二百分の一の王国   作:mikouri

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#10 瑞々しい罪の形、あるいは戦災重篤負傷者に対する外法治療提案および当該被災者による受療拒否発生記録

 ティンドレットの北区画を舐めた炎は、夜半前には押し返された。焼けた屋根からまだ細い煙が上がっていたが、赤い舌は見えない。井戸から汲み上げられた水は、泥と灰と血を吸い込み、石畳の低いところに黒く溜まっていた。

 

 だが、火が消えた後にも、残るものがある。

 皮膚の上、喉の奥、閉じられない瞼の裏。

 施療院の扉が開くたび、焼けた肉と薬草と酢の匂いが外へ漏れた。

 

 リル=グレスは、その匂いの中に立っていた。

 

「次を入れてください!」

 

 修道女が叫んだ。

 兵士が戸板を担ぎ込む。上に乗せられていた男は、片腕を胸に抱え込むようにしていた。いや、抱え込んでいるのではない。腕の皮膚と胸の布が焼けて貼りつき、無理に動かせなくなっているのだ。

 別の寝台では、女が声にならない声を上げていた。喉を焼いたのだろう。口を開けるたびに、乾いた笛のような音がした。

 床には藁が敷かれ、その上にも負傷者が並べられている。寝台が足りない。包帯が足りない。水が足りない。泣いている者はいたが、泣くだけの力も残っていない者の方が多かった。

 リルはしばらく動けなかった。

 死者や傷痍者は見た。父グランに連れられた戦場、そして徴発街道、ティンドレット北門でも。血が流れ、剣が折れ、鎧が割れ、身体のどこかが欠けている。死ぬ者は死ぬ。助かる者は呻く。戦場の理屈は、少なくともひどく単純だった。

 ここは違った。

 彼らは生きながら焼かれ、死の重力に引き込まれていた。

 

「リル様。こちらへ」

 

 バルトロメアが振り返った。

 白い袖は、もう白くなかった。血と膿と煤で斑になっている。結い上げた髪の端にも灰がついていた。

 案内された奥の小部屋で、ワヌレイは寝台に寝かされていた。

 鎧は外され、傷口には厚く布が当てられていた。胸がかすかに上下している。それだけで、リルは一瞬息を忘れた。

 

「マル様の術で、どうにか血を止めました。ですが、かなり無理をしております。身体が、まだ死んだ方が楽だと思っている状態ですわ」

「言い方を選べ」

「選んでこれです」

 

 バルトロメアは、珍しく笑わなかった。

 

「意識は戻るか」

「わかりません」

 

 その言葉は、施療院の騒音の中でもはっきり聞こえた。

 リルは寝台のそばへ寄った。

 ワヌレイの顔は白い。血の気がない。額の汗だけが、燭台の光を受けてかすかに光っていた。

 リルは手を伸ばしかけ、途中で止めた。

 触れたら壊れそうに感じた。

 

「若」

 

 背後から声がした。アンドレイだった。

 僧衣に似た黒い衣を着ているが、袖は捲られ、腕には血がついている。いつものように穏やかな顔をしていた。だが、その目の下には疲労が濃い。

 

「手が空いているなら、外の水桶を運んでください。王位志向者様でも、水桶くらいは持てましょう」

 

 リルは振り返った。

 

「ワヌレイは」

「今すぐどうこうはありません。今すぐどうこうなる方は、外に山ほどおります」

 

 アンドレイの言葉は静かに、棘があった。

 リルは一度だけワヌレイを見てから、小部屋を出た。

 

 外の広間では、また新しい患者が運び込まれていた。

 子供だった。

 十にも満たない。顔の右半分が赤黒く腫れ、髪は一部が焼け落ちていた。母親らしい女が、戸板にすがりついている。

 

「お願いです、助けてください、助けて、神官様、お願いします」

 

 修道女がその子を診て、顔をこわばらせる。

 リルにも伝わった。助からない、という空気が。

 その瞬間、()()()()()()()

 マル=シレスを見た。

 ──ワヌレイを死の淵から救った道化を。

 

 道化は、施療院の入口近くに立っていた。

 

 白い手袋は片方だけ外している。外した方の手には、まだ血の跡があった。境界鋲を抜かれた後の疲労が残っているのか、いつもより顔色が悪い。

 

