朝食を終えて庭園へ戻ると、石畳や花壇に残っていた朝露はすでに乾き、風に揺れる花の影が足元をゆっくり行き来していた。キルリアは今朝チュリネからもらった白い花を片手に持ち、花弁が折れていないか何度も確かめながら歩いている。部屋へ置いてくれば傷めずに済むと伝えたが、自分で持っていたいらしく、茎を強く握らないよう両手で包んでいた。花壇の向こうでは庭師たちが仕事を始めており、水を運ぶ者、土を返す者、咲き終わった花を摘み取る者が、それぞれ別の道具を手に動いている。俺たちに気づいた庭師が挨拶をすると、少し離れた葉の間からチュリネも顔を出した。
『チュリネ、おはよう!』
キルリアが白い花を掲げて見せる。チュリネは昨日までのように姿を隠さず、花壇の中から石畳の近くまで歩いてきた。キルリアの手元にある花を見上げ、萎れていないことを確かめるように頭の葉を傾ける。
『ちゃんと大事にしてるよ。ありがとう』
赤い目が細まり、頭の葉が小さく上下した。キルリアも同じように頷き返す。二匹のやり取りを見ていた庭師が、手袋についた土を払いながら笑った。
「本当に仲良くなりましたね」
「まだ会って一日くらいなんですけどね」
「時間の長さだけでは決まらないのでしょう。あの子があんなに楽しそうにしている姿は、私も初めて見ました」
庭師はそれ以上チュリネについて説明せず、持っていたじょうろを水路へ運んでいった。キルリアも白い花を窓辺で水へ挿してもらうよう使用人へ預けると、空いた両手を見せながら庭師の後を追う。
『今日は何をするの?』
「今日は水やりと、土の手入れです。昨日より日差しが強くなりそうですから、乾きやすい場所を先に回ります」
『私もやっていい?』
「もちろんです。花の近くを歩く時だけ、足元へ気をつけてください」
キルリアは小さなじょうろを借り、庭師から水を入れてもらった。俺も空いている物を受け取り、水路へ沈める。いっぱいまで汲むと片手では持ち上がらないほど重くなり、半分ほど水を戻してから両手で抱えた。クチートは木陰へ座り、庭仕事へ参加する気はないらしい。背中の大顎を木の幹へ預け、こちらとは反対側を向いている。
「クチートもやる?」
ガチン。
「そこ断るのかよ」
クチートは耳だけを動かし、花壇へ入ってきたコロトックへ一度視線を向けた。コロトックが庭師のそばへ向かうと興味を失い、また顔を逸らす。手伝うつもりはなくても、俺たちが何をしているかは見ているらしい。
庭師に教わり、花の上からではなく根元へ水を注ぐ。勢いが強いと土が削れてしまうため、じょうろを低くして少しずつ傾ける必要があった。初めは水を出しすぎたキルリアも、二つ目の花壇では量を調整し、土の色が変わるところを見ながらじょうろを戻している。
『このくらい?』
「ええ。十分ですよ。葉が少し元気をなくしているものには、こちらより多めにお願いします」
庭師が示した花へ近づくと、キルリアは葉を一枚ずつ見比べた。どれが元気をなくしているのか俺には同じに見えたが、キルリアは色の薄い葉を見つけ、その根元へ慎重に水を注いだ。
少し離れた花壇では、チュリネが土へ顔を寄せている。乾いている場所を見つけると庭師の裾を引き、前脚で根元を示す。庭師が水を運んでくるまでの間に倒れた茎を起こし、周囲へ土を集めて支えていた。誰かに仕事を命じられた様子はない。花の状態を見て、必要なことを自分で選んでいる。
『チュリネ、これもお水いる?』
キルリアが近くの花を指す。チュリネは葉の色と土を確かめ、首を横へ振った。
『まだいらないんだ』
今度は隣の花を指すと、チュリネは根元へ前脚を置いた。キルリアは嬉しそうに頷き、教えられた場所へ水を注ぐ。二匹には花を通して伝わるものがあるらしい。
水を運び終えた頃、屋敷の方からウラヤマが庭園へ下りてきた。縁の広い帽子を持ち、日差しを確かめてから頭へ載せる。俺たちが庭仕事をしている姿を見ると、驚くより先に庭師へ頭を下げた。
「お客様へ仕事をさせてしまいましたかな」
「俺たちから手伝いたいって言ったんです。思ったより難しいですけど」
「花を育てる仕事は、毎日同じように見えて、同じ日は一度もございません。天気も土も、花の様子も変わりますからね」
『チュリネが教えてくれるよ!』
キルリアがじょうろを置き、チュリネを紹介するように両手を向ける。チュリネは急に注目され、キルリアの後ろへ半分ほど隠れた。
「それは心強い先生ですね」
ウラヤマは近づかず、その場から軽く頭を下げる。チュリネはキルリアの後ろから顔を出し、頭の葉を一度揺らした。
ウラヤマは庭師たちの仕事を眺めながら、ゆっくり石畳を歩いた。花壇の中央に差しかかると足を止め、庭園の奥にある白い花畑へ目を向ける。
