ティンドレットの北区画を舐めた炎は、夜半前には押し返された。焼けた屋根からまだ細い煙が上がっていたが、赤い舌は見えない。井戸から汲み上げられた水は、泥と灰と血を吸い込み、石畳の低いところに黒く溜まっていた。
だが、火が消えた後にも、残るものがある。
皮膚の上、喉の奥、閉じられない瞼の裏。
施療院の扉が開くたび、焼けた肉と薬草と酢の匂いが外へ漏れた。
リル=グレスは、その匂いの中に立っていた。
「次を入れてください!」
修道女が叫んだ。
兵士が戸板を担ぎ込む。上に乗せられていた男は、片腕を胸に抱え込むようにしていた。いや、抱え込んでいるのではない。腕の皮膚と胸の布が焼けて貼りつき、無理に動かせなくなっているのだ。
別の寝台では、女が声にならない声を上げていた。喉を焼いたのだろう。口を開けるたびに、乾いた笛のような音がした。
床には藁が敷かれ、その上にも負傷者が並べられている。寝台が足りない。包帯が足りない。水が足りない。泣いている者はいたが、泣くだけの力も残っていない者の方が多かった。
リルはしばらく動けなかった。
死者や傷痍者は見た。父グランに連れられた戦場、そして徴発街道、ティンドレット北門でも。血が流れ、剣が折れ、鎧が割れ、身体のどこかが欠けている。死ぬ者は死ぬ。助かる者は呻く。戦場の理屈は、少なくともひどく単純だった。
ここは違った。
彼らは生きながら焼かれ、死の重力に引き込まれていた。
「リル様。こちらへ」
バルトロメアが振り返った。
白い袖は、もう白くなかった。血と膿と煤で斑になっている。結い上げた髪の端にも灰がついていた。
案内された奥の小部屋で、ワヌレイは寝台に寝かされていた。
鎧は外され、傷口には厚く布が当てられていた。胸がかすかに上下している。それだけで、リルは一瞬息を忘れた。
「マル様の術で、どうにか血を止めました。ですが、かなり無理をしております。身体が、まだ死んだ方が楽だと思っている状態ですわ」
「言い方を選べ」
「選んでこれです」
バルトロメアは、珍しく笑わなかった。
「意識は戻るか」
「わかりません」
その言葉は、施療院の騒音の中でもはっきり聞こえた。
リルは寝台のそばへ寄った。
ワヌレイの顔は白い。血の気がない。額の汗だけが、燭台の光を受けてかすかに光っていた。
リルは手を伸ばしかけ、途中で止めた。
触れたら壊れそうに感じた。
「若」
背後から声がした。アンドレイだった。
僧衣に似た黒い衣を着ているが、袖は捲られ、腕には血がついている。いつものように穏やかな顔をしていた。だが、その目の下には疲労が濃い。
「手が空いているなら、外の水桶を運んでください。王位志向者様でも、水桶くらいは持てましょう」
リルは振り返った。
「ワヌレイは」
「今すぐどうこうはありません。今すぐどうこうなる方は、外に山ほどおります」
アンドレイの言葉は静かに、棘があった。
リルは一度だけワヌレイを見てから、小部屋を出た。
外の広間では、また新しい患者が運び込まれていた。
子供だった。
十にも満たない。顔の右半分が赤黒く腫れ、髪は一部が焼け落ちていた。母親らしい女が、戸板にすがりついている。
「お願いです、助けてください、助けて、神官様、お願いします」
修道女がその子を診て、顔をこわばらせる。
リルにも伝わった。助からない、という空気が。
その瞬間、
マル=シレスを見た。
──ワヌレイを死の淵から救った道化を。
道化は、施療院の入口近くに立っていた。
白い手袋は片方だけ外している。外した方の手には、まだ血の跡があった。境界鋲を抜かれた後の疲労が残っているのか、いつもより顔色が悪い。
それでも、道化は笑っていた。
薄く。
退屈そうに。あるいは退屈を装って。
「マル」
「はい、リル様」
