二百分の一の王国   作:mikouri

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#12 竜殺し、あるいは民害発生個体たる悪竜の討伐および王権威信獲得過程に関する記録(下)

 採石場から少し下った斜面。

 焼けた木々の間に、古い石積みの水場があった。山から染み出した水を受けるための小さな溜めで、かつては石切り人たちが使っていたのだろう。今は半ば灰に埋もれている。

 

 マル=シレスは、採石場の方を見ていた。手は後ろに組んでいる。犬耳が風に揺れている。これから巨大な舞台装置を動かす演出家を気取るかのようだった。

 

 テオはそこから少し離れた場所で、術式を組み直していた。焦げ残った札を捨て、新しい札へ細かな文字を書きつける。ふと、マル=シレスを見た。正確にはその頭頂部に生えるものを。

 

 ヴォルグは単なる獣ではない。

 恐れられ、供物を捧げられ、竜として扱われ続けたもの。

 

「……皆さんは、あの耳について疑問はなかったんですか」

 

 ならば、あの道化は何なのか。

 

「耳?」

 近くにいたトルカが顔を上げる。

 

「今かよ」

「今だからです」

「……ああ、そういや、耳だな。犬みたいな」

 トルカは、ひどく今さらのような顔をした。

「“獣人”はおとぎ話の中にしか存在しません」

「他に気にすることが多かったんだよ」

「魔物になるのは、獣だけではありません。()()()です」

 テオは嘆息する。

 

「獣の耳、角、尾、鱗、異常な爪──そうした徴候は、多くの場合、魔人(アノマ)半魔(ヘミア)、あるいは魔物化の前兆として扱われます」

 

「つまり、マルは魔物になりかけだと?」

 そのやりとりを聞きつけた、リルが近づく。

「可能性です。魔人(アノマ)とは、完全な魔物ではなく、人間としての要素を残している。しかし通常の人間としても扱いきれない」

 

「私めが通常の人間ではないとは、たいへん失敬でございますね」

 ここでようやく、マル=シレスがテオを向いた。

「あなたは通常の人間ではありません」

 テオの即答に、周囲の誰もが心のなかで同意した。

 

「犬耳がある。人型を保っている。異常な術反応がある。自分を道具、犬、道化のように扱う。使役、侮辱、愛玩の記号をまとっている」

 

 テオの声は、少しずつ硬質さを帯びた。自分が失礼なことを言おうとしている自覚があったが、術師としての好奇心が、その自覚を押しのけた。

 

「あなたは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なのではありませんか」

 

 誰もが、その言葉の意味するところを考え、沈黙せざるをえなかった。

 

「犬として扱われ続けた人間。実に趣味のよい推論でございますね、テオ様」

 

 マル=シレスすら、瞬きし、しばらく黙っていたが、やがて、否定も肯定もせず、嬉しそうにその言葉を舌の上で転がした。にこにこと笑っている。犬耳が、焚き火の光を受けて片方だけ赤く見えた。

 

「それで。その推論は、当たっているのか?」

 リルが静かに問うた。

「さて、私めは空洞(からっぽ)の道化でございますので」

 マルは首を傾げる。

 

「けれど似てはおりますね。犬として扱われ続けた人間。竜として恐れられ続けた獣。王として見られたいリル様」

「一緒にするな」

「さすがは陛下未満の陛下。何が異なるか知っておいでで」

「……」

 

 胡乱な道化服、清潔な白い手袋。鈴。笑顔。

 それらがマル=シレスを作り上げたのか?

 あるいは、マル=シレスから出たものなのか。

 では、自分は。

 

 トルカがリルの横に来た。

 

「若。本当に、十倍になる気ですか」

「ああ」

「俺には、十倍の人間がどう動くのかなんざわかりません」

 

 トルカは斜面の下を見た。

 

「だが、でかくなった分だけ、しくじった時の被害もでかくなるでしょうな。兵を増やすのと同じと考えるなら」

 

 リルは黙って聞いていた。

 

「若が踏み込む。足場が崩れる。避けたつもりの一歩で、後ろにいる俺たちを潰す。竜を押し倒したつもりで、村の方へ転がす。そういうことが、起きるんじゃねえですか。ご自分が竜よりでかい厄介になることを忘れないでください」

 

 竜より大きい厄介。リルはその言葉を心のなかで反芻した。

 

