ウラヤマ邸を出てからしばらくは、キルリアとチュリネが並んで先を歩いていた。門を出た時から繋いでいた手はいつの間にか離れていたが、二匹の間は腕一本分も空いていない。チュリネは道の曲がり角へ差しかかるたびに足を緩め、何度か後ろを振り返った。最初のうちは白い壁と赤い屋根が木々の間から見えていたものの、坂を下り、もう一度道を曲がると、それも葉の向こうへ隠れる。チュリネはそこで少し長く立ち止まり、来た道を見ていた。キルリアも急かさず隣へ立ち、同じ方向を眺めてから、チュリネへ手を差し出す。
『ウラヤマさんも言ってたでしょ。あのお庭はいつでもチュリネの帰る場所だって。だから、帰りたくなったらまた帰ればいいよ。旅に出たからって、お庭がなくなるわけじゃないもん。今日は私たちと一緒に、この先に何があるのか見に行こう』
チュリネは差し出された手と、もう見えなくなった屋敷の方を一度ずつ見た。やがて頭の葉を小さく揺らし、キルリアの手へ自分の葉を重ねる。二匹がまた歩き始めたところで俺も後へ続き、クチートはいつもの距離を空けて最後尾についた。庭園を歩いていた時と違い、チュリネはなかなか前だけを見ていなかった。枝から飛び立ったムックルへ顔を上げ、草むらで葉が動けば足を止め、水路の向こうからビッパが顔を出すとキルリアの背中へ半分隠れる。ムックルもビッパも庭の近くにいなかったわけではないはずなのに、柵も花壇も庭師もいない場所で急に現れると勝手が違うらしい。キルリアはそのたびに立ち止まり、『あれはムックルだよ。木の上にいることが多くて、急に飛ぶから最初はびっくりするかも。ビッパもよく水の近くにいるけど、こっちから何もしなかったら大丈夫だよ。私も知らないポケモンはまだいっぱいいるから、分からなかったらユアに聞けば……あ、ユアも知らないこと多いんだった。一緒に調べようね』と、途中で俺を巻き込みながら一息に教えている。
「最後の一言いらないだろ」
『だって本当でしょ』
「否定はしないけどさ」
そこで会話は終わり、また足音だけが続いた。チュリネはキルリアが教えたムックルを、枝から枝へ移るたびに目で追っている。クチートは二匹より少し後ろを歩き、道が細くなる場所だけ草むら側へ位置を変えた。大顎がチュリネの近くへ来ると、そのたびにチュリネの足がわずかにキルリア側へ寄る。クチートも気づいているらしく、大顎を自分の外側へ向けて歩いていた。
日が高くなる前、大きな木が道へ影を落としている場所で休むことにした。敷物を広げ、胸元へ巻いていた布を解く。卵を両手で持ち上げると、チュリネはキルリアの隣に座ったまま首を伸ばした。庭園にいる間も何度か見ていたが、いつもユアが抱えている丸いもの、くらいに思っていたのかもしれない。キルリアは卵を自分の前へ引き寄せると、チュリネが見やすいよう少し横へ体をずらした。
『そうだ、ちゃんと紹介してなかったね。この子はアイっていう私たちの友達から預かった卵なの。まだ何が生まれるかは誰も知らないけど、ヨスガを出てからずっと一緒に歩いてるんだよ。今はユアがずっと抱えてるけど、生まれたら私がお姉ちゃんになる予定なの』
「予定じゃなくて、自分で勝手に決めただけだろ」
『ちゃんとお世話するもん。チュリネも、生まれたら一緒に遊んであげようね』
チュリネはキルリアの話を聞きながら卵へ近づき、少し離れたところで止まった。すぐに触らず、正面から見たあと横へ回り、反対側からも殻を覗く。中のポケモンを探しているようにも見えたが、当然外から姿が見えるはずもない。キルリアが自分の手を殻へ置いて見せると、チュリネもようやく頭の葉の先を軽く触れさせた。少し待つ。動かない。もう一度触れてから、今度は葉を傾けた。
『ふふ、今日は静かだね。この子、いつもこんな感じなの。生まれるまで何してるんだろうね』
