腕の中のナックラーは、鳥ポケモンの姿が見えなくなっても空を見たままだった。さっきまで俺の顔を見ていたのに、今は呼びかけても視線が戻ってこない。何がそんなに気になるのか分からず、つられて同じ方を見上げてみても、青い空には薄い雲が流れているだけだった。
「……あれ見てたの?」
返事はない。少し遅れてキルリアが近くまで来ると、俺の腕の中を覗き込み、しばらくナックラーの顔を見ていた。
『……この子、飛びたいんだって。さっき空を飛んでた子みたいに、自分もあそこまで上がりたいって思ってる』
「飛びたいって……こいつが?」
もう一度ナックラーを見ると、やっぱり空から目を離さない。
「だから崖から飛び出したのかよ。飛びたいのは分かったけど、羽もないのにあんなところから飛んだら、そりゃ落ちるだろ」
『でも、この子にとっては落ちることより、飛びたいって気持ちの方がずっと強いみたい。さっきユアに受け止めてもらったのに、もうまた上を見てる』
「いや、それは俺にも見れば分かるけどさ……だからって何回も落ちる気かよ」
怪我がないことをもう一度確かめてから地面へ下ろすと、ナックラーは少し身体を揺らしたあと、群れの方ではなく、さっき登っていた斜面へ歩き出した。
「……おい」
止まらない。
「おいおい、待てって! お前まさか、もう一回やる気!?」
ナックラーは振り返りもせず、崩れる砂へ短い脚をかけて登り始めた。途中で足元が崩れ、身体ごと少し滑り落ちても、その場で姿勢を戻してまた上へ進んでいく。
「だから待てって! さっき俺がいなかったら普通に地面まで落ちてたんだぞ!」
『ユア、多分聞かないよ?』
「…だったら、せめて落ちても受け止められるところにいるか」
『それ、止めるの諦めたってことじゃない?』
「違うって。落ちるの分かってんのに放っとけないだけ!」
ナックラーが上まで辿り着く前に、俺は斜面の下へ回った。崖の端からこっちを見下ろしたナックラーへ両腕を広げ、落ちる場所だけは外さないよう真下へ立つ。
「やるなら待てよ! 俺ここにいるから、変なところ飛ぶなよ!」
『ユア、完全に手伝ってるよ』
「うるさいなぁ! 受け止めなかったら怪我するだろ!」
ナックラーはさっきと同じように少し後ろへ下がり、身体を低くした。
「……来い! でもちゃんとこっち狙えよ!」
短い脚が砂を蹴り、そのまま崖の先へ飛び出す。一瞬だけ前へ進んだ身体はすぐに落ち始めたけど、今度は最初から構えていたので胸の前で受け止められ、重さに足が一歩下がっただけで済んだ。
「ほら、やっぱ飛べてないじゃん」
腕の中を見ると、ナックラーはまた空を見ている。
「……ほんと諦めねぇな、お前」
『たぶん、もう一回やるよ』
「言わなくても分かる」
地面へ下ろした途端、案の定また斜面へ向かった。
「……やれやれ」
今度は途中まで登ったところで大きく足を滑らせ、崩れた砂と一緒に下まで転がってくる。怪我をするほどではなかったけど、起き上がるなりすぐに斜面へ顔を向けた。
「ちょっと休めって! 飛ぶ前に登るだけで疲れるだろ。さっきから落ちて登ってばっかじゃん!」
それでもナックラーはまた進み始めたので、結局俺も斜面の下へ回る。飛び出す場所がずれればこっちから位置を変え、落ちてきたら受け止めて、怪我がないのを確かめてから下ろす。そのたびにナックラーは空を見上げ、少し息を整えるとまた上へ向かった。
『ユア、もう止める気なくなってるでしょ。最初はあんなに「飛べないだろ」って怒ってたのに、今ずっと受け止める場所探してるよ』
「飛べないとは今も思ってるって。でも、こいつがやめないんだから仕方ないだろ。だったら少しでも怪我しないようにしてやるしかないじゃん」
また一度受け止めて地面へ下ろすと、今度のナックラーはすぐに斜面へ向かわず、その場で身体を伏せるようにして息を整えた。
「……さすがに疲れた?」
ナックラーは俺を見て、それからまた斜面の上へ視線を動かす。
「まだやる気なのかよ」
少し離れたところではクチートがずっとこちらを見ていた。最初はいつもの距離を取っていたのに、ナックラーが何度も斜面へ向かううちに少しずつ近くへ来ていて、今は砂地の途中に立ったままその動きを追っている。チュリネも草のある境目から離れ、キルリアの隣まで来ると、ナックラーが動くたびにそちらへ顔を向けていた。
「……どうやったら飛べるんだろうな、お前」
