叡智の御子は白梟館で迷い人を導く   作:ザキグン

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第一話 パン屋の娘と、焼きたてではない答え③

調査が始まっても、リーネにはすることがなかった。

梟の小径は、相談者本人は特例がない限りは使えないのだという。

だからリーネは、館の小さな一室でセレスティアと二人向かい合って座っていた。

応接室よりも、ずっと狭い部屋だった。

窓辺に白い花が一輪。

机の上には、淹れ直されたばかりのお茶。

湯気がゆらゆらと立ちのぼっている。

 

セレスティアは、何かを尋ねることはしなかった。

ただ、リーネが自分から話し出すのを待っている。

沈黙を少しも怖がらない人だった。

何も言わない時間さえ、丁寧に淹れたお茶のように、この人の前では穏やかに流れていく。

 

「私……父さんのパンが、好きなんです」

やがて、リーネはぽつりと言った。

「でも……、父さんは私に、窯に立つなって言うんです。危ないからって。小さい頃に一度、母さんの真似をして、こっそり窯に近づいて……手を少し焼いたことがあって。大した傷じゃなかったのに、父さん、ものすごく怒って。母さんが亡くなってからは、もっと、近づけてくれなくなりました」

セレスティアは相槌も打たず、ただ、聞いている。

「きっと、私には無理だと思ってるんです。母さんみたいには、できないって」

 

「リーネ様は――お母様のように、なりたいのですか?」

 

その問いに、リーネはすぐには答えられなかった。

母のように、なりたい。

ずっと、そう思ってきたはずだった。

明るくて、客の名前を全部覚えていて、焼きたてのパンを手渡すとき、相手のその日一日まで、まるごと温めてしまうような人。

でも――本当に、それだけだろうか。

「母さんみたいに、なりたかった、です。でも……母さんの真似をしたいわけじゃ、ないのかも、しれません」

口に出してから、自分の言葉に自分で驚いた。

胸の奥に長くしまわれていたものに、初めて形が与えられた気がした。

「続けてください」

「父さんのパンを、守りたい。でも、父さんと同じものを焼くだけじゃなくて……母さんが考えようとしていた新しいパンを、私が作ってみたい。旅人さんとか、馬車の人とか、今まで店に来られなかった人にも、届くような」

 

リーネは、両手でカップを包み込んだ。

「でも、それを言ったら……父さんのパンを否定してるみたいで」

「リーネ様は、否定したいのですか?」

「違います」

強く、首を振った。

「父さんのパンが、好きです。変えたいんじゃない。……残したいんです。残すために、少しだけ、変わりたいんです」

言葉にした途端、それが、ずっと自分の探していた言葉だったのだと分かった。

胸のいちばん深いところで、何かがことりと、正しい場所に収まる音がした。

セレスティアは、ゆっくりと頷いた。

 

「では――その言葉を、お父様に届ける必要がありますね」

「……届く、でしょうか」

「届くかどうかは、言ってみなければ分かりません」

その声は、どこまでも優しく、けれど、ただ甘いだけではなかった。

「白梟館は、誰かの代わりに言葉を届ける場所ではありません。リーネ様がご自身の言葉を、ご自身で見つけるための場所です。借り物ではない、あなた自身の言葉。

――それだけが、本当にお父様の心の扉を叩けます」

リーネは、そっと目を伏せた。

 

私の言葉。

 

まだ形にならないその何かを、胸の中で両手で温めるように抱いた。

 

 

 

同じ頃。

ミレーユは、梟の小径の向こうで朝の市場に立っていた。

扉をくぐると、そこは白梟館の裏庭ではなく、リーネの町の中央広場のそばだった。

館では夜のはずなのに、ここでは空が薄青く明けはじめている。

けれど、ミレーユはいつものように受け流した。

白梟館は世界の時計の上にない。

扉だけが、その用事にふさわしい刻を世界から借りてくる。

館の夜と、この市場の朝が食い違っていても、もとより同じ“今”を分け合ってなどいないのだ。

――それだけのこと、である。

 

