叡智の御子は白梟館で迷い人を導く   作:ザキグン

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第一話 パン屋の娘と、焼きたてではない答え④

 

書斎の机の上に、すべてが、揃っていた。

 

冷えた丸パン。

母マルタのレシピ帳の写し。

フィオナの香草。

ミレーユの市場の手帳。

アリシアの街道の聞き取り。

そして、セレスティアが拾い上げた、リーネ自身の言葉。

 

父が守ってきたパン。

母が遺した夢。

町の変化。

旅人の需要。

自分でもまだ、うまく言えない願い。

それらが、一つの机の上で、初めてひとつながりの何かに、なろうとしていた。

 

「神智問答……」

 

その言葉を、リーネは小さく呟き、思わず手に持つ白いスカーフを、ギュッと握りしめる。

神秘的で、近づきがたい響き。

「神さまの答えが、降りてくるようなものじゃないよ」

シオンは、リーネの畏れを見透かしたように言った。

「集めた情報をもとに、考えられる道を並べていく力だ。正解を一つ選んでくれるものじゃない。それに――情報が間違っていれば、出てくる答えもそのままずれる。問いが曖昧なら、返るものも曖昧になる。だから、皆に足を使って調べてもらった」

「帳簿と市場は、嘘をつきませんからね」

ミレーユが、ひょいと肩をすくめた。

「もっとも、帳簿を書く人間のほうはよく嘘をつきま「ミレーユ」」

セレスティアが、たしなめるように名を呼ぶ。

ミレーユは、悪びれずに微笑んだ。

 

シオンは、まっさらな白い紙を机に広げた。

何も書かれていないのに、リーネにはなぜか、その白さが怖かった。

ここに、自分のこれからに関わる何かが書かれる。

シオンが静かに目を閉じる。

 

 

「条件を、整理する」

 

 

その声は、わずかに低く、澄んでいた。

部屋の温度が、すっと一段下がる。

 

 

「対象は、街道町の小規模なパン店、ベルク焼き窯店。職人グスタフ・ベルクの技術は高水準。焼きたての品質は良好。ただし、時間経過による食感の劣化と、保存性に課題。市場環境は変化。オルド商会の大口仕入れと街道販売により、小麦価格と客の流れに影響。違法性はなし。競争相手ではなく、市場構造の変化」

 

 

いつのまにか、シオンの瞳に淡い銀の光が宿りはじめていた。

 

 

「需要は、街道の利用者、馬車組合、宿屋に、保存性・携帯性・腹持ちを求める声。店は、地域客への焼きたて販売に依存し、早朝の需要を取りこぼしている。相談者リーネ・ベルクには、商品改良、味覚記憶、客層把握の適性。亡き母マルタの未完成レシピに、旅人向け保存パンの試作の痕跡」

 

 

彼は、最後にリーネを見た。

 

 

「目的は、ベルク焼き窯店を存続させること。ただし、単なる売上の回復ではない。グスタフ・ベルクの職人としての誇り。亡き母マルタの果たせなかった願い。リーネ・ベルク自身の望み。その三つを、できるかぎり損なわずに、現実に歩いていける道を探すこと」

 

 

リーネの胸が、締めつけられた。

店を救う、それだけではない。

父も、母も、自分も――その問いの中に、ちゃんと、一人ずつ入っていた。

シオンが、白い紙に手をかざす。

 

 

「問う。――現実的な、選択肢を、提示せよ」

 

 

次の瞬間、書斎の空気が震えた。

暖炉の火が、一度だけぶわりと揺れる。

窓の外で、白い梟が音もなく翼を広げた。

シオンの周りに、白い羽が舞い散るような、淡い光の文字がいくつも浮かび上がる。

やがてその光は、意思を持つように、机の白紙へとゆっくり降りていった。

羽ペンも、インクも、使っていない。

それなのに、紙の上に文字が、にじむように浮かび上がる。

 

 

「四つ――出た」

 

 

シオンは、紙をリーネに見えるように置いた。

読み上げるたび、文字はリーネにも意味の分かる形へと、するすると変わっていく。

 

 

「一つ目。早朝販売への、転換」

――案一。早朝販売。

「焼き上がりの時間を早め、街道へ出る前の客や、仕事前の町の人に焼きたてを届ける。良い点は、今のパンを大きく変えずに済むこと。グスタフさんが、いちばん受け入れやすい。昔からの客にも、味を変えずに届けられる」

