未だ立ち込める霧を払えないのなら、せめて分かれ道までの灯を探すとしよう。
白梟館の中は、森の夜とはまるで別の世界だった。
背後で扉が閉じた瞬間、あれほど身にまとわりついていた霧の匂いが、すうっと遠ざかった。
「あの……セレスティア、さん……?」
リーネは、おずおずと口を開いた。
「ここは、貴族様の、お屋敷ですか?」
「ここは白梟館。道に迷われた方が、ほんの少しだけ足を休めるための場所です」
その答えは、分かったようで、やっぱり分からなかった。
「ご、ご挨拶が遅れてすみません!リ、リーネです。リーネ・ベルク。あの、町でパン屋を……いえ、パン屋の、娘で……」
「リーネ様ですね」
「様なんて、そんな」
「白梟館へいらした方は、皆様、お客様ですから」
セレスティアはそう言って、リーネが胸に抱えたレシピ帳へ、やわらかく視線を落とした。
「大切なものを、お持ちなのですね」
リーネは、反射的にレシピ帳を抱き直した。
「……はい」
「では、それも一緒に。こちらへどうぞ」
セレスティアに導かれ、リーネは玄関ホールの奥にある応接室に通された。
通された応接室は、暖炉の火でほどよく満たされていた。
外の霧の冷たさが嘘のように、長椅子に腰を下ろすと、体の芯からこわばりがほどけていく。
壁の一面は天井近くまで本棚で埋まり、古い書物や巻物、瓶に詰められた乾いた薬草が、所狭しと並んでいた。
その窓際の椅子に、一人の青年が座っていた。
まず目に入ったのは、髪の色。
月明かりをひとすくいしたような、淡い銀。
肩のあたりで、ゆるく束ねられている。
年の頃は、二十歳くらいだろうか。
リーネが勝手に思い描いていた“館の主”――白い髭の老賢者――とは、似ても似つかない。
けれど、その若さには、ひどく不釣り合いな静けさがあった。
長く生きた者だけが身につける、波の立たない湖面のような静けさ。
それが、若い顔の上に、そっと乗っている。
「こんばんは。リーネ・ベルクさん」
青年は、読んでいた本を静かに閉じ、リーネへ顔を向けた。
灰色にも、淡い青にも見える、不思議な色の瞳だった。
「どうして、私の名前を……」
「セレスティアが呼んでいたのが、聞こえてたからね」
青年は、ほんの少しだけ笑った。
からかわれたのだと気づいて、リーネの頬がかっと熱くなる。
「僕は、シオン・クラウゼル。この白梟館の主をしている。――まあ、座って。森を歩いてきたんだろう。話は温まってからでいい」
セレスティアが、湯気の立つカップと、深い器に盛った温かいパン粥を、銀の盆で運んできた。
空腹の人に難しい話をさせるのは賢くない、とでも言うように。
リーネは、はじめは遠慮した。
けれど、木の匙ですくった粥を一口含んだ途端、固く詰まっていた呼吸が、自分でも驚くほどほどけた。
塩気は控えめで、ミルクと香草の匂いがする。
硬くなったパンを、時間をかけて柔らかく煮たのだろう。
冷えていた胃の奥から、じんわりと温かさが広がっていった。
シオンは、リーネが食べ終えるまで、何ひとつ尋ねなかった。
その沈黙が、ありがたかった。
急かされない。
責められない。
なぜ来たのかと、問い詰められない。
やがて、リーネは自分から、ぽつりぽつりと話しはじめた。
父のパンが美味しいこと。
母がいた頃は、朝に客が並んだこと。
街道沿いにオルド商会の店ができて、客が減ったこと。
父が、何も変えようとしないこと。
母が遺した、未完成のレシピ帳。
そして――自分が、この店に必要ないのではないかという、消えない不安。
シオンは口を挟まなかった。
ただ、リーネの言葉が途切れても、急かさず、こぼれた欠片を一つひとつ拾うように、静かに聞いていた。
話し終えると、リーネは膝の上の布包みを、そっと開いた。
「これが……父の、パンです。今日、売れ残りました」
現れたのは冷えた丸パン。
表面はうっすら乾き、焼き色は濃い。
飾りらしいものは、何もない。
シオンは、それをじっと見つめた。
「触れても、いいかな」
「……はい」
受け取る手つきが、不思議なほど丁寧だった。
パン職人の手ではない。
細く、白く、長く本をめくってきた人の指だ。
それなのに、ただの売れ残りではなく、誰かの大切な仕事を、しばらく預かるかのように扱う。
次の瞬間、シオンの瞳に淡い銀の光が、ふっと宿った。
空気が変わる。
暖炉の火の音が、すっと遠のいた。
彼の指先から、細い光の筋がパンの表面をなぞるように広がり、文字とも図ともつかない何かが、手のまわりに一瞬だけ浮かんでは、消えた。
