二百分の一の王国   作:mikouri

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#9 不能の道化

 

「まず妙なのは、私めが、殺されなかったことです」

 

 マル=シレスは石蔵の天井を見ていた。

 低い石の天井。煤の跡。古い蜘蛛の巣。保存用の穀物袋。どれもこれも、今はどうでもよい。

 フェリペは、その様子を見下ろしている。

 

「何故、私めは生きているのでしょう」

「レネヴェグが、止めを刺す前にリル様が駆けつけ、さらに火事が起きたからでしょう?」

「それも一因でしょう。ですが、違います」

 

 マル=シレスは息を整えた。

 

帳外吏(アナセマ)

「……何ですか、帳外吏(アナセマ)とは」

「レネヴェグ様が引き連れていた、名前のない暗殺者集団でございます。王家の帳面にも、普通の軍簿にも、きれいには載らない方々。詳しい説明は省きましょう」

「省くなら、要点を」

「ともかく、嫌がらせや衝動などで動かせるような通常の兵ではないということです。そして彼らは、私めに境界鋲が刺さったのを見て、退きました。潮が引くように。あまりにもきれいに」

「レネヴェグに任せたのでは」

「本気で私めを殺したいなら、任せません」

 マルは即座に言った。

「復讐者は、殺し屋ではございません。殺す前に言葉を使う。怒りを使う。痛みを返そうとする。そこには余白がある。帳外吏が実務の者なら、その余白を見張るはずです」

 

 フェリペは黙って聞いている。

 石蔵の外で、また鐘が鳴った。

 マルの赤紫の瞳が、暗がりの中で細く光る。

 

「火は偶然ではない。逃げ遅れの報せも偶然ではない。私めの無力化、火災、リル様の誘導。すべて繋がっております」

「何が言いたいのです」

「フェリペ様、ここまで計画的に打たれて、私たちは今、何手目でございますか」

 フェリペは答えなかった。

「私めは盤面から外され、街には火が入り、リル様は西へ向かわれました。帳外吏はすでに別の場所へ移っている。レネヴェグ様も、あなた様も、トルカ様も、それぞれ別の仕事に引き裂かれている」

 マルは小さく息を吸う。痛みで、わずかに眉が動いた。

 

「すべて後手です」

「……」

「フェリペ様。お尋ねいたしますが」

 

 マル=シレスは、床に横たわったまま、見上げるようにフェリペを見た。

 

「この状況で、リル様は勝てるとお思いですか」

 

 戦とは、常に不確定情報が多く混じるものである。

 そのうえで、命令と情を混同しないことを自負する女は黙った。それがすべてだった。

 

「よろしい。ご理解いただけたようで」

「……あなたを外へ出すことはできません」

「命令違反になりますものね。では、命令を守って、連れ出していただきたい」

「どういう意味ですか」

「私めは一人で出ません。フェリペ様が付き添う。鋲は抜かない。見張りは継続。実に忠実な運用でございます」

「詭弁です」

「はい」

「認めるのですか」

「良い詭弁には、人はそうとわかっていても動くものです」

 

 フェリペはマルを見下ろした。

 血に濡れ、術を封じられ、石床に横たわり、立つこともできない道化を。

 

「あなたは」

 

 思わず言葉が口をついて出る。

 

「その状態で、まだ自分が必要だと? 自分なら、リル様を勝たせることができるのだと?」

 

 ──フェリペは初めて、不可解に思った。

 この道化の余裕や不遜は、その力、その術あってこそのものだと解釈していた。人間が、蟻にたかられても動じぬように。

 だが、今や、マル=シレスは鋲を打ち込まれて術不能状態になり、身体もろくに動かせず、まさに蟻の立場に落とされたようなものだった。今の道化であれば、自分にすら素手で殺されてしまうかもしれない。

 だというのに、道化が言葉を弄ぶ温度は、常と変わらない。

 

「いいえ」

 マルは笑った。

 

「リル様を勝たせる、などと美しいことは申しません。ですが、ディマビオ様の勝ちを汚すことならできます」

「方法を。訊かせてください。あなたが山師でないと言うなら」

 

 そして、マル=シレスは、フェリペに“作戦”を語った。

 案の定、ろくでもない内容だった。

 

 *

 