 ジャドは、供物場へ続く道の方を見ていた。村からはまだ誰も上がってこない。来られるはずもない。

 

「巨大化とは、理にかなった戦い方でありますな」

 ジャドはリルの視線に、静かに頭を下げた。

 

「若が名を取りに来た以上、誰が何を見るかも戦の一部である。ならば、村から見える場所で勝つ必要がある。ゆえに、巨大化」

「目立つ戦い方には違いないな」

 

 採石場の奥で竜を殺し、誰も見ていなかったでは足りない。

 リル=グレスが、ヴォルグを討ったと語れる形で勝たねばならない。

 

「まあ、道化殿のことだから、巨大なリル殿という珍妙なものを拝みたいだけやもしれんがな。わっはっは」

「……」

 

 サイモンが、採石場への道を戻ってきた。

 

「どうだった」

「射線は二つ。入口左の岩棚。そこから目と翼が狙える。ただし火が来れば逃げ場がない。もう一つは搬出路の下。竜の脚は狙えるが、リルが大きくなれば巻き込まれる」

「どちらにする」

「最初は岩棚。リルが大きくなったら下がる。合図は矢にて」

 

 サイモンは、矢羽に赤い布を結んだ矢を見せた。

 

「足元に刺せば、そこを踏むな。竜の首に刺せば、そこを狙え。空へ撃てば、火が来る」

 

 マル=シレスが、小さく手を叩く。

 

「では、手順を申し上げましょう」

 

 全員が彼を見た。

 

「まず、リル様には採石場の中央へお進みいただきます。竜の注意を十分に引く。術師様には炎を逸らしていただく。射手様には翼と眼を。トルカ様とジャド様は、リル様が大きくなられるまで、周囲の退路と小石の皆さまを気になさってください」

 

「小石」

 トルカが顔をしかめる。

「踏まれる側の皆さま、という意味で」

「言い方を選べ」

 

「リル様が踏み込む瞬間に、私めが尺度をずらします」

 マルはリルへ向き直る。

 

「身体を大きくするのではなく、尺度をずらすと? 身体そのものを膨張させるのではない?」

 テオが眼鏡を指で押し上げた。

 

「おおむね」

「おおむねで済む話では……」

「では、少し真面目に」

 

 マルは白い手袋を広げる。

 

「リル様の身体をそのまま十倍に膨らませれば、骨は砕け、血は足りず、心臓は泣き、肺は職務放棄し、服は破れ、足元の石は悲鳴を上げましょう」

 

 それはしません、と道化は言う。

 

「竜と同じ舞台へ上げるのです。世界に対して、しばしリル様を大きなものとして扱わせます。身体を変えるのではない。リル様を取り巻く尺度、重さ、間合い、衣装、剣、足場、それらの方に合わせていただく」

「そんなものは、約定術では――」

「ありません。だから私めがやるのです」

 

 マルは微笑んだ。テオは、言葉を失った。

 リルはマルを見た。

 

「代償はないのか」

「リル様が、ご自身を大きなものとして見做しきれなかった時、内側に齟齬が出ます」

「齟齬?」

「世界はリル様を巨人として扱う。ですが、骨や血や心臓が人間のつもりでいる。そうなると、少々軋みます」

「少々で済むのか」

「済めばよろしいですね」

 

 マルは手を広げてみせた。

 

「大きくなるというのは、ただ強くなることではございません。大きなものとして扱われるということです。見られ、恐れられ、期待され、その形に押し込められる。その結果、心を壊すこともあるでしょう」

 

 リルは黙った。

 

 魔物。約定。悪竜ヴォルグ。巨大化したリル=グレス。王の名声。

 その線が、どこかで重なる気がした。

 

「炎を二度、逸らします」

 テオが札を握りしめる。

 

「一度目で翼を落とす。二度目で眼を潰す。三度目の火が来る前に、リルが入る」

 サイモンが頷く。

 

「足元は拙者が見よう。リル殿が踏みそうな場所に、人がいれば叫ぶ。石が崩れそうなら、合図する。声の大きさには、少々覚えがあるゆえ」

 ジャドが胸を張った。

 

 *

 

 リル一党が村へ戻ったのは、日が傾く少し前だった。

 その夜、村では誰も眠らなかった。

 

 空の石台が、谷の奥で暗く濡れている。

 布が風に揺れる。

 焦げた祠の影が、月明かりの中で細く伸びる。

 

