叡智の御子は白梟館で迷い人を導く   作:ザキグン

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第一話 パン屋の娘と、焼きたてではない答え⑤

ベルク焼き窯店の裏口に、明かりは、なかった。

 

いつもなら、この時刻には窯の口から赤い熱があふれ、煙突から細い煙が立ちのぼっているはずだった。

けれど今、店からは火の気配も、薪のはぜる音もしなかった。

ただ、暗く、しんと冷えている。

 

リーネは、扉の前で立ちすくんだ。

腕の中の荷物が、急にひどく重く感じられた。

 

母のレシピ帳。

白いスカーフ。

香草の小袋。

価格表。

馬車組合の連絡先。

シオンの覚書。

そして、セレスティアのお茶。

 

白梟館でもらった、自分の足で歩くための道具たち。

けれど――その手前に、もっと、確かめなければならないことがあった。

 

リーネは、震える手で裏口を開けた。

厨房の中は、外と変わらないほど冷たかった。

窯は、黒い口を閉ざしている。

火が落とされて、もうずいぶん経つのだろう。

作業台の上には、こねかけのまま放り出された生地。

布もかけられず、表面が、うっすらと乾いていた。

父がこんなふうに生地を放っておくのを、リーネは見たことがなかった。

 

そして――その作業台に突っ伏すように、グスタフがいた。

大きな背中が、椅子の上で丸まっている。

ランプの油は、もう尽きかけて、頼りない光がちりちりと揺れていた。

眠っているのではない。

肩が、わずかに動いている。

けれど、その姿は、リーネが知っているどの父とも違っていた。

窯の前に立つ頑固で大きな父では、なかった。

ただ、何かを失うことを恐れて、夜どおしそれを探し続けた――疲れ果てた、一人の男だった。

 

「……父さん」

 

声が、震えた。

グスタフの肩が、びくりと跳ねた。

はじかれたように顔を上げる。

その顔を見て、リーネは息を呑んだ。

目は赤く充血し、髪は乱れ、頬には夜の冷たさが、そのまま貼りついている。

外を歩き回ってきたのだ。

きっと、何度も。

リーネのいない夜の町を。

森の入口を。

母を見送った、あの墓の前さえ行ったかもしれない。

「リーネ」

父の声はかすれていた。

「リーネ、か」

「うん」

「……どこに、いた」

怒鳴り声ではなかった。

問い詰める声でも、なかった。

ただ、確かめるような、祈るような声だった。

本当に、そこにいるのか、と。

「怪我は?どこも痛くないか?寒く、なかったか?」

立ち上がろうとして、グスタフはよろけた。

一晩じゅう、ろくに座りもせずに歩き続けた足が、もう、言うことを聞かないのだ。

リーネは駆け寄って、その腕を支えた。

火傷だらけの太い腕。

それが、小さく、震えていた。

「ごめんなさい」

気づけば、それが口をついて出ていた。

「ごめんなさい、父さん。心配、かけて」

グスタフは、何も言わなかった。

ただ、支えてきたリーネの手を、節くれだった手で、不器用に握り返した。

痛いほど、強く。

言葉では、決して言えないものを、その手のひらに全部こめるように。

 

しばらく、二人はそのままでいた。

冷えた厨房に、尽きかけたランプの、頼りない光だけが揺れていた。

やがて、リーネはそっと体を離した。

「父さん。お茶を、淹れてもいい」

グスタフは、怪訝そうにリーネを見た。

「こんな時に、か」

「うん。少しだけ。……話す前に」

 

火鉢に、わずかに残っていた炭を熾し湯を沸かす。

セレスティアの包みを開くと、乾いた花と薬草の優しい香りが、冷えた厨房にふわりと広がった。

リーネは、二つの木杯に茶を注ぐ。

一つを父の前に置いた。

「変な、匂いだ」

「飲んでみて。落ち着くから」

グスタフは、しばらくためらったが、やがて両手で木杯を包み、一口すする。

強張っていた眉間が、ほんの少しだけゆるんだ。

「……悪くは、ない」

リーネは、危うく泣きそうになった。

父の「悪くない」は、たいてい、最大級の褒め言葉なのだ。

それを、こんな夜に、こんな小さなことで聞けるとは思っていなかった。

温かさが、喉を通って、冷えた胸の真ん中にことりと落ちる。

指先の震えが、少しずつ収まっていく。

リーネは息を整えた。

まずは、いちばん大切なことを一つだけ。

 