 石畳の上には、リル=グレスが膝をついている。

 その腕の中で、ワヌレイが血を流している。

 喉元には帳外吏(アナセマ)の刃。

 少し離れた場所で、マヤはまだ王家兵に押さえられている。

 絶体絶命の状況。

 

 そして、路地の向こう。

 フェリペが、マル=シレスを支えていた。

 

 血に濡れた犬耳の道化。裂けた白い衣装。泥に汚れた手袋。

 境界鋲(アンカー)に縫い止められ、立っているだけで崩れそうな身体。

 笑っている。

 

 白い手袋の指が、脇腹の鋲にかかっている。

 抜くのではない。

 押し込んでいた。

 ぎ、と。

 世界の縫い目が軋むような音がした。

 

 帳外吏の一人が、初めて呼吸を乱した。

 ディマビオの顔から、余裕が消える。

 

「犬星」

 

 声が漏れた。

 

「何をしている」

 

 マル=シレスは答えない。

 ただ、さらに指先へ力を込める。

 境界鋲が、わずかに沈む。

 甲高い音が、路地の石壁を引っ掻いた。

 それは金属音ではなかった。鐘でもない。剣戟でもない。

 この世界に縫い込まれた異物が、無理に奥へ押し込まれる音だった。

 

「やめろ」

 

 ディマビオが口にしたそれは、命令や制止ではなく懇願に近かった。

 

「境界鋲を押し込めば何が起こるか、わからんのだぞ」

「ええ」

 

 マル=シレスは、声にならない笑みを浮かべた。

 

「ですから、押しております」

「止まれ」

 

 ディマビオが一歩踏み出す。

 

「犬星、止まれ。止まるのだ」

 

 リルは、腕の中のワヌレイを抱えたまま、その声を聞いた。

 さっきまで自分を裁いていた男が。

 火を使い、人質を使い、帳外吏を使い、王を目指すには不適だと断じた男が。

 今、狼狽している。

 

 マル=シレスは、それを見ていた。

 血まみれのまま、楽しむように。確かめるように。

 

「ああ、やはり」

 

 道化は言った。血が顎を伝う。

 

「私めが欲しくてしょうがなかったのですね」

 

 ディマビオの顔が歪む。

 

「黙れ」

「実に浅ましゅうございます」

「黙れと言っている」

「私めを確実に殺めなかったことから、そうではないかと思っておりました」

 

 マルは、鋲にかけた指を離さない。

 

「帳外の方々は、私めに鋲が刺さったのを確認して退きました。帳外の方々が、ほかのお仕事に必要だったとしても。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 帳外吏たちが、わずかに身じろぎする。

 その顔は布に隠れて見えない。だが、彼らもまた知っていた。

 

「レネヴェグ様に任せた? いいえ。あなた様は、あの方を最初から使い捨てるおつもりだった」

 道化は、読んでいる。

 

「ならば、私めを殺させぬために裏切る時期を少し早めることなど、何の問題にもならない。しかしそれをしなかった。つまり、私めが死んでは困った」

「貴様」

 

 マルの目が、細く歪む。

 ディマビオが沈黙する。

 

「ですから」

 

 マルは、フェリペの肩を借りながら、ほんの少し身体を起こした。

 指が、とんとんと鋲の頭を叩いている。

 

「こうされると、困るのでしょう?」

「やめろ」

「困る」

「やめろ」

「ほほ、困るのでございますねぇ」

 

 道化の声が、残酷に柔らかくなる。

 

「私めが壊れては困る。消えては困る。犬星が使い物にならなくなっては困る。せっかく地に落とした神話を、ここで失っては困る」

 

 ディマビオの手が、剣の柄にかかった。しかし抜けない。

 己の手で斬ろうが、帳外吏を動かそうが、道化は鋲をさらに押し込むだろう。

 状況を、動かせない。

 

「あなた……」

 

 フェリペは蒼白の表情になっていたが、驚いてはいなかった。

 石蔵で訊かされていたからだ。

 境界鋲に縫われ、術を封じられ、フェリペが肩を貸さねば歩くこともできない。それでも、道化は道化だった。弱ってなお、痛んでなお、不能の肉体で、今、盤面を動かそうとしている。

 

「止めろ!」

 ディマビオが叫ぶ。

 帳外吏の弩が、マル=シレスへ向く。

 だが撃てない。撃てば、何が起きるかわからない。

 犬星は可能な限り損なうなと命令がある。

 リルの喉元に置かれた刃も、そこで止まっている。

 