答えは返ってこない。
羽もないし、さっきより勢いをつけても空にいられる時間はほとんど変わらなかった。何度も同じように落ちてくるのを見ているうちに、ただ受け止めるだけじゃなく、こっちまで少し考え始めていた。
「さっきより前には進んでたよな?」
『……ほんのちょっとだけなら。でも、飛んだっていうより勢いで前に出ただけだと思うよ』
「じゃあ次、もう少し手前から走ってみる? 助走長くしたら変わるかもしれないじゃん」
『ユア、本当に手伝い始めたね』
「だってこいつ本気なんだもん。何回落ちてもやめねぇし、だったらちょっとくらい考えてやりたいじゃん」
ナックラーが話を聞いているのかは分からなかったけど、少し休んだあとで立ち上がると、また斜面へ向かった。俺も一緒についていき、さっきより少し手前の砂を足でならしてから、そこを指す。
「今度ここから走ってみろよ。この辺ならさっきより砂も崩れにくそうだし、勢いつけやすいだろ」
ナックラーは俺が指した場所まで下がると、斜面の先を見た。
「俺は下いるから。飛ぶならちゃんとこっち来いよ」
ナックラーが走る。
短い脚で砂を蹴り、そのまま崖の先へ飛び出した。
さっきより少しだけ前へ進んだ気がしたけど、やっぱり身体は下へ落ちてくる。
「っ、よっと!」
胸の前で受け止め、足を踏ん張る。
「……今の、さっきより飛べたよな?」
『ほんのちょっと……かも』
「ほら!」
『でも飛んではないよ』
「分かってるって! ちょっとくらい喜ばせろよ」
ナックラーは俺たちの会話なんか気にせず、腕の中からまた空を見ていた。
何度目かの挑戦が終わる頃には、さすがに動きも鈍くなり、地面へ下ろしても斜面へ向かわなくなった。俺もその隣へ腰を下ろし、何度も受け止めたせいで少し痛くなってきた腕を伸ばしながら空を見上げる。
「……飛びたいのは分かったけどさ。どうすりゃ飛べるんだろうな、お前」
ナックラーも隣で空を見ていた。
「俺も分かんねぇよ。羽もないし、いくら走っても落ちるし……でも、諦める気もないんだろ?」
ナックラーがこっちを見る。
「……だよな」
俺もまた空へ顔を戻す。
「まあ、今すぐ分かんなくてもいいか。ただ、次やるならちゃんと誰かいる時にしろよ。今日みたいに俺がいれば受け止めるから、勝手に一人で崖から飛ぶのは禁止な」
キルリアが隣へしゃがみ込んだ。
『最初に見つけた時より、ずいぶん優しくなったね。さっきまで「飛べないのに崖から飛ぶな」って怒ってたのに、今は次の約束までしてる』
「最初から助けてるだろ。それに飛べないのに崖から飛ぶのは今でもバカだと思ってる。でも、こいつ絶対またやるじゃん。だったら俺がいる時の方がいいだろ」
『ふふっ、そうだね』
「だろ?」
ナックラーは斜面へ一度だけ目を向けたけど、今度は立ち上がらなかった。
「よし、今日はもう終わり。これ以上やったら飛ぶ前に倒れるぞ」
しばらく休んだあと、ナックラーはゆっくり身体を起こすと、俺たちではなく群れの方へ歩いていった。穴から顔を出していた仲間たちの間へ戻り、その中へ入ってから一度だけこちらを振り返る。
「戻るんだな」
『仲間のところが落ち着くんじゃない? ずっとここで暮らしてるんだろうし』
「そりゃそうか。じゃあ俺たちもそろそろ戻ろうぜ。なんだかんだ結構ここにいたし」
『うん。チュリネもそろそろ草のあるところに戻りたそう』
見ると、チュリネは砂地の向こうに広がる湿地へ身体を向けていた。俺も立ち上がって服についた砂を払い、そろそろ戻ろうと歩き出しかけたところで、遠くから人の声が聞こえてきた。
「……ん?」
最初は何を言っているのか分からなかったけど、少し待つと同じ方向からもう一度声が飛んでくる。
「こっちにもいるぞ!」
別の声も重なった。
砂地のあちこちにいたナックラーたちが一斉にそちらへ顔を向けると、近くにいた一匹がすぐ砂へ潜り、それを追うように別の個体も穴へ消えていった。さっきまであちこちから覗いていた顔が次々と見えなくなり、砂を踏むいくつもの足音まで少しずつ近づいてくる。
『ユア……誰か来る』
「うん。一人じゃなさそうだな」
さっきのナックラーはどうしたのかと群れの方を見ると、あいつだけはまだ砂へ潜らず、空ではなく声の聞こえてくる方をじっと見ていた。それから周りの仲間たちへ一度だけ顔を向け、また近づいてくる足音の方へ視線を戻した。