「おまえなら」
言いかけて、リルは言葉を切った。
だが、マル=シレスは先を待たなかった。
「できます」
リルは彼を見た。
「治せ」
「よろしいので?」
「何がだ」
マル=シレスは、血のついた手を少し持ち上げた。
「私めが人を救うと、だいたい後で面倒になります」
「人が死ぬ時に、面倒の話をするな」
「死ぬ時だからこそでございます」
「治せ」
リルの声が施療院の中で硬く響く。
バルトロメアとアンドレイが、リルへと向いた。
二人とも、同じ顔をしていた。
主君の聡明な決断に感動した顔ではなく、その反対、愚行を諌めようとする顔を。
「若、お待ちください」
アンドレイが言った。
「待てない」
「神殿の認可がありません」
「今ここに神殿はいる」
「神殿の建物と、神殿の認可は別です」
アンドレイは、言い聞かせようとするようにゆっくり言った。
それがかえってリルを苛立たせた。
「治療術の行使には、神殿の認可が要ります。認可なき術師が人の身体へ手を入れれば、最悪、外法審問です」
「偽治療師を防ぐためだろう。こいつは偽物ではない」
「もっと悪いです。本物の外法使いです」
アンドレイは、マルを見た。
マル=シレスはにこりと笑った。
「褒め言葉として受け取っておきましょう」
「黙っていてください」
「はい」
バルトロメアが、戸板の上の子供を見た。
「わたくしもアンドレイ様に賛成ですわ。治療には手順があります。記録も、同意も、処置後の観察も必要です。神殿の認可制度は、腹立たしい利権でもありますが、同時に必要な壁です」
「死ぬぞ。その子が死ぬ」
「はい」
「なら、治せるなら治すべきだ」
バルトロメアは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「そのお考えは、好きですわ」
「なら」
「ですが、好きなことと、正しいことは別です」
リルは奥歯を噛んだ。
母親の泣き声が聞こえた。
子供の呼吸が細くなっていく。
細く。
小さく。
まるで世界の端から、少しずつ消されていくように。
「マル。治せ」
アンドレイが目を瞑る。バルトロメアは、きつく唇を結んだ。
マル=シレスは恭しく頭を下げた。
「御意に」
道化は、戸板のそばへ膝をついた。
母親が怯えたように身を引いた。
「ご安心を。安心できる要素は少々不足しておりますが、ひとまずお子様の命だけは拾いましょう」
「何を……何をするんですか」
「少々、火に早退していただきます」
母親は理解できない顔をした。リルにも、正確にはわからない。
マルは子供の額に指を置いた。
次に、焼けただれた頬へ手をかざす。
認可治療術であれば神秘的な光の糸が走るはずだが、それはない。奇跡めいた音もなく、ただ、空気が少し歪んだ。
焼けた皮膚の赤黒さが、ゆっくりと薄くなる。膨れた水疱が沈み、裂けた皮膚が寄り合う。喉の奥で詰まっていた呼吸が、ひゅう、と音を立てて通った。
細く、子供が泣き声を上げた。
母親が戸板に覆いかぶさった。
「生きてる……生きてる、ああ、神様、ああ……」
「神様への謝辞は、少々お待ちを」
マルが言った。
「今回、手続き上は私めです」
アンドレイが低く言った。
母親は、リルの方へ向き直った。
涙で濡れた顔を床につける。
「ありがとうございます。ありがとうございます、リル様、ありがとうございます……」
リルは、何も言えなかった。
助かった。助けられた。
それだけでよいはずだった。
「今のは、治療術……
若い声がした。
リルが振り返ると、施療院の柱のそばに、黒い術衣の青年が立っていた。袖口にはフォルク家の細い銀章が縫いつけられている。褪せた金色の髪に、四角い縁の眼鏡。顔は若い。だが目元だけが、妙に疲れていた。
「誰だ」