「父さん。聞いてほしいの」

今度は逃げなかった。

グスタフは、木杯を置いて、じっと待った。

「私は、父さんのパンを否定したいんじゃない」

グスタフの目が、わずかに揺れる。

「父さんのパンは、美味しい。今でも、昔も、ずっと。昨日、それを……ちゃんと、見てもらったの。腕が落ちたわけじゃない、って、はっきり言われた。ただ、パンを待ってる人の場所が、変わったんだって。父さんのパンを、まだ食べたことのない人に、届ける方法があるかもしれないって」

「……誰に言われた」

「不思議な、人たち」

リーネは、香草の小袋を、価格表を、覚書を、作業台に、一つずつ置いた。

グスタフの視線が、価格表の上でわずかに止まる。

職人である前に、店を背負う店主の目だった。

そしてリーネは、母のレシピ帳を開いた。

終わりのほうの、あのページを。

――リーネが大きくなったら、一緒に新しいパンを考えること。

グスタフは、そのページを目にした瞬間、顔を背けた。

「……それを見ろと」

「父さんが、見て」

「やめろ」

「母さんはこれを考えてた。旅をする人向けの、日持ちするパン。私、母さんの真似をしたいだけじゃない。父さんのパンを、変えたいわけでもない。でも――この続きが、焼きたいの」

リーネは、白いスカーフを取り出した。

「母さんは、父さんのパンを、お客さんに届ける人だった。誰が何を好きか、全部、覚えてた。私は……父さんみたいに同じ味を守る職人には、まだ、なれないかもしれない。でも――誰に届けるかを考えることなら、私にもできるかもしれない」

「そんなものは」

グスタフの声が、低く沈んだ。

「ベルクの、パンじゃ、ない」

「ベルクのパンだよ」

リーネは、レシピ帳を指で押さえた。

「父さんの生地で、母さんの続きを、私が考える。だったらそれは、ちゃんと、ベルクのパンだよ」

グスタフは黙った。

冷えた窯のそばで、しばらく、二人の呼吸の音だけが聞こえていた。

 

やがて、グスタフがすれた声で言った。

「窯は、熱い。生地は言うことを聞かん。朝は早い。手は荒れる。火傷もする。売れ残れば全部、自分の責任だ」

レシピ帳を見ないまま、父は、言葉を、一つずつ置いていく。

「マルタも、よく火傷していた。笑って、ごまかしてたが……痛くないわけがない。具合の悪い日も、あいつは店に立っていた。無理をするなと言っても、聞かなかった」

その時リーネは、初めて父の声の奥にあるものを、聞き取った。

怒りでは、なかった。

恐れだった。

「俺は」

グスタフは、喉の奥から絞り出すように、言った。

「お前まで……窯に、取られるのは、嫌だ」

リーネは息を呑んだ。

昨日の夜、自分が飛び出してから、この人はずっと、その恐れの中にいたのだ。

母を失った、あの同じ窯のそばに、もう誰も立たせたくない。

そう思いながら――それでも、娘を探して、夜の町を歩き続けた。

「父さんが、何も言ってくれないと」

リーネの声も震えた。

「私には、『お前はいらない』って、聞こえてた。窯に立つなって言われるたび、帳面をしまえって言われるたび……この店に必要ないんだって」

「そんなことは」

グスタフが顔を上げた。

その顔には、隠しようのない動揺があった。

「そんなことは、言っていない」

「うん。言ってない。……でも、そう、聞こえてたの」

頑固で揺るがないはずの父が、今はただ、どう守ればいいのか分からないまま立ち尽くす、

不器用な一人の男に見えた。

「私、父さんのパンが、好き。母さんの店が、好き。だから――守りたいの。逃げたいんじゃない。壊したいんじゃ、ない」

リーネは、深く息を吸った。

「一窯だけで、いい。母さんが、書けなかった続きを――私に、焼かせて」

冷えた厨房に、沈黙が、落ちた。

尽きかけたランプの火が、ゆらりと揺れる。

グスタフは、ようやくレシピ帳を見た。

長いあいだ見ないようにしてきた、

そのページを。

正面から。

母マルタの丸い文字。

乾いた香草の薄い跡。

そして――娘の、まっすぐな願い。

彼は、火傷だらけの太い指で、レシピ帳の端に、そっと触れた。

 

「……一窯だけ、だ」

 

