二百分の一の王国   作:mikouri

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EX-4 竜殺しの留守番

 竜を殺しに行った連中が、今ごろどこで何をしているのか、ヨハンにはわからなかった。

 

 山中で泥にまみれて行軍しているのだろうか。

 竜の吐く火だか熱だかに焼かれているのだろうか。

 何にせよリル=グレスがいつもの顔で無茶をして、マル=シレスがいつもの顔で笑っているのだろう。

 

 想像しようとすればできたが、それで何かが変わるわけではない。

 だからヨハンは、領主館の大広間の隅で、長椅子に腰を沈めていた。

 

「だから言っただろ」

 

 その隣で、ケナスが得意げに笑った。大広間にいやに響き渡る声だった。

 

「女ってのは、結局、強い男に寄ってくるんだよ。口では嫌だの何だの言うが、まあ、わかってねえだけだ」

 

 ヨハンは干し肉を噛みながら、曖昧に笑った。

 

「はあ。まあ、そういう人もいるんじゃないすか」

「いるんじゃない。だいたいそうなんだよ」

 

(こいつ本当にカスだな)

 

 ヨハンは内心で思ったが、口には出さなかった。

 ケナスは面倒な男だ。

 真正面から否定すると、まず声が大きくなる。次に「冗談も通じねえのか」と言い出す。それでも引かないと、今度は相手の弱みを探して噛みつく。

 勝っても負けても面倒くさい。だからヨハンは、いつものように肩をすくめるだけにした。

 

「ケナスさん、人生経験豊富っすもんね」

「おうよ。おまえらみたいな甘ちゃんとは違う」

「いやあ、勉強になりますわ」

「そうだろ」

 

 ケナスは気分をよくしたらしく、顎をしゃくってさらに続けた。

 

「だいたいジャドなんかもな、あれはあれで女なんだよ。あんな口きいて、男みたいな顔してやがるが、押せば――」

 

「おい」

 

 声が割って入った。

 一党の中でも最年少の兵士、レビが水桶を片手に提げたまま、広間の入口近くに立っている。桶を床に置き、まっすぐケナスを見た。

 

「今、ジャドさんの話したか」

 

 ケナスは顔をしかめた。

 

「あ? 何だよ、ガキ」

「したかって聞いてんだよ」

「したよ。それが何だ」

「気持ち悪い」

 

 短く刺すような言葉に、ケナスの表情が固まる。

 ヨハンは干し肉を噛むのをやめた。

 

「何だと?」

「気持ち悪いって言った。聞こえなかったのか」

「てめえ、誰に口きいて――」

「誰でもいいだろ。おまえの言ってることが気持ち悪いって話なんだから」

 

 レビは一歩も引かなかった。

 

「嫌がってる相手に言い寄って、断られたら陰で悪口。女はこうだ、あいつは本当はこうだって、勝手に決めつけて。何なんだよ、それ」

「ガキがわかったような口を――」

「わかるよ。弱いやつにしか強く出られないやつの言い方だってことぐらい」

 

 周囲の音が、少しだけ遠のいた気がした。

 ケナスの頬が引きつる。

 

「……言ってくれるじゃねえか」

「おまえ、ジャドさん本人の前じゃそこまで言えないだろ」

「うるせえな」

「言えないよな。言ったら普通に斬られるもんな」

 

 ケナスの顔から、笑いが消えた。

 

「……てめえ」

 

 一歩、踏み出す。

 決して引かないレビを前にして、ケナスの腕が振り上げられた。

 振り下ろされる前に、ヨハンがその手首を掴んだ。

 

「ケナスさん。そこまで」

 

 声は、自分でも少し驚くほど低かった。

 

「離せよ」

「ここでガキ殴ったら、本当に終わりっすよ」

 

 ケナスがヨハンを睨んだが、その腕が離されることはなかった。

 しばらくして、ケナスは鼻で笑った。

 

「……へっ、くだらねえ」

 

 腕を乱暴に振って、ヨハンの手を払う。

 

「ガキの正義ごっこに付き合ってられるか。戦場じゃ、綺麗事抜かす奴から先に死ぬんだよ」

 

 そう吐き捨てて、ケナスは背を向けた。それを誰も追わない。

 レビがヨハンへと振り返った表情は、感謝ではなく、嫌悪に満ちたものだった。

 