チュリネは卵から顔を離すと、木の根元へ歩いていった。そこには小さな白い花がいくつか咲いており、その少し手前へ一輪だけ落ちている。咲いている花には触れず、地面に落ちた方を拾って戻ってくると、卵を包む布の結び目へ茎を差した。キルリアが目を細め、『この子にもくれるの? ありがとう。生まれたらちゃんとチュリネからだって教えてあげるね』と話しかける。チュリネは花の向きを整えようとしたが、短い茎が布から滑り、横へ倒れかけた。その瞬間、大顎が俺の横から伸びる。牙の間へ茎だけを挟み、もう少し深いところへ押し込んで離した。チュリネは目の前まで来た大顎に体を固くしたものの、クチートは花を直すとすぐ木の反対側へ顔を向けた。
「ありがとうって」
俺が言う前に、チュリネがクチートへ頭を下げた。クチートの耳が一度動く。
ガチッ。
今度はチュリネも大きく身を引かなかった。大顎とクチート本人を見比べ、真似するように頭の葉を一度動かす。意味が通じたのかは分からない。クチートも追加で何か鳴らすことはなく、そのまま木陰へ腰を下ろした。
昼飯を済ませて再び南へ進む。朝からずっと外を歩くことを選んでいたチュリネも、昼を過ぎる頃には足取りが変わってきた。最初はキルリアと同じ歩幅で進んでいたのに、坂道へ入ると半歩、また半歩と後ろへずれていく。キルリアが振り返るたびに追いつこうとするため、余計に疲れているように見えた。少し先の木陰で止まり、腰のボールを外してしゃがむ。
「チュリネ。旅だと庭みたいに好きな時に休めない場所もあるから、疲れたらこれに入って休んでいいぞ。ずっと入ってろって意味じゃないし、出たくなったらまた出せばいい。今日は初めての道なんだから、無理してキルリアと同じだけ歩かなくても大丈夫だ」
チュリネはボールを見つめた。今朝、仲間になった時に一度入っているため、何をする道具かは分かっている。キルリアも横から口を挟まず、チュリネが決めるのを待っていた。しばらくして葉の先がボタンへ触れ、赤い光が小さな体を包む。ボールを腰へ戻して歩き出すと、隣を歩くキルリアが時々そこへ視線を落とす。それでもすぐ出してとは言わず、木陰の道を抜けるまで黙って歩いていた。しばらく休ませたあとに外へ出すと、チュリネは最初にキルリアを見つけ、その次に周囲を見回し、最後に俺の手にあるボールへ目を向けた。
「少しは楽になった?」
チュリネが頷く。
「じゃあ、また疲れたら教えてくれ。俺が気づかなかったら、キルリアにでも言えばいいから」
『私ならすぐ分かるよ。チュリネのことちゃんと見てるもん』
キルリアが胸を張る。チュリネはその隣へ戻ろうとして一歩進み、途中で俺を見上げた。少し迷ったあと、キルリアとの間へ入る。俺の左にチュリネ、その隣にキルリア。朝にはなかった並びのまま、三人で道を歩き始めた。
午後になると道は少しずつ低くなり、乾いていた土へ水分が混じり始めた。踏むたび靴底へ薄く泥がつき、脇を流れる細い水路も増えていく。庭園で見かけた花の種類はほとんどなくなり、代わりに大きな葉を水面へ広げる草や、湿った場所へ細い茎を伸ばす植物が目につくようになった。チュリネは足元ばかり見て歩き、気になるものを見つけると急に速度を落とす。そのたび隣のキルリアも同じ場所で止まるため、俺とクチートだけが先へ進んでから二人分の足音が消えたことに気づくことになった。
振り返ると、二匹は水路のそばにしゃがんでいた。薄紫色の小さな花が、水面すれすれの高さで何輪か咲いている。キルリアが何か話し、チュリネが花とキルリアを交互に見ている。
「……また止まったな」
クチートも振り返り、大顎を一度鳴らした。
ガチッ。
「まあ、急ぐ理由もないか」
