1話
ノモセシティへ入ってから、キルリアとチュリネがなかなか前へ進まない。道の脇には細い水路が続き、その縁では草が湿った風に揺れていたけど、チュリネが気になるものを見つけるたびに足を止めるものだから、隣にいたキルリアまで一緒になって覗き込み、少し歩いてはまた別の場所へ寄っていく。気づけば俺とクチートだけが何歩も先へ出ていた。
「おーい、二人とも。置いてくぞー」
呼ぶとキルリアがようやく顔を上げ、その横からチュリネもこちらを見る。二匹で慌てて追いついてきたものの、キルリアは悪びれる様子もなく俺の隣へ並び、チュリネはまだ気になるのか一度だけ水路の方を振り返った。
『だって、見たことない草がいっぱいあるんだもん。チュリネも楽しそうだし、別に急いでないんだから、もうちょっとゆっくり見てもいいでしょ?』
「さっきからずっとそれじゃん。ノモセ入ってから何回止まったと思ってんだよ」
『ユアだって面白そうなの見つけたら絶対止まるくせに』
「俺はあんな何回も止まらねぇよ」
『ほんとに?』
「……たぶん」
キルリアが笑い、チュリネも俺とキルリアを交互に見ながら小さく首を傾ける。味方が欲しくなって少し後ろを歩くクチートへ振り返ったけど、こっちの言い合いに加わる気はないらしく、いつもの距離を保ったまま歩いていた。
「クチートもそう思うだろ。俺、そんな寄り道しねぇよな?」
クチートが俺を見る。
ガチン。
「……今の俺に賛成したよな?」
『いや、私が正しいって』
「ほんとかよ」
『さあ?』
「絶対適当だろ」
言い返しながら前を向き、まずはポケモンセンターを探そうと歩き出した、その時だった。
「うおおおおおおおおっ!!」
「っ!?」
通りの先から、大勢の声が一度に押し寄せてきた。キルリアとチュリネが揃ってそちらへ顔を向け、後ろではクチートまで足を止める。少し間を置いて、今度は「いけぇぇぇっ!」とさらに大きな歓声が響き、通りを歩いていた人たちまで同じ方向へ向かっていった。
「……なんだ?」
『あっち。すごい人いるよ』
キルリアが指した先には大きな建物があり、入口へ何人もの人が吸い込まれている。扉が開くたびに歓声が漏れ、それに混じって何か重いものがぶつかるような音まで聞こえてきた。
「ちょっと見てこようぜ」
『……ほら』
「なにが?」
『さっき自分は寄り道しないって言ったばっかり』
「これは寄り道じゃなくて確認」
『何が違うの?』
「なんかやってるみたいだから、ちょっと見るだけ」
『それを寄り道って言うんじゃないの?』
「細かいなぁ。すぐ出るって」
『その“すぐ”が一番信用できないんだけど』
そう言いながらもキルリアはチュリネと一緒についてきて、クチートも特に嫌がる様子はなく、人の流れへ混ざった俺たちの少し後ろを歩いてきた。
扉を抜けた途端、外で聞いていた歓声が一気に膨らんだ。何段にも並んだ客席の真ん中には、四本の柱と何本ものロープで囲まれた四角い台があり、その中で俺よりずっと大きな男が二人向かい合っている。チュリネはリングと周りの客を交互に見たあと、何をしているのか分からないらしく首を傾げた。
「……なにあれ」
『戦ってる……のかな?』
「聞くなよ。俺だって初めて見た」
リングを挟んだ向こう側には大きなモニターが吊られ、黄色いマスクを被った男の顔と、その下にでかでかと文字が映っていた。
【マキシマム仮面】
「マキシマム仮面……」
『あの黄色い人じゃない?』
モニターからリングへ目を戻したところで、もう一人の男が助走をつけ、そのままマキシマム仮面へ真正面からぶつかった。
鈍い音が響き、マキシマム仮面の足が一歩だけ後ろへ滑る。それでも倒れず、相手の身体へ両腕を回しながら腰を落としたかと思うと、大人一人がそのまま持ち上がった。
「……え?」
マキシマム仮面が身体を捻る。
「えっ、ちょっ……!」
持ち上げられた男まで一緒に宙を回り、そのままリングへ叩きつけられた。台が大きく揺れた瞬間、客席が一斉に沸き上がる。
