目を覚ますと、カーテンの隙間から差し込んだ朝日が、向かい側のベッドまで細長く伸びていた。左腕にはキルリアの頭が載り、右隣ではクチートが俺へ背中を向けたまま丸くなっている。昨夜も同じ場所を選んだらしい。枕の間に置いた卵は動いた様子もなく、布へ包まれたまま静かに朝を迎えていた。
キルリアを起こさないよう腕を抜こうとすると、頭がその動きを追って少しずつ移動する。あと少しで抜けるところまで来た時、両手で腕を掴まれた。
『まだ寝る』
「もう朝だぞ」
『あとちょっと』
「今日は出発するんだろ。支度しないと」
閉じていた目が開いた。
『……今日なんだ』
キルリアは俺の腕を放し、体を起こした。寝起きの髪を直すことも忘れ、窓へ顔を向ける。カーテンの向こうには、2日間歩いた庭園がある。朝だけ咲く花も、チュリネと一緒に水をやった花壇も、昨日歌声が響いた白い花畑も、部屋から見下ろせる位置にあった。
「ずっと泊めてもらうわけにもいかないからな」
『分かってるよ』
返事をしながらも、キルリアはすぐにはベッドから下りなかった。庭へ行けばチュリネに会える。会えば、ここを離れることを伝えなければならない。その順番を考えているように、膝の上で指を重ねている。
右側で布団が動き、クチートが立ち上がった。俺たちの話を聞いていたらしく、大顎をベッドの外へ下ろすと、迷わず床へ降りる。鞄の置かれた場所まで歩き、準備を始めるよう俺へ視線を向けた。
「お前は切り替え早いな」
ガチッ。
「もう行くつもり?」
クチートは応えず、鞄の横へ座った。
卵を胸元へ固定し、使った部屋を簡単に整える。借りた物は元の場所へ戻し、脱いだ寝間着やノートを鞄へしまった。キルリアも窓辺に飾っていた白い花を水から上げ、濡らした布で茎を包む。今朝には花弁の端が少し下を向いていたが、置いていくつもりはないようだった。
「持っていくのか?」
『うん。チュリネにもらったから』
「歩いてるうちに萎れるかもしれないぞ」
『萎れても、もらったことはなくならないよ』
キルリアは花を鞄の外側へ差し、潰れない位置を何度も確かめた。俺も口を挟まず、その横へアイのノートを入れる。部屋を出る前に振り返ると、大きなベッドが二つと、朝の光を受ける窓だけが残っていた。
一階の食堂では、ウラヤマがすでに俺たちを待っていた。昨日と同じ椅子に腰掛け、テーブルへ運ばれた朝食を前に新聞を読んでいる。俺たちの足音へ気づくと紙を畳み、椅子から立ち上がった。
「おはようございます。昨夜はよくお休みになれましたかな」
「はい。二日間、泊めてもらってありがとうございました」
「お礼にはまだ早いでしょう。朝食を召し上がるまでが、我が家のおもてなしでございます」
ウラヤマは昨日と変わらない調子で笑った。幻の歌姫を目にした翌朝だからといって、食堂や屋敷の時間が特別なものへ変わるわけではないらしい。使用人は温かなパンとスープを運び、ウラヤマは俺たちの皿へ木の実のジャムを勧めた。
「この後は、ノモセシティへ向かわれるのでしたね」
「はい。今日は行けるところまで南へ進みます」
「この先は湿った道が増えます。昨日お話しした大湿原ほどではありませんが、雨のあとには足を取られる場所もございます。日が落ちてから無理に歩かないよう、お気をつけください」
「泥にはまらないようにします」
「私と同じ失敗をなさらぬように」
ウラヤマが真面目な顔で答え、キルリアが思い出したように笑った。クチートもスープの横に置かれた木の実を食べながら、一度だけこちらを見る。昨日までと同じ会話が続くことで、出発の朝が少しだけ普段の旅へ戻っていく。
朝食を終え、使用人たちへ部屋を使わせてもらった礼を伝えた。執事は玄関まで荷物を運ぼうとしたが、自分で持てるからと断る。
