フェンバッジを手に入れた翌日、ポケモンセンターを出てノモセの通りを歩いていると、道端に立っていた大きな案内板が目に入った。水と草に囲まれた広い土地の絵が真ん中に描かれ、その周りには見覚えのあるポケモンから、名前も知らないポケモンまでいくつも並んでいる。何となく足を止めて下の文字を追っていくと、この街のすぐ近くに「大湿原」と呼ばれる場所があり、普段はなかなか見られないポケモンも暮らしているらしい。
「……珍しいポケモンがいるんだって」
俺が文字を追っている横からキルリアまで顔を寄せ、チュリネも二人の間から案内板を見上げる。ただ、チュリネが気にしているのはポケモンより湿原の周りに描かれた草や花の方らしく、葉の形を確かめるみたいに端から順番に視線を動かしていた。
『その顔、もう行くって決めてるでしょ。まだ案内の半分も読んでないのに、珍しいポケモンってところだけ見て決めたんじゃない?』
「だって、わざわざ珍しいって書いてあるんだぞ? ノモセまで来たんだし、近くにあるなら見に行きたいじゃん。ジム戦も終わったし、今日は急いでどっか行く予定もないだろ」
『まあ、私はいいけど。チュリネもこの絵ずっと見てるし、湿原なら街より植物も多そうだもんね。ただ、またユアだけ先に走ってどっか行くのはなしだからね。昨日だってプロレス見つけた途端、ほとんどこっちの話聞いてなかったじゃん』
「昨日のことまだ言ってんの?」
『昨日だけじゃないよ』
「……細かいなぁ」
キルリアが笑いながらチュリネの隣へしゃがむと、チュリネは湿原の絵へ手を近づけ、描かれた植物をもう一度眺め始めた。二匹とも行く気らしいので、少し離れたところにいるクチートへ振り返る。昨日はカメックスと何度も真正面からぶつかり、最後には立っているのもやっとだったはずなのに、今朝はいつもの位置で何事もなかったみたいについてきていた。
「クチート、お前も行けそう? 昨日かなり無茶したんだから、今日はしんどかったらちゃんと言えよ。別に無理して付き合わなくてもいいからな」
ガチッ。
「大丈夫って?」
ガチン。
「分かった分かった。なら行こうぜ。でも無理はすんなよ」
クチートはそれ以上鳴らさず、俺が歩き出すといつもの距離を保ったまま後ろからついてきた。
ーー
大湿原へ入ると、入口を抜けてすぐの水辺で足が止まった。背の高い草の間から丸い頭が覗いていて、もう少し近くで見ようと進みかけたところで、今度は少し離れた水面が大きく跳ねる。そっちへ顔を向けている間にキルリアとチュリネは道の脇へしゃがみ込み、気づけば俺たち全員が別々のものを見ていた。
「お前ら何見てんの?」
『この葉っぱ。街で見たのと似てるけど、こっちは先が細くて、触った感じも少し違うんだよ。チュリネも気になるみたいで、さっきからずっと見比べてる』
「へぇ……って、お前らまた草?」
『ユアだって入口からここまで何回止まったと思ってるの? ポケモン見つけるたびに「あそこ!」って言ってるじゃん。私は植物見に来てるんだから、やってること同じでしょ』
「それ言われたら何も返せねぇじゃん」
『じゃあ同じだね』
「……はいはい」
キルリアはそれで満足したのか、そのままチュリネと一緒に葉を覗き込んだ。チュリネも細長い葉先へそっと触れ、すぐ近くに生えていた別の葉と見比べている。昨日までジム戦のことで頭がいっぱいだったせいか、こうして気になったものを見つけるたびに足を止める時間が妙にのんびりしてる感じだった。
そこから先も真っ直ぐ歩けた時間はほとんどなかった。水辺で何かが動けば俺が止まり、見たことのない植物があればキルリアとチュリネが寄っていく。道も途中から泥の上へ渡された木の板に変わり、板の隙間から水が見えるようになったけど、目を上げれば草の向こうでも何かが動くものだから、足元だけ見て歩くのも難しい。
『ユア、前見ないと落ちるよ。さっきも水の方ばっかり見て、板から片足はみ出してたじゃん。落ちてからじゃ遅いんだから、ちゃんと前見て歩いてよ』
「落ちてないからいいだろ。あれはちょっと踏み外しただけだって。それにキルリアだってチュリネと草ばっか見てるじゃん」
『私は見る時ちゃんと止まってるもん。歩きながら横向いてるユアと一緒にしないで』
「……それは正しいな」
言い返せなくなって前を向いたけど、少し進んだところで後ろを振り返る。クチートは今までと同じ距離を保ったまま歩いていた。足取りも朝と変わっていないし、昨日の傷が響いているようには見えない。それでもカメックスに何度も吹き飛ばされた姿が頭に残っていたので、結局また気になった。