 村人たちは家の中に隠れた。

 だが、戸の隙間から、窓の隅から、皆が山を見ていた。

 

 山の上で、ヴォルグの低い唸り声だけが響いた。

 

「村人に説明し、供物を途切れさせたことで、ヴォルグの来歴(ヒストリア)に傷が入っています。ただし、弱体化と言うには早い。むしろ、こちらを探しています」

「探している?」

「誰が供物を止めたか。どこを焼けば戻るか」

 

 日が昇る。空は薄く曇っていた。

 

 山へ向かう前、リルは村の入口で振り返った。

 村人たちは家の中から見ている。誰も声を上げない。祈る者すら少ない。老人ロージが、供物場の前に立っていた。

 手には山鍬。震えている。

 

 採石場へ向かう道は、前日より熱かった。

 まだ火はないが、地面の奥に熱が残っている。

 竜が怒り、山がそれを覚えている。

 

 採石場に入ると、ヴォルグは起きていた。

 岩壁の上に爪を立て、首を低くしている。

 翼は半ば広がり、左眼の下にはサイモンの矢傷が黒く残っていた。完全には塞がっていない。だが、それは傷というより、汚れのように見えた。

 

 ヴォルグが、リルを見た。

 リルだけではない。

 リルの背後にある村、供物を止めた谷を。

 

「来ます」

 テオは札を広げ、採石場の入口に立つ。

 リルは剣を抜き、サイモンが岩棚へ走り、ジャドとトルカが左右へ散る。

 マル=シレスは、リルの背後に立った。

 

「リル様。大きくなられましたら、足元にご注意を。踏み潰される側は、たいへん小さく見えますので」

「今それを言うか」

 リルは振り返らなかった。

「今だから申し上げるのです」

 

 ヴォルグの喉が赤く膨らんだ。テオが札を放つ。

 

「一度目!」

 

 炎が来た。前日より速い。

 空気が赤く押され、岩壁の影が燃える。採石場全体が、焼かれる場所へ変わる。

 テオが両手を広げた。札が一斉に裂ける。炎が、横へ折れる。

 完全ではない。熱はリルの頬を焼き、髪の端を焦がした。だが、道は開いた。

 

「今です!」

 

 リルは走った。

 ヴォルグが広げた翼に、サイモンの矢が飛んだ。

 昨日と同じ翼膜に、今度は二本続けて入り、火を吐く姿勢がずれる。

 振り下ろされる爪。地面が抉られ、石が砕け、砂利が跳ね、足元が崩れた。

 リルは、それをかいくぐって竜の前脚へ剣を入れた。浅い。

 赤い布を結んだ矢が、リルの前に刺さった。

 ヴォルグの二度目の炎が来る。

 

「二度目!」

 

 テオが叫んだ。

 札が燃え、袖にも火が移る。彼は払わず、術式を優先した。炎が横へ曲がる。今度は、右の岩壁にぶつかった。岩が白く弾ける。

 

「もう、次は無理です!」

 

 テオが叫ぶ。

 リルは剣を構えた。このままでは届かない。

 届くための形へ、変わらなければならない。

 

「マル!」

 

 ちりん。

 

 雨の日の古砦、石橋、ティンドレット北門で聞いたような、場違いな鈴の音。

 それが、採石場全体に響いた。

 マル=シレスが、リルの背後で両手を広げていた。

 

「では皆さま、少々ご無礼を」

 

 白い手袋の指先が、空中で何かをつまむように動いた。

 世界が、ずれるのを感じた。

 最初に変わったのは、音だった。ヴォルグの唸りが低くなり、テオの息遣いが遠くなり、サイモンの弓弦の音が、細い糸のように引き伸ばされる。

 次に、地面が近くなった。いや、遠くなった。

 リルは一瞬、自分が倒れたのかと思った。

 違う。立っているのに、採石場の石が小さく、岩壁が、低い。

 ヴォルグの頭が、目の高さに来る。

 身体が熱い。

 心臓が、一度、大きく打つ。

 その一拍で、胸の内側が裂けるかと思った。

 手の中で伸びる剣。肩に残る外套。足を包んでいる靴。

 衣服も、剣も、リル=グレスという形に合わせて拡張されている。

 

「馬鹿げてる……!」

 テオが、どこか下の方で叫んだ。

 

