ワヌレイが十三の頃。まだ兵士ではなかった頃。
彼女は、自分が臆病者だと知っていた。
夜道が嫌いだった。
暗い納屋も嫌いだった。
犬が急に吠える声も嫌いだった。
父が怒鳴る声も、母が黙る顔も、村の男たちが「戦になれば若い者も出ねばならん」と話す声も嫌いだった。
だからワヌレイは、畑では大人の後ろを歩いたし、水くみは人の多い時間に向かったし、なるべく目立たないようにしていた。
逃げ足だけは速かった。
それを兄たちは笑った。
「ワヌレイは兎みたいだな」
「いや、兎の方がまだ肝が据わってる」
ワヌレイは怒らなかった。怒るのも怖かったからだ。
「べつに、逃げられるなら逃げた方がいいだろ」
そう言って笑われた。笑われても、死ぬことはなかった。
そんなワヌレイにも、なりたいものがあった。
町へ荷を運ぶ大人たちが話す、都会のお菓子屋だ。白い粉をふるい、蜂蜜を練り、焼き上がった菓子を木箱に並べる。店の中は甘い匂いがして、刃物を持つとしても、果物を切る小さなナイフくらいで済む。肉を裂くための刃は、見るだけで手が冷たくなるような思いをする。
ワヌレイは、そういう場所で働きたかった。
怖いものの少ない仕事がいい。
その程度の望みなら、自分にも許されると思っていた。
ある年の秋、狼が出た。
最初は鶏、次に仔山羊、さらに次に、畑の番をしていた老犬が喉を裂かれた。
村の大人たちは罠を仕掛け、山際で火を焚き、槍を手に見回ったが、それでも狼は来た。
賢い狼だった。
火を避け、人の匂いを読み、罠のある道は通らない。
群れからはぐれた一頭が、村全体を眠らせなかった。
ワヌレイはその日、畑にいた。
上流の村との水争いのあと、用水の流れはまだ不安定で、畑の端に泥が残っていた。踏めば足を取られる。乾いた畝と湿った畝がまだらになっていて、子供の足には歩きづらい。
大人たちは壊れた堰の確認に出ていた。
子供を水際へ連れていくわけにはいかない。かといって、泥に沈んだ道具や倒れた苗を、そのまま放っておくわけにもいかなかった。
だからワヌレイは、畑の端に残された。近所の小さな子二人を見ていろ、と言われて。
番と言えば聞こえはよかった。実際には、危ない場所へ行かせられない子供たちを、一箇所に集めておくための役だった。
そのうちの一人が、山のほうを見たまま、動かなくなった。
「なんか、いる」
指差されたほうを見ると、藪の下に灰色のものが伏せていた。
最初それをワヌレイは犬かと思ったが、違う。首が低く、背が硬い。
喉に空気がつかえた。
狼はすぐには動かず、こちらを伺うように見ていた。吠えもしないそれが、かえって恐ろしかった。
ワヌレイは小さなこども二人の背中を押した。
「走れ」
「え」
「走れって。村まで。振り向くな」
震えた声に背を押され、子供たちは泣きながら走った。
その瞬間、狼が動いた。
地面から剥がれた灰色の布のように、低くまっすぐに。
ワヌレイは悲鳴を上げて逃げた。子供たちとは逆のほう、畑の奥、壊れた水車小屋へ。なぜそうしたのかはわからないが、狼が自分を追いかけていることを理解していた。
息が苦しい。脇腹が痛くなる。足が泥に滑る。すぐ後ろに獣の息遣いを感じた。
「やだ、やだ、やだ、やだ」
小心者のワヌレイは泣きながら走った。
死にたくなかったし、噛まれたくなかった。何もかも嫌だった。
壊れた水車小屋の戸をくぐり抜け、転がり込むように中に入った。
古い粉袋やら、折れた柄の鍬やらが転がっている。
戸を閉めようとすると、その隙間に狼の頭が突っ込まれた。
黄色い牙が見えた。
「ひっ」
戸を押さえる。狼が押し返す。
戸板が軋み、濡れた毛と、肉と、血の臭いが入り込んでくる。
「だれか、だれか!」
叫べども返事はない。それもそのはず、村は遠く、子供たちは逃げていて、大人たちは堰にいる。
誰も来ない。
それを理解する。
自分は一人。
いずれ戸は破られ、自分は死ぬ。助けは来ない。
泣いても死ぬ。命乞いは狼には通じない。