「テオ=ラグナ。フォルク卿付きの術師です。救命補助に出ています。……出ていました、と言うべきかもしれませんが」
「外法だとしたら、なんだ?」
「外法。一般約定術で説明できないもの。あるいは説明できても、再現も記録もできないもの。人体や名や死生の定義に触れている疑いがあるもの」
「……ああ」
頷く。
「神殿はそれを、ひとまず外法疑義として止めます」
「ひとまずで止めるのか。そのひとまずの間に人が死ぬんだぞ」
「それを許したばかりに、人が人として治れなくなったこともある!」
「な……」
「認められていない方法で身体をいじるというのは、そういうことです」
言葉を継げない。
リル=グレスにはもうなんとなく、わかっている。
この道化は、そんな
それが、他者に通じるかは別だ。
次の患者は年老いた男だった。
背中から腰にかけてひどく焼けている。意識はない。呼吸も弱い。
「治せ」
リルは言い、マルは手を伸ばした。
テオは止められなかった。
二人目も助かった。
完全にではない。傷は残る。熱も続く。だが、死の淵からは戻った。
施療院の空気が変わった。
「表皮も、内部の焼灼も、進行が止まっている。いや、止めたのではなく……なかったことにはしていない。損傷の履歴は残っている。なのに、死へ向かう経路だけが折られている」
テオは道化に治されたあとの熱傷患者の傷を診て、唖然としていた。
「わからない」
呼吸が荒い。許されざるものを前にしていた。
「助かったのだから、いいのではないか」
リルは言う。
「よくありません。
「……」
三人目を治療したところで、若い神官が叫んだ。
「貴様は女神様を侮辱している!」
その声は、施療院のざわめきを裂いた。
「人の生死は、女神様の御手にある。祈りも捧げず、認可も受けず、道化の指先で引き戻してよいものではない!」
マル=シレスは、救ったばかりの子供から手を離し、ゆっくりと神官を見た。
「侮辱とは心外でございます」
「黙れ!」
「私めとしては、多少、顔見知りに失礼のない程度には振る舞っているつもりで」
「女神様を、貴様の知己のように語るな!」
「では、遠縁の方のように」
「黙れと言っている……!」
道化の顔を覗き込んで、神官は、嫌悪よりも先に怯えた。
その道化は、女神を信じない者の顔ではなかったが、信徒の顔もしていない。
まるで、神像の高さを見上げず、同じ卓につく相手のように語っていた。
神官は、リルを睨みつける。
「……後日の審問を楽しみにしておくことだな。助かった者がいる。泣いて礼を言った者もいる。だからこそ厄介なのだ、リル=グレス」
「……」
施療院中の視線が、マル=シレスに集まりだす。
泣き声の中に、ざわめきが混ざる。
「あの道化が」
「犬星だ」
「火傷が治った」
「神殿の奇跡か」
「違う、リル様の魔術師だ」
「魔術師ではなく、外法使いではないのか」
声は、感謝から始まったが、感謝だけでは続かなかった。
四人目の患者で、それは起きた。
若い女だった。髪は焼け、肩から胸元にかけてひどい熱傷がある。意識はあった。苦痛で目の焦点が合っていない。
マルが近づくと、彼女は喉を鳴らした。
声にならない声。
拒絶だった。
そばにいた男が、彼女の手を握った。夫か、兄か。
「やめろ」
その男の制止を、リルは聞き間違えたかと思った。
「何を」
「その化け物を近づけるな」
施療院が静かになった。
マルは手を止めた。
女は泣いていた。恐怖で、目を見開いている。
「治せる。このままでは死ぬ」
リルは言った。
「おまえたちに触られるくらいなら、死んだ方がましだ」
男の声は震えていた。怒りと恐怖で。
リルは、一歩踏み出した。
「何を言っている。死ぬんだぞ。助かるんだぞ」
「誰がそう頼んだ」
リルは言葉を失った。
この状況で? 助かるのに?