シオンは、一度言葉を切った。

「悪い点は、負担が大きいこと。仕込みの時間ごと前へずらす必要がある。グスタフさん一人では、体を壊しかねない。それに、街道沿いの安さとの競争は続いたままだ」

リーネは父の背中を思った。

今でも十分早いのに、さらに早く。

あの火傷だらけの腕で。

 

 

「二つ目。宿屋への、卸売」

――案二。宿屋への卸売。

「朝食用のパンを、定期的に納める。店頭販売だけに頼らず、安定した収入の柱をつくる。良い点は、売上が読みやすくなること。毎朝の数が決まれば、焼く量も無駄なく調整できる。店に来られない客にも届く」

「悪い点は」

リーネが、思わず尋ねると、

「『約束を守る』責任が、生まれること」

シオンは、静かに答えた。

「納品の時間、数、品質。どれか一つが崩れれば信用を失う。今の人手では、その重さがグスタフさん一人に集中しかねない。君が関わるなら、その分、お父さんとの話し合いが要る」

 

 

「三つ目。香草入りの保存パン」

フィオナの若葉色の瞳が、少しだけ明るくなった。

――案三。香草入り保存パン。

「水分を調整し、香草や乾燥果実を使って、旅人や馬車組合向けの、日持ちするパンを作る。グスタフさんの技術を土台に、リーネさんの商品改良の才を活かす。良い点は、大商会の安いパンと、正面からぶつからずに済むこと。保存性、腹持ち、香りで差をつけられる。馬車組合、旅人、宿屋に展開できる。何より、君自身の力がいちばん活きる」

リーネの心臓が強く鳴った。

母のレシピ帳の、あの一行が、胸の奥で灯りのように揺れる。

「悪い点は、試作に時間がかかること。材料費も要る。最初から売れるとは限らない。香草が強すぎれば敬遠され、保存を追えば硬くなる。そして――グスタフさんには、自分のパンを変えられるように、感じられるかもしれない」

 

 

「四つ目。小規模な店の、共同仕入れ」

――案四。共同仕入れ。

「周りの小さな店と手を組み、小麦をまとめて仕入れる。良い点は、仕入れ値が下がること。小さな店同士が、客を奪い合うのではなく、共に生き残る道をつくれる。オルド商会を倒すのではなく、変わった市場の中に、居場所を築く方法だ」

オルド商会を倒す。――どこかで、そんなふうに考えていた自分に、リーネははっとした。

けれどシオンは、一度もそうは言わなかった。

「悪い点は、説得が難しいこと。店ごとに事情も誇りも違う。まとめ役が要る。動き出すまでに時間がかかり、今すぐの売上は救えない」

「『共同』という言葉は、響きこそ美しいですが」

ミレーユが、横から付け加える。

「中身は、泥臭いものです。誰が金を出し、誰が保管し、悪い小麦が紛れたとき誰が責任を取るのか。細かな取り決めを、地を這うように詰める必要があります」

 

四つの道。

どれも間違いではない。

けれど、どれも簡単ではない。

光があり、必ず、同じだけの影がある。

 

 

「シオン様、なら……どれを、選びますか?」

 

 

部屋が静かになった。

セレスティアが、わずかに目を伏せる。

アリシアも、ミレーユも、フィオナも、何も言わない。

その沈黙には、この館の誰もが、ずっと胸に抱えてきた問いの、気配があった。

 

「僕が、選べば」

やがて、シオンは言った。

「それはもう、君の店では、なくなる」

「……でも、私には分からないんです。何が、正しいのか」

「正しい道は、目的によって変わる」

シオンは、四つの案を見つめた。

「今のパンを守りたいなら、早朝販売。安定を優先するなら、宿屋への卸売。君自身の才と、お母さんの願いを活かすなら、香草入りの保存パン。町の店ぜんぶを守りたいなら、共同仕入れ。――どれを選んでも、君は何かを得る。そして、どれを選んでも必ず、何かを背負う」

彼は、リーネをまっすぐに見た。

 

「だから、僕は、君の代わりには選ばない。けれど――君に示した、この道の重さから逃げるつもりも、ない」

 

その言葉は、リーネの胸のいちばん奥に、ことりと落ちた。

本当は、誰かに「これが正解だ」と言ってほしかった。

そうすれば、父に反対されても、シオン様が言ったからと言える。

失敗しても、自分一人のせいじゃないと思える。

でも――それでは、駄目なのだと、もう分かっていた。

誰かにもらった答えは、自分のパンじゃない。

誰かに敷いてもらった道は、自分の道じゃ、ない。

 