 それでも、道化は笑っていた。

 薄く。

 退屈そうに。あるいは退屈を装って。

 

「マル」

「はい、リル様」

「おまえなら」

 

 言いかけて、リルは言葉を切った。

 だが、マル=シレスは先を待たなかった。

 

「できます」

 

 リルは彼を見た。

 

「治せ」

「よろしいので?」

「何がだ」

 

 マル=シレスは、血のついた手を少し持ち上げた。

 

「私めが人を救うと、だいたい後で面倒になります」

「人が死ぬ時に、面倒の話をするな」

「死ぬ時だからこそでございます」

「治せ」

 

 リルの声が施療院の中で硬く響く。

 バルトロメアとアンドレイが、リルへと向いた。

 二人とも、同じ顔をしていた。

 主君の聡明な決断に感動した顔ではなく、その反対、愚行を諌めようとする顔を。

 

「若、お待ちください」

 

 アンドレイが言った。

 

「待てない」

「神殿の認可がありません」

「今ここに神殿はいる」

「神殿の建物と、神殿の認可は別です」

 

 アンドレイは、言い聞かせようとするようにゆっくり言った。

 それがかえってリルを苛立たせた。

 

「治療術の行使には、神殿の認可が要ります。認可なき術師が人の身体へ手を入れれば、最悪、外法審問です」

「偽治療師を防ぐためだろう。こいつは偽物ではない」

「もっと悪いです。本物の外法使いです」

 

 アンドレイは、マルを見た。

 マル=シレスはにこりと笑った。

 

「褒め言葉として受け取っておきましょう」

「黙っていてください」

「はい」

 

 バルトロメアが、戸板の上の子供を見た。

 

「わたくしもアンドレイ様に賛成ですわ。治療には手順があります。記録も、同意も、処置後の観察も必要です。神殿の認可制度は、腹立たしい利権でもありますが、同時に必要な壁です」

「死ぬぞ。その子が死ぬ」

「はい」

「なら、治せるなら治すべきだ」

 

 バルトロメアは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

 

「そのお考えは、好きですわ」

「なら」

「ですが、好きなことと、正しいことは別です」

 

 リルは奥歯を噛んだ。

 母親の泣き声が聞こえた。

 子供の呼吸が細くなっていく。

 細く。

 小さく。

 まるで世界の端から、少しずつ消されていくように。

 

「マル。治せ」

 

 アンドレイが目を瞑る。バルトロメアは、きつく唇を結んだ。

 マル=シレスは恭しく頭を下げた。

 

「御意に」

 

 道化は、戸板のそばへ膝をついた。

 母親が怯えたように身を引いた。

 

「ご安心を。安心できる要素は少々不足しておりますが、ひとまずお子様の命だけは拾いましょう」

「何を……何をするんですか」

「少々、火に早退していただきます」

 

 母親は理解できない顔をした。リルにも、正確にはわからない。

 マルは子供の額に指を置いた。

 次に、焼けただれた頬へ手をかざす。

 認可治療術であれば神秘的な光の糸が走るはずだが、それはない。奇跡めいた音もなく、ただ、空気が少し歪んだ。

 焼けた皮膚の赤黒さが、ゆっくりと薄くなる。膨れた水疱が沈み、裂けた皮膚が寄り合う。喉の奥で詰まっていた呼吸が、ひゅう、と音を立てて通った。

 細く、子供が泣き声を上げた。

 母親が戸板に覆いかぶさった。

 

「生きてる……生きてる、ああ、神様、ああ……」

「神様への謝辞は、少々お待ちを」

 マルが言った。

「今回、手続き上は私めです」

 アンドレイが低く言った。

 

 母親は、リルの方へ向き直った。

 涙で濡れた顔を床につける。

 

「ありがとうございます。ありがとうございます、リル様、ありがとうございます……」

 

 リルは、何も言えなかった。

 助かった。助けられた。

 それだけでよいはずだった。

 

「今のは、治療術……約定術(コントラクト)ではありません。外法……外法疑義です!」

 

 若い声がした。

 

 リルが振り返ると、施療院の柱のそばに、黒い術衣の青年が立っていた。袖口にはフォルク家の細い銀章が縫いつけられている。褪せた金色の髪に、四角い縁の眼鏡。顔は若い。だが目元だけが、妙に疲れていた。