「おまえたちが来てからだ」
男は続けた。
「兵が来た。火が出た。家が焼けた。妻がこうなった。今度はその犬耳の道化で、身体までいじるのか」
「火をつけたのは俺たちではない」
「同じだ!」
男の叫びが、施療院の天井にぶつかった。
「おまえたちが来なければ、こんなことにはならなかった!」
そうではない。リルはそう思った。
ディマビオがいた。陰謀があった。火を放った者がいる。リルたちは街を守るために戦った。
しかし、因果で言えば、そうとも言える。
リルたちが来て、王家兵と争った。
マルがいたから、ディマビオが動いて、街は燃えた。
その女は焼けた。
「若、下がってください」
アンドレイが、静かに言った。
「死ぬ」
「はい」
「このままだと死ぬ」
「はい」
「見殺しにしろと言うのか」
「いいえ」
「ならどうしろと」
アンドレイは、女の方を見た。
彼女はまだ泣いていた。
マルを見る目は、おぞましい獣を見る目だった。
「見殺しにしたくないという若の苦しみと、触れられたくないというあの方の恐怖を、同じ場に置いてください」
「同じではない」
「ええ、同じではありません。ですから、踏み潰しやすい」
リルは彼を睨んだ。
アンドレイは視線を逸らさなかった。
バルトロメアが、マルの前に立った。
「リル様」
「おまえもか。医者が、死なせるのか」
バルトロメアの表情が、ほんの少しひきつる。
「治療する側に立つ者として申し上げます。身体は、持ち主のものです」
彼女は、血で汚れた手を見せた。
「死ねば身体も何もない」
「それを決めるのも、持ち主です」
「死にたいわけではないだろう!」
「ええ。死にたくないでしょうね」
バルトロメアの声は、苦かった。
「でも、だからといって何をされてもよいわけではありませんわ」
リルは、女を見た。
焼けた胸。
震える手。
こちらを見ている目。
救われることを待つ目ではなく、救われることに怯える者の目だった。
「マル。俺が命じてもか」
リルはかすれた声で言った。
マル=シレスは、静かに答えた。
「命じられれば、できます」
リルは息を止めた。
「ですが、それは治療ではなく──制圧になりましょう」
誰も何も言わなかった。
女の呼吸が、細く聞こえて、男が彼女の手を握りしめる。
リルは、拳を握った。
治せる。
今ならまだ間に合う。
命じればマルはやるだろう。
拒まれても、押さえつけて、傷を塞がせることはできる。
そうすれば生きられる。
生きるのだ。
生きてから恨めばいい。
生きてから怒ればいい。
生きてから、自分を呪えばいい。
死なれるよりは、ずっといい。
俺が責任を負う。
そう思った。
思ってしまった。
「……下がれ」
マルは一礼して退いた。
その後、女は長くはもたなかった。
男は最後まで手を握って、泣きながら、何度も彼女の名を呼んでいた。
救えたはずの命が、目の前で遠ざかっていく。
リルは、その名を覚えようとした。
だが、施療院には他にも声があった。
叫び。水を求める声。祈り。足音。包帯を裂く音。
誰かが吐く音。誰かが死ぬ音。
なぜ自分たちが死ななければならないのか、知らない者たちの声。
ただ生きようとしている者たちの声。
生かそうとしている者たちの声。
女の名は一度、二度、聞こえ、砂嵐のような声の群れに掻き消えた。
リルは覚えたつもりだったが、すぐに自信がなくなった。
手元には帳面がなかった。
次は家族が拒んだ。
「神殿の治療を待ちます」
「待てば死ぬ」
「それでもです」
次は本人が拒んだ。
「犬星は嫌だ」
「助かるんだぞ」
「嫌だ」
何も知らない者が、噂だけで怯えた。
「あれに治されたら、魂が戻らないと聞いた」
「誰が言った」