玄関を出る前に、キルリアが庭園へ続くガラス扉を見た。
『チュリネに会ってくる』
「俺たちも行くよ」
三人で庭へ出ると、朝の冷たさはすでに薄れ、花壇へ日差しが広がり始めていた。庭師たちは作業へ入っていたが、じょうろや鋏を持つ手を止め、俺たちへ挨拶をしてくれる。昨日水をやった場所では、土の色がまだ少し濃く残っていた。
チュリネは白い花壇のそばにいた。
俺たちが来ることに気付いたチュリネは、花の状態を見るのをやめて石畳の近くまで歩いてくる。キルリアの鞄に差された白い花を見つけると、頭の葉を嬉しそうに揺らした。
『おはよう、チュリネ』
キルリアはしゃがみ、花を抜かずに鞄ごと見せる。
『一緒に持っていくね』
チュリネは白い花へ顔を近づけ、花弁の匂いを確かめた。少し下を向いていた部分へ頭の葉を当て、形を直そうとする。キルリアも反対側から支え、二匹で一輪の花を見ている。今日で別れることを忘れたように、昨日と同じ時間が続いた。
俺とクチートは少し離れて待った。ウラヤマも庭園へ出てきたが、キルリアを急かさず庭師と話している。キルリアは白い花を鞄へ戻し、チュリネと並んで花壇に沿って歩いた。初めて見た青い花、朝にだけ開く白い花、二匹で水をやった色の薄い葉。花壇の端まで行くと足を止め、来た道を振り返る。
『今日ね、私たち、ここを出るの』
チュリネの頭の葉が止まった。
『次はノモセシティっていうところに行くんだって。大きな湿原があって、泥に足がはまるかもしれないの』
「そこを一番に説明するのか」
『ウラヤマさんもはまったって言ってたから』
キルリアは少し笑ったが、チュリネは動かなかった。赤い目がキルリアの顔から鞄の白い花へ移り、胸元の卵、離れて立つ俺とクチートへ順番に向けられる。
『また来るね』
キルリアは言葉を選ぶように一度息を吸った。
『いつになるか分からないけど、絶対にまた来る。今度は卵の子も一緒にお花を見るの』
チュリネの葉がゆっくり揺れた。
『約束だよ』
キルリアが小指を差し出しかけ、チュリネには同じ指がないことへ気づく。少し迷ってから、手のひらを上へ向けた。チュリネはその手を見つめ、頭の葉の先をそっと重ねる。
『約束』
キルリアは目を細めた。
手を離したあとも、二匹はしばらく同じ場所へ座っていた。話すことがなくなったのではなく、離れる時間を少しずつ先へ延ばしているようだった。風が吹けば花を見る。ムックルが枝へ止まれば一緒に顔を上げる。何かを見つけるたびに、あと一つだけ共有してから立ち上がろうとしている。
やがてクチートが大顎を一度鳴らした。
ガチッ。
「そろそろ行くか」
キルリアも意味を理解し、チュリネから離れて立ち上がった。すぐには俺のところへ戻らず、もう一度だけしゃがんで目を合わせる。
『またね』
両手を伸ばし、チュリネの頭をそっと撫でる。最初の日なら花の陰へ隠れていたチュリネはもう逃げはせず、キルリアの手を受け入れて目を閉じた。キルリアが手を離すと、チュリネも頭を上げる。二匹は一緒に石畳を歩き、俺たちの待つ場所まで戻ってきた。
屋敷の正門には、ウラヤマと執事、世話になった使用人や庭師たちが集まっていた。全員が仕事を止めて並ぶほどのことではないと伝えたかったが、三日間顔を合わせた人たちを前にすると、その言葉も出てこなかった。
「短い間でしたけど、本当にありがとうございました」
俺が頭を下げると、キルリアも隣で深く頭を下げた。クチートは頭を下げる代わりに大顎を小さく閉じる。
ガチッ。
ウラヤマは胸元へ片手を添え、俺たちよりゆっくりと頭を下げた。
「こちらこそ、忘れ難い時間をいただきました。屋敷も庭園も、旅の途中に立ち寄ってくださる方がいてこそ、新しい思い出を重ねることができます」
