ、窓から離れた方のベッドへ移す。枕を二つ使って窪みを作り、その上へ畳んだ布を重ねれば、転がる心配はなさそうだった。
「ここなら大丈夫か」
キルリアも近づき、卵が傾いていないか左右から確かめる。殻に触れる前には必ず俺を見るようになり、頷くと両手をそっと添えた。
『今日は、お花がいっぱいあったよ』
「それ、庭にいた時も話してたぞ」
『もう一回教えてるの。中にいたら見えないでしょ』
キルリアは卵の中へ声を届けるように顔を近づけた。
『白いお花も、赤いお花もあってね、朝だけ咲くお花もあるんだって。明日、一緒に見に行こうね』
卵は動かない。キルリアは返事を待つようにしばらく両手を置き、やがて満足した顔で離れた。
クチートは部屋へ入ってから一言も鳴かず、壁や家具を一通り見回っていた。扉の位置、窓の鍵、ベッドの下まで確かめると、窓際の椅子へ腰を下ろす。背中の大顎は部屋の内側へ向け、本人は暗くなり始めた庭園を眺めている。
「ここでも窓際なんだな」
ガチッ。
「気に入ったのか?」
返事はない。クチートは庭を見たまま足を組み、俺たちへ興味がないような顔を作った。窓の外を気にしているのか、部屋へ誰かが近づかないか見ているのか、その両方なのかもしれない。
荷物を整理し、アイからもらったノートを机の上へ置いたところで扉が控えめに叩かれた。
「夕食のご用意が整いました。旦那様がお待ちでございます」
使用人に案内されて一階へ下りると、応接室とは反対側にある食堂へ通された。中央には端が遠く見えるほど長いテーブルが置かれ、白い布の上へ温かな料理が並んでいる。ウラヤマはすでに席についていたが、俺たちが入ると立ち上がり、昼間と変わらない穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「庭園では、良い時間を過ごしていただけましたかな」
「はい。キルリアは、もう明日の朝も行くつもりです」
『朝だけ咲くお花を見るの!』
「それは何よりです。明日は庭師へ声を掛けておきましょう。咲く場所まで案内してくれるはずです」
キルリアは俺の隣へ座り、クチートは椅子へ上がる代わりに俺の横へ立った。使用人がポケモン用の皿を用意しようとすると、クチートは必要ないと言うように大顎を鳴らしたが、木の実が入っていると分かると何も言わず受け取った。
料理には庭園で採れた野菜や木の実が多く使われていた。鮮やかな葉のサラダ、甘い香りのするスープ、焼いた根菜へ細かく刻んだ木の実をかけたもの。旅の途中では保存しやすい食べ物を選ぶことが多く、採れたばかりの野菜をいくつも同時に食べる機会はほとんどない。
『この葉っぱ、庭にあったよね』
キルリアが皿の上へ載った葉を持ち上げる。
「よく覚えておられますね。あれは花を楽しむだけでなく、若い葉を食べることもできる品種なのですよ」
『お花は食べないの?』
「花も食べられますが、明日の朝に咲く分を残してあります。すべて摘んでしまっては、庭が寂しくなりますからね」
ウラヤマは庭を眺めるだけの場所とは考えていないらしい。屋敷で使う野菜や木の実を育て、落ちた花は土へ戻し、弱った木は次の季節へ向けて手を入れる。庭師たちだけでなく、庭に住み着いたポケモンも作業を助けることがあると話した。
「チュリネも手伝ってるんですか?」
「ええ。誰かに頼まれて働くわけではございませんが、倒れた花を起こし、土が乾いていれば庭師を呼びに来ることもあります。病気になった葉を見つけるのも早い。庭師たちは、あの子に庭を見てもらっているようなものだと申しております」
『じゃあ、チュリネも庭師なんだ』
「本人がどう思っているかは分かりませんが、私どもにとっては大切な仲間です」
キルリアは昼間にチュリネが起こした青い花を思い出したらしく、何度も頷いた。花が好きなだけでなく、咲いている場所を自分の家のように守っている。だから花を摘まずに眺めるキルリアへ興味を持ったのだろう。
