叡智の御子は白梟館で迷い人を導く   作:ザキグン

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情報が誤っていれば、解もずれる。
未だ立ち込める霧を払えないのなら、せめて分かれ道までの灯を探すとしよう。


第一話 パン屋の娘と、焼きたてではない答え②(修正版)

白梟館の中は、森の夜とはまるで別の世界だった。

背後で扉が閉じた瞬間、あれほど身にまとわりついていた霧の匂いが、すうっと遠ざかった。

「あの……セレスティア、さん……?」

リーネは、おずおずと口を開いた。

「ここは、貴族様の、お屋敷ですか?」

「ここは白梟館。道に迷われた方が、ほんの少しだけ足を休めるための場所です」

その答えは、分かったようで、やっぱり分からなかった。

「ご、ご挨拶が遅れてすみません!リ、リーネです。リーネ・ベルク。あの、町でパン屋を……いえ、パン屋の、娘で……」

「リーネ様ですね」

「様なんて、そんな」

「白梟館へいらした方は、皆様、お客様ですから」

セレスティアはそう言って、リーネが胸に抱えたレシピ帳へ、やわらかく視線を落とした。

「大切なものを、お持ちなのですね」

リーネは、反射的にレシピ帳を抱き直した。

「……はい」

「では、それも一緒に。こちらへどうぞ」

セレスティアに導かれ、リーネは玄関ホールの奥にある応接室に通された。

 

通された応接室は、暖炉の火でほどよく満たされていた。

外の霧の冷たさが嘘のように、長椅子に腰を下ろすと、体の芯からこわばりがほどけていく。

壁の一面は天井近くまで本棚で埋まり、古い書物や巻物、瓶に詰められた乾いた薬草が、所狭しと並んでいた。

 

その窓際の椅子に、一人の青年が座っていた。

まず目に入ったのは、髪の色。

月明かりをひとすくいしたような、淡い銀。

肩のあたりで、ゆるく束ねられている。

年の頃は、二十歳くらいだろうか。

リーネが勝手に思い描いていた“館の主”――白い髭の老賢者――とは、似ても似つかない。

けれど、その若さには、ひどく不釣り合いな静けさがあった。

長く生きた者だけが身につける、波の立たない湖面のような静けさ。

それが、若い顔の上に、そっと乗っている。

 

「こんばんは。リーネ・ベルクさん」

青年は、読んでいた本を静かに閉じ、リーネへ顔を向けた。

灰色にも、淡い青にも見える、不思議な色の瞳だった。

「どうして、私の名前を……」

「セレスティアが呼んでいたのが、聞こえてたからね」

青年は、ほんの少しだけ笑った。

からかわれたのだと気づいて、リーネの頬がかっと熱くなる。

「僕は、シオン・クラウゼル。この白梟館の主をしている。――まあ、座って。森を歩いてきたんだろう。話は温まってからでいい」

セレスティアが、湯気の立つカップと、深い器に盛った温かいパン粥を、銀の盆で運んできた。

空腹の人に難しい話をさせるのは賢くない、とでも言うように。

リーネは、はじめは遠慮した。

けれど、木の匙ですくった粥を一口含んだ途端、固く詰まっていた呼吸が、自分でも驚くほどほどけた。

塩気は控えめで、ミルクと香草の匂いがする。

硬くなったパンを、時間をかけて柔らかく煮たのだろう。

冷えていた胃の奥から、じんわりと温かさが広がっていった。

シオンは、リーネが食べ終えるまで、何ひとつ尋ねなかった。

その沈黙が、ありがたかった。

 

急かされない。

責められない。

なぜ来たのかと、問い詰められない。

 

やがて、リーネは自分から、ぽつりぽつりと話しはじめた。

父のパンが美味しいこと。

母がいた頃は、朝に客が並んだこと。

街道沿いにオルド商会の店ができて、客が減ったこと。

父が、何も変えようとしないこと。

母が遺した、未完成のレシピ帳。

そして――自分が、この店に必要ないのではないかという、消えない不安。

 

シオンは口を挟まなかった。

ただ、リーネの言葉が途切れても、急かさず、こぼれた欠片を一つひとつ拾うように、静かに聞いていた。

話し終えると、リーネは膝の上の布包みを、そっと開いた。

「これが……父の、パンです。今日、売れ残りました」

現れたのは冷えた丸パン。

表面はうっすら乾き、焼き色は濃い。

飾りらしいものは、何もない。

シオンは、それをじっと見つめた。

「触れても、いいかな」

「……はい」

受け取る手つきが、不思議なほど丁寧だった。

パン職人の手ではない。

細く、白く、長く本をめくってきた人の指だ。

それなのに、ただの売れ残りではなく、誰かの大切な仕事を、しばらく預かるかのように扱う。

 

