此度の迷い人は、どのような迷いを抱え、どのような答えを選択するのか。
『五里霧中』
深い霧は、彼女の心を包み込み、進むべき道を見失わせる……。
その日も、丸パンが八つ、売れ残った。
リーネ・ベルクは、閉店後の薄暗い店先で、その八つをひとつずつ布の上に並べていった。
数えながら並べるのは、もう癖になっている。
数えたところで、ひとつも減りはしないのに。
昼間の熱を失ったパンは、手のひらの上でよそよそしいほど冷たかった。
朝、窯から出てきたばかりの頃は、皮が薄く鳴って、指で押せば押し返すような弾力があって、香りだけで道ゆく人を立ち止まらせた。
それが今は、つやも湯気も手放して、布の上でただ静かにうつむいている。
売れ残りのパンには声がない。
そんなことを、ふと思った。
店の中は、しんとしていた。
昔は、こんな時間でもまだ表に明かりを灯していた。
仕事帰りの人が、夕飯のついでにと一つ二つ買っていく。
その釣り銭のやりとりや、他愛のない世間話で、夜になっても店には小さなざわめきが残っていたものだ。
今は、もう……、ない。
母がいた頃の話だ。
奥の厨房から、父グスタフが、空の木箱を抱えて出てきた。
大柄な体が、戸口で一度、つかえる。腕まくりした太い腕には、古い火傷の跡が、地図のように散っていた。
窯のそばで生きてきた、年月の数だけ。
父は何も言わず、リーネが並べた八つの丸パンをひとつずつ、木箱へ移していった。
投げ込むのではない。一つひとつ、こわれもののように。
「父さん」
リーネは、思いきって声をかけた。
「明日は……焼く数、少し減らさない?」
グスタフの手が、止まる。けれど、振り向きはしない。
「減らせば売れるのか」
「そうじゃ、ないけど。こんなに残るなら、粉ももったいないし」
「もったいなくは、ない」
低い声だった。
怒っているというより、決まりきった答えを、ただ置くような声。
「孤児院へ、持っていく」
リーネは、口をつぐんだ。
父は、売れ残ったパンを、一度も捨てたことがない。
毎晩、町外れの孤児院まで、自分の足で運んでいく。
子供たちが腹を空かせているのを、口には出さないが、ちゃんと知っているからだ。
届けた帰りの父は、いつも、ほんの少しだけ、背中が軽そうに見える。
だから、責めたいわけじゃ、なかった。
ただ――このままでは、いけない。
「でも、それじゃ……店が続かないよ」
グスタフの眉が、わずかに動いた。
「パン屋は、美味いパンを焼く。それだけだ」
「それだけじゃ、もう売れてないでしょ……!」
言ってしまってから、自分の声の鋭さに、リーネは胸を刺された。
グスタフが、ゆっくりと振り向く。
その顔は怒っているのか、ただ疲れているのか、判じかねた。
目の下には深い皺が刻まれ、髪には、リーネが覚えているよりずっと多くの白いものが、まじっていた。
いつのまに、こんなに。
気づかなかった自分が、少しだけ怖くなる。
「俺の、パンが」
父の声が低くなった。
「不味いと、言いたいのか」
「違う!」
リーネは、強く首を振った。
「父さんのパンは、美味しいよ。今も、昔も、ずっと。でも……街道沿いに、オルド商会の店ができてから、お客さんが減ってるの。あっちは安いし、朝も早くから開いてて買いやすい。だからうちも、何か変えなきゃ」
「変える、だと」
グスタフの声に、硬いものが混じる。
「味を、変えろというのか」
「味じゃなくて……売り方とか、焼く時間とか、届ける先とか、そういう」
「余計なことを考えるな」
ぴしゃり、と。父は、言葉で扉を閉ざした。
「お前は、店番をしていればいい。この店は、このままでいいんだ」
いつもなら、リーネはそこで黙った。
けれど今夜は、その「このままでいい」が、まるで、目の前で錠の下りる音のように聞こえた。
重く、冷たく、向こう側へは行けない音。
胸の奥で、ずっと堪えていたものが、せり上がってくる。
「……母さんが、いたら」
言うべきではない、と、頭のどこかが告げていた。
それでも、止まらなかった。
「母さんがいたら、きっと何か考えたよ。母さんは、ただ同じことを繰り返してたわけじゃない。お客さん一人ひとりの好きな焼き加減を覚えて、子供には小さく、歯の弱いお年寄りには柔らかく……いつだって、その人に合わせて考えてた」