道の端へ腰を下ろす。クチートも俺から少し離れた場所へ座り、二匹が戻るのを待った。風が水路の草を揺らし、遠くでポケモンの鳴く声が聞こえる。数分もしないうちにキルリアが立ち上がり、チュリネの手を取ってこちらへ走ってきた。
『ユア、あの花ね、夕方になると閉じるみたい。チュリネが葉のところ見て教えてくれたの。庭園にはなかったから、明日の朝になったらまた開くのかも。ノモセにもあったら見てみたいな』
「もう次に見る場所まで決めてるのか。まあいいけど、走ると泥で滑るぞ」
言い終わる前に、チュリネの足が湿った土へ取られた。キルリアが手を掴んだため転ばずに済んだが、二匹そろって前へつんのめる。
「ほら」
『……歩きます』
キルリアが素直に速度を落とし、チュリネも隣で同じ歩幅になる。俺の横を通り過ぎる時、チュリネは一度だけこちらを見上げた。少し気まずそうに見えたのは、たぶん俺がそう思っただけだろう。
その後は大きく足を止めることもなく、湿った道を南へ進んだ。クチートが先に大きな水溜まりを越え、キルリアがその足跡を踏む。チュリネは同じ場所へ足を置こうとして届かず、しばらく水面を見ていた。俺が手を差し出すと一度キルリアを見たあと、葉を俺の指へ重ねる。持ち上げるほどではなく、足元を支えながら反対側へ渡ると、着地したところですぐ手を離した。数歩進んでから振り返り、小さく頭を下げる。
「どういたしまして」
今度はクチートが待っていた。俺たち全員が越えたことを確認してから前へ向き直り、また少し後ろの位置へ戻る。朝よりチュリネがクチートを見る回数は減っていた。大顎が近くを通っても足を止めず、クチートが草むら側へ回れば、その内側を普通に歩いている。
日が傾き始めた頃、長く続いていた木々の向こうが急に明るくなった。坂を上がるにつれて風が強くなり、水と濡れた草の匂いが正面から流れてくる。丘の上まで出たところで、キルリアが一番に足を止めた。
『……広い』
木々の先へ町が見えた。水路の間へ建物が並び、その向こうには草と水面が入り混じった土地が遠くまで続いている。夕日に照らされた水がところどころで光り、背の高い草の間を大きな影が動いていた。地図で見ていたノモセの周辺はもっと平らな場所に見えたが、実際に目の前へ広がると、どこまでが町でどこからが湿原なのかすぐには分からない。
「たぶん、あれがノモセシティだな」
キルリアはすぐ町の方を見たが、チュリネはその場に立ったまま湿原を眺めていた。庭園の外へ出てから、道端の花や水路を見るたび足を止めていた。今度は見るものが多すぎるのか、頭の葉さえ動かない。遠くの水面からポケモンの群れが飛び立つと、ようやく赤い目がその動きを追った。
風が吹き、胸元へ挿していた白い花が揺れた。昼にチュリネが拾い、クチートが差し直した花だ。少し萎れ、花弁の端も折れかけている。チュリネもそれに気づき、俺の胸元を見てからクチートへ顔を向けた。クチートは知らないふりをして湿原を見ている。
キルリアがチュリネの横へ並んだ。
『庭のお花とは全然違うね。私もあんなに大きな湿原、近くで見たことないよ。明日から一緒に見に行こう。どんなポケモンがいるのかも、どんな花が咲いてるのかも、私たちまだ何も知らないから』
チュリネはキルリアを見上げたあと、俺を見る。次にクチート、胸元の卵へ順番に目を向け、もう一度湿原へ戻った。
頭の葉がゆっくり持ち上がる。
「じゃあ、行くか。暗くなる前に町には着きたいし」
俺が坂を下り始めると、足音が後ろから続いた。振り返らなくても、キルリアの軽い足音と、チュリネの小さな足音、その少し後ろを歩くクチートの音が聞こえる。
朝、ウラヤマ邸の門を出た時には何度も後ろを振り返っていたチュリネも、今は前を見たまま歩いていた。
坂の下で道がノモセシティへ続いている。
俺は胸元の卵を抱え直し、三匹と一緒にその道を下っていった。