二百分の一の王国   作:mikouri

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#13 寝所の王、あるいは竜殺し称揚祝宴および王位志向者私的慰撫に関する記録

 悪竜ヴォルグ討伐の報は、竜の羽ばたきよりも早く街道を渡った。

 ティンドレットの北の山道で、リル=グレスが竜を討ったという噂が、街道を進むうちに肉を得る。骨を歪め、鱗を増やし、火を吐き、翼を広げた。

 

 ──リル=グレスは十倍の巨人となり、山肌に片足をかけて竜を押さえつけた。

 ──竜の炎は彼の掌で裂け、左右の森を焼いた。

 ──竜は死の間際、彼を王と呼んだ。

 ──女神の白い獣が空を走り、その爪で竜の目を抉った。

 

 どれも正しくはなかったが、リルが竜を殺したという事実は、人を集めるには足りた。

 

 ティンドレットの領主館には、夕刻前から馬車が並んでいた。北方の小領主、街道沿いの商人、神殿の使者、領主フォルクに縁を持つ貴族たち。祝いを述べるため、あるいは、竜殺しの若者を値踏みするために。

 

 宴は、領主館の大広間で開かれた。長卓には焼いた肉、蜂蜜を塗った果実、香草を詰めた魚、白い洋餅(パン)、濃い葡萄酒が並ぶ。

 

 リル一党の十二人の兵は、広間の一角にいた──というより、まとめて置かれていた。

 礼服を着せられ、髪を整えられ、剣を磨かれ、宴の主役の身内として客人たちの視線に晒されている。

 

「苦しいです……」

 ワヌレイは、襟元を気にして何度も喉を押さえていた。

 

「触るな。余計に皺になる」

 トルカが呆れて言った。

 

「皺になる前にワヌレイが死にます。息苦しくて」

「礼服で死ぬな……」

 

 そう言うトルカも、慣れない衣装に少し肩を張っていた。

 いつもの革鎧ではなく、深い紺の上着に剣帯だけを締めている。似合わないわけではない。だが本人が似合うことを拒みたがっていた。

 

 ジャドは妙に様になっていた。

 古風な立ち方で杯を持ち、近づいてくる貴族に対して適当に笑っている。普段の粗さは消えていないが、むしろそれが武門の家の娘らしい風格に見えた。

 

 サイモンは黙って立っているだけで、数人の若い貴族が彼を「寡黙な射手」として勝手に畏れ始めていた。

 

 竜殺しの噂が、杯から杯へ移るたびに形を変えていく。山道での戦いは、語る者によって、決闘になり、神事になり、王権の証明になった。

 フェリペはそれを聞きながら、自分の伝記に「竜影」という語を入れるべきか考えていた。

 竜影の証人。若き王と十二の刃。竜煙の夜。うん、悪くない。自分はその場には別に居合わせなかったけど。

 

「フェリペ、何考えてんの。顔がいやらしい」

 半目のレビが横から声をかけた。

 

「別に……。売れそうな自伝の題を考えていただけですが?」

「うげえ、本当にいやらしいこと考えてら」

 

 わざとらしく吐きそうな顔をしてみせた。

 レビは竜殺しにも参加していないし竜がどうなろうと知ったことではなかった。さらに言えばそこから得られる名誉や利益なんて興味ない。むろん社交にも。

 

「拙僧も、リル殿の絵札(グッズ)を作れば、なかなか回るのではと思っていたところですぞ」

 アンドレイが口を挟んだ。

「それはしっかり届け出を出してくださいね。若様にも権利がありますから」

「そこはうるさいのかよ」

「私は自分の伝記を自分で出すからいいのです」

 フェリペは何も恥じるところのなさそうな顔をしている。

 

 

 

 バルトロメアと言えば、人間というのは、つくづく傷より物語の方が好きですわね、と思いながら他人事のように宴を眺めていた。

 そんな彼女に、「リル様は竜の前でも痛みを見せなかったとか」と話を振ってくる客がいたので、「痛みがなかったわけではありません」と返して、鼻白ませたりしていた。彼女は竜殺しには参加していなかったが、リルやテオの怪我を診ていた。