「クチート、ほんとに平気? もう結構歩いたけど、昨日のダメージ残ってない?」
クチートが俺を見る。
ガチッ。
「ならいいけど、しんどくなったら休むぞ。今日は急いでるわけじゃないし、キルリアとチュリネなんか放っといたら夕方まで草見てそうだし」
『聞こえてるよ。それにユアも人のこと言えないでしょ。さっきからポケモン見つけるたび止まってるじゃん。私たちだってチュリネと見たことない植物探してるんだから、ちゃんと目的あるよ』
「……はいはい。クチートも平気みたいだし、行こうぜ」
前へ向き直って数歩進んだところで、後ろから足音がついてこないことに気づいた。
「……ん?」
振り返ると、クチートがさっきの場所に立ったまま俺を見ている。
「どうした?」
クチートは両腕を俺の方へ伸ばした。
「…………」
『…………』
「……なに、その手」
クチートは下ろさない。
「……抱っこ?」
ガチン。
「大丈夫なんじゃなかったの!?」
クチートはそれでも腕を伸ばしたままだった。
『ユアが何回も大丈夫かって聞くからじゃない? クチートも休んだ方がいいかなって思ったのかも。昨日いっぱい頑張ったんだし、ユアもずっと心配してたんでしょ?』
「そうだけどさ、俺は休むかって聞いただけで抱っこするとは言ってねぇぞ」
クチートと目が合う。
少し待っても腕を下ろす気配はない。
「……お前、絶対ちょっと面白がってるだろ」
ガチッ。
「それ肯定?」
もう一度鳴る気配はなかった。
「……分かったよ。ほら」
しゃがんで身体を抱き上げると、クチートは嫌がるどころか当然みたいに俺の腕へ収まり、そのまま何事もなかったように前を向いた。
「…………」
『…………』
「やっぱお前元気じゃね?」
ガチッ。
「そこは返事すんなよ」
クチートを抱え直して歩き出そうとしたところで、隣から小さな声が聞こえた。
『……クチートだけずるい』
「え?」
キルリアを見ると、こっちを見上げている。
『私、抱っこしてもらったことない』
「いや、お前は疲れてないだろ」
『クチートも元気そうだよ。それに私の方がクチートより軽いし……』
「重さの問題じゃねぇって」
『…………』
「……分かった分かった。また今度な」
『……ぜったいだよ』
「はいはい」
キルリアはそれで納得したのか、すぐ隣にいたチュリネのところへ戻っていった。腕の中のクチートは何もなかったみたいに前を向いたままで、俺が歩き出すとそのまま大人しく収まっている。
俺が珍しいポケモンを見つけて立ち止まればクチートも同じ方へ顔を向け、水辺で何かが動けば腕の中からそっちを眺めた。最初は歩きにくいと思っていたけど、しばらくするとこっちも慣れてきて、気づけば普通に話しかけていた。
「ほらクチート、あそこ。草の間になんかいる」
クチートが顔を向ける。
「見えた?」
ガチッ。
「だよな。あれ何だろ」
『二人とも楽しそうだね』
「うるさいなぁ」
キルリアは笑いながらチュリネの隣を歩き、チュリネも時々足を止めては周りの草へ視線を向けていた。そんなふうに進んでいるうちに、足の裏へまとわりついていた感触が少しずつ変わってきた。
「……あれ?」
『どうしたの?』
「なんか、さっきより地面固くない?」
少し前までは木の板から外れるたびに靴底へ泥がまとわりついていたのに、今は踏んでもほとんど沈まない。水溜まりもいつの間にか減り、腰の辺りまで伸びていた草も少しずつ低くなっている。キルリアも足元を見て何度か軽く踏み、チュリネは一足先に草の薄くなった方へ進んでいった。
『ほんとだ。泥ほとんどつかないね。それに、さっきより草も少ない』
「湿原ってずっとこんな感じだと思ってたけど、奥は違うのかな」
チュリネが少し先で足を止めた。
「ん?」
その先には、砂が広がっていた。
「……砂?」
少し前まで水と泥ばかりだったのに、そこだけ地面が明るく乾き、緩い起伏を作りながら奥へ続いている。後ろを振り返ればすぐそこには湿った草と水辺が残っているので、いつの間にか大湿原の外へ出たというわけでもなさそうだ。
『こんなところもあるんだね。チュリネ、さっきからずっと境目見てる』
「急に草なくなったもんな。俺も湿原に砂があるとは思わなかった」
チュリネは砂地と草の境目を見比べ、しばらくしてから俺たちの方へ戻ってきた。
「なんかいそうじゃね? せっかくここまで来たんだし、ちょっと見てこうぜ」
『また“ちょっと”って言った』
「今回はほんとにちょっと!」
『昨日も聞いたよ、それ』
「はいはい」