ウラヤマは顔を上げ、一度だけ庭園へ目を向けた。歌姫の姿はなく、朝の仕事を終えた花々が風に揺れている。
「あなた方のおかげで、余生を心置きなく過ごせそうです」
「俺たち、そんな大したことはしてませんよ」
宿へ泊めてもらい、食事をもらい、庭の仕事を少し手伝った。助けてもらったのは俺たちの方だ。ウラヤマは首を横へ振り、昨日の花畑を見た時と同じ穏やかな笑みを浮かべた。
「いいえ。私にとっては、十分すぎるほどの贈り物をいただきました」
何を指しているのか、聞かなくても分かった。キルリアとチュリネの歌と踊りがなければ、あの歌姫が姿を現すこともなかったのだろう。けれど、俺たちはメロエッタへ会うために何かをしたわけではない。キルリアもチュリネも、花に囲まれて楽しかったから歌い、踊っただけだ。
「俺たちも、ここへ来られてよかったです」
ウラヤマは静かに頷いた。
「また、いつでもお越しください。皆様をお迎えできるよう、この庭を変わらず守っておきましょう」
『次は卵の子も一緒に来るね!』
「楽しみにお待ちしております」
挨拶を終え、鞄の紐を握り直した。正門の外には、南へ続く道が朝日に照らされている。
「行こう」
『うん』
キルリアが俺の隣へ並ぶ。クチートはいつものように少し後ろへ回った。
チュリネも、キルリアの横へ並んだ。
当然のようにキルリアの横を歩こうとするチュリネに、俺は一歩進みかけて足を止める。あまりにも自然すぎてそのまま進むところだった。
「……チュリネ?」
チュリネは俺を見上げたあと、またキルリアへ顔を向けた。キルリアも驚いたように隣を見る。
『チュリネ、私たち、もう行くんだよ』
頭の葉が揺れる。
『お庭に戻らなくていいの?』
チュリネは花壇へ戻ろうとしなかった。キルリアが半歩進むと、同じだけ前へ出る。立ち止まれば、隣で止まる。赤い目は庭園ではなく、キルリアを見ていた。
門の内側へ戻る道はすぐ後ろにある。花壇も、庭師たちも、チュリネが長く暮らしてきた場所も、振り返れば全部見える。それでも足は一度もそちらへ向かなかった。
『……一緒に来たいの?』
キルリアはしゃがんでチュリネと目線を合わせながら聞いた。
『ここがお家なんだよ。お花も、庭師さんたちもいる。旅に出たら、毎日同じ場所でお花を見られないし、雨の日も、泥の道も歩くんだよ』
「泥を強調しすぎじゃないか?」
『大事でしょ』
キルリアは俺へ言い返したあと、チュリネへ向き直った。
『それでも、本当に来たい?』
チュリネはキルリアの手へ頭の葉を重ねた。
一度。
はっきりと頷く。
キルリアは確認するようにもう一度尋ねた。
『私と一緒に、旅する?』
葉を重ねたまま、もう一度深く頷いた。
キルリアの顔に、ゆっくり笑みが広がる。
『ユア』
「ああ。分かった」
俺もチュリネの前へしゃがんだ。いきなりボールを取り出さず、まず目を合わせる。
「キルリアと一緒に行きたいんだな」
チュリネは頷いた。
「俺とクチートもいるぞ。卵も一緒だ。これからもっと仲間が増えるかもしれない」
胸元の卵へ目を向け、大顎を背負ったクチートを見る。クチートも前へ出てきたが、チュリネを怖がらせないようキルリアの反対側で止まった。
「それでもいいか?」
チュリネは俺たちを一度ずつ見た。最後にもう一度キルリアへ顔を向け、その隣へ体を寄せる。どうやら答えは変わらないらしい。
ウラヤマの声が門の内側から届いた。
「決めたのですね」
チュリネが振り返る。
ウラヤマは引き止める様子も、驚く様子もなかった。チュリネがキルリアの隣へ並び、そこから動かなくなった時点で、何を選ぼうとしているのか分かっていたのだろう。
庭師たちも仕事道具を下ろし、チュリネを見守っている。寂しそうな顔をする人はいたが、戻るよう呼ぶ者はいない。