リーネは、目を閉じた。

まぶたの裏に、父の背中が浮かぶ。

同じ味を、まっすぐ守り続けてきた背中。

その隣に、いつも母がいた。

客の顔を見て、声を聞いて、今日その人が何を欲しがっているかを先に考える人だった。父が焼いたパンを、母が人の手のひらまで届けていた。

 

――では、自分は、何をしたいのだろう。

 

考えて、考えて。

ふいに、ひどく単純な答えが、胸の底から浮かび上がった。

リーネは、パンを届けたいのだ。

店まで来られなくなった人へ。

朝、街道へ駆け出していく人へ。

揺れる馬車の上で、冷たい携帯食をかじる人へ。

父のパンを、まだ知らない誰かへ。

そして、自分も、窯の前に立ちたい。

母が書けなかった続きを、自分の手で焼いてみたい。

リーネは、目を開けた。

 

「私……香草入りの、保存パンを、作りたいです」

 

声は震えていた。

けれど、それは、怯えではなく、踏み出す前の、武者震いのような震えだった。

「父さんのパンを、変えるためじゃない。父さんのパンを、まだ食べたことのない人に、届けるために。母さんが書けなかった続きを、私が、焼いてみたいんです」

 

フィオナが、やわらかく微笑む。

ミレーユが、満足げに目を細める。

アリシアが、深く頷く。

セレスティアは、その目を、ほんの少しだけ潤ませた。

「それが――君の、選択だね」

「はい。……でも、それだけじゃ、駄目だと思います」

シオンが、続きを促すように待つ。

「保存パンを作っても、売る場所がなければ同じです。だから、馬車組合や、宿屋さんにも持っていきたい。でも、いきなり大きな契約は無理だから……まずは、試作品を、少しだけ」

「よろしい判断です」

ミレーユが頷く。

「十個も売れていないうちから、百個の契約を夢見る商人は、だいたい、足元をすくわれて転びます」

「共同仕入れは、今すぐは無理です。私には、よその店をまとめる力は、まだない。でも――いつか、必要になると思います」

「その視点を持てているだけで十分です。まずは小さく試す。数字を見る。続けられる形に整える。良い商いの、始まり方です」

リーネは、シオンを見た。

 

「だから私は、三つ目を選びます。でも、二つ目につなげたい。四つ目は、いつか考えます」

「うん。とても良い選び方だと思う」

その一言で、リーネの肩から力が抜けた。

正解だと言われたわけではない。

でも、自分の頭で選んだ道を認めてもらえた。

誰かに決めてもらう安心とは、まるで違う、確かな感触だった。

 

シオンは紙に、最初の一歩を書きつけた。

いきなり「新しいパンを作りたい」と言えば、父とぶつかる。

 

だから、まず伝えるべきは一つ。

――父のパンを否定したいのではない。

 

次に、目的。

――父のパンを、まだ届いていない人に届けたい。

 

そして、願い。

――母のレシピを、自分の手で、一窯だけ、試したい。

 

「一窯だけ。それなら、言えるかもしれません」

ミレーユは、原価を割らない試供の価格表を。

アリシアは、話を通してある馬車組合の御者の名と、「半日置いたものも持っていけ。焼きたてだけ渡せば、相手は判断を誤る」という助言を。

フィオナは、香りのやわらかい宿屋向けと、腹持ちのよい馬車組合向け、二種の香草を。――それぞれ、リーネの手のひらに、小さな道具を、乗せていく。

最後に、セレスティアが、小さな茶葉の包みを渡した。

「これは、お父様とお話しになる前の、お茶です。気持ちを、落ち着けるための。リーネ様も、お父様も、大切な言葉の前には、少し体を温めたほうが、よろしいかと」

シオンは、白い紙を、丁寧に折りたたんだ。

「これは、君のための覚書だ」

開くと、四つの道と、その光と影。

そして、いちばん最後に一文だけ。

 

 

――焼きたてでなくとも、人を温めるパンは、ある。

 

 

リーネの目に、また涙が浮かんだ。

「泣くのは悪いことじゃない。でも――帰ったら、お父さんと話すんだろう。涙は少し、残しておいたほうがいい」

リーネは笑った。

にじんだ涙を指で拭う。

「リーネさん。君が選んだ道は、簡単じゃない。お父さんは反対するかもしれない。最初のパンは失敗するかもしれない。馬車組合に、断られるかもしれない。――それでも、君が自分で選んだなら、その失敗も、ちゃんと君のものになる。誰かに押しつけられて転んだのとは、違う。次へ、繋いでいける」