「皆さんに、この庭へ伝わる昔話を一つお聞かせしてもよろしいですかな」
「昔話?」
「ええ。私がまだ幼かった頃、先代の庭師から何度も聞かされた話です。この屋敷が建てられた頃には、すでに語られていたそうですから、いつ誰が始めたものかは分かりません」
庭師たちは手を動かしたまま、ウラヤマの声へ耳を傾けていた。何度も聞いた話なのだろう。キルリアとチュリネも並んで花壇の縁へ座る。
「花を心から愛する者たちが、喜びのままに歌い、踊る時。この庭のどこかへ歌姫が現れ、花々と共に舞う。短い言い伝えですが、代々の庭師たちは今も大切に語り継いでおります」
『歌姫って、誰?』
「それは伝承にも残っておりません。人なのか、ポケモンなのか、あるいは花を揺らす風を歌姫と呼んだのか。語った者によって、その姿は少しずつ違ったそうです」
「ウラヤマさんは見たことあるんですか?」
「残念ながら、一度も。私が子どもの頃には、歌が上手ければ会えると思い、毎日のように庭で歌った時期もございました」
「歌ったんですか?」
「ええ。使用人たちには大変迷惑だったでしょう。私は昔から、歌だけはあまり得意ではございませんので」
ウラヤマは自分の失敗を懐かしむように笑った。キルリアは歌姫よりも、幼いウラヤマが庭で歌っていた姿の方を想像したらしく、口元を押さえている。
『今も歌ったら会えるかもしれないよ』
「庭のポケモンたちが逃げてしまいます。今は皆さんの歌を聞かせていただく方がよいでしょう」
『私、歌えるよ!』
「それは楽しみですな」
キルリアはすぐ歌おうとしたが、庭師から水やりの続きが残っていると教えられ、じょうろへ戻った。歌姫の話も気になるようだったが、目の前の花を放って探しに行くつもりはないらしい。ウラヤマも昔話を聞かせただけで、伝説を確かめようとはせず、庭師と今日の作業について話し始めた。
最後の花壇へ水をやり終える頃には、腕が重くなっていた。空になったじょうろを水路の横へ置き、腰を伸ばす。キルリアは疲れた様子もなく、自分が世話をした花を端から眺めている。チュリネも隣を歩き、根元へ水が行き渡っているか確かめていた。
『きれいになったね』
キルリアが花壇全体を見渡し、小さく息を吐く。その声の続きに、言葉のない音が混ざった。
『ふふ、ふーん……♪』
最初は歌っていると気づかないほど小さな鼻歌だった。水を受けた花が風に揺れるたび、音が一つずつ続いていく。キルリアは花壇に沿って一歩進み、次の花へ顔を向ける。伸ばした腕が自然に円を描き、裾が遅れて揺れた。
もう一歩。
片足を軸に、くるりと回る。
ヨスガのコンテストで見たような、誰かへ見せるために決められた踊りではない。進む先に花があれば避け、風が吹けばその方向へ腕を伸ばし、鼻歌に合わせて体が動いているだけだった。花壇の近くにいた庭師たちも、声を掛けず作業の手を緩める。
チュリネは最初、花の間に立ってキルリアを見ていた。回るたびに揺れる白い体と、風へ乗って届く鼻歌を赤い目で追う。キルリアがもう一度くるりと回ると、チュリネの頭の葉も同じ方向へ揺れた。
キルリアはそれに気づき、歌を止めずに手を差し出した。触れるほど近づかず、花壇の外へ向けて腕を伸ばす。
チュリネが一歩進む。
キルリアが後ろへ一歩下がり、場所を空ける。
チュリネは花壇から石畳へ出ると、小さく体を傾けた。キルリアの動きを真似るように、右へ一歩、左へ一歩。頭の葉が遅れて揺れ、その動きへキルリアの鼻歌が重なる。
『上手!』
チュリネは少し驚いた顔をしたあと、今度は自分から一回転した。丸い体が花の間で回り、頭の葉から朝露の名残が光って飛ぶ。キルリアが笑い、先ほどより少しだけはっきりした声で歌う。
短い音が繰り返され、途中で高さを変え、チュリネが回るたびに楽しそうな声が混ざる。二匹は互いの動きを追いながら、花壇の間にある広い石畳を行き来した。花を踏まないよう足元を見ているのに、動きが途切れることはない。
クチートは木陰から顔を向けていた。興味がないふりを続けることも忘れたのか、キルリアが転ばないか確かめるように耳を立てている。俺も声を掛けず、胸元の卵へ片手を添えた。殻の内側に歌が届いているかは分からない。生まれたあと、この景色を話したところで覚えてはいないだろう。
キルリアの歌へ、別の声が重なった。
最初は風が木々の間を抜けた音に聞こえた。キルリアが歌を止めても、高く澄んだ声だけが庭園に残っている。庭師たちが顔を上げ、クチートも立ち上がった。
「今の、誰が歌ってるんだ?」
返事の代わりに風が吹いた。