 

「誰だ」

「テオ=ラグナ。フォルク卿付きの術師です。救命補助に出ています。……出ていました、と言うべきかもしれませんが」

「外法だとしたら、なんだ?」

「外法。一般約定術で説明できないもの。あるいは説明できても、再現も記録もできないもの。人体や名や死生の定義に触れている疑いがあるもの」

「……ああ」

 頷く。

「神殿はそれを、ひとまず外法疑義として止めます」

「ひとまずで止めるのか。そのひとまずの間に人が死ぬんだぞ」

「それを許したばかりに、人が人として治れなくなったこともある!」

「な……」

「認められていない方法で身体をいじるというのは、そういうことです」

 

 言葉を継げない。

 リル=グレスにはもうなんとなく、わかっている。

 この道化は、そんな()()()()()()()()()()()ということは。

 それが、他者に通じるかは別だ。

 

 次の患者は年老いた男だった。

 背中から腰にかけてひどく焼けている。意識はない。呼吸も弱い。

 

「治せ」

 

 リルは言い、マルは手を伸ばした。

 テオは止められなかった。

 二人目も助かった。

 完全にではない。傷は残る。熱も続く。だが、死の淵からは戻った。

 施療院の空気が変わった。

 

「表皮も、内部の焼灼も、進行が止まっている。いや、止めたのではなく……なかったことにはしていない。損傷の履歴は残っている。なのに、死へ向かう経路だけが折られている」

 テオは道化に治されたあとの熱傷患者の傷を診て、唖然としていた。

 

「わからない」

 呼吸が荒い。許されざるものを前にしていた。

「助かったのだから、いいのではないか」

 リルは言う。

「よくありません。()()()()()()()()()()()()()からです」

「……」

 

 三人目を治療したところで、若い神官が叫んだ。

 

「貴様は女神様を侮辱している!」

 

 その声は、施療院のざわめきを裂いた。

 

「人の生死は、女神様の御手にある。祈りも捧げず、認可も受けず、道化の指先で引き戻してよいものではない!」

 

 マル=シレスは、救ったばかりの子供から手を離し、ゆっくりと神官を見た。

 

「侮辱とは心外でございます」

「黙れ!」

「私めとしては、多少、顔見知りに失礼のない程度には振る舞っているつもりで」

「女神様を、貴様の知己のように語るな!」

「では、遠縁の方のように」

「黙れと言っている……!」

 

 道化の顔を覗き込んで、神官は、嫌悪よりも先に怯えた。

 その道化は、女神を信じない者の顔ではなかったが、信徒の顔もしていない。

 まるで、神像の高さを見上げず、同じ卓につく相手のように語っていた。

 神官は、リルを睨みつける。

 

「……後日の審問を楽しみにしておくことだな。助かった者がいる。泣いて礼を言った者もいる。だからこそ厄介なのだ、リル=グレス」

「……」

 

 施療院中の視線が、マル=シレスに集まりだす。

 泣き声の中に、ざわめきが混ざる。

 

「あの道化が」

「犬星だ」

「火傷が治った」

「神殿の奇跡か」

「違う、リル様の魔術師だ」

「魔術師ではなく、外法使いではないのか」

 

 声は、感謝から始まったが、感謝だけでは続かなかった。

 四人目の患者で、それは起きた。

 若い女だった。髪は焼け、肩から胸元にかけてひどい熱傷がある。意識はあった。苦痛で目の焦点が合っていない。

 マルが近づくと、彼女は喉を鳴らした。

 声にならない声。

 拒絶だった。

 そばにいた男が、彼女の手を握った。夫か、兄か。

 

「やめろ」

 

 その男の制止を、リルは聞き間違えたかと思った。

 

「何を」

「その化け物を近づけるな」

 

 施療院が静かになった。

 マルは手を止めた。

 女は泣いていた。恐怖で、目を見開いている。

 

「治せる。このままでは死ぬ」

 リルは言った。

 

「おまえたちに触られるくらいなら、死んだ方がましだ」

 

 男の声は震えていた。怒りと恐怖で。

 リルは、一歩踏み出した。

 

「何を言っている。死ぬんだぞ。助かるんだぞ」

「誰がそう頼んだ」

 

 リルは言葉を失った。

 この状況で? 助かるのに?