「え?」

「焦がしたら、俺が全部食う。売り物にはしねえ」

信じられなくて、リーネはまじまじと、父を見つめた。

グスタフは、ばつが悪そうに目を逸らす。

「何を、ぼさっとしている。――火を、入れるぞ」

「父さん……っ」

「泣くな。生地が、しょっぱくなる」

リーネは笑った。

涙が、こぼれた。

それでも笑った。

その時、グスタフが無言で手を伸ばし、リーネの手から、白いスカーフを取り上げる。

彼はそれを、丁寧に広げ――リーネの頭に、ふわりとかけた。

「窯に立つなら、髪をまとめろ」

父の手は、不器用だった。

母のように手早くは結べない。

少し曲がっているし、きつすぎる。

指は、布を扱うには太すぎて、何度ももたついた。

でも、リーネは動かなかった。

じっと、その不器用な手に、頭を預けていた。

「……母さんも、そうしてた」

グスタフが、低く呟いた。

たった、それだけ。

けれど、それだけで――十分だった。

母を見送って以来、固く閉ざしてきた何かを、父が今、ほんの少しだけひらいてくれたのだと分かった。

 

冷えていた窯に、ふたたび火が入った。

最初の香草保存パンは、綺麗な形にはならなかった。

水分を減らしすぎれば硬くなり、戻せば日持ちが心もとない。

香草を入れすぎれば薬臭くなり、控えすぎれば、ただの味気ない硬いパンになる。

「違う。こね方が浅い」

「でも、水分を減らすなら――」

「減らすことと、手を抜くことは違う」

「手を、抜いてない!」

「なら、もう一度だ」

父の指導は容赦がなかった。

けれど、以前とは決定的に違っていた。

窯に近づくな、とはもう言わない。

触るな、とも言わない。

ただ、間違っているところを、まっすぐに指摘する。

それは、見放す言葉ではなく、向き合う言葉だった。

火の調整だけは、無言で手を貸してくれた。

「そこで入れるな。香りが飛ぶ。――最後だ」

「……はい」

 

一窯目は、少し焦げた。

グスタフは、無言で半分に割り、一口かじった。

黙って、噛む。

長い沈黙。

「……硬いな」

「やっぱり」

「だが――旅の途中なら、これくらいがいい。香草は多い。果実は悪くない。だが、もっと小さく刻め。焦げる。形も悪い」

そう言って、父は残りを全部、食べた。

 

「悪くない」

 

リーネの胸の奥から、熱いものがこみ上げた。

悪くない。

父にとって、その三文字は、ありったけの最大級の褒め言葉だった。

「もう一回、焼いていい?」

「一窯だけと言った。……今のは試しだ」

グスタフは、作業台に新しい粉をばさりと出した。

「売り物にするなら――次だ」

「うん!」

 

 

その日の昼過ぎ。

リーネは、小さな籠を抱えて馬車組合の詰所へ向かった。

籠の中には、香草入り保存パンが十個。

焼きたては入れていない。

あえて、朝に焼いたものを、半日置いてから持ってきた。

父は、店から出てこなかった。けれど、出がけにぶっきらぼうに言った。

「焼きたてを持って行くな」

「分かってる。半日置いたのを持っていく」

「……分かっているなら、いい」

それだけだった。

でも、籠の底には、父がこっそり敷いた一枚の布があった。

パンが揺れて崩れないように、と。

町を歩きながらそれに気づいて、リーネはまた泣きそうになった。

父は、言葉では何も言わない。

けれど、その手はいつも、言葉よりずっと多くを語っていた。

詰所では、話を通してもらっていた若い御者が待っていた。

一つ取って、かじる。

リーネは息を止めた。

 

「硬いな」

「す、すみません」

「いや、悪い意味じゃない。馬車の上で食うならこれくらいでいい。柔らかすぎると、揺れて潰れちまう。――香りがいいな。干し肉と合いそうだ。水が少なくても食えるし、腹にもたまる。甘すぎないのもいい」

御者は、もう一口食べた。

「次の便に、十個だけ頼めるか?」

リーネは、一瞬言葉を失った。

十個。

たった、十個。

店を救うには、あまりにも小さな数だ。

けれど――リーネには、それが町じゅうに鳴り響く、鐘の音のように聞こえた。

「はい……! 十個焼きます!」

「そんなに、気合い入れなくても」

御者は笑った。

「うまくいったら、次はもう少し頼むかもしれない」

『次』、その一言が、胸にぽっと灯る。

まだ、何も終わっていない……けれど――始まった。

 

 

その日の夕方。

宿屋の女将にも試食を渡した。

女将は、半分に割って香りを確かめ、慎重にかじった。

「悪くないね。朝食に出すなら、もう少し香草を控えたほうがいい。でも、旅人に売るなら十分だ。――ただし、安くしすぎるんじゃないよ。安売りしたら、あんたの父さんが泣くからね。職人の手間には、ちゃんと値段をつけな」