「殴るのは止めるのに、言うのは止めねえんだな」

 

 ──なんだよその言い方は。

 今、俺が止めなかったら殴られてたんだぞ、おまえ。大概にしろよ。

 そう言いたくなったが、言わなかった。

 代わりに、笑みとも申し訳なさそうな顔ともつかない中途半端な表情を浮かべた。

 

「なんなんだよ、あれ」

「まあまあ」

 

 レビの怒りの矛先が再びケナスへと向かうのを見て、ヨハンはへらついた笑みを浮かべ、頭を掻いた。

 

「まあまあじゃねえだろ」

「いや、まあ、そうなんだけどさ。でも、悪く言い過ぎるなよ。あいつも同じリル様についてきた仲間なんだから」

「仲間なら何言ってもいいのかよ」

 レビの目つきはまだ険しい。

「そうは言ってないっしょ」

「言ってるように聞こえる」

「違う違う、ケナスさんが今の話で正しいとは一個も思ってないよ。あれは普通に最低。ジャドさんの耳に入ったら、俺は知らん顔する」

「じゃあ、何でかばうんだよ」

「かばうっていうか。……一緒に来たからだよ」

「リル様に?」

「その前から」

 レビは眉をひそめた。

 

「あいつとは、同じ徴発隊にいた。俺も、ケナスさんも、王家の札を持って、村から飯や人を出させる側にいた」

 

 言ってから、ヨハンは少し嫌な顔をした。

 

「で、同じ日に、リル様に下った。理由は知らない」

「だからって仲間意識持ってんのかよ」

「いや、普通に軽蔑してるし、カスだよ。口も悪いし性格も曲がってる。リル様に下ったのだって、たぶん、あいつのことだから勝ち馬に乗れると思っただけ、ぐらいだと思う」

「それなら……」

「でも、こっちに来たんだよ。あいつは。俺と同じ日に、同じ泥の中で」

 

 レビは黙り、ヨハンは続ける。

 

「俺たち、別に綺麗な連中じゃないだろ。ディエゴさんだってすぐ殴るし、ワヌレイはすぐ逃げたがるし、俺は面倒ごとを笑って流す。トルカさんだって、昔は何やってたかわかったもんじゃない」

 

 ヨハンは、あたかも何か立派なふうなことを言っている自分に、吐き気を催していた。

 

「ケナスだけを、あいつは駄目だ、仲間じゃないって切るのは簡単だけどさ。じゃあ、どこから駄目なんだって話になる」

 

 レビは不服そうに唇を曲げた。

 

「だから、何言ってもいいってことにはならないだろ」

「うん」

「今あいつが踏みつけにしてる相手には関係ないだろ」

「……うん」

「ヨハンがあいつを見捨てられない理由と、あいつを止めない理由は、別だろ」

「うん……」

 

 ヨハンは素直に頷いた。

 

「だから、おまえが言ったのは正しいよ」

「じゃあ――」

「でも、だからってあいつを全部否定して、立つ瀬をなくすってのも違う」

「……」

 

 レビは言葉に詰まって、桶を拾い上げる。その水面が揺れていた。

 

「あいつに好き勝手言わせといて、格好悪いとは思わないのかよ」

 

 当然、思っている。だが、口にはできない。

 口にしたところで、正しく動けるとは限らない。

 正しく動いたところで、そのあとを全部背負えるとは限らない。

 そういう言い訳なら、いくらでも出てくる。

 

「俺は、ああいうの嫌いだ」

「だろうね」

「王家のやつらだけじゃねえんだよ。人を踏みにじるやつは、どこにでもいる。ここにも、俺の中にも」

 

 レビはまだ何か言いたそうだったが、結局それ以上は何も言わずに水桶を抱え直し、広間の奥へ歩いていく。

 戦場にいる者としては、小柄な背中を見送った。

 

 広間に、少しずつ音が戻ってくる。

 厨房の方から、焼けた粉と果物の匂いがしていた。

 

「ヨハンさん」

 

 呼ばれてそちらを向くと、ピートが立っていた。

 

 両手で小さな包みを抱えている。

 布を開くと、丸い焼き菓子がいくつも並んでいた。

 