 

「おまえたちが来てからだ」

 

 男は続けた。

 

「兵が来た。火が出た。家が焼けた。妻がこうなった。今度はその犬耳の道化で、身体までいじるのか」

「火をつけたのは俺たちではない」

「同じだ!」

 

 男の叫びが、施療院の天井にぶつかった。

 

「おまえたちが来なければ、こんなことにはならなかった!」

 

 そうではない。リルはそう思った。

 ディマビオがいた。陰謀があった。火を放った者がいる。リルたちは街を守るために戦った。

 しかし、因果で言えば、そうとも言える。

 リルたちが来て、王家兵と争った。

 マルがいたから、ディマビオが動いて、街は燃えた。

 その女は焼けた。

 

「若、下がってください」

 アンドレイが、静かに言った。

 

「死ぬ」

「はい」

「このままだと死ぬ」

「はい」

「見殺しにしろと言うのか」

「いいえ」

「ならどうしろと」

 

 アンドレイは、女の方を見た。

 彼女はまだ泣いていた。

 マルを見る目は、おぞましい獣を見る目だった。

 

「見殺しにしたくないという若の苦しみと、触れられたくないというあの方の恐怖を、同じ場に置いてください」

「同じではない」

「ええ、同じではありません。ですから、踏み潰しやすい」

 

 リルは彼を睨んだ。

 アンドレイは視線を逸らさなかった。

 バルトロメアが、マルの前に立った。

 

「リル様」

「おまえもか。医者が、死なせるのか」

 

 バルトロメアの表情が、ほんの少しひきつる。

 

「治療する側に立つ者として申し上げます。身体は、持ち主のものです」

 

 彼女は、血で汚れた手を見せた。

 

「死ねば身体も何もない」

「それを決めるのも、持ち主です」

「死にたいわけではないだろう!」

「ええ。死にたくないでしょうね」

 

 バルトロメアの声は、苦かった。

 

「でも、だからといって何をされてもよいわけではありませんわ」

 

 リルは、女を見た。

 焼けた胸。

 震える手。

 こちらを見ている目。

 救われることを待つ目ではなく、救われることに怯える者の目だった。

 

「マル。俺が命じてもか」

 

 リルはかすれた声で言った。

 マル=シレスは、静かに答えた。

 

「命じられれば、できます」

 

 リルは息を止めた。

 

「ですが、それは治療ではなく──制圧になりましょう」

 

 誰も何も言わなかった。

 女の呼吸が、細く聞こえて、男が彼女の手を握りしめる。

 リルは、拳を握った。

 治せる。

 今ならまだ間に合う。

 命じればマルはやるだろう。

 拒まれても、押さえつけて、傷を塞がせることはできる。

 そうすれば生きられる。

 生きるのだ。

 生きてから恨めばいい。

 生きてから怒ればいい。

 生きてから、自分を呪えばいい。

 死なれるよりは、ずっといい。

 俺が責任を負う。

 そう思った。

 思ってしまった。

 

「……下がれ」

 

 マルは一礼して退いた。

 その後、女は長くはもたなかった。

 男は最後まで手を握って、泣きながら、何度も彼女の名を呼んでいた。

 救えたはずの命が、目の前で遠ざかっていく。

 リルは、その名を覚えようとした。

 だが、施療院には他にも声があった。

 叫び。水を求める声。祈り。足音。包帯を裂く音。

 誰かが吐く音。誰かが死ぬ音。

 なぜ自分たちが死ななければならないのか、知らない者たちの声。

 ただ生きようとしている者たちの声。

 生かそうとしている者たちの声。

 女の名は一度、二度、聞こえ、砂嵐のような声の群れに掻き消えた。

 リルは覚えたつもりだったが、すぐに自信がなくなった。

 手元には帳面がなかった。

 

 次は家族が拒んだ。

 

「神殿の治療を待ちます」

「待てば死ぬ」

「それでもです」

 

 次は本人が拒んだ。

 

「犬星は嫌だ」

「助かるんだぞ」

「嫌だ」

 

 何も知らない者が、噂だけで怯えた。

 