「長い間、この庭を大切にしてくださってありがとう。あなたが見つけてくれた変化に、私たちは何度も助けられました」
チュリネは庭園を見た。水をやった花壇。朝だけ開く白い花。キルリアと踊った石畳。歌姫が姿を現した花畑。赤い目が一つずつ景色を追い、庭師たちのところで止まる。庭師の一人が目元を拭いながら、小さく手を振った。
「お行きなさい」
ウラヤマは門の外にいるチュリネへ向け、ゆっくり頷いた。
「この庭は、いつでもあなたの帰る場所です。旅の先で見つけた花を、いつか私たちへ教えてください」
チュリネの葉が揺れた。何度も見慣れた庭へ別れを告げるように深く頭を下げ、前を向く。今度は庭園へ視線を戻さず、キルリアの隣へ並んだ。俺は腰のポーチから空のモンスターボールを取り出す。
「これに入れば、俺の仲間になる。疲れた時は中で休めるし、危ない時には俺が守る。出たい時は、なるべく外へ出す」
チュリネはボールを見つめた。赤と白の丸い道具が何を意味するのかは知っているらしく、少し考えてからキルリアを見る。
『怖くないよ。入っても、すぐまた会えるから』
キルリアがボールの横へ手を添える。チュリネはその手へ一度触れ、自分からボタンへ頭の葉を近づけた。
「これからよろしくな、チュリネ」
葉の先がボタンへ触れると赤い光が小さな体を包み、チュリネはボールの中へ吸い込まれた。手の中のボールが一度、ゆっくり揺れる。
カチッ。
音が止まり、中央の灯りが消えた。キルリアはボールを見つめ、俺の腕へ両手を添える。
『仲間になった?』
「ああ」
『本当に?』
「一回しか揺れなかっただろ」
『やった!』
キルリアが飛びつき、危うく胸元の卵へぶつかりそうになる。体を逸らして受け止めると、クチートが呆れたように大顎を鳴らした。
ガチン。
「嬉しいのは分かるけど、落ち着け」
『だって、チュリネと一緒に旅できるんだよ!』
ボールを開き、チュリネを外へ出す。赤い光が道の上へ形を作り、チュリネがキルリアの隣へ戻ってくる。初めてボールへ入った感覚を確かめるように自分の体を見回したあと、キルリアの手へ葉を重ねた。
クチートが二匹へ近づく。
チュリネの体が少し強張ったが、クチートは目の前まで行かず、大顎を一度だけ小さく閉じた。
ガチッ。
「多分、よろしくって言ってる」
ガチン。
「違う?」
もう一度、大顎が鳴った。
「……どっちなんだよ」
キルリアは勝手に『よろしくね、だって』と訳し、チュリネはクチートへ頭を下げた。クチートは訂正するのを諦めたのか、いつもの位置へ戻る。
俺はウラヤマたちへ向き直り、改めて頭を下げた。
「チュリネのこと、大切にします」
「よろしくお願いいたします。ただし、あなた一人で大切にしようとなさらなくてもよいでしょう」
ウラヤマはキルリアとクチート、胸元の卵へ順に目を向けた。
「すでに、皆様で大切になさっているようですから」
キルリアはチュリネの手を取り、嬉しそうに頷いた。
門を出る。
今度は誰も足を止めなかった。
俺の隣にはキルリア。その隣にはチュリネ。少し後ろをクチートが歩き、胸元では卵が変わらず静かに揺れている。
何度か振り返ると、ウラヤマたちはまだ門の前に立っていた。キルリアが大きく手を振り、チュリネも頭の葉を左右へ動かす。庭師たちも手を振り返し、ウラヤマは胸元へ帽子を添えたまま、穏やかに見送っていた。
屋敷も庭園も、道の傾斜に隠れて少しずつ見えなくなっていく。
最後まで残っていた赤い屋根が木々の向こうへ消えた時、キルリアがチュリネの手を軽く引いた。
『行こう。これから、いっぱいお花を見ようね』
チュリネは進行方向を見た。
庭園の外へ続く、初めて歩く道。
頭の葉を大きく揺らし、キルリアと並んで一歩を踏み出した。