ミレーユとよく似たことを言われて、リーネは背筋を伸ばした。

「はい!」

店に戻る頃には、空が茜色に染まっていた。

窯には火が入っていた。

煙突から、細い煙が夕空へのぼっている。

今朝、消えていたはずの煙だったのを、父が戻したのだ。

「どうだった」

奥から顔を出した父に、リーネは空の籠を抱きしめて、答えた。

「馬車組合から、十個」

「……十個、か」

それだけ言って、父は奥へ戻りかけ、途中で立ち止まった。

「香草は、次は少し減らせ。果実は、もっと細かく刻め。焦げる。明日は、仕込みを早める」

「父さん」

「十個だけ、だ。勘違いするな。注文が入ったなら――焼くだけだ」

「うん!」

「声がでかい。生地が驚く」

ぶつぶつ言いながら――その作業台には、もう、明日のための新しい粉が出されていた。

 

 

夜。

リーネは、店の小さな部屋で、机に向かった。

白い羽根を、母のレシピ帳の上にそっと置く。

本当に届くのかは、分からない。

でも、伝えたかった。

店は、まだ救われていない。

父との関係も、これですべて解けたわけではない。

保存パンも、完成にはほど遠い。

でも。

リーネはペンを取り、ゆっくりと書いた。

 

『父さんは、まだ素直には褒めてくれません。

でも、「次は香草を少し減らせ」と言いました。

つまり、次も焼いていいということだと思います。

馬車組合から、小さな注文が入りました。

十個だけです。

 

まだ、店を救えたわけではありません。

でも――私のパンを待ってくれる人が、少しだけできました。

父さんのパンを、まだ食べたことのない人に届けたい。

母さんが書けなかった続きを、私の手で焼きたい。

そう、言えました。

昨日の夜、父さんは、私を夜どおし探してくれていました。

私は、それを知らずに、ひどいことを言いました。

でも、今朝、ちゃんと話せました。

 

私は、自分の窯に火を入れます』

 

 

書き終えると、リーネは別の籠に、香草入り保存パンを三つ入れた。

一つは馬車組合向け。

一つは宿屋向けに香草を控えたもの。

そして、いちばん最初に父が「悪くない」と言ってくれた、あの配合に近いもの。

白い羽根を手紙に添え、窓辺に置く。

「……届きますように」

 

その夜、どこか遠くで、白い梟が鳴いた。

 

 

 

 

翌朝。

白梟館の食堂に、香ばしいパンの匂いが漂っていた。

長い食卓の中央に、小さな籠。

香草入り保存パンが三つと、丁寧に折られた手紙。

その上に、白い羽根が一枚。

 

「届きましたね」

フィオナが嬉しそうに、両手を合わせる。

 

ミレーユは、パンの形を見て

「まだ不格好ですが……売れますね。少し高めでも」

 

アリシアは、断面を真剣に見つめ

「携帯食として、悪くありません。任務食にも向きます」

「アリシアは、何でも任務基準で見ますね」

「重要なことです」

「香草、ちゃんと生きています。次は、もう少し控えめでも、いいですね」

 

セレスティアは、手紙を読み終え、静かに微笑んでいた。

「リーネ様は――ご自分の言葉を、ちゃんと届けられたようです」

食堂にシオンが入ってきた。

白灰色のローブを羽織り、どこか眠そうな顔をしている。

昨夜、神智問答を使った疲れが、まだ残っているのか。

セレスティアが、すぐに椅子を引いた。

「おはよう。……いい匂いだね」

「リーネ様からです」

手紙を受け取り、シオンはゆっくりと読んだ。

読み進めるうちに、その表情が少しずつ、やわらかくなる。

いちばん最後の一文。

 

――私は、自分の窯に火を入れます。

 

シオンは、しばらくその文字を見つめていた。

それから、香草入り保存パンを一つ手に取り、半分に割って口に運ぶ。

硬い。

香草は少し強い。

果実の刻み方も、まだ粗い。

けれど、噛むほどに小麦の確かな味が、にじみ出てきた。

焼きたてでは、ない。

けれど、冷めても消えない温かさが、そこにあった。

「彼女は」

シオンは、静かに言った。

「自分の窯に、火を入れたんだね」

「はい」

セレスティアは、その横顔を見つめた。

食堂の窓の外で、白い梟が羽を休めている。

針のない時計も、減らない蝋燭も、この館の中では、相変わらず夜明け前のまま。

けれど、扉の向こうの世界では、確かに、新しい一日が始まっていた。

ミレーユが、手紙を覗き込んで頷く。

「十個から始まる商売は、意外と強いんですよ。数字が小さいうちは、失敗からたくさん学べますから」

「最初から大きく動かない判断は、賢明だ」

アリシアも頷いた。

フィオナは、パンを小さく割って嬉しそうに食べている。

「次は、もう少し、香草を調整したいですね。……手紙、返せないんですか?」

「白羽便は、便利な往復便じゃないからね」

シオンは苦笑した。

「でも、彼女ならきっと、自分で調整するよ。グスタフさんもそばにいる」

 