「あれに治されたら、魂が戻らないと聞いた」

「誰が言った」

「みんなが」

 

 ()()()。リルは、その言葉が嫌いだった。

 誰でもない者たち。

 責任を持たない空白な声。

 それが人を殺していく。

 

 いや。違う。殺しているのは声だけではない。

 火。戦。制度。外法への恐怖。

 そして、リルへの不信。

 

 リルは途中から何も言えなくなった。

 マルは命じられれば治した。

 拒まれれば、手を引いた。

 

 アンドレイは水を運び、祈りを聞き、死ぬ者の額に手を置いた。

 バルトロメアは包帯を巻き、膿を拭い、熱を測り、時折ひどく乱暴な言葉で患者を叱りつけた。

 

 夜が明けた。誰も、それを喜ばなかった。

 それからさらに日が傾き、ようやく施療院の混乱が少しだけ引いた。

 死んだ者は、布をかけられ、奥の間へ運ばれた。

 助かった者も、助かったというには程遠い顔で横たわっていた。

 リルは中庭に出た。

 灰が雪のように降っていた。冷たくはない。

 手の甲に落ち、黒く崩れた。

 

「リル様」

 

 声がした。

 振り返ると、最初の子供の母親が立っていた。

 顔は泣き腫らしている。服には煤がついている。腕には眠った子供を抱いていた。

 

「本当に」

 

 女は深く頭を下げた。

 

「本当に、ありがとうございました」

 

 リルは、答えられなかった。

 女はもう一度頭を下げ、子供を抱いて施療院の中へ戻っていった。

 助けた。

 あの子は助かったのは、確かだった。

 確かだったのに、リルの胸には空洞ができていて、助けられなかった者の顔が、そこから覗いていた。

 

(何故死ぬ?)

 

 日が沈む頃、リルはワヌレイのいる小部屋へ戻った。

 燭台の火が、静かに揺れている。

 ワヌレイはまだ眠っていた。

 眠っているというより、沈んでいるようだった。

 リルは寝台の脇に椅子を置き、座った。

 腕を伸ばせば触れられる距離。

 だが、触れなかった。

 施療院で拒まれた手が、自分のものではない、おぞましいもののように思えた。

 

(何故生きた?)

 

 どれほど時間が経ったのか、わからない。

 扉が開いた。

 入ってきたのは、レネヴェグだった。

 

 煤と血に汚れた外套を着ている。ディマビオを討ったあのときよりも、さらに汚れている。顔には疲労があった。復讐者として現れた時の、研ぎ澄まされた気配は薄れている。

 その手に、小さな箱があった。

 リルは立ち上がった。

 

「それは」

「境界鋲だ。あの道化から抜いた、な」

「何をしに来た」

「今日、私は人を運んだ。火の中から、子供も、老人も、兵も運んだ」

 

 彼は、扉の外を見た。

 

「私の復讐が、ディマビオの陰謀に使われた。私があの道化を弱らせたせいで、死んだ者がいる」

「おまえだけのせいではない」

「慰めはいらない」

 

レネヴェグは即座に言った。

 

「そのうえで、私は見た。あの道化が、人を救っているところを。吐き気がした」

 

 リルは黙っていた。レネヴェグの声は、低かった。

 

「殺したい相手が、私のせいで死にかけた者を救っている。これほど不愉快なものはない」

 

 本当に腹立たしいのだろう、とも思う。

 そして同時に、それを自分に告げているということは、決めかねているのだろう、というのもわかった。

 

 レネヴェグは、ワヌレイを見た。

 意識のない女兵士。

 命を拾った者。

 

「だが、リル=グレス」

 

 レネヴェグは箱を握った。

 

「私の娘は戻らない」

「……わかっている」

「わかるな」

「ああ」

「だから、これは持っていく」

 

 箱を見る。古びたそれの中には、道化に刺さり、そして抜かれた境界鋲が収められている。

 マル=シレスを無力化できる手段の一つ。

 

「それは、持たせておくわけにはいかない」

「なら奪え」

 

 レネヴェグは箱を差し出すようにして見せた。

 手の届く距離に。

 

「王になる男なら、私一人から復讐の道具を取り上げるくらい、容易いだろう」

 

 リルは動かないのを見て、レネヴェグは、箱を外套の内側へ戻した。

 