食事をしながら、ウラヤマは旅の続きを聞きたがった。次はどこへ向かうのかと尋ねられ、南へ進んでノモセシティを目指すつもりだと答える。大湿原の話になると、ウラヤマは若い頃に一度だけ訪れたことがあるらしく、膝まで泥へ沈んで使用人に引き上げられた話を、少し恥ずかしそうに聞かせてくれた。
「ウラヤマさんも泥にはまるんですね」
「もちろんです。金持ちだからといって、泥が避けてくれるわけではございませんから」
『今のウラヤマさんも、泥に入るの?』
「今は入りません。抜け出せず、そのまま大湿原の住人になるかもしれませんので」
キルリアが声を上げて笑い、ウラヤマも肩を揺らした。クチートは食べていた木の実を止め、一度だけウラヤマを見る。冗談を言う人物だと思っていなかったのかもしれない。
食事を終えて客室へ戻る頃には、窓の外は暗くなっていた。庭園の石畳に沿って小さな灯りが点り、花壇は昼間とは違う影を作っている。チュリネの姿を探すには暗すぎたが、キルリアはカーテンを閉じる前にしばらく外を眺めていた。
『もう寝たかな』
「多分な」
『明日も来てくれるかな』
「チュリネが会いたければ来るだろ。来なかったら、また花を見て帰ればいい」
『会いたいって思ってくれてるかな』
「今日、あれだけ近くにいたんだから、嫌われてはいないんじゃないか」
キルリアはそれで満足したらしく、窓から離れて卵のそばへ座った。
『今日はチュリネっていう子に会ったの。お花を直すのが上手で、私と同じでお花が好きなんだよ。まだあんまり近くには来ないけど、明日はもっと仲良くなれるかもしれないの』
「卵の子が生まれる前に、友達を紹介するつもりか?」
『だって、生まれた時に知らない子ばっかりだったら困るでしょ』
「俺とクチートもいるけど」
『二人だけじゃ少ないよ』
「昨日まで三人で旅してたんだけどな」
キルリアは卵へ話しかけることに戻り、俺の言葉を聞かなかったことにした。
寝る準備を整え、灯りを一つだけ残してベッドへ腰を下ろす。キルリアは待っていたように隣へ上がり、俺の左腕を両手で持ち上げた。
「自分で腕枕を作るなよ」
『だって、ユアが忘れてたから』
「まだ横にもなってないだろ」
キルリアは構わず俺の腕の上へ頭を置き、収まる位置を探して何度か動いた。ラルトスだった頃より体が大きくなり、腕へかかる重さも増えている。ヨスガの宿ではベッドが狭くて端へ追いやられたが、この客室のベッドなら、キルリアが横になってもまだ十分な余裕があった。
卵は枕で作った窪みへ置いたまま、ベッドの内側へ寄せる。寝返りを打ってもぶつからない距離を確認し、布団を少しだけかけた。キルリアは腕枕へ頭を載せながら、卵へ片手を伸ばせる位置にいる。
『この子も一緒』
「寝てる間に押すなよ」
『分かってるよ』
クチートは窓際の椅子へ座ったまま、俺たちが横になる様子を見ていた。普段ならそのまま椅子か床で眠る日もある。今日はどうするのかと思っていると、クチートは椅子から降り、ベッドの横まで歩いてきた。
「クチートも来るか?」
返事はない。
しばらく俺とキルリアを見たあと、ベッドの端へ手を掛けて跳び上がった。大顎が家具へ当たらない位置を確かめ、俺の右隣へ横になる。本人の体より場所を取る大顎はベッドの外側へ向けられ、扉へ近い位置へ収まった。
「今日は一緒に寝る日なんだな」
ガチッ。
「違う?」
ガチン。
「どっちだよ」
クチートは答えず、俺へ背中を向けて体を丸めた。気が向いたから来ただけで、誘われたからではないと言いたいのかもしれない。
『クチートも一緒だね』
キルリアが嬉しそうに体を起こし、布団の端を引っ張ってクチートの肩へかける。クチートは振り払おうとはせず、布団の位置を一度だけ確かめてから目を閉じた。
「昼間はチュリネを怖がらせないように隠れたくせに」
クチートの耳が動く。
ガチン。
「偶然だった?」
もう一度、少し強い音が鳴った。
「分かった。俺が勝手にそう思っただけ」
クチートは満足したのか、今度こそ動かなくなった。
