叡智の御子は白梟館で迷い人を導く   作:ザキグン

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真に道に迷った者だけが辿り着ける、不思議な館「白梟館」
此度の迷い人は、どのような迷いを抱え、どのような答えを選択するのか。

『五里霧中』

深い霧は、彼女の心を包み込み、進むべき道を見失わせる……。


第一話 パン屋の娘と、焼きたてではない答え①(修正版)

その日も、丸パンが八つ、売れ残った。

 

 

リーネ・ベルクは、閉店後の薄暗い店先で、その八つをひとつずつ布の上に並べていった。

数えながら並べるのは、もう癖になっている。

数えたところで、ひとつも減りはしないのに。

昼間の熱を失ったパンは、手のひらの上でよそよそしいほど冷たかった。

朝、窯から出てきたばかりの頃は、皮が薄く鳴って、指で押せば押し返すような弾力があって、香りだけで道ゆく人を立ち止まらせた。

それが今は、つやも湯気も手放して、布の上でただ静かにうつむいている。

売れ残りのパンには声がない。

そんなことを、ふと思った。

店の中は、しんとしていた。

昔は、こんな時間でもまだ表に明かりを灯していた。

仕事帰りの人が、夕飯のついでにと一つ二つ買っていく。

その釣り銭のやりとりや、他愛のない世間話で、夜になっても店には小さなざわめきが残っていたものだ。

 

今は、もう……、ない。

 

母がいた頃の話だ。

奥の厨房から、父グスタフが、空の木箱を抱えて出てきた。

大柄な体が、戸口で一度、つかえる。腕まくりした太い腕には、古い火傷の跡が、地図のように散っていた。

窯のそばで生きてきた、年月の数だけ。

父は何も言わず、リーネが並べた八つの丸パンをひとつずつ、木箱へ移していった。

投げ込むのではない。一つひとつ、こわれもののように。

 

「父さん」

リーネは、思いきって声をかけた。

「明日は……焼く数、少し減らさない?」

グスタフの手が、止まる。けれど、振り向きはしない。

「減らせば売れるのか」

「そうじゃ、ないけど。こんなに残るなら、粉ももったいないし」

「もったいなくは、ない」

 

低い声だった。

怒っているというより、決まりきった答えを、ただ置くような声。

「孤児院へ、持っていく」

リーネは、口をつぐんだ。

父は、売れ残ったパンを、一度も捨てたことがない。

毎晩、町外れの孤児院まで、自分の足で運んでいく。

子供たちが腹を空かせているのを、口には出さないが、ちゃんと知っているからだ。

届けた帰りの父は、いつも、ほんの少しだけ、背中が軽そうに見える。

だから、責めたいわけじゃ、なかった。

 

ただ――このままでは、いけない。

 

「でも、それじゃ……店が続かないよ」

グスタフの眉が、わずかに動いた。

「パン屋は、美味いパンを焼く。それだけだ」

「それだけじゃ、もう売れてないでしょ……!」

言ってしまってから、自分の声の鋭さに、リーネは胸を刺された。

グスタフが、ゆっくりと振り向く。

その顔は怒っているのか、ただ疲れているのか、判じかねた。

目の下には深い皺が刻まれ、髪には、リーネが覚えているよりずっと多くの白いものが、まじっていた。

いつのまに、こんなに。

気づかなかった自分が、少しだけ怖くなる。

 

「俺の、パンが」

父の声が低くなった。

「不味いと、言いたいのか」

「違う!」

リーネは、強く首を振った。

「父さんのパンは、美味しいよ。今も、昔も、ずっと。でも……街道沿いに、オルド商会の店ができてから、お客さんが減ってるの。あっちは安いし、朝も早くから開いてて買いやすい。だからうちも、何か変えなきゃ」

「変える、だと」

グスタフの声に、硬いものが混じる。

「味を、変えろというのか」

「味じゃなくて……売り方とか、焼く時間とか、届ける先とか、そういう」

「余計なことを考えるな」

 

ぴしゃり、と。父は、言葉で扉を閉ざした。

「お前は、店番をしていればいい。この店は、このままでいいんだ」

いつもなら、リーネはそこで黙った。

けれど今夜は、その「このままでいい」が、まるで、目の前で錠の下りる音のように聞こえた。

重く、冷たく、向こう側へは行けない音。

胸の奥で、ずっと堪えていたものが、せり上がってくる。

 

「……母さんが、いたら」

 

言うべきではない、と、頭のどこかが告げていた。

それでも、止まらなかった。

「母さんがいたら、きっと何か考えたよ。母さんは、ただ同じことを繰り返してたわけじゃない。お客さん一人ひとりの好きな焼き加減を覚えて、子供には小さく、歯の弱いお年寄りには柔らかく……いつだって、その人に合わせて考えてた」