 

「んん……素ぅ晴らしいですねえ」

 

 背後から、湿った声がした。

 

「痛みを隠す、王を目指す者。痛みを見抜く医療者。実に美しい対です」

 

 バルトロメアは振り向いた。

 そこにいた男は病的な顔色をしていて、細い目だけが妙に濡れていた。笑っているようにも、眠りかけているようにも見える。だが、傷の話題に触れた時だけ、まぶたの奥の瞳がぬめるように光った。

 衣服は神学者とも医師ともつかない黒衣で、指には細い銀の輪をいくつも嵌めていた。清潔感こそあったものの、香水の奥に湿った薬棚のような気配があった。

 

「一介の神官、ミルグリファと申します。痛みのお話をしておいででしたので、つい」

「治療の話です」

「ええ。治療とは、痛みに意味を与え直す行為でもありますから」

 

 ぞわぞわと、背筋に嫌悪が駆け巡った。

 

「バルトロメア=アルゲンス。アルゲンス家のかつての深窓の令嬢が、血と膿と熱のそばへ自ら降りてくる。慈悲だけで説明するには、少々、香りが濃い」

「……」

「あなたも、傷に興味がおありなのでしょう?」

 

 バルトロメアの指が、杯の縁を強く押さえた。

 

「私は、傷を閉じるために見ています」

「閉じるために、よく見る。よく見るために、近づく。近づけば、見えてしまう。見えてしまえば――」

「失礼いたします」

 

 論議するような相手ではないと判断し、早足でバルトロメアは離れた。

 

「おや。逃げ足もまた、治療者には必要なのですねえ」

 去る背を見送り、ミルグリファはそう微笑んだ。

 

 

 

 広間の中央では、ディエゴが杯を掲げて、主君の武勇を誇っていた。

 

「若様は竜の炎を前にしても退かなかった。あれはまったく人の業ではなかったな。大剣を振るうたび、山が鳴ったんだ!」

「ほう。では、ディエゴ殿も、その場に?」

「俺は……別働きでな」

 

 問われた瞬間、ディエゴの目が泳ぎ、しどろもどろになった。

 彼は、竜殺しには参加していない。

 

「別働きとは?」

「その、戦というものは、竜の前に立つ者だけで成るものではないだろう」

「なるほど。後方の要を」

「……まあ、そういうことだ」

 

 近くでトルカが杯を傾けた。

 何も言わなかったが、盛りすぎるなよ、と視線だけで釘を差した。

 

 

 

 テオは、客に捕まって、竜の炎をどう防いだのか説明させられていた。

 

「つまり、竜の炎を術で握り潰したのですな」

「違います」

「では、逸らした」

「一部は。ですが正確には、熱の流れと風向きと地形、それから竜自身の動作に合わせて――」

「やはり、術で炎を制した」

「違います」

 

 三度目の訂正で、テオは諦め、黙った。

 

 

 

 サイモンは、別の卓で問われていた。

 

「あなたは竜退治で何を?」

「射った」

「どこを?」

「必要なところを」

「竜を?」

「必要な時に」

「……なるほど」

 

 相手は勝手に感心した。

 

 

 

 ワヌレイは数人の客に群がられて面倒なことになっていた。

 

「あなたが竜の眼下へ潜った兵か」

「違います違います」

「小さな身体を活かして、鱗の隙間を?」

「ワヌレイは鱗の隙間は斬ってないです……」

「では、どこを? 竜の脚を? 翼を? 爪を?」

「いえ、その、そうではなくて、ワヌレイは」

「おお、語れぬほど凄惨な戦であったか……」

「行ってないんですってばぁ想像の中でワヌレイを凄惨に戦わせないでください!」

 

 リルに重用されているらしい、小さな女の兵士。

 妙な注目を浴びる素地があった。

 

「本当に、ワヌレイさんは竜退治には同行していません。でも勇敢な人です。リル様のために、いつも――」

 近くにいたピートが慌てて補足する。

 

「うむ……そういえば噂を聞いた。リル殿を庇って名誉の負傷であったか?」

「それはそれで、忠勇の兵ではないか!」

「北門でも王家兵の前に凛然と立ちはだかり、泣き叫ぶ民を護ったらしい。この小さな身体で……!」

「あああああああ違う違う違わないけど」

 