次の瞬間、シオンの瞳に淡い銀の光が、ふっと宿った。

空気が変わる。

暖炉の火の音が、すっと遠のいた。

彼の指先から、細い光の筋がパンの表面をなぞるように広がり、文字とも図ともつかない何かが、手のまわりに一瞬だけ浮かんでは、消えた。

リーネには読めない。

けれど、シオンには――確かに、見えているようだった。

「小麦の質は、悪くない。むしろ、良いほうだ。焼成も安定している。火の入り方にもむらが少ない」

彼は、丸パンをそっと半分に割った。

乾いた固い音がする。

「ただ、時間が経つと食感が大きく落ちる。水分が多めで、焼きたての柔らかさが強みになっている分、半日もすれば、それがそのまま重さに変わってしまう。保存性は低い。持ち運びにも、向いていない」

「それは……やっぱり、悪いところ、ですよね」

「悪い、というより、向き不向きだ」

シオンは、割れた断面を見つめた。

「焼きたてをすぐ口にできる客には、とても良いパンだと思う。けれど、半日歩く旅人には向かない。早朝、店の前を急いで通り過ぎる人にも、まだ、届いていない」

リーネは怖かった。

父のパンは時代遅れだと、腕が落ちたのだと言われたら、どんな顔をすればいいのか。

その不安を断ち切るように、シオンははっきりと言った。

 

「君のお父さんの腕が落ちた、というわけじゃない。技術は高い。仕事も丁寧だ。長いあいだ、同じ味をまっすぐ守り続けてきた、職人のパンだと思う」

その一言で、リーネの目の奥が熱くなった。

父のパンは悪くない。――それを、誰かにはっきり言ってほしかったのだと、今になってようやく気づく。

「だから、これは味の問題じゃない」

シオンは静かに続けた。

「売れなくなったのは、パンの出来のせいじゃなく――パンを待っている人の『場所』が変わったからだ。販路と保存性。今、君の店に足りないのは、たぶんそこだ」

「鑑定って……それが、分かるんですか」

「分かるのは情報だけだよ」

シオンは少しだけ苦笑した。

「鑑定は、物や人の情報を読み取る力だ。けれど、答えそのものを出してくれる力じゃない。情報をどう考えてどう使うかは、まったく別の話でね。だから今すぐ、こうすれば店は救えるとは言えない。材料がまだ足りない」

その言い方は、突き放すようでいて、不思議と、リーネの悩みを軽く扱わなかった。

むしろ生まれて初めて、自分の困りごとを、ちゃんと重さのあるものとして扱ってもらえた気がした。

 

シオンはレシピ帳にも、許しを得てから、静かに目を通した。

客一人ひとりの好みを書きとめた母の文字。

終わりのほうの、保存パンの試作の痕跡。

「君のお母さんは、よくお客さんを見ていた人だね。それに――これは、ただの思いつきで書いたものじゃない。旅人に、食べてもらうことを考えている」

「母は、本当に作ろうとしていたんですか……?」

「たぶん、ね」

シオンは、レシピ帳をそっと閉じ、それからリーネを見た。

「もう一つ、見てもいいかな。――君自身を」

「わ、私を……?」

「鑑定で見えるのは君のすべてじゃない。才能や、適性や、今どれくらい無理をしているか。心の中を勝手に読むものじゃないよ。嫌なら、しない」

壁際のセレスティアが、そっと言葉を添えた。

「シオン様は、ご本人のお許しなく、人を鑑定なさいません」

リーネは胸に手を当てた。

 

怖い。

 

自分には何もないと、はっきり分かってしまったら、最後の逃げ場までなくなってしまう気がする。

けれど――父のパンは悪くないと、この人は言ってくれた。

母のレシピ帳も笑わずに見てくれた。

「……お願いします。私に、何ができるのか。ちゃんと、知りたいです」

シオンが頷くと、灰青色の瞳に、また銀の光が灯った。

もつれて固まった糸の端を、誰かが、そっと指先で探り当てようとしている。

そんな感覚だった。

痛みはない。

ただ、自分でもずっと見ないふりをしてきた何かに、ゆっくりと光が当てられていく。

 

「商品改良の、適性がある」

シオンは静かに言った。

「すでにあるものを、使う人や場面に合わせて組み替えていく力だ。それから――味覚記憶。一度食べたものの味や香りを覚えて、わずかな違いを見分ける力。これは、かなり良い。そして、客層把握。誰が、何を、どんな時に必要とするのか。それを考える力が、しっかり根づいている」

リーネは呆然とした。

それは、父のように生地をこねる力でも、窯の火を読む力でもなかった。

けれど――母が、いつも店先でしていたことによく似ている気がした。

「君は、お父さんと同じ職人になる必要はないんだ」

シオンの声は穏やかだった。

「君には、君のパンの焼き方がある。――スキルは、君のすべてを決める札じゃないよ。これになりなさい、という命令でもない。ただ、君がどこでいちばん息をしやすいかを、そっと教えてくれる、灯りの一つだ。どう歩くかは、君が決めていい」