商人たちが、眠そうな手つきで屋台を組み立てている。

魚を担ぐ男。

小麦袋を背負う若者。

「美味しいパンが売れない理由を――数字に、聞いてみましょうか」

彼女は、慣れた手つきで手帳を開いた。

小麦を扱う問屋の店主は、相場のことを尋ねると、眠そうな顔のままよどみなく答えた。半年で、小麦の値はかなり上がった。

王都方面の買い付けが増え、とりわけオルド商会が大口で押さえている。

支払いも早く、まとめて買ってくれる、ありがたい得意先だ、と。

「では、小口のお店には」

「そりゃあ、後回しになりますな。悪気はないが商売ですから」

ミレーユは微笑みを崩さずに、手帳へ書きつけた。

悪意は、ない。

ただ、大きな流れが小さな店を、静かに容赦なく押しやっている。

だからこそ、誰を責めることもできない。

 

次に彼女は、街道沿いに建ったばかりの、オルド商会の店舗を見に行った。

真新しい看板、早朝から開く窓口。

旅人や荷運びの男たちが、銅貨を放るようにしてパンを買っていく。

パンは小ぶりで、少し硬そうで、香りも弱い。

けれど――安く、そして早い。

立ち止まる暇もなく、客がさばかれていく。

「味で勝って、流れで負けている、というところでしょうか」

 

ミレーユは、その足でベルク焼き窯店の前まで歩いてみた。

店は、まだ閉まっていた。

けれど、彼女はその店構えを注意深く見た。

看板は古い。

だが、毎日拭われているのだろう文字はくっきりと読める。

窓枠には、小さな傷がいくつも刻まれている。

扉の横には、かつて季節の花を絶やさず飾っていたのであろう素焼きの鉢が一つ。

今はもう、乾いた土だけがひっそりと残っていた。

店は古い。

だが、放っておかれているのではない。

手をかけられ、守られている。

誰かが毎日、この場所を慈しんでいる。

――それでいて、今は店を開ける気配がどこにもなかった。

竈の煙も、立っていない。

これほど守られてきた場所なのに、まるで、その主の心だけが、ここからふっと抜け落ちて、どこか別の場所を、さまよっているかのようだった。

「変えたくない理由は……どうやら数字だけでは、なさそうですね」

ミレーユは、それ以上は扉を叩かなかった。

帳簿と市場は嘘をつかない。

けれど、人の心の理由までは数字には書かれていない。

――その続きはたぶん、娘自身が聞き出すべきものだ。

 

 

その頃、フィオナは白梟館の薬草園にいた。

外は夜のはずなのに、薬草園にはやわらかな朝のような光が差していた。

中庭と温室は、外の時間の流れにあまり律儀には従わない。

フィオナにとっては、もう何年も見慣れた景色だった。

彼女は、リーネの持ってきた丸パンを木の皿に置き、小さなナイフで丁寧に切り分けた。指で断面を押す。

「水分は多め。焼きたてならふんわり。でも、時間が経つと、この弾力がそのまま重さに変わっちゃう。粉は良いものですね。火の入れ方も、とても丁寧。……うん。お父様が、すごいです」

 

次に彼女は、マルタのレシピ帳の写しを手に取った。

リーネが帳面を持ち出す前に、シオンが本人の許しを得て、写しを作ってある。

大切な原本を、調査で傷めないためだ。

香草の粉の薄い痕跡。

フィオナは、薬草棚へ歩み寄り、いくつもの小さな束を取り出した。

乾いた薄緑の葉。

ほんのり苦みのある香草。

防腐に使える葉もあるが、入れすぎるとたちまち薬臭くなる。

粉をほんの少しずつ混ぜ、パンの欠片に合わせては、目を閉じて香りを確かめる。

その手が、ふと、止まった。

「……これ。マルタさんも試していますね」

レシピ帳の染みにかすかに残った香りと、棚の奥にしまわれていた香草の一つが、ぴたりと重なった。

 

フィオナは、若葉色の目をそっと細める。

マルタは、ただ目新しいものを作ろうとしていたのではない。

旅人に食べてもらうことを、考えていた。

時間が経っても食べられること。

香りで、疲れた体の食欲をそっと助けること。

硬くなっても、噛むほどに味がにじむこと。

 

すべて、店に来られない誰かの、その先の道のことを思っていた。

 