リーネには読めない。
けれど、シオンには――確かに、見えているようだった。
「小麦の質は、悪くない。むしろ、良いほうだ。焼成も安定している。火の入り方にもむらが少ない」
彼は、丸パンをそっと半分に割った。
乾いた固い音がする。
「ただ、時間が経つと食感が大きく落ちる。水分が多めで、焼きたての柔らかさが強みになっている分、半日もすれば、それがそのまま重さに変わってしまう。保存性は低い。持ち運びにも、向いていない」
「それは……やっぱり、悪いところ、ですよね」
「悪い、というより、向き不向きだ」
シオンは、割れた断面を見つめた。
「焼きたてをすぐ口にできる客には、とても良いパンだと思う。けれど、半日歩く旅人には向かない。早朝、店の前を急いで通り過ぎる人にも、まだ、届いていない」
リーネは怖かった。
父のパンは時代遅れだと、腕が落ちたのだと言われたら、どんな顔をすればいいのか。
その不安を断ち切るように、シオンははっきりと言った。
「君のお父さんの腕が落ちた、というわけじゃない。技術は高い。仕事も丁寧だ。長いあいだ、同じ味をまっすぐ守り続けてきた、職人のパンだと思う」
その一言で、リーネの目の奥が熱くなった。
父のパンは悪くない。――それを、誰かにはっきり言ってほしかったのだと、今になってようやく気づく。
「だから、これは味の問題じゃない」
シオンは静かに続けた。
「売れなくなったのは、パンの出来のせいじゃなく――パンを待っている人の『場所』が変わったからだ。販路と保存性。今、君の店に足りないのは、たぶんそこだ」
「鑑定って……それが、分かるんですか」
「分かるのは情報だけだよ」
シオンは少しだけ苦笑した。
「鑑定は、物や人の情報を読み取る力だ。けれど、答えそのものを出してくれる力じゃない。情報をどう考えてどう使うかは、まったく別の話でね。だから今すぐ、こうすれば店は救えるとは言えない。材料がまだ足りない」
その言い方は、突き放すようでいて、不思議と、リーネの悩みを軽く扱わなかった。
むしろ生まれて初めて、自分の困りごとを、ちゃんと重さのあるものとして扱ってもらえた気がした。
シオンはレシピ帳にも、許しを得てから、静かに目を通した。
客一人ひとりの好みを書きとめた母の文字。
終わりのほうの、保存パンの試作の痕跡。
「君のお母さんは、よくお客さんを見ていた人だね。それに――これは、ただの思いつきで書いたものじゃない。旅人に、食べてもらうことを考えている」
「母は、本当に作ろうとしていたんですか……?」
「たぶん、ね」
シオンは、レシピ帳をそっと閉じ、それからリーネを見た。
「もう一つ、見てもいいかな。――君自身を」
「わ、私を……?」
「鑑定で見えるのは君のすべてじゃない。才能や、適性や、今どれくらい無理をしているか。心の中を勝手に読むものじゃないよ。嫌なら、しない」
壁際のセレスティアが、そっと言葉を添えた。
「シオン様は、ご本人のお許しなく、人を鑑定なさいません」
リーネは胸に手を当てた。
怖い。
自分には何もないと、はっきり分かってしまったら、最後の逃げ場までなくなってしまう気がする。
けれど――父のパンは悪くないと、この人は言ってくれた。
母のレシピ帳も笑わずに見てくれた。
「……お願いします。私に、何ができるのか。ちゃんと、知りたいです」
シオンが頷くと、灰青色の瞳に、また銀の光が灯った。
もつれて固まった糸の端を、誰かが、そっと指先で探り当てようとしている。
そんな感覚だった。
痛みはない。
ただ、自分でもずっと見ないふりをしてきた何かに、ゆっくりと光が当てられていく。
「商品改良の、適性がある」
シオンは静かに言った。
「すでにあるものを、使う人や場面に合わせて組み替えていく力だ。それから――味覚記憶。一度食べたものの味や香りを覚えて、わずかな違いを見分ける力。これは、かなり良い。そして、客層把握。誰が、何を、どんな時に必要とするのか。それを考える力が、しっかり根づいている」
リーネは呆然とした。
それは、父のように生地をこねる力でも、窯の火を読む力でもなかった。
けれど――母が、いつも店先でしていたことによく似ている気がした。
「君は、お父さんと同じ職人になる必要はないんだ」
シオンの声は穏やかだった。
「君には、君のパンの焼き方がある。――スキルは、君のすべてを決める札じゃないよ。これになりなさい、という命令でもない。ただ、君がどこでいちばん息をしやすいかを、そっと教えてくれる、灯りの一つだ。どう歩くかは、君が決めていい」