 息を吸っただけで、採石場の灰が舞う。

 足元に、トルカがいて叫んでいた。ずっと下に小さく見えた。

 

「若! 足元!」

 

 リルは足を止めた。

 自分の爪先が、さっきまでトルカが立っていた石のすぐそばにある。

 十倍。馬鹿げた大きさだ。

 だが、ヴォルグもまた、目の前に──届く距離に、いる。

 リルを見上げる竜の眼に、初めて別の色──恐怖が混じった。

 

 遠く、村の方から、小さな叫び声が上がった気がした。

 見られている。村人に。

 そして、マル=シレスがどこかで笑っている。

 

「来い、ヴォルグ。俺を見ろ」

 

 リルの声は、採石場の岩壁を震わせた。

 悪竜が、炎を吐くために喉を膨らませた。

 

 リルは、自分の呼吸を聞いていた。

 大きくなった身体の中で、心臓が鳴っている。

 一拍ごとに、胸の奥から肩、肘、指先、膝、足裏へ、遅れて力が届くような感覚があった。

 身体は動く。剣を握るその動作だけで、風が動いた。

 足を半歩ずらすだけで、石が砕けた。

 

 リルは、トルカの言葉を思い出す。

 

 ──俺には、十倍の人間がどう動くのかなんざわからねえ。

 ──でかくなった分だけ、しくじった時の被害もでかくなる。

 

 わかったつもりでいた。

 だが今、足元にいるトルカたちは、人ではなく、動く印のように見えた。

 そうではない。人だ。トルカも、ジャドも、テオも、サイモンも、潰れれば死ぬ。

 村も同じだ。家も、井戸も、供物場も、戸の隙間からこちらを見ている者たちも。

 竜だけを見れば、こちらが災害になる。

 

「若!」

 

 下から声がした。

 トルカだ。

 

「右足を引け! そこは崩れる!」

 

 リルは反射で右足を動かしかけ、止めた。

 右足の踵の先に、亀裂がある。採石場の床は一枚岩ではない。切り出し跡と搬出路の境で、薄い板のようになっている。

 リルがそこへ体重を乗せれば、割れ、岩片は下へ落ち、下にいるテオへ当たる。

 リルは左膝を沈め、重心を変える。脚の筋肉が悲鳴を上げる。

 身体が大きいことは、ただ強いだけでなく、間違えたときの余波が大きいことをも意味する。

 

「左へ流します!」

 

 さらなるヴォルグの来歴炎(ブレス)に、テオが叫ぶ。

 札はもう多くない。

 テオは両手を広げ、焼け焦げた袖を気にも留めず、最後に近い束を空中へ放った。札が弧を描き、採石場の岩壁に貼りつく。次の瞬間、札の文字が赤く浮かび、裂けた。

 炎は、今までで最も太かった。

 リルの視界が白くなる。火というより、山そのものが赤い舌を伸ばしてきたようだった。

 テオの術が、炎の道を歪ませるが、完全には逸らせず、熱がリルの左腕を焼く。皮膚が弾ける。袖が燃える。大きくなった腕の上で火が走り、その火の一つ一つが、普通の人間なら松明ほどの大きさに見えた。

 

「今!」

 

 サイモンの声。

 矢が飛ぶ──赤い布の矢ではない。黒い細矢。

 ヴォルグの右眼へ向かって一直線に走り、まぶたの縁に刺さる。

 吼える竜にリルが一歩踏み込めば、採石場が揺れる。

 遠く、村の方で上がる悲鳴に、一瞬、足が止まる。

 止めてはならない。踏みこみすぎてもいけない。潰さずに進む。

 十倍のリルの胸へ届く高さで、土地に根を張った怪物の黒い爪が横に薙がれるのを、剣で受けた。金属が悲鳴を上げる、折れるかと思うような一撃。剣もまた、リルに合わせて大きくなっている。いま、この巨大な身体の手に握られることを、マルの外法によって強引に認めさせられている。だが、耐えられるとは限らない。

 

「サイモン! 喉だ!」

 

 答えの代わりに、矢がヴォルグの喉の下に刺さる。

 リルは剣を引いた。ヴォルグの爪を滑らせ、その勢いを利用して半身を開く。足元の岩が割れる。視界の端で、ジャドが何かを叫んだ。

 

「リル殿! 左、村側へ押すな!」

 