「リーネさんは……お母様の続きを、ちゃんと見つけたんですね」

誰にともなく、やわらかく呟いて、フィオナは試作用の香草を、小袋へ詰めはじめた。

「そっくり真似るより、今の道に合わせたほうがいい。馬車組合さんになら、もう少し腹持ちを。宿屋さんになら、香りを控えめに。……二種類、あってもいいかもしれません」

 

 

 

最後に、アリシアは街道に立っていた。

梟の小径は、彼女を町外れの石橋のたもとへ送り出していた。

そこからは、王都へ延びる街道と、リーネの町へ入る脇道の両方がよく見渡せる。

朝の街道は、忙しなかった。

荷馬車の軋む音。

馬の蹄が石を打つ音。

旅人の笑い声。

誰もがどこかへ急いでいる。

町の中へ、わざわざ寄り道していく者はほとんどいない。

アリシアは、リーネの店があるという方角を目で測った。

街道から、少し入った場所。

地元の者なら知っているが、初めて通る旅人が探してまで立ち寄るには――遠い。

 

「客がいないのではない。客の通る場所から、店のほうが外れているのか」

彼女はそのまま、馬車組合の詰所へ足を向けた。

車輪を点検していた若い御者は、アリシアの気配だけで、弾かれたように背筋を伸ばした。

アリシアは、意識して声をひとまわり柔らかくした。

「旅の携帯食について、少し伺いたいのです。最近、お困りのことはありませんか」

丁寧な物言いだった。

けれど、その隙のない立ち姿と、まっすぐに射抜くような静かな目つきとのちぐはぐさに、御者は一瞬、面食らったようだった。

メイド服のはずなのに、まるで――と言いかけて、口をつぐむ。

それでも、問われたことには素直に答えた。

「そりゃあ、ありますよ。安いパンは、すぐ硬くなるし、腹持ちも悪い。干し肉ばかりじゃ飽きる。宿場に着く前に、ちゃんと食えるものがあると助かるんですがね。あと――片手で食えるとなお良い。御者はずっと手綱を握ってますから。水が少なくても、喉につかえないとありがたい」

 

アリシアは、その一つひとつを頭に刻んだ。

騎士団の遠征でも、携帯食は命に関わる問題だった。

美味いだけでは足りない。

 

保存性。

携帯性。

配りやすさ。

食べたあとすぐ動けるか。

 

突き詰めるべきことは、驚くほど同じだ。

「ベルク焼き窯店をご存じですか」

「ああ、町の奥の? うまいですよね、あそこの丸パン。……でも、朝、街道へ出る前はまだ開いてないことが多くてね。帰りに寄ろうにも、その頃にゃ疲れきってて。つい、街道沿いで済ませちまうんです」

「――味では、なく。ただ届いていない、だけなのですね」

彼女は短く礼を言い、次に宿屋へ向かった。

 

朝食を終えた旅人たちが出立していく時間だった。

女将は、ベルクのパンの名を出すと、皿を片づける手を、束の間止めた。

「美味しいよ。昔は、うちでも出してたんだけどねえ。納品の時間が合わなくてさ。うちは夜明け前から朝食を出すだろう。前の日のパンじゃ少し硬い。かといって、毎朝あの店まで取りに行くには、ちょいと遠い」

「もし、保存が利いて、味の良いパンがあったとしたら」

女将は腕を組んで、少し考えた。

「味が良くて、翌朝に出しても恥ずかしくないなら……少しくらい高くたって、買うよ。安いだけのパンを出して、客に文句を言われるのは、こっちなんだからね」

アリシアは、深く頷いた。

必要な情報が少しずつ、確かな手触りを持って、形になっていく。

 

 

 

調査を終えたメイドたちは、白梟館の書斎へ、戻ってきた。

大きな机の上には、リーネの丸パン、マルタのレシピ帳の写し、フィオナの香草の小袋、ミレーユの手帳、アリシアの聞き取りが、整然と並べられている。

シオンは羽ペンを手に、四人を見渡した。

 