「結論が出たら、殺しに行く」

「許す結論はないのか」

「あるかもしれない」

 

 レネヴェグは言った。

 

「だから、まだ殺していない。

 だが、許さないという結論が出たら──次は、迷わない」

 

 レネヴェグは扉へと向かう。

 リルはそれを見送って、椅子に戻った。

 ワヌレイの顔を見た。

 

「起きろ」

 小さく言った。

 

「命令だ」

 返事はない。

 

「ワヌレイ」

 声が揺れた。

 

「起きろ」

 

 また沈黙。

 リルは手を伸ばし、今度は止めなかった。

 ワヌレイの指先に触れる。

 温度がある。

 それだけで、胸が苦しくなった。

 

「リルさま……?」

 

 かすれた声がした。

 リルは息を呑んだ。

 ワヌレイの瞼が、わずかに開いていた。

 焦点の合わない目が、天井を見て、それからリルを探すように動いた。

 

「ここは」

「施療院だ」

「……ディマビオは」

「退けた」

「マル様は」

「生きている」

「そう、ですか」

 

 ワヌレイは、また目を閉じかけた。

 リルはその前に、身を乗り出した。

 気づけば、彼女を抱きしめていた。

 強くはできなかった。

 傷に障る。

 だから、ほとんどすがるように、肩口へ顔を埋めた。

 ワヌレイの首元に、薬草と血と汗の匂いがした。

 生きている匂いだった。

 ワヌレイは困惑したように、動けない手を少しだけ上げた。

 

「リル様?」

 

 リルは答えなかった。

 

 ワヌレイには、言いたいことがいろいろあった。

 薄れていく意識の中、リルが言っていたこと。

 あのあと、何があったのか。

 自分は、足手まといじゃなかったか。

 すごくお腹が空いている、とか。

 言えば、何かが崩れそうだった。

 

 ワヌレイはしばらく迷い、それから、力の入らないままに、手をリルの背へ置いた。

 

「……ご無事で、何よりです」

 

 逆だ。

 リルはそう言いたかった。

 言えなかった。

 ただ顔を埋めたまま目を閉じた。

 

 施療院の外では、まだ誰かが泣いて、祈り、死者の名を呼んでいた。

 そのすべての声から逃げるように、リルはワヌレイの体温を確かめていた。

 生きている。

 彼女は、生きている。

 その事実だけが、その夜のリルをかろうじて支えていた。

 そして同時に、その事実だけが、彼の胸の奥へ瑞々しい罪の形を刻んでいた。

 

 窓の外に、焼けた家と身体でできた灰が、しんしんと降り積もっていた。

 

 

 

 

 

・ティンドレット領主館付近にて、レネヴェグによるマル=シレス刺傷。

・使用器具、境界鋲。

・マル=シレス、一時的に外法行使能力を著しく制限される。

・レネヴェグ、マル=シレスへの復讐を目的として行動。

・同行動、ディマビオによる後続襲撃の条件となる。

・レネヴェグ、境界鋲を回収。

・リル=グレス、押収せず。

 

・ディマビオ、ティンドレット市街に火災を発生させ、混乱に乗じてリル=グレス一党およびマル=シレスの掌握を試みる。

・ワヌレイ、戦闘中に重傷。

・マル=シレス、ワヌレイに対し外法と疑われる救命措置を実施。

・バルトロメア、同人に対し後続処置。

・ワヌレイ、意識不明。のち覚醒。

 

・リル=グレス一党側、死者なし。

 

・ディマビオ撃退後、ティンドレット施療院に重度熱傷患者多数搬入。

・リル=グレス、マル=シレスに対し、重篤熱傷患者への救命措置を命じる。

・アンドレイ、神殿認可なき治療術行使および外法審問リスクを指摘。

・バルトロメア、施術同意および術後観察の必要を指摘。

・テオ=ラグナ、当該措置を外法疑義と指摘。

・神官、女神信仰および神殿規律への侵犯として抗議。神殿への報告を宣言。

・マル=シレス、複数名に対し救命措置を実施。

・救命成功例あり。

・受療拒否例あり。

・拒否後死亡例あり。

 

・氏名未確認多数。

 

 

 

(三辻の街篇 完)

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