その瞬間、店の空気が、音もなく張りつめた。
グスタフの目が揺れる。
「……マルタの名を、出すな」
怒鳴り声ではなかった。
むしろ、静かすぎる声だった。
だからこそ、それは、どんな大声よりも深く、リーネの胸に届いた。
もう、引き返せなかった。
リーネはカウンターの下へ手を伸ばし、古びた革表紙の帳面を引っぱり出した。
母マルタのレシピ帳。
角はすり切れて丸くなり、何度も開かれたページは、紙とは思えないほど柔らかい。
ところどころに小麦粉の白い跡が残り、乾いた香草の欠片が、栞のように挟まっている。終わりのほうのページには、途中で止まった試作の記録があった。
急いで書かれた母の字。
線で消されては、書き直された配合。
日持ちのするパン。
旅人向け。
香草を少し。
乾いた果実。
水を減らす、けれど、硬くなりすぎないように。
そして、いちばん最後のページに、母のあの丸い文字で、ただ一行。
――リーネが大きくなったら、一緒に新しいパンを考えること。
その一行を、リーネは何度も指でなぞってきた。
「母さんは、新しいパンを考えようとしてた。私、その続きを――」
「それをしまえ」
グスタフの声が、ぐっと、沈んだ。
「どうして」
「しまえと言った」
「どうして、いつもそうなの……!」
胸が、熱くて、苦しかった。
「窯に近づくな、帳面を出すな、余計なことを考えるな。父さん、私に、何をさせたいの。私だって、この店の娘なのに」
グスタフは、何かを言いかけた。
唇が、わずかに動く。
喉の奥で、言葉になりかけた何かが、揺れた。
けれど、出てきたのは、いつもと同じ不器用で硬い一言だった。
「お前は……窯に立つ必要は、ない」
リーネの中で、何かが小さく折れた。
乾いた小枝を、踏み折ったような頼りない音だった。
「……私には、できないって、こと?」
「そうじゃ、ない」
「じゃあ、何なの」
父は、答えなかった。
いつも、そうだ。
いちばん大事なところで口をつぐむ。
何も言わず、ただ、背中だけを見せる。
その背中が広ければ広いほど、リーネには遠かった。
リーネは、母のレシピ帳を、きつく胸に抱いた。
カウンターに置かれていた白いスカーフも、無言でつかむ。
母が窯に立つとき、髪をまとめていた布だ。
何度も洗われて、繊維が薄くほどけて、もう母の匂いは、少しも残っていない。
それでも、世界でいちばん大切な布の一つだった。
売れ残った丸パンを一つ、布にくるんで、腕に抱える。
なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。
ただ、これだけは、置いていきたくなかった。
「どこへ行く!」
グスタフが言った。
「分からない」
本当に、分からなかった。
ただ、この店の中にいると、息がうまくできない気がした。
リーネは、裏口へ向かった。
「リーネ」
父の声が、背中を追ってきた。
いつもより、ほんの少しだけ、弱い声だった。
足が止まりかける。
振り向けば、何かが変わるかもしれない――そんな気が確かにした。
けれど、リーネは振り向かなかった。
振り向いたら、泣いてしまう。
泣いたら、もう、何も言えなくなる。
裏口を開けると、夜の冷たい空気が、頬を平手で打つように吹きつけた。
店の明かりが、背後でゆっくりと遠ざかっていく。
すり減った石畳が、やがて踏み固められた土の道に変わり、肩を寄せ合う家々の影が、いつのまにか、黒い木々の影に変わっていた。
気づけば、頬を、涙が伝っていた。
父のパンは美味しい……それだけは本当なのに。
どうして、誰も買ってくれないのだろう。
どうして、父は変わろうとしないのだろう。
どうして自分は、こんなに店のことを思っているのに、たった一つも、父にちゃんと伝えられないのだろう。
「母さん……」
呟いた声は、行き場をなくして、夜の森にすうっと吸い込まれていった。
ふと気づくと、リーネは木々の間に、足を踏み入れていた。
この森には、子供の頃から近づくなと言われてきた。
深い森ではないはずなのに、なぜか迷いやすい。
慣れた木こりでさえ、霧の濃い日には道を見失うのだという。
――戻らなきゃ。
そう思って振り返ったとき、もう、来た道が分からなくなっていた。