「報告を、聞こう」

「小麦の仕入れ値は、この半年でかなり上がっています。原因は、オルド商会の大口買い付け。ただし、違法な点は見当たりません」

ミレーユが、静かに言う。

「商会はただ正しく、大きな商売をしているだけです。けれど、大きな商売は町の流れそのものを変える。小さな店が、同じ場所で同じ売り方を続けていれば――いずれ、波に押し流されます。誰のせいでもなく、ただそうなる」

彼女は、少しだけ、声を落とした。

「それと――店の前にも、行ってきました。看板は磨かれ、窓枠は手入れされ、花の鉢までちゃんと残してある。あの店を変えたくない理由は、たぶん、帳簿の数字ではありません。もっと、別のところにあります」

リーネは、膝の上で、手を握った。

 

「街道の通行量は、多いです」

続いて、アリシアが報告する。

「旅人、馬車、行商人。需要は確かにあります。ただし、店は街道から外れているため、旅人が立ち寄りにくいのです。馬車組合は、片手で食べられ、保存が利き、腹持ちの良い携帯食を求めています。宿屋も、翌朝に出せる品質であれば、買う余地ありとのことでした」

「宿屋さんが……買ってくれるかも、ってことですか?」

リーネが、思わず身を乗り出すと、アリシアははっきりと頷いた。

「味が良く、時間が経っても出せるなら、と。そう、仰っていました」

 

フィオナが、香草の小袋を、机に並べていく。

「パンそのものは、焼きたて向きです。保存パンにするなら、水分を少し減らして、噛むほどに味が出る配合に。香草は、二種類くらいがいい。強すぎると、薬っぽくなるので」

そのうちの一つを、リーネへ差し出す。

「これ……マルタさんのレシピ帳に残っていた香りに、いちばん近いものです」

リーネは、両手で受け取り、そっと口を開いた。

乾いた葉の、静かな香りが立ちのぼる。

懐かしいような、それでいて初めてのような香り。

母がいた台所の、どこか遠い記憶の隅から差し出されたような。

「母さん……」

胸の奥が、じわりと熱くなった。

これは、母が確かに考えていた香りなのだ。

途中で止まってしまった、母の、続き。

 

最後に、セレスティアが口を開いた。

「リーネ様は、お父様のパンを否定したいわけではありません。守りたいのです。ただ、守るために、ご自分でも何かをしたい。その思いをまだ、お父様に届けられていない。それが、お一人で抱えているいちばん重い荷物です」

 

シオンは、机の上に並んだものを、ひとつずつ見つめた。

 

冷えた丸パン。

二種類の香草。

市場の数字。

街道の地図。

宿屋と馬車組合の需要。

すれ違ったままの父と娘。

そして、途中で途切れた、母の夢。

 

それらはまだ、ばらばらに散らばった欠片に過ぎなかった。

けれど、もう――ただ漠然とした、出口のない不安ではなくなっていた。

手で触れ、並べ替え、形にできる、一つの「問題」になっていた。

 

「リーネさん」

シオンが顔を上げた。

「少なくとも、はっきり分かったことがある。君のお父さんのパンは、終わっていない。君のお母さんの夢も、消えていない。そして、君には、それを別の形で届けるための確かな才がある。――お父さんが何を恐れているのか、その芯は、まだ、君にしか聞き出せない。けれど、その手前までは、もう、ここに揃った」

 

彼は、羽ペンをそっと置いた。

「あとは、道を並べるだけだ」

暖炉の火が、ぱちりと鳴る。

窓の外を、白い梟が音もなく横切っていった。

 

 

「神智問答を使う……」

 

 

静かに、シオンは告げた……。

四つの答えへ続く扉が、静かに、開こうとしていた。




●売れ残った父の丸パン……ベルク焼き窯店の原点と象徴、そして父をを縛る鎖。
●母マルタの未完成のレシピ帳……未完の夢と、娘に託された灯。
●母の白いスカーフ……母の形見と、父の消えぬ悔恨。

◆パンの品質は良いが保存性が弱い
◆店の立地が不利
◆朝の需要を逃している
◆宿屋・馬車組合に需要がある
◆小麦仕入れで不利
◆リーネには商品改良の適性がある
◆母マルタも新しいパンを考えていた


扉を開くための鍵は、そろった……。
さぁ……、扉を選ぶ時間だ。
誰かのために……、そして自身のために……、選択をする刻。
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