 押せば、竜の巨体は採石場の外へ流れ、その先には村がある。

 リルは歯を食いしばり、押す方向を右──山側へ変えた。

 剣を払う。喉を切り裂き、炎を止めようとする。

 鱗が裂け、血が噴き出す。

 だが、裂いた端から傷の意味が竜に呑まれていく。

 この山で傷つけられるものではない、という来歴(ヒストリア)が、刃の通った事実を浅くしてしまう。

 

 大きく振り回せば首を刎ねられるかもしれない。

 だが、踏み込みや斬撃の軌道が、周囲を巻き込む。竜だけを斬るには大きすぎる。

 

 ふと、採石場の入口付近で、鈴が鳴っているのに気づく。

 そこにマル=シレスが立っていた。

 いつも通りの姿のはずだが、十倍になったリルから見れば、小さい。

 

 その姿にふいに悟る。

 自分は今、マルの術の上に立ち、大きいものとして扱われている。

 マルが倒れれば、テオが炎を逸らせなければ、サイモンの矢を見落とせば終わる。

 トルカとジャドの声を聞けなければ、味方を潰す。

 これは、自分一人の巨大な力でも、武勇でもない。

 それでも、村人たちはリルを見る。巨大なものとして。

 

「喉です!」

 

 テオが叫んだ。

 

「鱗を裂いても傷が浅くされる! 炎の通り道を壊してください!」

 

 気づく。

 剣では通り道を壊せないが、拳なら潰せる。

 考えるのは、帳面に書くのはあとにすればいい。いまは、殺す。

 リルは剣を捨てた。落ちた剣が岩に突き刺さり、地響きを起こす。

 足元でざわめきが起こった。

 

 巨大化した右拳を握ると、骨が軋み、指の関節が鳴る。

 リルは、ヴォルグの下顎へ拳を叩き込んだ。

 山ごと鳴らすような音が響いた。

 ヴォルグの頭が跳ね上がる。牙が砕け、黒い血が飛び、火の息が空へ逸れる。炎は雲を裂き、赤い光が山腹を照らした。

 村から上がる叫びには、今度は恐怖だけではないものが混じっていた。

 ヴォルグは倒れなかったが、初めてよろめいた。

 竜が立てた爪で、採石場の床が抉れる。翼が暴れる。

 

「効いている!」

 驚きと、怒りと、屈辱が混じったテオの叫び。

 

 さらに追撃に入ろうとして、足元に赤布の矢。

 足を止めたその瞬間、ヴォルグの尾が横から来たのを、左腕で受ける。

 骨が軋み、折れた。大きな身体の中で、左腕のどこかが嫌な音を立てた。痛みが遅れて来る。十倍になっても、痛みは薄まらなかった。むしろ、痛む場所が広すぎる。

 

「崩れる! 膝をつくな!」

 

 採掘場を崩さないよう、リルは折れかけた膝を止めた。太腿が裂けるように痛む。

 ヴォルグが、三度目の炎を吐こうとしている。

 テオがその射程内にいる。だが、空になった手を前に突き出し、動こうとしない。

 袖は焼け、頬は煤け、髪の端が焦げ、恐怖に震えている。

 

「下がれ! 下がれ、テオ!」

 

「……下がれません!」

 

 リルはそこで気づいた。

 踏み込みと、ヴォルグの尾が叩きつけた衝撃で、搬出路の縁が割れていた。退路だった場所が、灰色の段差になっていた。

 札はもうない。

 だが焼け残った糸と、割れた石と、まだ熱を持つ岩壁がある。

 テオはそれを使う。

 

「ここでやります」

 

 術未満の術が、熱の流れを少しだけ逸らす。炎を少しだけ遅らせる。

 炎がテオのすぐ上を舐める。石の上を転がる。

 だが、砕けた顎では、吐き出されるはずの来歴炎が形を保てない。

 一拍の隙が生じる。

 

「リル=グレス! 今、ヴォルグの炎は喉に戻っています! 吐けない! 内側で焼けています! 押し切れば、火は逃げ場を失う!」

「……!」

 

 その隙を見逃さず、踏み込む。

 赤布の矢と、トルカとジャドの叫びが頭にある。

 踏める場所は、ひとつ。石が割れる。沈まない。

 

 人々が恐れ、王家が放置したもの。

 村が供物を捧げ続け、山に竜であることを認めさせたもの。

 それを、ここで殺す。

 