 

 

 否定すればするほど注目されているワヌレイを目にしたケナスは、鼻で笑った。

 

「竜を見てもいねえ奴らが、ずいぶん立派な扱いだな」

「そ、そうです。ワヌレイは竜なんて見ていませんし、近づいてもいませんし、竜の眼を斬ったとか、そういうことは一切――」

「泣きそうな顔してりゃ、功績が生えるんだから楽なもんだ」

 

 助け舟かと思ったそれが穴の空いた板だったので、ワヌレイは黙った。

 ヨハンが酒を口に含み、嚥下する。

 

「ならあんたも、若様の代わりに刺されてみたらどうっすか? ケナスさん」

 

 その言葉に一瞬周囲の空気が固まった。

 

「……は?」

「生えるかもしれないっすよ。若様の前に立派に飛び出したら。功績」

 

 ヨハンはいつものようにへらへらとしていたが、目は笑っていなかった。

 ケナスが口を開いて叫びかけたところで、周囲で誰かが小さく噴き出しているのに気づいた。顔を真っ赤にして、どこかに去っていった。

 

「……あの、ヨハンさん、刺されるのは本当に痛いので、刺されないほうが、いいと思います」

「え、あ……うん」

 

 ワヌレイ当人が微妙にずれたことを口にしたので、ヨハンも毒気を失い、気まずい表情を浮かべることになった。

 

 

 

「賑やかでございますねえ」

 

 広間の端で、マル=シレスは葡萄をつまんでいた。

 礼服に着られている兵士たちとは違って、侍従と道化が混然としたいつもの格好は、まるでそういった余興かのごとく宴席に馴染んでいる。白と黒に分かれた髪の上で、左右で色の違う犬耳が愉快そうに揺れていた。

 彼は、リルの一党がそれぞれ勝手に物語へ編み込まれていく様子を、たいへん機嫌よく眺めていた。

 そして眺められてもいた。

 

 ──あれが噂の道化か。

 ──犬耳の魔術師か。

 ──リル様の隣にいる外法使いか。

 

 好奇心旺盛な来客たちも、道化ほど得体の知れない存在には、軽々しく近づけなかった。かと言って、完全に遠巻きにするには、彼は美しすぎ、珍しすぎ、リル=グレスに近すぎた。

 

「その耳は、本物で?」

 

 ひとりの若い騎士が、酒に背を押されるように訊ねた。

 

「ええ。本物でございます」

「あなたの?」

「私めの」

「……撫でても?」

「手首が残らなくてもよろしければ」

「では、左で」

 

 若い騎士は一度だけ瞬いたのち、本当に手を伸ばした。

 周囲に緊張が走った。

 

「…………」

 

 手が離される。

 撫でた騎士は、しばらく自分の左手を見ていた。

 指が五本とも残っていることに、かえって酔いが引いたようだった。

 

「おめでとうございます。手首は残りました」

「……光栄です」

「次は、命でお試しになりますか?」

 

 マル=シレスは、目を細めて笑っていた。

 騎士は、こわばった笑顔で固まっていた。

 

 

 

 リルは、広間の中央で諸侯に囲まれていた。

 礼服は身体に合っている。合っているはずだった。だがリルには、鎧よりも重く感じられた。リル=グレスという名は、もはやただの出奔した地方武門の若者のものではなくなっていた。

 周囲の者たちは、口々に祝意を述べた。

 北方の道が開けたこと。村々が救われたこと。悪竜の脅威が去ったこと。

 そして、討ち取ったヴォルグの角を削り、竜殺しの若君に相応しい角飾りを作るべきだという、悪趣味な提案すらあった。

 竜を殺した者に竜の角を戴かせて、彼らは何を見たいのだろうと思った。

 

「若き竜殺しに」

 

 誰かが杯を掲げ、他の者もそれに倣う。

 

「竜殺しに」

「リル=グレス様に」

「次代を担う御方に」

 