セレスティアは、しばらく黙っていた。

そして、静かに言う。

「リーネ様は――ご自分の道を選ばれましたね」

「うん。強い子だ」

「では」

その声は、どこまでもやわらかく、けれど、まっすぐにシオンへ向かった。

 

 

 

「シオン様は――いつ、ご自分の道を、お選びになりますか?」

 

 

 

食堂の空気が、すっと静まった。

ミレーユが、カップを持つ手を止める。

アリシアが、視線だけをシオンへ向ける。

フィオナも、パンを口元で止めた。

四人の沈黙には、ずっと前から、この館の誰もが胸に抱えてきた問いの、気配があった。

 

シオンは、すぐには答えなかった。

窓の外へ目を向ける。

白梟館の庭は、穏やかだった。

白い花が揺れ、朝の光が、葉の上で跳ねている。

ここは静かだ。静かで、優しくて――道に迷った者が、ようやく一息つける場所。

 

けれど。

 

その静けさの中にいる自分は、本当に、道を選んだのだろうか。

それともただ、まだ、過去から目を逸らしているだけ、なのか。

シオンは、手の中のパンを見つめた。

リーネは選んだ。

父とぶつかるかもしれない道を。

失敗するかもしれない道を。

それでも、自分の窯に火を入れる道を。

 

自分は……、どうだろう。

 

かつて「叡智の御子」と呼ばれた、その名から逃げて、流れ着くように、この館へ辿り着いた。

今、迷い人を導いている。

道を、示している。

けれど――自分自身の道だけは、いつも、決めかねたまま。

「……難しい、問いだね」

ようやく、そう答えた。

セレスティアは責めなかった。

「はい」

ただ、静かに、頷く。

「ですが、いつかは」

「いつか、か」

 

その時、窓の外で白い梟が、鳴いた。ほう、と。

まるで――その問いを、確かに覚えておく、とでも言うように。

シオンは、小さく笑った。

「まずは――次の迷い人を、迎える準備をしよう」

「かしこまりました」

セレスティアが微笑む。

ミレーユは、すかさず帳簿用の紙を取り出して、

「この香草パン、白梟館の朝食に採用しても、よろしいかと」

「ミレーユ」

「冗談です。半分は」

 

アリシアは大真面目に

「保存食として、本当に有用です。訓練のときに、試しても」

「アリシアまで……」

 

フィオナはにこにこと、残りのパンを小さく切り分けていた。

「みんなで、食べましょう。リーネさんの、最初のパンですから」

 

シオンは、その光景を静かに見つめた。

白梟館に届いた、小さな籠。

十個から始まった商売。

一窯だけ許された夢。

父と娘のあいだに、ようやく届いた言葉。

大きな奇跡では、ない。

国が救われたわけでも、悪が裁かれたわけでも、すべての問題が解決したわけでも、ない。

けれど――一人の少女が、自分の道を自分で選んだ。

それで十分だと、シオンは思う。

いや。

十分だと――思いたかった。

自分が示した一本の道が、彼女の人生を、少しだけ変えた。

彼女の父も、店も、これから出会う客たちも、少しずつ変わっていく。

その重さから、目を逸らしてはいけない。

――他人には、いつも、そう言い聞かせてきたはずだった。

 

シオンはもう一口、香草パンを食べた。

焼きたてではないパンは――ゆっくりと、けれど、確かに温かかった。

白梟館の朝が始まる。

そして、どこかでまた、道に迷った誰かが、霧の向こうに、小さな灯りを見つけるのだろう。




少女は窯に火を入れ、自身で選んだ道を歩む決意をした。

だが、いくつかの道を示した白梟館の主は、未だ自分の道すら決めれず、足を止めたまま。
白梟館に続く道は霧に覆われているが、それは相談者の心の迷いの象徴なのか……、それとも、館の主の心を守るための自己防衛なのか……。



『本日は白梟館をご利用いただき、誠にありがとうございました。
まもなく閉館の時刻となります。
お忘れ物のないよう、どうぞお気をつけて、お帰りください。

次の開館は、また道に迷いしお客様がお越しになられた時にて……。
またのご来館を、心よりお待ちしております。
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