「みんなが」
誰でもない者たち。
責任を持たない空白な声。
それが人を殺していく。
いや。違う。殺しているのは声だけではない。
火。戦。制度。外法への恐怖。
そして、リルへの不信。
リルは途中から何も言えなくなった。
マルは命じられれば治した。
拒まれれば、手を引いた。
アンドレイは水を運び、祈りを聞き、死ぬ者の額に手を置いた。
バルトロメアは包帯を巻き、膿を拭い、熱を測り、時折ひどく乱暴な言葉で患者を叱りつけた。
夜が明けた。誰も、それを喜ばなかった。
それからさらに日が傾き、ようやく施療院の混乱が少しだけ引いた。
死んだ者は、布をかけられ、奥の間へ運ばれた。
助かった者も、助かったというには程遠い顔で横たわっていた。
リルは中庭に出た。
灰が雪のように降っていた。冷たくはない。
手の甲に落ち、黒く崩れた。
「リル様」
声がした。
振り返ると、最初の子供の母親が立っていた。
顔は泣き腫らしている。服には煤がついている。腕には眠った子供を抱いていた。
「本当に」
女は深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
リルは、答えられなかった。
女はもう一度頭を下げ、子供を抱いて施療院の中へ戻っていった。
助けた。
あの子は助かったのは、確かだった。
確かだったのに、リルの胸には空洞ができていて、助けられなかった者の顔が、そこから覗いていた。
(何故死ぬ?)
日が沈む頃、リルはワヌレイのいる小部屋へ戻った。
燭台の火が、静かに揺れている。
ワヌレイはまだ眠っていた。
眠っているというより、沈んでいるようだった。
リルは寝台の脇に椅子を置き、座った。
腕を伸ばせば触れられる距離。
だが、触れなかった。
施療院で拒まれた手が、自分のものではない、おぞましいもののように思えた。
(何故生きた?)
どれほど時間が経ったのか、わからない。
扉が開いた。
入ってきたのは、レネヴェグだった。
煤と血に汚れた外套を着ている。ディマビオを討ったあのときよりも、さらに汚れている。顔には疲労があった。復讐者として現れた時の、研ぎ澄まされた気配は薄れている。
その手に、小さな箱があった。
リルは立ち上がった。
「それは」
「境界鋲だ。あの道化から抜いた、な」
「何をしに来た」
「今日、私は人を運んだ。火の中から、子供も、老人も、兵も運んだ」
彼は、扉の外を見た。
「私の復讐が、ディマビオの陰謀に使われた。私があの道化を弱らせたせいで、死んだ者がいる」
「おまえだけのせいではない」
「慰めはいらない」
レネヴェグは即座に言った。
「そのうえで、私は見た。あの道化が、人を救っているところを。吐き気がした」
リルは黙っていた。レネヴェグの声は、低かった。
「殺したい相手が、私のせいで死にかけた者を救っている。これほど不愉快なものはない」
本当に腹立たしいのだろう、とも思う。
そして同時に、それを自分に告げているということは、決めかねているのだろう、というのもわかった。
レネヴェグは、ワヌレイを見た。
意識のない女兵士。
命を拾った者。
「だが、リル=グレス」
レネヴェグは箱を握った。
「私の娘は戻らない」
「……わかっている」
「わかるな」
「ああ」
「だから、これは持っていく」
箱を見る。古びたそれの中には、道化に刺さり、そして抜かれた境界鋲が収められている。
マル=シレスを無力化できる手段の一つ。
「それは、持たせておくわけにはいかない」
「なら奪え」
レネヴェグは箱を差し出すようにして見せた。
手の届く距離に。
「王になる男なら、私一人から復讐の道具を取り上げるくらい、容易いだろう」