「干し果物を混ぜて焼いたんです。甘さは少ないですけど、疲れてる時にはいいかなって」

「おお。添え木と荷車以外も作れるんすね」

「作れますよ」

 

 ピートは少しむっとして、それから笑った。

 その笑い方が妙に子供じみていた──いや、実際に子供なのだ。

 

 ヨハンはひとつ受け取って、かじった。

 ピートなりに整えたのだろうが、街の店に並んでいるような小綺麗なものとは違う。丸くて、不格好で、少し焦げていて、固く、歯にぶつかる。

 そして感じるほのかな甘みに、腹の底が少し冷えた。

 

 こんな子供が従軍しているのは、間違っている。

 ほとんど唐突にそう思ってしまった直後に、胸の内で笑った。

 

 はいはい、ご立派なことで。

 善良な子が剣の届く場所にいるのはおかしい。

 じゃあ、善良じゃない奴なら、年を食った奴ならいいのか。

 ケナスなら刺されても納得できるのか。

 俺なら。

 倫理って便利っすね。

 好きな顔にだけ発動する。

 

「どうですか。美味しいですか?」

 ふと顔を上げると、ピートがこちらを見ていた。

 

「まあ、悪くないんじゃないすか」

「本当ですか」

「嘘ついてどうするんすか」

 

 そう言ってから、嘘くらいいくらでもつくな、と思った。

 ピートはそれに気づかず、少し照れたように笑った。

 菓子の甘さが、舌の奥に残る。

 

 ──ワヌレイ、あいつ、昔は菓子屋になりたかったんだとよ。

 

 何日か前、同じように暇を持て余した夜、ケナスが笑い話にしていたのを、思い出す。

 

 ──菓子屋だぞ、菓子屋。兵士が菓子屋。いや、兵士も向いてねえけどよ。あんなにびくびくして、剣より麺棒の方が似合うってか。けど、菓子屋も無理だろ。客に怒鳴られたら店の奥に逃げるんじゃねえの。粉まみれで泣いて、焼く前から焦げてるみてえな顔してよ。

 

 ひどい話だが、ワヌレイはたぶん、菓子屋には本当に向いていない。そこは、そうなのだ。早起きも、仕込みも、客商売も、金勘定も、火の番も、店の責任も、あいつには荷が重い。

 なりたいものと、なれるものは違う。

 

 ──結局、何やらせても半端なんだよ。ああいうのは。

 

 ケナスは、酒を呷ってさらに笑った。

 ヨハンも、つられてたぶん笑った。

 その場にワヌレイはいなかったから、笑っていいと思った。

 本人に聞こえていないところで、わざわざ揉めてもしかたない。

 ケナスが口にすることの全部にいちいち噛みついていたら、きりがないともその時は思った。いや、今も思っている。

 

 ヨハンは、手の中の焼き菓子を見た。

 不格好で、少し焦げていて、ほのかに甘いそれ。

 

 ワヌレイが作ったなら、消し炭にでもしていただろうか。

 それとも、案外、同じくらいには上手に作っただろうか。

 照れ隠しに変なことを言って、ジャドに笑われて、トルカにからかわれて、リルに真面目な顔で礼を言われて、困ったように耳を下げるのだろうか。いや、犬耳ではないので耳は下がらない。犬耳なのは道化だ。混ざった。

 喉元までこみ上げてきた嫌な思いを、間抜けな犬耳のワヌレイを想像することで、忘れようとした。

 

「他の人にも配ってきますね」

「おう。まあ、喜ぶんじゃないすか」

「はい」

 

 ピートは嬉しそうに頷くと、包みを抱え直して、小走りで広間の奥へ向かっていく。

 途中で誰かに呼び止められ、焼き菓子を一つ渡していた。

 その背中の小ささに、さっき水桶を抱えて去っていったレビを思い出す。

 逃げたい、帰りたいと言いながら、それでもリルの後ろへ戻っていくワヌレイの背中も。

 そして最後に、竜殺しに向かっているはずの、リル=グレスの背中を思い出した。

 ピートよりも少し早く生まれた程度の、少年の背中を。

 

 ヨハンはお菓子の最後の一欠片を口に入れて、そこで考えるのを中断した。

 

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