 

言葉が出なかった。

 

売れ残りだと思っていたのは、パンだけではなかった。

自分自身のことも、どこかでずっと、店に残ってしまった半端なものだと思っていた。

その思い込みに、初めて別の光が差した。

涙が、はらりとこぼれる。

セレスティアが、白いハンカチをそっと差し出した。

「泣いても大丈夫ですよ。白梟館の応接室は、涙には慣れておりますから」

 

ちょうどその時、応接室の扉が軽く叩かれた。

その後入ってきたのは、三人のメイド。

赤みがかった髪を高く結い、腰に細身の剣を帯びた、凛々しい立ち姿の女性。

濃紺に近い黒髪を形よく切りそろえ、紫の瞳に計算の速さといたずらっぽさを同居させた、小柄な女性。

そして、淡い蜂蜜色の髪に若葉色の瞳をした、やわらかな雰囲気の半エルフ。

 

「ちょうどいいところに来たね」

シオンが言うと、濃紺髪のメイドがにこりと笑った。

「そのお顔は――また、面倒な相談を引き受けるおつもりですね、シオン様」

「面倒かどうかは、まだ分からないよ、ミレーユ」

 

赤髪のメイドが一歩前へ出る。

「ご命令を」

「命令じゃなくお願いだよ、アリシア」

「では、ご指示を」

「あまり変わっていないね」

 

半エルフのメイドは、さっきから、リーネの膝の上の丸パンを、じっと見ていた。

「あのパン……少し、水分が多いですね。焼きたては、きっととても美味しいのでしょうけど。旅には向かなそうです」

「見ただけで分かるんですか……?」

「ほんの少しだけ、です。フィオナ・グランリーフです。薬草園と、お庭と、皆さんのお茶を担当しています」

リーネは、涙のあとを残したまま、また少しだけ笑ってしまった。

知らない場所のはずなのに、この部屋には、不思議と人のぬくもりがあった。

 

シオンが立ち上がる。

「リーネさんの相談を、白梟館として正式に預かろう。――勝手に店を変えるためじゃない。君が、自分で選べるだけの材料を、集めるためだ」

彼は、四人を見渡した。

「ミレーユは、市場と小麦の流れを。できれば、店の周りで何が変わったのかも。アリシアは街道と、馬車組合、宿屋を。客がどこを通り、何を求めているのか。フィオナは、このパンの保存性と、香草の相性を。マルタさんのレシピ帳の痕跡も、君になら分かるかもしれない。セレスティアは――リーネさんの話を、もう少し聞いてあげてほしい。店のことだけじゃなく、彼女自身が、本当は何を望んでいるのかを」

「かしこまりました」

「お任せください」

「はい。きっと、良い香草を見つけてきますね」

「承知しました」

四人が、それぞれの声で応じる。

 

その時、廊下の奥のほうで、ことり、と、どこかの扉が静かに開く音がした。

窓の外を、白い影が、すっと舞う。

「梟の小径が、開いたようですね」

セレスティアが微笑む。

その時になって、リーネはようやく気づいた。

暖炉のそばの燭台で、炎はずっと揺れているのに、蝋が、少しも短くなっていない。

書棚の上に置かれた古い時計には、そもそも針がなかった。

「あの……ここは、今、夜、ですよね」

おずおずと尋ねると、セレスティアは静かに頷いた。

「白梟館は、世界の時計の上にはありません。ここはいつも――夜明け前の、いちばん静かな時刻に保たれています。道に迷われた方を、急かさないように」

彼女は、開いたばかりの梟の小径のほうへ視線を向けた。

「外の刻とつながるのは、扉の向こうだけです。霧の入口も、あの小径も、お帰りの敷居も……それぞれの扉が、その用事にふさわしい時刻を、世界から少しだけ借りてくる。ですから、小径の先が朝でも、どうか驚かないでくださいね」

燭台の炎が、答えるように、ひとつゆれた。

けれど、蝋はやはり、減らない。

 

「相談を引き受けているあいだだけ、白梟館は少しお節介で、少し便利になるんです。――もっとも、買い食いに使おうとすると、扉はぴたりと閉まりますけれど」

「前に、木苺を摘みに行こうとして、閉まりました」

フィオナがこくりと頷く。

「当然だ」

アリシアが、真顔で言った。

リーネはその光景を、夢の中にいるような心地で眺めていた。

自分の、たった一つの悩みのために、こんなにも多くの人が動こうとしている。

シオンは、最後にリーネへ言った。

「今夜、ここで答えは出さない。けれど、答えを選ぶための灯りは集められる。――君のパンが、誰に届くべきなのか。まずは、そこから探そう」

暖炉の火が、ぱちりと鳴る。

白梟館の夜は、静かに、動き出していた。

 




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