 リルは、ヴォルグの首へ体ごとぶつかり、肩で押す。

 竜の鱗が肉を裂いた。

 焼けた左腕が、熱に触れて再び痛む。視界が白くなる。

 

「若、山側へ!」

 

 トルカの声が聞こえ、リルは押す方向を変えた。

 村ではなく、山へ。

 谷ではなく、採石場の奥へ。

 

 ヴォルグが爪を立てる。岩壁に爪痕が走る。竜はなおも踏みとどまろうとする。長くこの山で恐れられたものが、山そのものに縋りついているようだった。

 サイモンの最後の矢が飛んだ。

 それはヴォルグの眼ではなく、前脚の腱へ刺さり、竜の爪を滑らせる。

 

 リルは、残った力を肩に集めた。

 押し潰すのではなく、動かす。

 竜を、村、そして供物場から遠ざける。

 人を喰ってきた場所から、引き剥がす。

 

 ヴォルグの巨体が岩壁へ叩きつけられ、崩れかけた採石場の奥、切り出し跡の段差に竜の身体が乗り上げる。岩が割れ、黒い血が流れ、火の粉が落ちた。

 

 リルは右手──ただ、巨大な手を開き、ヴォルグの首を押さえ込む。

 ヴォルグが口を開ける。そこから声が漏れたように聞こえた。

 意味はわからない。

 

 裂くもの。

 谷を割るもの。

 腹をえぐるもの。

 

 そう呼ばれ続けたものが、今は喉を潰され、顎を砕かれ、名に身体が追いつかなくなっている。

 

「ヴォルグ」

 

 竜の濁った眼が、リルを見た。

 

「終わりだ」

 

 リルは、右手に力を込めた。

 

 鱗が割れ、骨が軋む。

 竜の喉を潰し、火を、竜の内側へ閉じ込める。

 それはマルが言った、自分を食わせて内側から壊す作戦の逆だった。

 竜を焼くのは、竜自身の炎。

 押し込まれる掌に、ヴォルグが暴れる。

 尾が跳ね、岩を砕く。爪が地面を抉り、翼が折れたまま震える。

 竜の喉元に積もった熱が、手のひらを焼く。

 

 マルの術が軋んでいる、いや術を軋ませているのは自分だった。

 負傷が、巨人であるという感覚に(ひび)を入れる。リル自身が、自分を巨人と見做しきれなくなる。血管が細すぎる。骨が人間の記憶を捨てきれていない。心臓が十倍の身体を王として支えることを拒んでいる。重力がのしかかる。約定的齟齬(コントラディクト)が、身体の内側へ返ってきている。人間としての来歴に引き戻される。

 

 しかし、今は、まだ、人間に戻るべき時間ではない。

 左腕は使えず、右手は焼け、胸は痛み、視界は赤い。

 それでも手を離さない。

 

 採石場が白く発光する。

 音は遅れて来た。

 竜の身体の内側で、炎が弾けた。

 口からも、鼻からも、裂けた鱗の隙間からも、赤い光が漏れる。ヴォルグの胸が膨れ、次の瞬間、黒い血と火の粉が噴き出した。

 竜の眼から、濁った黄色が消え、巨体が痙攣する。

 一度。

 二度。

 それきり、動かなくなった。

 リルが手を離した瞬間、身体が傾いだ。

 

「膝をつくな!」

 トルカの声。

 

 わかっている。だが、足がもう保たない。

 リルは、倒れる方向を選び、身体を捻った。

 その動きだけで、右脇の筋肉が裂けるように痛む。

 村でも、仲間のいる入口でもなく、崩れた採石場の奥、ヴォルグの死骸の隣に身体を傾けた。

 

 マルの鈴が鳴り、世界が、戻り始める。

 採石場が遠くなり、岩が大きくなり、ヴォルグの死骸が、再び山のように見える。

 リルの膝──普通の膝が地面についた。

 

 普通の身体、重さ、痛み。

 痛みだけは普通ではなかった。

 左腕が焼けて、右拳が潰れて、肩と脇腹が悲鳴を上げ、喉に血の味が満ちる。

 

 リルは片膝をついたまま、吐いた。

 血だった。

 誰かが駆け寄る。

 トルカが肩を掴む。

 

「若!」

「生きている」

「見りゃわかります。黙っててください」

 