「私めを止めたいのでしたら、リル様にお願いしてみてはいかがでしょう」

 笑った拍子に、唇の端から血が落ちた。

 

「犬星っ」

 ディマビオの顔が動いた。

 

「私め、リル様の命令なら、自壊をやめるかもしれませんので」

「……かもしれん、だと」

「ええ。かもしれません」

 

「マル=シレス……」

 リルはわなわなと唇を震わせる。

 ディマビオに、帳外吏に、そして今マル=シレスにも遅れている。

 盤面が動いている。

 止めろと叫ぶべきなのかもわからない。未満の王はただ、流されていた。

 

 マルは、境界鋲へかけた指にさらに力を込めた。

 甲高い音が、石畳を這う。

 

 帳外吏の刃は止まっている。

 リルを殺すべきか。リルを生かして犬星を止めさせるべきか。

 ディマビオの命令を待つべきか。

 任務条件が破綻していた。

 

「ディマビオ様」

 

 道化は囁くように言った。

 

「所有者を名乗るには、少々、握力が足りませんね」

 

 そして、さらに境界鋲を押し込んだ。

 今まででもっとも大きく、音が弾けた。

 路地の影が、一瞬だけおかしな方向へ伸びる。

 煙が逆巻く。石畳の目地が白く光る。

 マル=シレスの輪郭が、ぶれた。

 犬耳の道化の背後に、何か巨大なものの影が差す。

 

 誰もがその時、それに魅入られて、己の役割を忘れていた。

 だから誰も、()()()()()()()()()()が、王家兵の背後に落ちたことに気付けない。

 

 マヤの喉へ刃を当てていた王家兵の手首が、音もなく折れる。

 もう一人が叫ぶ前に、柄頭が顎を打った。

 マヤの身体が崩れ落ちる。

 灰色の外套の男──レネヴェグが、片腕で受け止めた。

 

 マヤは声も出せずに震えていた。

 

「走れ」

 

 レネヴェグが言って、背を押す。

 

「走れ!」

 

 少女は弾かれたように動いた。

 人質が、消えた。

 

「リル!」

 

 誰かが叫んだ。

 喉元の刃が、まだある。ワヌレイは血を流している。

 剣は石畳の上。

 だが、今だけ、帳外吏の目が割れている。

 職業暗殺者たちは、想定にない状況に、反応できていなかった。

 半拍の間。

 それだけあればよかった。

 

 リルはワヌレイを抱えたまま、身体を沈めた。

 喉元の刃が皮一枚を裂いて空を切る。

 剣は拾わない。拾えない。

 相手の懐へ入り、膝を蹴り潰す。

 崩れた帳外吏の手首を、石畳へ踏みつけた。

 

「若!」

 

 トルカの声。

 次の瞬間、ジャドが北側の路地から突っ込んだ。肩からぶつかるように王家兵を吹き飛ばす。

「はいはい、上から狙うの楽しかったっすか?」

 屋根上の弩兵へ、ヨハンの短槍が飛んだ。急所ではなく足場を狙う。瓦が砕け、弩兵が膝をついた。

「リル様に刃ぁ向けてんじゃねえ!」

 その下で、ディエゴが倒れかけた帳外吏へ真正面から踏み込む。

 拳甲の一撃が、布で隠れた顎を跳ね上げた。

 散らされたはずの一党が、戻ってきていた。

 

「あは、あはは。私めの命など、大事になさらなければ、あなた様の勝ちだったのでございますよ、ははははは……」

 

 マルはひとり、身をのけぞらせて笑っていた。

 

「勝ち分を見てから、降りられなくなった。博徒の悪い癖でございます。

 大変、()()()

 

「なぜだ」

 

 ディマビオの拳が震えている。かすかに荒れた声。

 

「なぜだ、犬星」

「……」

 

 マル=シレスはフェリペに支えられたまま、境界鋲に指をかけている。もう押し込んではいない。顔色はひどく悪い。立っているというより、倒れることを先延ばしにしているだけだった。

 

「私の方が、あなたをうまく使える」

 

 ディマビオは言った。

 その呼びかけは、先ほどまでと違っていた。

 犬星。貴様。化け物。そう呼んでいた男が、いまだけ、神像の前に立つ少年のような声を出していた。

 

「縛れる。封じられる。測れる。売れる。勝ちに換えられる。あの小僧より、私の方があなたの価値を知っている。なぜ、あなたは、リル=グレスを」

 