花壇の花々が同じ方向へ傾き、次の瞬間、白や黄色の花びらが渦を巻くように舞い上がった。地面へ落ちるのではなく、庭園の中央へ集まりながら円を描いている。キルリアとチュリネは踊るのを止め、花びらの向こうへ顔を向けた。
白い花畑の奥に、一匹のポケモンが立っていた。
緑の髪に包まれた小さな顔。額には宝石のような飾りがあり、細い体から伸びる腕を歌へ合わせて広げている。足元へ花が咲いているわけでもないのに、一歩進むたび花びらが舞い上がり、その姿を追った。
「……あのポケモン、何だ?」
俺の声は、歌に混じって消えた。
ポケモンはキルリアとチュリネへ顔を向け、誘うように片手を伸ばした。キルリアはチュリネと目を合わせる。どちらから始めたのか分からないまま、二匹は再び体を動かした。
キルリアの鼻歌が、庭園へ響く歌声に重なる。
チュリネが花の間を跳ね、頭の葉を大きく揺らす。
白い花畑に立つポケモンも、二匹の動きを受け取るように軽やかに回った。長い髪が風を追い、舞い上がった花びらが三匹の間を行き来する。キルリアたちへ近づいているのか、同じ場所で踊っているのか、花びらに隠れるたび距離が分からなくなった。
誰も動けなかった。
ウラヤマも庭師たちも、その場から一歩も近づかない。クチートは俺たちの前へ立ったが、大顎を開くことはなく、歌うポケモンを見つめている。捕まえようとも、名前を尋ねようとも思わなかった。声を上げれば、花びらの向こうにある時間が崩れてしまいそうだった。
歌が少しずつ遠ざかる。
最後の音に合わせ、キルリアが腕を広げ、チュリネがその周りを一度回った。白い花畑のポケモンも同じ方向へ舞い、花びらの渦へ姿を重ねる。
風が止んだ。
花びらが庭へ降り始める。
白い花畑には、もう誰も立っていなかった。
キルリアは腕を広げたまま何度か瞬きをし、隣のチュリネを見る。チュリネも歌声が消えた場所へ顔を向けていたが、やがてキルリアと目を合わせ、頭の葉を嬉しそうに揺らした。
『きれいな子だったね』
「知り合いじゃないのか?」
『初めて会ったよ。でも、一緒に歌ってくれた』
キルリアにとって、姿を消したポケモンが珍しい存在かどうかは関係ないらしい。チュリネも同じなのか、先ほどの動きを思い出すように一度だけその場で回った。
背後で、小さく息を呑む音がした。
ウラヤマは帽子を胸元へ下ろし、誰もいなくなった白い花畑を見つめていた。指先がわずかに震え、何かを確かめるように唇が動く。
「……メロエッタ」
「知ってるんですか?」
ウラヤマはすぐには答えなかった。視線を花畑へ向けたまま、ゆっくり頷く。
「各地の伝承に登場する、歌と踊りを愛するポケモンです。その歌は人やポケモンの心を揺らし、失われた感情を呼び覚ますとも伝えられております。私は書物の中でしか、その名を知りませんでした」
「じゃあ、さっきの歌姫って……」
「ええ。この庭へ伝わる言い伝えも、メロエッタを見た誰かが残したものだったのでしょう。長い年月を経るうちに名だけが失われ、歌姫の話として残ったのかもしれません」
ウラヤマの目尻から、一粒の涙が頬を伝った。
本人は拭おうとせず、驚いたように一度目を伏せたあと、穏やかに笑った。悲しそうには見えなかった。何十年も庭を見続け、幼い頃から聞かされてきた話が目の前で形を持ったことへ、言葉だけでは追いつかないのだろう。
「……まさか、生きている内に歌姫へ会える日が来るとは」
風が庭園を抜け、地面へ降りた花びらを少しだけ動かした。歌声はもう聞こえない。キルリアとチュリネが踊っていた場所には、光を受けた花が静かに揺れていた。
◇
その日の夕暮れ、庭師たちが仕事を終え、ユアたちも屋敷へ戻ったあと、ウラヤマは一人で庭園へ下りた。
昼間に歌姫が現れた白い花畑は、ほかの場所と何も変わらない。花は夕暮れの光を受け、風が通るたび同じ方向へ揺れている。足跡も、歌声の名残も残ってはいなかった。
ウラヤマは花壇の前へ立ち、帽子を胸元へ抱えた。
子どもの頃、歌姫へ会いたくてこの庭で歌った。父から屋敷を受け継ぎ、庭師たちと花を植え替え、季節をいくつも見送った。友人たちを招いて庭を歩いた日もあり、その名を呼べなくなってから迎えた春もあった。
伝説を信じ続けていたわけではない。
だけど、1度として忘れたことはなかった。
目を閉じると、昼間の歌が記憶の中で短く蘇った。キルリアとチュリネが笑いながら踊り、その向こうで歌姫が舞っている。
ウラヤマは目元へ残っていた涙を指で拭い、誰もいない花畑へゆっくり頭を下げた。
「この庭へ来てくださり、ありがとうございました」
返事の代わりに、白い花々が風を受けて揺れた。