灯りを消すと、庭園の小さな明かりだけがカーテンの隙間から床へ差し込んだ。左腕にはキルリアの重さがあり、右側にはクチートの背中が触れている。卵はキルリアの向こうで、枕の間へ静かに収まっていた。
『おやすみ、ユア』
「おやすみ」
少し間を置いて、クチートの大顎が小さく鳴る。
ガチッ。
「クチートも、おやすみ」
返事はなかった。
目を閉じると、歩き続けていた足の重さが布団へ沈んでいく。次の町へ向かわず、見つけた屋敷で一晩を過ごす。旅に出る前は、目的地へ早く着くことばかり考えていた。足を止めたから見られた花があり、話を聞けた人がいて、キルリアの新しい友達になるかもしれないポケモンとも出会えた。
どこへ着いたかだけではなく、途中で何を見たかも旅なのだろう。
◇
朝の光が瞼へ触れ、目を開いた。
左腕へ載っていた重さがない。
「……キルリア?」
寝返りを打とうとして、右側も空いていることに気づく。クチートが寝ていた場所には布団の皺だけが残り、枕の間へ置いていた卵はそのままだった。
体を起こして窓を見ると、カーテンが少し開いている。外は明るくなり始めたばかりで、花壇の向こうにある木々の影は長い。石畳の上を、見覚えのある二つの姿が歩いていた。
先に進むキルリアと、その少し後ろを歩くクチート。
「朝から早いな」
二匹だけで出たことに驚きはしたが、クチートが一緒なら心配はなかった。卵を置いていったのも、眠っている俺から勝手に持ち出さない方がいいと考えたのだろう。
顔を洗い、服を整える。卵を布で包み直して胸元へ固定し、部屋を出た。廊下では朝の仕事を始めた使用人とすれ違い、庭へ向かった二匹のことを尋ねると、少し前に裏口を開けたと教えてくれた。
ガラス扉を抜けると、冷たい空気が頬へ触れた。昨日の夕方より花の香りは薄く、代わりに湿った土と朝露の匂いが強い。花弁や葉には細かな水滴が残り、低い位置から差す光を一つずつ反射していた。昼間には閉じていた白い花が石畳の脇へ並び、朝日を受けるように花弁を広げている。
キルリアはその花の前へしゃがみ、両手を膝へ置いて眺めていた。クチートは少し離れた木の下へ立ち、庭園の奥へ顔を向けている。
『ユア、見て!』
足音に気づいたキルリアが振り返った。
『本当に朝だけ咲いてる! さっきまで閉じてたのに、光が当たったら開いたんだよ!』
「ずっと見てたのか?」
『うん。少しずつ開いたの』
「起こしてくれればよかったのに」
『ユア、気持ちよさそうに寝てたから』
クチートへ目を向ける。
「お前も起こさなかったんだな」
ガチッ。
「キルリアについてきただけ?」
クチートは肯定も否定もせず、花壇の奥へ視線を戻した。
その先で葉が揺れた。
朝露を載せた白い花の間から、チュリネが顔を出している。昨日より近い。姿を隠すための花はほとんどなく、石畳から数歩離れた位置に立っていた。
キルリアも気づき、立ち上がらずに笑いかけた。
『おはよう、チュリネ』
チュリネはすぐには動かなかった。キルリアと、その後ろに立つ俺、胸元の卵へ順番に視線を向ける。クチートを見た時だけ頭の葉が強張ったが、クチートが近づかないと分かると、花の間から一歩踏み出した。
前脚には、小さな花が一本抱えられていた。
白い花弁の中央へ、淡い黄色が広がっている。石畳の脇に咲いている朝の花と同じ種類に見えたが、根元から乱暴に引き抜いた跡はなく、短い茎の先がきれいに整えられていた。庭師が摘んだものを拾ったのか、自分で花を傷つけない場所を選んだのかもしれない。
チュリネはキルリアの前まで来ると、花を石畳へそっと置いた。すぐに数歩下がり、赤い目で反応を待つ。
キルリアは花とチュリネを何度も見比べた。
『……私に?』
チュリネは鳴かない。
頭の葉が、小さく上下した。
キルリアは両手で花を持ち上げ、折れないよう胸元へ添えた。昨日、花を摘まずに眺めていたキルリアへ、チュリネが自分から渡した最初の一輪だった。
『ありがとう。すごくきれい』
朝日を受けた花弁が、二匹の間で白く光った。