「リル様の正義に感銘したからです、と申し上げれば、美しいのでしょうが」

 

 マル=シレスは、声にならない笑いを漏らした。

 口元だけが、いつもの道化だった。

 

「私めの動機を、そのように飾られるのは少々、不愉快でございます」

「では、なぜだ」

「だからですよ。陛下未満の陛下は、私めをうまく使えない」

 

 マルは、リルを見た。

 血に濡れ、膝をつき、ワヌレイを抱え、剣を落とし、それでも立とうとしている少年を。

 

「疑い、怒り、迷い、命令し、破られ、救われ、それでも手放せない。まったく、不器用でいらっしゃる」

 

 ディマビオの顔が歪む。

 

「それが、何だ」

「それがよいのです。うまく使われる道具など、退屈でございましょう」

 

 ディマビオは絶句した。

 

「私めは、勝ちに換えられるために来たのではございません。まして、保管されるためでも、売られるためでも、国を動かす燃料になるためでもない」

 

 マル=シレスは、血のついた手袋で境界鋲をなぞる。

 

「私めは道化です」

 

 その声は、ひどく静かだった。

 

「使い損なわれ、疑われ、嫌われ、叱られ、それでも幕の端から勝手に出てくる。そういうものです」

「犬星……!」

「所有者を名乗るには、あなた様は少々、私めを欲しがりすぎました」

 

 その時、リルが動いた。

 

 ワヌレイをトルカに預ける。

 トルカが短く頷く。

 リルは石畳の上の剣を拾った。

 

「リル様は、私めを欲しがっていることすら、まだ上手く認められませんので」

 

 リルの指は震えていた。

 だが、柄を握った瞬間、その震えは止まった。

 ディマビオが振り向く。

 遅い。

 リルは駆けた。

 火の赤が剣に映る。

 煙が裂ける。

 ディマビオは剣を抜いた。受ける。重い音が鳴る。

 一合。

 リルの剣が弾かれかける。

 だが、踏み込む。

 二合。

 ディマビオの刃がリルの肩を浅く裂く。

 リルは止まらない。

 

「あああッ!」

 

 三合。

 リルの剣が、ディマビオの防御の内へ入った。

 血が散る。

 ディマビオの体勢が崩れた。

 

「犬星が盤を汚し、」

 

 剣を取り落とす。乾いた音。膝が折れる。

 

「貴殿は、その汚れた盤で剣を拾えた」

 

 ディマビオは笑っていた。

 敗北を認めたからか。認められなかったからか。

 

()()()になれるだろう、リル=グレス」

 

 リルは無言で剣を払う。

 ディマビオが崩れ落ちた。

 

 *

 

「何重の賭けをなさったのですか」

 

 フェリペの声は、呆れを通り越して乾いていた。

 

「リル様が向かった先にディマビオがいなければ失敗。ディマビオがあなたを欲しがっていなければ失敗。境界鋲を押し込んであなたが壊れれば失敗。レネヴェグが鋲の音に気づかなければ失敗。気づいてもマヤへ向かわなければ失敗。帳外吏が一拍でも早くリル様を殺していれば失敗」

「実に堅実な作戦でございましたね」

 マル=シレスは、石畳に崩れ落ちながら微笑んだ。

「どこがですか」

「失敗条件を数えられる作戦は、まだ良心的でございます」

 

 唖然とする。

 ディマビオは狂った博徒だった。

 だが、マル=シレスという逸脱の博徒には、勝てなかった。

 自分の認識が間違っていることを、認めねばならなかった。

 

 『道化を正しく恐れた女』。

 このタイトルは売れなさそうだなと思った。

 

「ワヌレイ……!」

 

 リルが名を呼ぶ。

 勝ちを喜ぶ声は、誰の口からも出ていなかった。

 ワヌレイは血の中にいて、少しずつ呼吸が弱まっていた。

 

「これは、駄目ですわ」

 

 駆けつけたバルトロメアの開口一番がそれだった。

 いつもの浮ついた響きがない。

 

「止血はできます。痛みも散らせます。けれど、それだけですわ。中が裂けています。血が足りない。時間も足りない」

「助けろ」

「尋常の方法では、無理だと言っているのですわ、リル様」

 