「うおおおおおおお!!」
「すっげぇぇぇぇ!!」
気づけば俺も立ち上がっていた。
「キルリア見た!? 今の! 人一人そのまま持ち上げたぞ!」
『見てたよ! 隣にいるんだから、そんな近くで叫ばなくても聞こえるって! それよりユア、さっきまで寄り道しないって言ってなかった?』
「それは今関係ないだろ! あんなでっかい人持ち上げたぞ!?」
『やっぱり話逸らした』
「いやでも今のやばいって!」
リングへ顔を戻すと、倒された男はもう身体を起こしていた。立ち上がるなり今度は自分からマキシマム仮面へ掴みかかり、押し込まれたマキシマム仮面もロープ際で踏ん張ると、そのまま腰を落として押し返していく。
「まだやるの!? うわ、すげぇ……!」
『ユア、さっきからずっとそれ言ってるよ』
「だってすげぇんだもん!」
細かい決まりなんて何も知らなかったけど、目だけは勝手にリングを追った。押されたら踏ん張り、押し返せば今度は相手が下がる。腕を取れば身体ごとぶつかり合い、倒されてもまた立ち上がる。炎も電気も飛ばないのに、どっちが押すか、どっちが耐えるか、それだけで一つ動くたびに客席の声が膨らんでいった。
「いけっ! マキシマム仮面!」
『もう応援してるし……』
「だってこっちの方がかっこいいじゃん!」
『名前知ったの、ついさっきだよ?』
「関係ないだろ!」
服の裾を引かれて下を見ると、チュリネがリングを指し、それから俺を見上げた。相手を押していたかと思えば急に投げたり、倒れたのにまた立ったりしているから、余計に分からなくなったのかもしれない。
「俺も細かいことは分かんねぇよ。でも、どっちも相手を倒そうとしてんのは分かるだろ?」
チュリネはリングへ顔を戻し、今度は客席まで見渡してから、もう一度首を傾げた。
「……まあ、見てればそのうち分かるって」
『ユアも全然分かってないのに』
「面白ければいいだろ」
『それでいいんだ……』
また歓声が上がり、リングへ視線を戻しかけたところで、少し後ろにいたクチートが目に入った。
騒いではいない。ただ、いつもの距離に立ったままリングを見ている。
マキシマム仮面より一回り大きな相手が肩からぶつかり、その身体をロープ際まで押し込んだ。マキシマム仮面の足が床を滑るけど、逃げずに正面から両腕を組み、腰を落として止める。
その時、クチートの足が少し開いた。
「…………」
マキシマム仮面が踏ん張る。
押し返す。
クチートの身体も、ほんの少しだけ前へ傾いた。
相手がさらに力を込めてもマキシマム仮面は離れず、最後には正面から押し返し、その勢いのまま相手の身体を抱え上げた。
クチートの大顎が大きく開く。
ガチン。
これ、知ってる。
ハクタイジムで俺がキルリアを出そうとした時、自分から前へ出てきたあの時と同じだった。
「……お前、あれやりたいだろ」
クチートが俺を見る。
「見たいんじゃなくて、自分もやりたいんだろ?」
少しだけ間が空いた。
ガチン。
「やっぱりな」
『クチート、戦いたそうだね』
「だろ? こういうの好きそうだもんな」
クチートはもう俺たちを見ていなかった。リングへ顔を戻し、マキシマム仮面が相手と身体をぶつけるたびに、その動きを追っている。
「まだまだァ! こんなもんじゃ終わらんぞォ!!」
マキシマム仮面が両腕を大きく広げると、客席がまた沸いた。
「うおおおおおおお!!」
今度は俺も迷わず声を張る。
「いっけぇぇぇ!! マキシマム仮面!!」
『ユア! だから近くで叫ばないでってば!』
その後はもう、ポケモンセンターもジムも頭から消えていた。マキシマム仮面が押されれば声が出るし、押し返せばもっと出る。相手を持ち上げれば身を乗り出し、倒されても立ち上がればまた叫んだ。キルリアも途中から何度も注意するのを諦めたみたいで、チュリネの隣に座りながら一緒にリングを見ていたし、チュリネも最後まで首を傾げることはあったけど、周りが沸くたびにリングへ目を向けていた。クチートだけは一度も声を出さなかったものの、マキシマム仮面が力で押し返すたびに身体がわずかに前へ出ていた。