 杯が鳴る。リルは杯を受け、短く礼を返した。

 今夜ばかりは、人々が自分を讃えることに意味があるとわかっていた。王になる者は、ただ強いだけでは足りない。強さを人々に信じさせなければならない。

 

 竜殺しの名は、そのための大きな火だった。

 

「リル=グレス卿」

 

 静かな声がした。振り向くと、神殿騎士の装束をまとった女が立っていた。

 くすんだ麦藁色の髪、灰青の眼。華やかではないが整っている顔立ち。

 背は高く、姿勢がよい。礼儀正しい所作は、兵のものでもあり、祈る者のものでもあった。白い外套の留め具には女神殿の印がある。

 彼女はリルの前で深く頭を下げた。

 

「神殿騎士ユーレンスと申します。

 悪竜ヴォルグ討伐、心よりお祝い申し上げます。竜の恐怖に晒されていた村々にとって、あなたの働きは確かな救いとなりました」

 

 ユーレンスは顔を上げる。

 

「ですが、救いは力を正当化します。力は、救いを名乗ることで、さらに強くなります」

 

 リルは目を(すが)めた。審問を楽しみにするといい、と言っていた施療院の神官のことを思い出していた。

 

「竜を討つ王は、民に望まれます。ですが、民に望まれた王ほど、自分が何を傷つけているかを見失いやすい」

「これはこれは。神殿の方は、宴席でも説教をお忘れにならない」

 

 いつのまにか傍に現れていたマル=シレスに口を挟まれ、ユーレンスはそちらを向いた。

 

「あなたも、己が行いをお忘れなきよう」

「さて、私めは忘れ物が多い方でして」

「では、こちらで覚えておきましょう」

 

 ユーレンスは小さく息を吐くと、二人に会釈し、その場を後にした。堅物をからかって満足した道化も、どこぞへと消える。

 そこに、入れ替わるようにして、両手をすり合わせながら、近隣の領主の男が現れた。

 

「……竜を討たれたリル様に申し上げるほどのことではありませんが、我が領の北林にも小鬼(ゴブリン)どもが巣食いましてな。いえ、お手を煩わせたいわけではございません」

「討てばいい」

「もちろん我らで。ええ。ただ、竜を討たれた御方が一言、近く巡察なさるとでも仰ってくだされば、兵も民もどれほど心強いか……」

 

 さすがに、言わんとしていることがわからないではない。もともと無愛想な表情をさらにしかめさせないようにリルは努力していた。

 断るのも難しいが、安易に請けて、便利屋扱いされるのも困る。

 

「リル様」

 

 広間の端で、別の声がした。

 女が、進み出た。

 

 淡い金髪を結い上げ、深い緑の衣をまとっている。花のような美しさではない、よく研がれた短剣のような美しさがあった。

 

「父がご挨拶を望んでおります」

「今か」

「ええ」

 

 女と近隣領主を見比べたのち、そういうことだ、と告げて、女に連れ出されるままにその場を後にする。

 二人は、宴席の隅へと寄ったが、そこに父らしき人物の影はない。

 

「助けたのか」

「竜殺しの御方に、小鬼ごときでお手を煩わせるわけには参りませんもの」

 

 彼女は微笑み、リルの前で膝をつき、杯を差し出した。

 エヴァリア、と名乗った。

 

「リル=グレス様に、北方より感謝を」

「ほう、北方の者か」

「はい、父は小領主です。これまでは竜の被害を口実に、ティンドレットへの兵の供出も、山の村への支援も渋っておりました」

 

 リルは目を(みは)ったが、エヴァリアは顔色を変えない。

 

「ですが、竜は死にました。父も、いつまでも怯えてはいられません。羊と穀物を、すでに山の村へ送っております」

「良い父親だ」

「いいえ。臆病な父です。臆病な者は風向きに敏い。リル様が北方を動かす風だと、ようやく理解したのでしょう」

「それを娘に言わせるのだな」

「父は、ご自分で言うには誇りが邪魔をしますから」

「おまえは邪魔にならないのか」

「誇りはあります。ただ、父より使い方を心得ております」

 