リーネは、深く頭を下げた。

「ありがとう、ございました」

「礼はまだ早いよ。君の道は、この館を出てから始まる」

 

その時、窓の外で白い梟が鳴いた。ほう、と。

書斎に満ちていた銀の光が、潮が引くように、薄れていく。

紙に浮かんだ神智問答の文字も、シオンの覚書の一枚だけを残して、静かに、溶けるように消えた。

あれほど魔法のような力だったのに、手元に残ったのは、手で持てる紙きれと、ささやかな道具たちだけ。

白梟館は、何でも解決してくれる場所ではない。

ただ、迷い人が、自分の足で歩き出すためのものを、そっと持たせてくれる。

それで、十分だった。

 

「お戻りになりますか。リーネ様」

セレスティアの声に、リーネの胸がどきりと跳ねた。

 

戻る。

 

父のいる、あの店へ。

まだ、何ひとつ解決していない現実へ。

怖かった。

けれど――森に迷い込んだあの時のような、行き場のない怖さでは、もう、なかった。

今は、帰って、何を言うべきかが、ちゃんとある。

「……はい。帰ります」

リーネはふと、シオンを見た。

「また、ここに来られますか?」

「白梟館は、来たいと思って、来られる場所じゃないんだ」

シオンは、少し困ったように笑い、窓辺の白い梟へ目をやった。

「でも――君が、自分の道を歩き始めたことを、誰かに伝えたいと、心から思ったなら。便りは届くかもしれない」

見ると、いつのまにか、リーネのレシピ帳の最後のページの間に、小さな白い羽根が、一枚挟まっていた。

雪のように白く、触れるとほんのり温かい。

「心からの報告や、約束の品を届けたくなった時、その羽根を添えて、窓辺に置いてください」

セレスティアが説明する。

「白い梟が、運んでくれることがあります」

「便利な、宅配屋ではありませんのでね」

ミレーユがくすりと笑う。

「商売の請求書などは、いくら出しても届きません」

「ミレーユは、何度か試したことがある」

アリシアが、真顔で言った。

「試していません。検証です」

「同じだと思います」

フィオナが、ぽつりと呟く。

リーネは、また少し笑った。

 

玄関へ向かう廊下で、リーネはもう一度だけ、あの燭台を見た。

炎は、まだ揺れている。

蝋は、やはり、減っていない。

針のない時計。減らない灯り。

――ここは、いつまでも、夜明け前のままなのだ。

迷った者を、急かさないように。

 

玄関扉の前で、セレスティアが足を止めた。

「お父様に、すべてを一度で伝えようとしなくても構いません。まずは、いちばん大切なことを一つだけ。あなたは、お父様のパンを否定したいのではない。守りたいのだと」

 

扉が開く。

 

外には、白い霧が広がっていた。

けれど、もう、怖くはない。

 

「いってらっしゃいませ」

 

いってらっしゃい。

それは、帰る場所のある人にだけ向けられる言葉だった。

リーネは、胸が熱くなって、深く、頭を下げ返した。

 

「行ってきます」

 

白い霧が、ゆっくりと彼女を包み込む。

どこか遠くで、白い梟の声がもう一度、聞こえた。

 

次の瞬間、リーネは町外れの森の入口に立っていた。

館では一夜を過ごしたはずなのに、外の刻はほとんど進んでいなかった。

空は、まだ暗い。

ただ、東のいちばん端が、夜明けの気配に、わずかに薄らぎはじめている。

お帰りの敷居は、ちょうど、そういう時刻を、世界から借りてきたのだろう。

 

腕の中には、母のレシピ帳。

白いスカーフ。

香草の小袋。

価格表。

馬車組合の連絡先。

セレスティアのお茶。

そして、シオンの覚書。

 

白梟館が、夢ではなかった証が、確かにそこにあった。

リーネは、町のほうを見た。

ベルク焼き窯店のある方角は、ひっそりと暗かった。

この時刻なら、いつもの父ならとっくに窯に火を入れているはずだった。

煙突から、細い煙が立っているはずだった。

なのに――煙は、ない。

窯の赤い気配も、ない。

ただ、店の小さな窓に、消し忘れたような頼りない灯りが、ぽつりと、ともっている気がした。

 

胸が、ざわついた。

父さんは、眠れずにいるのだろうか。それとも――。

いやな予感が、ちりちりと胸を焦がす。

けれど、もう、逃げたくはなかった。

リーネは、母の白いスカーフを、胸にそっと当て、暗い道を店へ向かって歩き出した。

 

自分の言葉を、届けるために。

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