 首を横に振るバルトロメアに、リルは、マル=シレスを見た。

 道化は石畳に座り込んでいた。座っているというより、崩れた身体をフェリペに支えられているだけだった。

 

「生かせるか」

 

 リルが道化へ訊いたその声は、自分でも驚くほど冷えていた。

 マル=シレスは、脇腹の境界鋲を見た。

 これがなければ、と視線で言っていた。

 

「レネヴェグ」

 

 リルは命じた。

 

「抜け」

 

 道化を除けば唯一抜き方を知っている男は、境界鋲を見下ろした。

 

「私に、それをさせるのか」

「刺したのはおまえだ。抜き方も知っているだろう」

「抜けば、この化け物は戻る」

「抜かなければ、ワヌレイが死ぬ」

「その女が死ねば、貴様の王道は折れるのか」

「違う」

「では、なぜ」

「それは……」

 

 レネヴェグの問いに、リルは言葉を詰まらせる。

 たかが一人の兵のために今自分は道化を解放しようとしている。

 正義のために(マヤ)ひとりを見殺しにしようとしたのとは逆に。

 

「……だが、俺の兵だ」

 

 荒れた声。

 

「そして、おまえの復讐とは関係ない」

 

 レネヴェグは、しばらく動かなかった。

 やがて、低く言って、マル=シレスに歩み寄る。

 鋲の頭を握る。

 

「勘違いするな。その女を助けるためではない」

 

 レネヴェグは鋲をわずかに捻った。

 

「私は、あの男の熾した火に、これ以上乗らないだけだ」

 

 鉄が肉の中で鳴ったのではない。

 世界のどこかで、縫い糸が切れる音がした。

 マル=シレスの背が反り、フェリペが肩を押さえた。

 バルトロメアが息を呑む。

 

「今は殺さない。許したわけではない。終わったわけでもない。

 だが、今は殺さない」

「ええ。それで十分でございます」

 

 マル=シレスは目を伏せる。

 そして、鋲が抜け、血が溢れる。

 同時に、マル=シレスの輪郭が一瞬だけぶれた。

 犬耳の道化が、この路地に収まりきらない別の何かへ戻りかける。

 

「押さえて!」

 

 フェリペが叫んだ。

 

 リルがマルの肩を押さえる。

 バルトロメアが傷口を圧迫する。

 レネヴェグは抜いた鋲を握ったまま、後ろへ下がった。

 

 マル=シレスの脇腹から、血が流れていた。

 

 白い衣装を赤く汚し、手袋を濡らし、石畳へ落ちていく。

 境界鋲に指をかけるたび、傷口が開く。

 笑うたびに、口端からまた血が落ちる。

 

 リルは、その赤に目を奪われた。

 

 狂人。

 空洞(からっぽ)

 道化。

 そうなのかもしれない。

 

 マル=シレスは壊れている。狂っている。

 人と同じ秤には乗らない。

 痛みも、死も、己の命も、盤上の札のように扱う。

 

 それは、たぶん間違っていない。

 だが、それだけで片づける気には、なれなかった。

 

 本当に空洞(からっぽ)なら、本当に何もないのなら。

 こんなふうに血を流すだろうか。

 こんなふうに、痛みで指を震わせながら、それでも笑うだろうか。

 空っぽのものから、こんなに赤いものが溢れるだろうか。

 

「完全に治すわけではございません」

 

 マル=シレスはワヌレイのそばに膝をついた。

 膝をつくというより、フェリペとバルトロメアに支えられて落ちた。

 

「死んでいない時間を、少しばかり延ばすだけです」

「それでいい。今は」

「では」

 

 マル=シレスは、血に濡れた指をワヌレイの傷の上に伸ばす。

 

「ワヌレイ様。たいへん申し訳ございませんが」

 

 意識のない彼女へ、道化は身勝手に囁いた。

 

「まだ死んでいただくと困ります」

 

 マル=シレスの指が、ワヌレイの傷口に触れた。

 

 光はなかった。

 呪歌も、印も、奇跡めいた熱もなかった。

 ただ、ワヌレイの浅い息が、一度止まった。

 

「……」

 

 リルの手が強張った次の瞬間、ワヌレイの胸が、小さく上下した。

 細い、引っかかるような呼吸だった。だが、先ほどまでの、こぼれていくばかりの息ではない。

 バルトロメアが、すぐに首筋へ指を当てた。

 

「……脈」

 

 声が震えていた。

 