そこにあるはずの、町の明かりが、ない。
代わりに白い霧が、木々のあいだを、音もなく流れていた。
さっきまで、こんな霧はどこにもなかったはずだった。
足元の落ち葉が、しっとりと湿る。
空気が一段、冷えていく。
どこか高い枝が、きしむように鳴って、また静まり返った。
怖い。
心臓が、喉のあたりまでせり上がってくる。
なのに、不思議と足は止まらなかった。
帰りたいのか、帰りたくないのかさえ、もう、分からない。
店へ戻れば、父がいる。
冷めた丸パンも、黙り込んだ石窯も、母の帳面を見て顔を強張らせる父も、そこにいる。
でも――ほかに行ける場所が、あるわけでもなかった。
自分が、どこへ向かえばいいのか。
それが、いちばん分からなかった。
その時だった。
霧の向こうで、梟が鳴いた。
ほう、と。
夜にしみ込むような、静かで白い声だった。
リーネは、はっと顔を上げる。
木々のあいだに、薄い明かりが見えた。
最初は、月かと思った。けれど、違う。
その明かりは、思いのほか低い場所にあって、四角く――窓の、形をしていた。
こんな森の奥に、家などあるはずがない。
頭ではそう思うのに、リーネの足は、もう、明かりのほうへ向かっていた。
歩を進めるたび、霧が道を譲るように、左右へやわらかく流れていく。
踏みしめる土は、しっとりと柔らかく、濡れた葉の匂いに混じって、どこか懐かしい――磨き込まれた木の家具のような、温かい香りがした。
やがて、木々がふいに途切れた。
そこに、館があった。
白い石壁。
深い青灰色の屋根。
太い門柱に、蔦が静かに絡んでいる。
玄関へ続く小道の両脇には、夜だというのに、白い花が、いくつもひっそりと、花弁を開いていた。
門の上には、大きく羽を広げた白い梟の紋章が刻まれている。
いくつもの窓に、橙色の温かな明かりがともり――まるで、ずっと前から、リーネが来るのを知って、待っていたかのようだった。
門柱の天辺に、白い梟が一羽、とまっていた。
雪のように白い羽。
夜空をそのまま映し込んだような、深い瞳。
梟は、首をかしげるようにリーネを見下ろし、もう一度だけ鳴いた。
ほう、と。
まるで、おいで、と言うように。
その声に背中を押されて、リーネは門をくぐっていた。
玄関扉の前まで来て、急に自分の格好が気になりだした。
小麦粉のついたエプロン。
涙の乾いた、ごわついた頬。
腕に抱えているのは、売れ残りのパンと、古いレシピ帳と、母の白いスカーフ。
こんな姿で、見ず知らずの館を訪ねていいはずがない。
けれど、引き返そうにも、来た道はもう白い霧に閉ざされている。
リーネが、震える手を持ち上げた、その時。
扉が、内側から静かに開いた。
温かな光が、夜の霧の中へ、こぼれるように流れ出す。
そこに立っていたのは、白金色の髪をした、息を呑むほど美しいメイドだった。
澄んだ青い瞳。
背筋の伸びた、けれど、どこにも冷たさのない佇まい。
声は、夜明け前にそっと差し出される一杯のお茶のように、低く、穏やかだった。
「ようこそ、白梟館へ」
リーネは声を失った。
メイドは、迷子になった幼子を迎えるようにふっと微笑む。
「ここは、本当に道に迷われた方だけが、辿り着ける場所です」
「わ、私……ただ、森で、道に迷っただけで」
「ええ」
メイドは、ゆっくりと頷いた。
「森では、そうなのでしょうね」
その言葉の本当の意味は、リーネには分からなかった。
ただ――なぜだろう。
胸の奥でずっと張りつめていた糸が、ほんの少しだけ、ゆるんだ気がした。
メイドは一歩下がり、館の奥へと白い手をそっと差し伸べる。
「申し遅れました。私はセレスティア・ルミナリア。この館で、メイド長を務めております。――寒かったでしょう。まずは、温かいお茶を。お話は、それからで構いません」
リーネは、開かれた扉の向こうを見た。
暖炉に揺れる橙色の火。
飴色に磨かれた床。
壁いっぱいに並ぶ本の背表紙。
奥のどこかから、かすかに漂ってくる甘い香草の匂い。
そのさらに奥に、もう一人――誰かが、静かに息づいている気配が、あった。
リーネは、母のレシピ帳を胸に抱いたまま、こくりと、小さく頷いた。
その夜……パン屋の娘は、焼きたてではない答えを探して、白梟館の扉をくぐった。