 エヴァリアは微笑んだ。打算を隠さない笑い方と声をしていた。

 リルが杯を受け取ると、エヴァリアの指が、一瞬だけリルの指に触れた。

 軽すぎず、長すぎない。いやに正確な接触だった。

 

「竜退治の話を、お聞かせいただけますか」

「すでに宴席で何度も語られている」

「人の口で膨らんだ英雄譚ではなく、あなた自身の話を。父に伝えたく」

「それだけなのか?」

 

 エヴァリアは、そこで少しだけ声を落とした。

 

「それだけではありません」

 

 広間の端で、マル=シレスが楽しそうに目を細めた。

 リルは杯を傾けた。

 濃い葡萄酒に、喉が熱くなる。

 

「後で来い」

 

 エヴァリアはその言葉に驚くことなく、ただ、静かに頭を下げた。

 

「承知いたしました」

 

 その夜、彼女はひとりでリルの寝所を訪れた。

 領主館の奥に用意された部屋は広く、暖炉には火が入っていた。壁には厚い織物が掛けられ、窓の外にはティンドレットの屋根と、宴の灯が遠く見えた。

 

 剣帯を外している自分を、リルは妙に無防備に感じた。

 エヴァリアは扉を閉め、静かに一礼した。

 リルは椅子に座ったまま、彼女を見た。

 

「父の命令か」

「半分はそう。残りは私の判断です」

「何を得に来た」

「あなたに、父の名を覚えていただきに。それだけで足りなければ、私の名も」

 

 エヴァリアは近づき、リルの前に立った。

 

「しかし、あなたのことを好ましいとは思っています」

 

 リルは彼女の顔を見上げた。

 美しい。というよりは、見せ方を心得ていると言ったほうが正確か。

 整いすぎていない。甘すぎない。怯えてもいない。自分の身体が交渉の材料になることを理解している顔だった。

 リルにはそれが不快ではなく、むしろ、わかりやすいと思った。

 剣を武器にするものがいれば、杯を持つものもいる。そして、身体を用いるものも。

 それぞれが目的を果たすために、使うものを選ぶだけだ。

 

「惚れたか」

 表情が硬い。軽口が苦手だった。

 

「一夜で惚れるほど、私は可愛らしい女ではありません」

「なら、なぜ来た」

「竜を殺した方が、どんな顔で杯を受けるのか見ておきたかったのです」

「父は、どんな言葉で俺を評していた?」

「危険な若者。北方を巻き込むかもしれない火種。利用できるなら利用し、敵に回る前に縁を作るべき相手」

「おまえの言葉では」

 

 エヴァリアは少しの間答えを探した。

 

「大きな火に、蛾が群がるのはどうしてだと思います?」

「それは、蛾が愚かだからだろう」

「いいえ。燃やされたがっているのです。自分が、どのようにして火に消えていくのかを、見たいのです」

「それは、愚かというのではないのか」

「なら、あなたはそう言って、誰かを燃やすのですね」

「……」

「戯言です。恐ろしい相手には、少し意地悪を言いたくなるものです」

 

 リルは、思わず自分の顔に触れていた。

 

「ええ、恐ろしいです。十倍の巨人となり、竜を殺した男と、同じ部屋に入っているのですから」

「おまえを害するだけなら、巨人の力など関係なかろう」

「いいえ。そうではありません」

 エヴァリアは静かに首を振った。

「私たちのような小領の者は、変えられないものを変えられないまま眺める術だけを覚えます。父も、私も、ずっとそうしてきました」

「……」

「あなたは、それを変えた。だから恐ろしい。けれど、恐ろしいだけでは済ませられない」

 

 エヴァリアは続ける。

 

「あなたは称えられることを嫌がっていました。けれど、拒みませんでしたね」

「それは、必要だからだ」

「私のような者も、必要としているのではありませんか?」

 

 リルは笑わなかった。

 

 立ち上がったリルを、エヴァリアは見据える。

 彼女の手が、リルの礼服の留め具に触れた。

 

「傷は?」

「開いていない。痛みはある」

「では、無理はしません」

 

 かすかな笑み。

 

「無理をさせれば、私はあなたの記憶に傷として残ります。それは、あまり好みではありません」

 

 その夜、エヴァリアは優しかった。

 