「戻っていますわ。弱い。ひどく弱いですけれど、戻っている」

 

 ワヌレイの唇に、ほんのわずか血の気が差した。

 流れ続けていた血が、完全に止まったわけではない。傷も塞がっていない。裂けたものは裂けたままだ。

 それでも、身体の奥で何かが踏みとどまった。

 死へ向かっていたものが、乱暴に襟首を掴まれ、こちら側へ引き戻されたようだった。

 

「……ワヌレイ」

 

 リルが呼ぶ。

 

 返事はない。だが、呼吸はあった。

 小さく、苦しげに、それでも。

 傷が塞がったのではない。

 血が戻ったのでもない。

 破れた臓腑が、正しく縫い直されたのでもない。

 ただ、ワヌレイの身体が、()()()()()()()()という一点へ無理やり留められた。

 消えかけた火を、消えていないことにする。

 こぼれた水を、まだ器の中にあることにする。

 そういう、乱暴な救命だった。

 

「……息がありますわ。でも、これは治療ではありません」

 バルトロメアが神妙に言った。

 

「拙僧の知る神殿公認の治療術ではありませんな」

 マル=シレスの術行使を覗き込んでいたアンドレイが低く言った。

「神殿式なら、光の糸が出ます。破れた肉体を女神の名で仮縫いし、祈祷で術式を通す。少なくとも、そういう徴が残る」

「……つまり?」

 リルがアンドレイを見る。

「間違いなく、神殿には報告できない外法(アウターロウ)ですな」

 

「ええ」

 マル=シレスは、顔色をなくしたまま笑った。

「これは治療ではございません。延滞でございます」

 

 遠くで、鐘の音が変わった。

 

 火を知らせる乱打ではない。

 水場を回せ、北門を閉じろ、負傷者を運べという、落ち着きを取り戻しつつある音。

 

 ティンドレット領兵と住民たちが、街を繋ぎ止めていた。

 南倉庫の火勢は落ち、北門側の馬は逃がされ、酒場裏の煙も薄れ始めている。

 

 ティンドレットは、まだ燃えていた。

 だが、焼け落ちる方へは傾いていなかった。

 

 * * *

 

 ディマビオの副官は、東の水路へ続く小路を走っていた。

 

 火は鎮まりつつあり、鐘の音も変わった。

 ディマビオは倒れた。帳外吏は散った。王家兵も捕らえられつつある。

 

 敗北だった。

 

 その言葉を認めた瞬間、副官は走っていた。

 自分は知りすぎている。帳外吏、境界鋲、犬星、市街への放火。

 どれも、王家の帳面には綺麗に載せられないものだった。

 ディマビオ亡き今、逃げなければ王家に消されてしまう。

 亡命先を考えなければ。どこがいい。北方領か。南方沼沢地か。

 

 路地の出口に、少女が立っていた。

 

 黒い服。

 灰色の長い髪。

 年若く見える顔。

 煙の届かない場所に立っているような、場違いな静けさ。

 火の粉がちらちらと舞っている。

 ティンドレットの火ではない。

 それは青かった。

 少女の身体から、音もなくこぼれていた。

 

 そして、大きな鋏を持っている。

 

「どけ」

 

 副官は怒鳴った。

 

「判決は下った」

 

 少女は言った。

 

「……何の話だ」

帳外吏(アナセマ)運用補助。市街放火作戦補佐。人質作戦への関与。そして、作戦失敗後の逃亡」

 

 罪を読み上げる声の冷たさに、背筋が震える。

 目の前の少女が何物なのか、どこに属しているのか、わからない。

 ただ、自分は許されないのだ、という確信だけがあった。

 

「わ、私は命令に従っただけだ!」

「知っている」

「ならば」

「従ったのなら結末にも従え。()()だけを帳外へ出すな」

 

 副官は、喉の奥が冷えるのを感じた。

 

「誰だ、お前は」

()()()

 

 少女は鋏を持ち上げた。

 

「未執行分を処理しに来た」

 

 副官は剣に手をかけた。遅かった。

 鋏が閉じた。

 

 ちょきん。

 

 倒れ伏す音。少しの出血。

 しかし、すでに息はない。

 

「……面倒ばっかり増やす」

 

 ぼやきを残して、処刑人は歩き出した。

 

 嬉しそうではなかった。忌々しげでもなかった。

 ただ、片づけるべきものを片づけた顔。

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