言葉が出なかった。
売れ残りだと思っていたのは、パンだけではなかった。
自分自身のことも、どこかでずっと、店に残ってしまった半端なものだと思っていた。
その思い込みに、初めて別の光が差した。
涙が、はらりとこぼれる。
セレスティアが、白いハンカチをそっと差し出した。
「泣いても大丈夫ですよ。白梟館の応接室は、涙には慣れておりますから」
ちょうどその時、応接室の扉が軽く叩かれた。
その後入ってきたのは、三人のメイド。
赤みがかった髪を高く結い、腰に細身の剣を帯びた、凛々しい立ち姿の女性。
濃紺に近い黒髪を形よく切りそろえ、紫の瞳に計算の速さといたずらっぽさを同居させた、小柄な女性。
そして、淡い蜂蜜色の髪に若葉色の瞳をした、やわらかな雰囲気の半エルフ。
「ちょうどいいところに来たね」
シオンが言うと、濃紺髪のメイドがにこりと笑った。
「そのお顔は――また、面倒な相談を引き受けるおつもりですね、シオン様」
「面倒かどうかは、まだ分からないよ、ミレーユ」
赤髪のメイドが一歩前へ出る。
「ご命令を」
「命令じゃなくお願いだよ、アリシア」
「では、ご指示を」
「あまり変わっていないね」
半エルフのメイドは、さっきから、リーネの膝の上の丸パンを、じっと見ていた。
「あのパン……少し、水分が多いですね。焼きたては、きっととても美味しいのでしょうけど。旅には向かなそうです」
「見ただけで分かるんですか……?」
「ほんの少しだけ、です。フィオナ・グランリーフです。薬草園と、お庭と、皆さんのお茶を担当しています」
リーネは、涙のあとを残したまま、また少しだけ笑ってしまった。
知らない場所のはずなのに、この部屋には、不思議と人のぬくもりがあった。
シオンが立ち上がる。
「リーネさんの相談を、白梟館として正式に預かろう。――勝手に店を変えるためじゃない。君が、自分で選べるだけの材料を、集めるためだ」
彼は、四人を見渡した。
「ミレーユは、市場と小麦の流れを。できれば、店の周りで何が変わったのかも。アリシアは街道と、馬車組合、宿屋を。客がどこを通り、何を求めているのか。フィオナは、このパンの保存性と、香草の相性を。マルタさんのレシピ帳の痕跡も、君になら分かるかもしれない。セレスティアは――リーネさんの話を、もう少し聞いてあげてほしい。店のことだけじゃなく、彼女自身が、本当は何を望んでいるのかを」
「かしこまりました」
「お任せください」
「はい。きっと、良い香草を見つけてきますね」
「承知しました」
四人が、それぞれの声で応じる。
その時、廊下の奥のほうで、ことり、と、どこかの扉が静かに開く音がした。
窓の外を、白い影が、すっと舞う。
「梟の小径が、開いたようですね」
セレスティアが微笑む。
その時になって、リーネはようやく気づいた。
暖炉のそばの燭台で、炎はずっと揺れているのに、蝋が、少しも短くなっていない。
書棚の上に置かれた古い時計には、そもそも針がなかった。
「あの……ここは、今、夜、ですよね」
おずおずと尋ねると、セレスティアは静かに頷いた。
「白梟館は、世界の時計の上にはありません。ここはいつも――夜明け前の、いちばん静かな時刻に保たれています。道に迷われた方を、急かさないように」
彼女は、開いたばかりの梟の小径のほうへ視線を向けた。
「外の刻とつながるのは、扉の向こうだけです。霧の入口も、あの小径も、お帰りの敷居も……それぞれの扉が、その用事にふさわしい時刻を、世界から少しだけ借りてくる。ですから、小径の先が朝でも、どうか驚かないでくださいね」
燭台の炎が、答えるように、ひとつゆれた。
けれど、蝋はやはり、減らない。
「相談を引き受けているあいだだけ、白梟館は少しお節介で、少し便利になるんです。――もっとも、買い食いに使おうとすると、扉はぴたりと閉まりますけれど」
「前に、木苺を摘みに行こうとして、閉まりました」
フィオナがこくりと頷く。
「当然だ」
アリシアが、真顔で言った。
リーネはその光景を、夢の中にいるような心地で眺めていた。
自分の、たった一つの悩みのために、こんなにも多くの人が動こうとしている。
シオンは、最後にリーネへ言った。
「今夜、ここで答えは出さない。けれど、答えを選ぶための灯りは集められる。――君のパンが、誰に届くべきなのか。まずは、そこから探そう」
暖炉の火が、ぱちりと鳴る。
白梟館の夜は、静かに、動き出していた。
何とも便利な時間軸設定!(き、きっと時の最果てみたいな場所)