リルは動かないのを見て、レネヴェグは、箱を外套の内側へ戻した。
「結論が出たら、殺しに行く」
「許す結論はないのか」
「あるかもしれない」
レネヴェグは言った。
「だから、まだ殺していない。
だが、許さないという結論が出たら──次は、迷わない」
レネヴェグは扉へと向かう。
リルはそれを見送って、椅子に戻った。
ワヌレイの顔を見た。
「起きろ」
小さく言った。
「命令だ」
返事はない。
「ワヌレイ」
声が揺れた。
「起きろ」
また沈黙。
リルは手を伸ばし、今度は止めなかった。
ワヌレイの指先に触れる。
温度がある。
それだけで、胸が苦しくなった。
「リルさま……?」
かすれた声がした。
リルは息を呑んだ。
ワヌレイの瞼が、わずかに開いていた。
焦点の合わない目が、天井を見て、それからリルを探すように動いた。
「ここは」
「施療院だ」
「……ディマビオは」
「退けた」
「マル様は」
「生きている」
「そう、ですか」
ワヌレイは、また目を閉じかけた。
リルはその前に、身を乗り出した。
気づけば、彼女を抱きしめていた。
強くはできなかった。
傷に障る。
だから、ほとんどすがるように、肩口へ顔を埋めた。
ワヌレイの首元に、薬草と血と汗の匂いがした。
生きている匂いだった。
ワヌレイは困惑したように、動けない手を少しだけ上げた。
「リル様?」
リルは答えなかった。
ワヌレイには、言いたいことがいろいろあった。
薄れていく意識の中、リルが言っていたこと。
あのあと、何があったのか。
自分は、足手まといじゃなかったか。
すごくお腹が空いている、とか。
言えば、何かが崩れそうだった。
ワヌレイはしばらく迷い、それから、力の入らないままに、手をリルの背へ置いた。
「……ご無事で、何よりです」
逆だ。
リルはそう言いたかった。
言えなかった。
ただ顔を埋めたまま目を閉じた。
施療院の外では、まだ誰かが泣いて、祈り、死者の名を呼んでいた。
そのすべての声から逃げるように、リルはワヌレイの体温を確かめていた。
生きている。
彼女は、生きている。
その事実だけが、その夜のリルをかろうじて支えていた。
そして同時に、その事実だけが、彼の胸の奥へ瑞々しい罪の形を刻んでいた。
窓の外に、焼けた家と身体でできた灰が、しんしんと降り積もっていた。
・ティンドレット領主館付近にて、レネヴェグによるマル=シレス刺傷。
・使用器具、境界鋲。
・マル=シレス、一時的に外法行使能力を著しく制限される。
・レネヴェグ、マル=シレスへの復讐を目的として行動。
・同行動、ディマビオによる後続襲撃の条件となる。
・レネヴェグ、境界鋲を回収。
・リル=グレス、押収せず。
・ディマビオ、ティンドレット市街に火災を発生させ、混乱に乗じてリル=グレス一党およびマル=シレスの掌握を試みる。
・ワヌレイ、戦闘中に重傷。
・マル=シレス、ワヌレイに対し外法と疑われる救命措置を実施。
・バルトロメア、同人に対し後続処置。
・ワヌレイ、意識不明。のち覚醒。
・リル=グレス一党側、死者なし。
・ディマビオ撃退後、ティンドレット施療院に重度熱傷患者多数搬入。
・リル=グレス、マル=シレスに対し、重篤熱傷患者への救命措置を命じる。
・アンドレイ、神殿認可なき治療術行使および外法審問リスクを指摘。
・バルトロメア、施術同意および術後観察の必要を指摘。
・テオ=ラグナ、当該措置を外法疑義と指摘。
・神官、女神信仰および神殿規律への侵犯として抗議。神殿への報告を宣言。
・マル=シレス、複数名に対し救命措置を実施。
・救命成功例あり。
・受療拒否例あり。
・拒否後死亡例あり。
・氏名未確認多数。
(三辻の街篇 完)