その瞬間、店の空気が、音もなく張りつめた。

グスタフの目が揺れる。

 

「……マルタの名を、出すな」

 

怒鳴り声ではなかった。

むしろ、静かすぎる声だった。

だからこそ、それは、どんな大声よりも深く、リーネの胸に届いた。

もう、引き返せなかった。

リーネはカウンターの下へ手を伸ばし、古びた革表紙の帳面を引っぱり出した。

母マルタのレシピ帳。

角はすり切れて丸くなり、何度も開かれたページは、紙とは思えないほど柔らかい。

ところどころに小麦粉の白い跡が残り、乾いた香草の欠片が、栞のように挟まっている。終わりのほうのページには、途中で止まった試作の記録があった。

急いで書かれた母の字。

線で消されては、書き直された配合。

 

日持ちのするパン。

旅人向け。

香草を少し。

乾いた果実。

水を減らす、けれど、硬くなりすぎないように。

そして、いちばん最後のページに、母のあの丸い文字で、ただ一行。

 

――リーネが大きくなったら、一緒に新しいパンを考えること。

 

その一行を、リーネは何度も指でなぞってきた。

「母さんは、新しいパンを考えようとしてた。私、その続きを――」

「それをしまえ」

グスタフの声が、ぐっと、沈んだ。

「どうして」

「しまえと言った」

「どうして、いつもそうなの……!」

胸が、熱くて、苦しかった。

「窯に近づくな、帳面を出すな、余計なことを考えるな。父さん、私に、何をさせたいの。私だって、この店の娘なのに」

グスタフは、何かを言いかけた。

唇が、わずかに動く。

喉の奥で、言葉になりかけた何かが、揺れた。

けれど、出てきたのは、いつもと同じ不器用で硬い一言だった。

 

「お前は……窯に立つ必要は、ない」

 

リーネの中で、何かが小さく折れた。

乾いた小枝を、踏み折ったような頼りない音だった。

「……私には、できないって、こと?」

「そうじゃ、ない」

「じゃあ、何なの」

父は、答えなかった。

いつも、そうだ。

いちばん大事なところで口をつぐむ。

何も言わず、ただ、背中だけを見せる。

その背中が広ければ広いほど、リーネには遠かった。

 

リーネは、母のレシピ帳を、きつく胸に抱いた。

カウンターに置かれていた白いスカーフも、無言でつかむ。

母が窯に立つとき、髪をまとめていた布だ。

何度も洗われて、繊維が薄くほどけて、もう母の匂いは、少しも残っていない。

それでも、世界でいちばん大切な布の一つだった。

売れ残った丸パンを一つ、布にくるんで、腕に抱える。

なぜそうしたのか、自分でも分からなかった。

ただ、これだけは、置いていきたくなかった。

「どこへ行く!」

グスタフが言った。

「分からない」

本当に、分からなかった。

ただ、この店の中にいると、息がうまくできない気がした。

リーネは、裏口へ向かった。

 

「リーネ」

 

父の声が、背中を追ってきた。

いつもより、ほんの少しだけ、弱い声だった。

足が止まりかける。

振り向けば、何かが変わるかもしれない――そんな気が確かにした。

けれど、リーネは振り向かなかった。

振り向いたら、泣いてしまう。

泣いたら、もう、何も言えなくなる。

 

裏口を開けると、夜の冷たい空気が、頬を平手で打つように吹きつけた。

店の明かりが、背後でゆっくりと遠ざかっていく。

すり減った石畳が、やがて踏み固められた土の道に変わり、肩を寄せ合う家々の影が、いつのまにか、黒い木々の影に変わっていた。

気づけば、頬を、涙が伝っていた。

父のパンは美味しい……それだけは本当なのに。

どうして、誰も買ってくれないのだろう。

どうして、父は変わろうとしないのだろう。

どうして自分は、こんなに店のことを思っているのに、たった一つも、父にちゃんと伝えられないのだろう。

 

「母さん……」

 

呟いた声は、行き場をなくして、夜の森にすうっと吸い込まれていった。

ふと気づくと、リーネは木々の間に、足を踏み入れていた。

この森には、子供の頃から近づくなと言われてきた。

深い森ではないはずなのに、なぜか迷いやすい。

慣れた木こりでさえ、霧の濃い日には道を見失うのだという。

 

――戻らなきゃ。

 

