二百分の一の王国   作:mikouri

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EX-3 勇者ワヌレイの伝説

 ワヌレイが十三の頃。まだ兵士ではなかった頃。

 

 彼女は、自分が臆病者だと知っていた。

 

 夜道が嫌いだった。

 暗い納屋も嫌いだった。

 犬が急に吠える声も嫌いだった。

 父が怒鳴る声も、母が黙る顔も、村の男たちが「戦になれば若い者も出ねばならん」と話す声も嫌いだった。

 

 だからワヌレイは、畑では大人の後ろを歩いたし、水くみは人の多い時間に向かったし、なるべく目立たないようにしていた。

 

 逃げ足だけは速かった。

 それを兄たちは笑った。

 

「ワヌレイは兎みたいだな」

「いや、兎の方がまだ肝が据わってる」

 

 ワヌレイは怒らなかった。怒るのも怖かったからだ。

 

「べつに、逃げられるなら逃げた方がいいだろ」

 そう言って笑われた。笑われても、死ぬことはなかった。

 

 そんなワヌレイにも、なりたいものがあった。

 町へ荷を運ぶ大人たちが話す、都会のお菓子屋だ。白い粉をふるい、蜂蜜を練り、焼き上がった菓子を木箱に並べる。店の中は甘い匂いがして、刃物を持つとしても、果物を切る小さなナイフくらいで済む。肉を裂くための刃は、見るだけで手が冷たくなるような思いをする。

 ワヌレイは、そういう場所で働きたかった。

 怖いものの少ない仕事がいい。

 その程度の望みなら、自分にも許されると思っていた。

 

 ある年の秋、狼が出た。

 

 最初は鶏、次に仔山羊、さらに次に、畑の番をしていた老犬が喉を裂かれた。

 

 村の大人たちは罠を仕掛け、山際で火を焚き、槍を手に見回ったが、それでも狼は来た。

 

 賢い狼だった。

 火を避け、人の匂いを読み、罠のある道は通らない。

 群れからはぐれた一頭が、村全体を眠らせなかった。

 

 ワヌレイはその日、畑にいた。

 上流の村との水争いのあと、用水の流れはまだ不安定で、畑の端に泥が残っていた。踏めば足を取られる。乾いた畝と湿った畝がまだらになっていて、子供の足には歩きづらい。

 

 大人たちは壊れた堰の確認に出ていた。

 子供を水際へ連れていくわけにはいかない。かといって、泥に沈んだ道具や倒れた苗を、そのまま放っておくわけにもいかなかった。

 だからワヌレイは、畑の端に残された。近所の小さな子二人を見ていろ、と言われて。

 番と言えば聞こえはよかった。実際には、危ない場所へ行かせられない子供たちを、一箇所に集めておくための役だった。

 

 そのうちの一人が、山のほうを見たまま、動かなくなった。

 

「なんか、いる」

 

 指差されたほうを見ると、藪の下に灰色のものが伏せていた。

 最初それをワヌレイは犬かと思ったが、違う。首が低く、背が硬い。

 喉に空気がつかえた。

 狼はすぐには動かず、こちらを伺うように見ていた。吠えもしないそれが、かえって恐ろしかった。

 ワヌレイは小さなこども二人の背中を押した。

 

「走れ」

「え」

「走れって。村まで。振り向くな」

 

 震えた声に背を押され、子供たちは泣きながら走った。

 その瞬間、狼が動いた。

 地面から剥がれた灰色の布のように、低くまっすぐに。

 ワヌレイは悲鳴を上げて逃げた。子供たちとは逆のほう、畑の奥、壊れた水車小屋へ。なぜそうしたのかはわからないが、狼が自分を追いかけていることを理解していた。

 息が苦しい。脇腹が痛くなる。足が泥に滑る。すぐ後ろに獣の息遣いを感じた。

 

「やだ、やだ、やだ、やだ」

 

 小心者のワヌレイは泣きながら走った。

 死にたくなかったし、噛まれたくなかった。何もかも嫌だった。

 壊れた水車小屋の戸をくぐり抜け、転がり込むように中に入った。

 古い粉袋やら、折れた柄の鍬やらが転がっている。

 戸を閉めようとすると、その隙間に狼の頭が突っ込まれた。

 黄色い牙が見えた。

 

「ひっ」

 

 戸を押さえる。狼が押し返す。

 戸板が軋み、濡れた毛と、肉と、血の臭いが入り込んでくる。

 

「だれか、だれか!」

 