最後は、相手の突進をマキシマム仮面が正面から受け止めたところからだった。押し込まれながらも足を止め、少しずつ押し返すと、そのまま相手を抱え上げる。大きな身体が宙を回り、リングへ落ちた。
相手が起き上がらない。
少し間を置いて、会場中から歓声が弾けた。
「今日も応援ありがとよォ!!」
拳を高く掲げたマキシマム仮面へ、客席から何度も名前が飛ぶ。
「マキシマム仮面ーっ!!」
「すっげぇぇぇぇ!!」
俺も両手を上げていた。
『……満足した?』
「めちゃくちゃ!」
『じゃあ今度こそポケモンセンター探そうね。ジムの場所も聞かなきゃ』
「おう、今度はほんとに行く」
『……ほんとに?』
「今度はほんと」
たぶん。
ーー
建物を出ても頭の中にはさっきの試合が残っていて、何となく両腕を組む形を真似しながら歩いていると、少し後ろからクチートの大顎が小さく鳴った。
ガチッ。
「……火が着いちゃったみたいだな、クチート」
振り返ると、クチートは何も答えないまま歩いている。
「まあ、あんなの見たらやってみたくなるよな。お前なら大顎使わなくても結構いけそうだし」
『ユア、自分ができないからクチートにやらせようとしてない?』
「違うって。……ちょっとは見たいけど」
『やっぱり』
キルリアが笑い、その隣ではチュリネが一度だけ後ろの建物を振り返った。何を競っていたのか最後まで分からなかったみたいだけど、途中からはリングを追っていたし、嫌だったわけでもなさそうだった。
「おーい! そこの坊主!」
後ろから大声が飛んできた。
さっきまで何度も聞いていた声だったから振り返ると、建物の入口から黄色いマスクの大男が出てくるところだった。
「あっ、マキシマム仮面!」
「ガッハッハッハ! いい声で応援してくれてたじゃねぇか! お前さん、プロレスを見るのは初めてか?」
「初めて! 最後のやつどうやったの!? あんなでっかい人だったのに、そのまま持ち上げてたじゃん!」
「まずは飯を食って身体を作れ! 話はそれからだ!」
「そこから!?」
「ガッハッハッハ!」
大きな手で肩を軽く叩かれただけなのに、身体ごと少し横へ揺れた。
「俺でもあれ出来るようになる?」
『ユア、本気だったの?今のままじゃ無理だと思うよ』
「なんでそんなハッキリ言うんだよ」
「ガッハッハ! 嬢ちゃんの言う通りだ! 身体を作って、鍛えて、それからだな!」
「うへぇ……」
マキシマム仮面はまた大きく笑ったあと、俺の横へ目を向けた。キルリア、チュリネ、それから少し離れたところを歩くクチートまで順番に見て、もう一度俺へ顔を戻す。
「その子たち、お前さんのポケモンだな。ってことは、旅のトレーナーか?」
「うん。ジムに挑戦しながら旅してる」
「なら話は早い!」
マキシマム仮面が腰へ両手を当て、胸を張った。
「俺はノモセジムのジムリーダー、マキシだ! 挑戦するならジムに来い! 待ってるぞ!」
「…………え?」
黄色いマスクを見上げ、それからさっきまでいた建物へ目をやる。もう一度マキシへ戻っても、リングの上で相手を真正面から押し返し、そのまま持ち上げていた姿しか浮かばなかった。
「ジムリーダーなの!?」
「ガッハッハッハ! そういうことだ! お前さんがどんな勝負を見せてくれるか、楽しみにしてるぞ!」
マキシは大きく手を振ると、そのまま通りの向こうへ歩いていった。
「……めちゃくちゃ楽しみじゃん」
『やっぱりそうなるんだ』
キルリアが笑う。
その後ろで、大顎が鳴った。
ガチッ。
振り返ると、クチートはマキシが消えていった方を見ている。
リングで相手の突進を受け止めた時も、身体ごと押し返した時も、あいつは自分が戦っているみたいに少しずつ前へ出ていた。
「クチート」
呼ぶと、すぐにこっちを向く。
「次のジム戦、お前出る?」
今度は間もなかった。
ガチン。
「……だよな」
俺もマキシが歩いていった方へ顔を向ける。
「よし。次はお前でいこう」