そう思って振り返ったとき、もう、来た道が分からなくなっていた。

そこにあるはずの、町の明かりが、ない。

代わりに白い霧が、木々のあいだを、音もなく流れていた。

さっきまで、こんな霧はどこにもなかったはずだった。

足元の落ち葉が、しっとりと湿る。

空気が一段、冷えていく。

どこか高い枝が、きしむように鳴って、また静まり返った。

 

怖い。

 

心臓が、喉のあたりまでせり上がってくる。

なのに、不思議と足は止まらなかった。

帰りたいのか、帰りたくないのかさえ、もう、分からない。

店へ戻れば、父がいる。

冷めた丸パンも、黙り込んだ石窯も、母の帳面を見て顔を強張らせる父も、そこにいる。

でも――ほかに行ける場所が、あるわけでもなかった。

自分が、どこへ向かえばいいのか。

それが、いちばん分からなかった。

 

その時だった。

霧の向こうで、梟が鳴いた。

ほう、と。

夜にしみ込むような、静かで白い声だった。

リーネは、はっと顔を上げる。

木々のあいだに、薄い明かりが見えた。

最初は、月かと思った。けれど、違う。

その明かりは、思いのほか低い場所にあって、四角く――窓の、形をしていた。

こんな森の奥に、家などあるはずがない。

頭ではそう思うのに、リーネの足は、もう、明かりのほうへ向かっていた。

歩を進めるたび、霧が道を譲るように、左右へやわらかく流れていく。

踏みしめる土は、しっとりと柔らかく、濡れた葉の匂いに混じって、どこか懐かしい――磨き込まれた木の家具のような、温かい香りがした。

 

やがて、木々がふいに途切れた。

そこに、館があった。

白い石壁。

深い青灰色の屋根。

太い門柱に、蔦が静かに絡んでいる。

玄関へ続く小道の両脇には、夜だというのに、白い花が、いくつもひっそりと、花弁を開いていた。

門の上には、大きく羽を広げた白い梟の紋章が刻まれている。

いくつもの窓に、橙色の温かな明かりがともり――まるで、ずっと前から、リーネが来るのを知って、待っていたかのようだった。

 

門柱の天辺に、白い梟が一羽、とまっていた。

雪のように白い羽。

夜空をそのまま映し込んだような、深い瞳。

梟は、首をかしげるようにリーネを見下ろし、もう一度だけ鳴いた。

ほう、と。

まるで、おいで、と言うように。

その声に背中を押されて、リーネは門をくぐっていた。

玄関扉の前まで来て、急に自分の格好が気になりだした。

小麦粉のついたエプロン。

涙の乾いた、ごわついた頬。

腕に抱えているのは、売れ残りのパンと、古いレシピ帳と、母の白いスカーフ。

こんな姿で、見ず知らずの館を訪ねていいはずがない。

けれど、引き返そうにも、来た道はもう白い霧に閉ざされている。

リーネが、震える手を持ち上げた、その時。

扉が、内側から静かに開いた。

温かな光が、夜の霧の中へ、こぼれるように流れ出す。

 

そこに立っていたのは、白金色の髪をした、息を呑むほど美しいメイドだった。

澄んだ青い瞳。

背筋の伸びた、けれど、どこにも冷たさのない佇まい。

声は、夜明け前にそっと差し出される一杯のお茶のように、低く、穏やかだった。

 

「ようこそ、白梟館へ」

リーネは声を失った。

メイドは、迷子になった幼子を迎えるようにふっと微笑む。

「ここは、本当に道に迷われた方だけが、辿り着ける場所です」

「わ、私……ただ、森で、道に迷っただけで」

「ええ」

メイドは、ゆっくりと頷いた。

「森では、そうなのでしょうね」

その言葉の本当の意味は、リーネには分からなかった。

ただ――なぜだろう。

胸の奥でずっと張りつめていた糸が、ほんの少しだけ、ゆるんだ気がした。

 

メイドは一歩下がり、館の奥へと白い手をそっと差し伸べる。

「申し遅れました。私はセレスティア・ルミナリア。この館で、メイド長を務めております。――寒かったでしょう。まずは、温かいお茶を。お話は、それからで構いません」

リーネは、開かれた扉の向こうを見た。

暖炉に揺れる橙色の火。

飴色に磨かれた床。

壁いっぱいに並ぶ本の背表紙。

奥のどこかから、かすかに漂ってくる甘い香草の匂い。

 

そのさらに奥に、もう一人――誰かが、静かに息づいている気配が、あった。

 

リーネは、母のレシピ帳を胸に抱いたまま、こくりと、小さく頷いた。

その夜……パン屋の娘は、焼きたてではない答えを探して、白梟館の扉をくぐった。

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