砂へ足を踏み入れようとしたところで、腕の中のクチートが身体を動かした。
「ん?」
少し身を捻り、足を地面へ向ける。
「降りる?」
ガチッ。
「はいはい」
しゃがんで砂の上へ下ろすと、クチートはその場で姿勢を整え、そのまま何事もなかったみたいに俺の少し後ろへ回った。
「…………」
『…………』
「やっぱ元気じゃん」
返事はない。
『ユアに抱っこしてほしかっただけだったりして』
「…………」
クチートを見る。
しかしクチートはこっちを見ない。
「……お前、まさか」
ガチッ。
「その返事どっちだよ」
キルリアの笑い声を後ろに聞きながら砂へ足を踏み入れると、泥とは違って靴の裏が少し沈み、足を抜くたびに細かい砂が崩れた。自分たちの足跡がそのまま後ろへ残っていくのを見ながら進んでいると、少し先の地面に丸い窪みがある。
「……穴?」
一つだけじゃない。すぐ近くにも、その向こうにも似たような窪みがあり、中には地面そのものがすり鉢みたいにへこんでいる場所まであった。
『これ、誰かが掘ったのかな。形が似てるし、一個だけじゃないよ』
「自然にこうなったって感じじゃないよな。なんか住んでるとか?」
近づこうとしたところで、目の前の砂が動いた。
「っ?」
窪みの中から、丸い頭がゆっくり出てくる。
「……ナックラー?」
大きな顎を持ったオレンジ色の小さなポケモンが、砂から顔だけを出したままこっちを見ていた。
「うわ、ほんとにナックラーじゃん。こんなとこにいるんだ」
『初めて見た?』
「図鑑では見たことあるけど、本物は初めて。っていうか、あっちにもいる」
少し離れたところでも砂が動き、もう一匹が顔を出した。さらに奥でも一匹、その横でも砂が盛り上がり、最初は一匹しか見えていなかったのに、気づけば砂地のあちこちから同じ顔が覗いている。
「すげぇ……群れだ」
『みんな穴の中に隠れてたんだね。近づきすぎると驚かせそうだし、ここから見ようよ。知らない人にいきなり囲まれたら嫌でしょ』
「そうだな。わざわざ出てきてもらう必要もないし」
その場へしゃがみ、少し離れたところから群れを見る。ナックラーたちはこっちへ寄ってくるわけでも逃げるわけでもなく、穴の中から俺たちを見ていた。キルリアも隣へしゃがみ込み、チュリネは砂地と草の境目がまだ気になるのか、少し後ろから地面を見比べている。
「何匹いるんだろ」
『見えてるだけでも結構いるよ。奥にも穴があるし、まだ砂の中にいるんじゃない?』
「そんなにいるのか。全部出てきたらすごそうだな」
『だから出そうとしないでよ』
「しねぇって」
一匹ずつ目で追っているうちに、群れから少し離れたところで動く影が見えた。
「……ん?」
一匹のナックラーが、砂地の端にある小高い斜面を登っている。
短い脚では登りにくいらしく、途中で砂を崩して少し滑ったけど、すぐに身体を起こしてまた上へ進んでいく。
「なにしてんだ、あいつ」
『上に何かあるのかな。ずっと登ってるけど、あの先って何もなさそうだよね』
「うん」
何度か滑りながら、ナックラーはようやく斜面の上まで辿り着いた。そこから先は切れていて、高い崖ってほどじゃないけど、あの身体で落ちれば普通に怪我をしそうな高さがある。
ナックラーが端まで進み、下を覗き込んだあと、少しだけ後ろへ下がって身体を低くする。
「…………おい」
見ているうちに、何をしようとしているのか分かってきた。
「お前、まさか飛ぶ気じゃ――」
ナックラーが走った。
「ちょっ、おい!」
短い脚で砂を蹴り、その勢いのまま崖の先へ飛び出す。
「バカ!!」
考えるより先に身体が動いた。斜面の下へ走り込み、落ちてくるナックラーへ両腕を伸ばす。
一瞬だけ前へ進んだ身体が、そのまま真っ直ぐ落ちてきた。
「っ、ぐ……!」
腕の中へ飛び込んできた重さと勢いを支えきれず、足がもつれてそのまま尻餅をつく。背中まで倒れそうになったけど、抱えたナックラーだけは落とさないよう腕へ力を入れた。
「いってぇ……何やってんだよ、お前。羽もないのに、その高さから飛んだら落ちるに決まってんだろ」
腕の中を見る。
ナックラーも俺を見ていた。
「…………」
怪我がないか身体を確かめても、今のところ目立った傷は見えない。息を吐いたところで、ナックラーがゆっくり顔を動かした。
「ん?」
今度は俺じゃなく、もっと上を見ている。
つられて顔を上げると、青い空の高いところを、一匹の鳥ポケモンが翼を広げたまま横切っていった。
「…………」
もう一度、腕の中へ目を戻す。
ナックラーは鳥ポケモンの姿が小さくなっても、ずっと空を見ていた。