 必要なだけ近づき、必要以上には踏み込まなかった。リルの傷に触れないようにしながら、傷があることを忘れたふりもしなかった。

 彼女の身体は温かく、髪の毛からは薄い香油の匂いがした。

 肉体を彼女に委ねるうち、確かに慰められるのを感じた。

 張り詰めていた筋肉がほどける。竜の血の匂いも、宴席の葡萄酒の熱も、諸侯の視線も、少しずつ遠のいていく。

 

 だが、心は別のところにあった。

 エヴァリアの温かさを感じながら、別の小さな温度を思い出していた。

 

 礼服の襟を苦しそうに押さえていた小さな兵。

 竜を見ていないと半泣きで訴えていた声。

 雨と泥の中で、なんでこんなところに来たのだと不平を垂れた声。

 傷ついた時に泣きそうになる顔。

 

 そして、すぐに違う顔が浮かんだ。

 

 犬耳の道化。

 己を空洞(からっぽ)だと笑い、楽しそうに人の痛みを覗き込む、あの男とも女ともつかない者。

 彼は自分を癒すことも慰めもせず、苦しみの形だけを、やけに正確に映す。

 だからこそ、今、彼の顔が思い浮かぶ。

 

 どこか違うところに意識をやるリルに、エヴァリアは何も訊かず、ただ、リルの髪に触れた。

 

「お疲れなのですね」

「……ああ」

 

 それは嘘ではなかった。

 

 あたたかい。

 痛みは遠く、良い匂いに包まれている。

 欲しいと言われ、触れられ、慰められている。

 

 グレス家にいたときの、冷たい石の砦を思い出していた。

 雨の中で十二人と逃げていたときのことを思い出していた。

 兵たちと同じ高さで火を囲んでいたことを、思い出していた。

 

 リルは目を閉じた。

 

 *

 

 朝、エヴァリアは静かに身支度をした。

 リルは寝台に腰かけ、彼女の背を見ていた。

 

「何か望みはあるか」

 

 エヴァリアは振り向いた。

 

「父に、北方の道を閉ざさぬよう命じてください」

「命じるほどの立場ではない」

「では、望んでください。父は、命令より風向きを恐れます」

「父には、どう伝えるつもりだ」

「敵に回すには早すぎる方だ、と」

「味方にするには」

「少し、怖すぎます」

 

 エヴァリアはそれ以上何も求めず、扉の向こうへ消えた。

 部屋に、朝の冷えた空気だけが残った。

 

 ちりん。

 しばらくして、鈴が鳴った。

 

「いやはや」

 

 マル=シレスが、いつの間にか窓辺に立っていた。

 

「たいへん王らしい朝でございますね。昨夜の姫君は、お上手でございましたか」

「下品だぞ」

「では、上品に言い換えましょう。慰めは足りましたか」

「……」

「足りぬなら、私めでもよろしゅうございますよ」

「ふざけるな」

「ふざけております」

「なら黙れ」

「ですが、嘘ではございません」

 

 着替えるのを途中でやめて、窓辺の道化を見た。

 

「私めは、慰めることもできます。傷を舐める真似も、傷を広げる真似も、どちらも得意でございます」

「……」

「ですから、私めにお求めになるのは、おやめなさいませ」

「先に言うのか」

「言わなければ、あなた様は賢いので、いつか気づいてしまうでしょう。私めが、たいへん都合のよい傷口であることに」

 

 マルが窓の外を見ると、ティンドレットの街は動き始めていた。

 市場へ向かう荷車。

 井戸端へ集まる女たち。

 竜殺しの宴の残り香を嗅ぎつけ、領主館の門を見上げる子供たち。

 噂は、またさまざまな形で街を闊歩する。

 どこまでが事実で、どこからが物語なのか、もう誰にもわからない。

 

 リルは、自分の腕を握りしめていた。

 どこからも、血など流れてはいなかった。

 

「リル様」

 

 マルは言った。

 

「よろしゅうございますか。竜を殺すと、こうなります」

 

 卓上を見れば、昨夜の杯が残っている。

 葡萄酒の底に、朝の光が沈んでいた。

 

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