 トルカのその怒りが、リルを妙に安心させた。

 テオが駆け寄り、傷ついた腕を見る。

 

「動かさないでください」

「ヴォルグは」

「死にました」

 

 テオのその声は少し震えていた。

 

「死にました。あなたが、殺した」

 

 リルは顔を上げた。

 採石場の奥に、悪竜ヴォルグが横たわっている。

 黒い鱗は割れ、胸から煙が上がり、喉元は潰れていた。火はもうない。ただ、熱だけが残っている。

 竜は、もう竜として息をしていなかった。

 

「村から見えた。大きくなったところと、竜を殴ったところが」

 サイモンが岩棚から降りてきた。

「村が騒いでおりますな」

 ジャドが採石場の入口に立ち、谷の方を見た。

 

「恐れているか」

「うむ、それに、喜んでいる」

 

 ジャドが告げるその二つは、これから同じ顔をして自分を見るのだろう。

 救い主として、竜殺しとして。巨大な怪物として。

 

 マル=シレスが、少し遅れて近づいてきた。

 いつも通りの犬耳と道化衣装。

 あれほどの術を使った後だというのに、息ひとつ乱していない。リルをああも巨大にしておいて、それを間近で見上げておいて、予定通りに舞台装置を動かしただけ、そんな顔だった。

 

 テオは表情を歪めていた。

 

「……あなたは」

「はい?」

「何を、したんですか」

「リル様を、大きく扱っていただきました」

「そんな言葉で済ませるな!」

 

 テオの声が採石場に響いた。マルは微笑んだ。

 

「では、難しく申し上げましょうか」

「必要ありません。あなたの説明は、説明ではない」

「おや。少し学ばれましたね」

 

「戻れたのか、俺は」

 リルは、マルを見た。

 

「はい、だいたい」

「だいたいで戻すな」

「少々焼けたり折れたり裂けたり内側に負担があったりは」

「それは俺が負った傷だ」

 

 リルは立とうとしたが、足に力が入らない。

 トルカが支える。

 

「無理しなさんな」

「村へ行く」

「その傷で、ですか」

「竜を殺した男が、竜の死骸の横で寝ているわけにはいかない」

「そういう見栄は……」

「今張る必要のある見栄だ」

 

 トルカは、何か言い返そうとして、やめた。

 

「本当に、面倒な若です」

「ああ」

 

 リルは、生ぬるい唾を呑み込む。血の味が喉をくぐり抜けた。

 

「知っている」

 

 *

 

 採石場から谷まではそれほど遠くない。

 だが、リルには、村へ戻る道は長いものだった。

 左腕は布で吊られ、右手は包まれている。歩くたび、胸の奥が痛んだ。テオやトルカは何度も止まれと言った。ジャドは何も言わず、リルの歩幅に合わせた。サイモンはただ付き従った。

 マルは後ろを歩いていた。軽やかに、鈴を鳴らして。

 サイモンは一度だけ振り返り、もはや動かないヴォルグの死骸を確認した。

 

 村の入口には、人が集まっていた。

 

 最初にいたのは、老人ロージだった。

 山鍬を杖のように持っていた。

 その背後に、村人たちがいる。

 泣いている者。震えている者。口を開けたまま声の出ない者。

 子供を抱きしめている女。膝をついている男。

 

 リルは、彼らを前にして、自分がどんな姿に見えているのかを考えた。

 煤けた顔。焼けた腕。血のついた服。

 折れた手を布で巻き、背後に道化を従え、山から降りてくる若い男。

 少し前には、竜と並ぶほど大きかった男。

 

「ヴォルグは死んだ」

 リルのその声は、自分が思ったより小さかったが、村に届いた。

 

 誰かが泣き、別の誰かが叫んだ。

 意味のある言葉ではなかった。

 ただ、長く押し込められていた息が、ようやく声になったような音だった。

 

 ロージを始めとした、村人たちの何人かがリルたちの前で膝をついた。

 おやめくだされ、とジャドが言いかけるのを、リルは小さく手を上げて止めた。

 

「ありがとうございました」

 

 リルは、膝をつき額を地面につけるロージの、その背中を見た。

 王家に見捨てられ、供物場へ何度も供物を運んだ男には、こんな軽い言葉では済ませられない思いがあっただろう。

 だがリルは、それを受け取るしかない。

 受け取らなければ、何のために来たのかわからない。

 