 叫べども返事はない。それもそのはず、村は遠く、子供たちは逃げていて、大人たちは堰にいる。

 誰も来ない。

 それを理解する。

 自分は一人。

 いずれ戸は破られ、自分は死ぬ。助けは来ない。

 泣いても死ぬ。命乞いは狼には通じない。

 ワヌレイの中で、何かがすっと静かになる。

 怖さがなくなったわけではない。

 膝は震え、涙は止まらず、喉はひゅうひゅう鳴っている。

 戸の隙間から、狼の前脚が入り込んできた。

 足で床を探ると、届く位置に折れた鍬の柄があるのがわかった。

 戸を押さえていた力を少し抜く。

 勇んだ狼がさらに頭をねじこもうとしてくる。

 

「はあ、はあ、はあ、はあ」

 

 ワヌレイは泣きながら一歩引き、戸板の縁を掴み直す。

 首が柱を越えた。

 計算があったわけではない。体がワヌレイに命じた。()()()()()()()()と。

 ワヌレイは戸を、全身で押し返した。

 

 閉めるのではなく、挟む。

 狼の首を、壊れた戸と柱の間に。

 狼の吠え声が、小屋の中で爆ぜた。

 

「ああああああああああああ、ッ」

 

 ワヌレイはそれに負けないように叫んだ。

 叫びながら、足で鍬の柄を引き寄せた。

 その間にも狼が暴れて、爪がワヌレイの腕を裂いた。

 熱い痛み。血が出る。涙と鼻水で息が詰まる。

 鍬の柄を掴む。

 先端は折れて斜めに割れて尖っている。

 狼の黄色い目が見えた。

 濡れた鼻。

 剥き出しの歯。

 泡立つ唾液。

 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。

 そして突いた。

 狼の目を。

 一度では死ななかった。

 狼は暴れた。

 戸板が軋み、柱が鳴り、ワヌレイの腕に爪が食い込んだ。

 ワヌレイはもう一度突いた。

 奥まで入る嫌な感触が伝わった。

 柔らかいものを破る感触。

 硬い骨に当たり、滑り、また沈む感触。

 狼の吠え声の質が変わっても、ワヌレイは柄を離さなかった。

 離したら、まだ動く気がして恐ろしかった。

 だから何度も押して、引いて、また押した。

 途中から、狼は動くことをやめていたが、ワヌレイはやめなかった。

 

 大人たちが駆けつけた時、狼は戸口に首を挟まれたまま死んでいて、ワヌレイはその横に座り込んでいた。

 両手は血で濡れ、腕には爪痕があり、服は裂け、顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。

 狼の眼を抉った、折れた鍬の柄を握りしめていた。

 

「おまえが、やったのか」

 大人の一人が言った。ワヌレイは答えようとしたが、声が出なかった。

 

「よくやった」

 誰かが言った。

 

「すごいぞ、ワヌレイ!」

「子供二人も逃がしたんだろ」

「たいしたもんだ」

 

 ワヌレイはその言葉に震えた。

 誉められているのに嬉しくなかった。

 自分がしたことを知っている。

 

 自分は泣いて逃げた。

 助けを呼んだ。

 誰も来なかった。

 

 だから殺した。

 怖かったから、死にたくなかったから、目を潰して、動かなくなっても滅茶苦茶に突き続けた。

 それだけだった。

 何も褒められるようなことはなかった。

 

「違う、あたし、勇敢じゃない」

「怖くてもやったなら、それが勇気だ」

 大人たちは笑った。

 

 ワヌレイはまた首を振った。

 違う。そんなきれいなものじゃない。

 あの時、自分の中にあったのは、もっと薄暗いものだった。

 

 その夜、村では少しだけ祝うような空気になった。

 ワヌレイが、狼を殺し、こどもたちを救った。

 

 けれどもワヌレイは、家の隅で膝を抱えていた。

 腕は痛み続け、血の臭いはどれだけ洗っても残った。目を閉じると、狼の黄色い目がまぶたの裏に浮かんだ。

 

「おまえ、兵士に向いているのかもしれんな」

 父は笑って言ったが、半ば本気であった。

「やだ」

 即答だった。

「あたし、兵士とか無理。怖いし。痛いの嫌だし。人を斬るとか、絶対無理だし」

「狼は殺しただろう」

 父は困ったように笑った。

「狼だったからだよ。人だったら、無理だよ」

 

 本当にそう思っていた。少なくとも、その時は。

 けれど数年後、ワヌレイは果物ナイフではなく、剣を握ることになる。

 

 ワヌレイは、ずっと臆病者のままだった。

 ただ、追い詰められた臆病者がどれほど残酷になれるかを、彼女は十三の秋にすでに知ってしまっていた。

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