ワヌレイの中で、何かがすっと静かになる。
怖さがなくなったわけではない。
膝は震え、涙は止まらず、喉はひゅうひゅう鳴っている。
戸の隙間から、狼の前脚が入り込んできた。
足で床を探ると、届く位置に折れた鍬の柄があるのがわかった。
戸を押さえていた力を少し抜く。
勇んだ狼がさらに頭をねじこもうとしてくる。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
ワヌレイは泣きながら一歩引き、戸板の縁を掴み直す。
首が柱を越えた。
計算があったわけではない。体がワヌレイに命じた。
ワヌレイは戸を、全身で押し返した。
閉めるのではなく、挟む。
狼の首を、壊れた戸と柱の間に。
狼の吠え声が、小屋の中で爆ぜた。
「ああああああああああああ、ッ」
ワヌレイはそれに負けないように叫んだ。
叫びながら、足で鍬の柄を引き寄せた。
その間にも狼が暴れて、爪がワヌレイの腕を裂いた。
熱い痛み。血が出る。涙と鼻水で息が詰まる。
鍬の柄を掴む。
先端は折れて斜めに割れて尖っている。
狼の黄色い目が見えた。
濡れた鼻。
剥き出しの歯。
泡立つ唾液。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
そして突いた。
狼の目を。
一度では死ななかった。
狼は暴れた。
戸板が軋み、柱が鳴り、ワヌレイの腕に爪が食い込んだ。
ワヌレイはもう一度突いた。
奥まで入る嫌な感触が伝わった。
柔らかいものを破る感触。
硬い骨に当たり、滑り、また沈む感触。
狼の吠え声の質が変わっても、ワヌレイは柄を離さなかった。
離したら、まだ動く気がして恐ろしかった。
だから何度も押して、引いて、また押した。
途中から、狼は動くことをやめていたが、ワヌレイはやめなかった。
大人たちが駆けつけた時、狼は戸口に首を挟まれたまま死んでいて、ワヌレイはその横に座り込んでいた。
両手は血で濡れ、腕には爪痕があり、服は裂け、顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
狼の眼を抉った、折れた鍬の柄を握りしめていた。
「おまえが、やったのか」
大人の一人が言った。ワヌレイは答えようとしたが、声が出なかった。
「よくやった」
誰かが言った。
「すごいぞ、ワヌレイ!」
「子供二人も逃がしたんだろ」
「たいしたもんだ」
ワヌレイはその言葉に震えた。
誉められているのに嬉しくなかった。
自分がしたことを知っている。
自分は泣いて逃げた。
助けを呼んだ。
誰も来なかった。
だから殺した。
怖かったから、死にたくなかったから、目を潰して、動かなくなっても滅茶苦茶に突き続けた。
それだけだった。
何も褒められるようなことはなかった。
「違う、あたし、勇敢じゃない」
「怖くてもやったなら、それが勇気だ」
大人たちは笑った。
ワヌレイはまた首を振った。
違う。そんなきれいなものじゃない。
あの時、自分の中にあったのは、もっと薄暗いものだった。
その夜、村では少しだけ祝うような空気になった。
ワヌレイが、狼を殺し、こどもたちを救った。
けれどもワヌレイは、家の隅で膝を抱えていた。
腕は痛み続け、血の臭いはどれだけ洗っても残った。目を閉じると、狼の黄色い目がまぶたの裏に浮かんだ。
「おまえ、兵士に向いているのかもしれんな」
父は笑って言ったが、半ば本気であった。
「やだ」
即答だった。
「あたし、兵士とか無理。怖いし。痛いの嫌だし。人を斬るとか、絶対無理だし」
「狼は殺しただろう」
父は困ったように笑った。
「狼だったからだよ。人だったら、無理だよ」
本当にそう思っていた。少なくとも、その時は。
けれど数年後、ワヌレイは果物ナイフではなく、剣を握ることになる。
ワヌレイは、ずっと臆病者のままだった。
ただ、追い詰められた臆病者がどれほど残酷になれるかを、彼女は十三の秋にすでに知ってしまっていた。