「竜は死んだ。だが、食われた者が戻るわけではない。家が戻るわけでもない。明日から楽になるわけでもない」

 

 疲れ切った村人には厳しく響く言葉に、トルカが、横でわずかに顔をしかめた。

 だが、リルは続けた。

 

「明日は供物を出すな。明後日もだ。次の冬もだ。子供に、ヴォルグへ捧げれば助かると教えるな。竜がいたことは語れ。だが、竜へ捧げる道を語り継ぐな」

 

 この言葉が、どこまで伝わるかはわからない。

 恐怖は長く尾を引くだろう。

 だが、今日、竜は死んだという事実は、村に残る。

 そして、別のものも。

 

 リル=グレスが悪竜ヴォルグを討った。

 十倍の巨人となり、山を揺らし、拳で竜を砕いた。

 そう語られるだろう。

 

 テオが炎を逸らしたことは、少しだけ残るかもしれない。

 サイモンの矢は、もっと残らない。

 トルカとジャドが足元を守ったことは、ほとんど語られない。

 マルがリルを大きくしたことは、語らせない。

 

 リルは、竜を殺した。

 その真実と嘘を抱いて立っていた。

 村人の歓声が、谷に広がっていく。

 それは救いの声であり、恐怖の声でもあった。

 マル=シレスが、リルの背後で小さく一礼した。

 それが誰に向けてかはわからない。

 

 テオは、その横で拳を握っていた。

 術は通じ、炎は逸らせた。

 それがなければ、リルは死んでいた。

 役に立ったが、自分は物語の中心にはいない。

 そして、その中心へリルを押し上げたのは、マル=シレスのふざけた術だった。

 

 テオは、道化を見た。目が合った。

 マルは、微笑をたたえたまま、何も言わなかった。

 ひどく雄弁な無言に感じた。

 

 あれを、理解しなければならない。

 越えるためではない。いや、越えるためでもある。

 だが、それ以前に、見なかったふりをして、このままフォルク卿の客分や野良の術師に戻ることだけは耐えられなかった。

 道化の舞台に、自ら上がりつづける必要がある。

 それがどれほどの屈辱を伴うものでも。

 

「僕も、リル=グレスの軍に、入ります」

 

 村人の歓声に紛れ、その声はリルには届かなかった。

 それをマル=シレスだけが聞いていた。

 

 *

 

 ティンドレットへ戻る道中、竜殺しの話はリルたちより早く山を下りていった。村の若者が走り、猟師が街道へ出て、荷運びが別の村へ伝えた。

 

 リル=グレスが悪竜ヴォルグを討った。

 十倍の巨人となり、竜を殴り殺した。

 炎を素手で受け、山を揺らした。

 

 事実は、歩くたびに形を変えた。テオの札は消え、サイモンの矢は薄れ、トルカとジャドの声は残らなかった。マル=シレスの外法など、最初からなかったように語られた。

 リルはそれを止めなかった。そう語られるために来たのだ。

 

 やがて領主館の屋根が見えた時、胸を満たしていたのは、高揚でも、充足感でも、王家への敵愾心でもなかった。

 

 帰投して、治療を受け、報告を済ませた後。

 リルは気づけば、ワヌレイの部屋へ向かう角まで来ていた。

 

 ──死なないでください。

 そう言われていた。だから、死ななかったことを伝えようと思っていた。

 廊下の先には灯りが漏れている。

 そこへ行けば、ワヌレイは起き上がり、泣きそうな顔で何か言うだろう。

 

 まだ、そこへ帰るわけにはいかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

・悪竜ヴォルグ討伐完了。

・村人側死者なし。

・リル一党側死者なし。

・テオ、来歴炎(ブレス)逸らしを実施。

・サイモン、赤布矢により足場および目標を指示。

・トルカ、足場崩落を警告。

・ジャド、村側への押し出し危険を警告。

・マル=シレス、リル=グレスに外法を行使。

・リル=グレス、一時的に約十倍の巨体となる。

・リル=グレス、悪竜ヴォルグを打撃、喉部を圧潰。

・悪竜ヴォルグ、体内炎逆流により死亡。

・リル=グレス、負傷。

・テオ、軽度熱傷。

・悪竜ヴォルグ討伐の噂、周辺へ流出開始。

 

・リル=グレスが単独で悪竜を殴殺したとの流布を確認。

 

・訂正せず。

 

 

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