二百分の一の王国   作:mikouri

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#17 リル軍、あるいは若様の軍における極めて重要な古参兵の記録

 リル軍(と、呼ばれるようになった)が旧巡礼宿に居を構えて、数週間が過ぎたころ。

 

「逃げたんだぞ。王家兵が。俺たちを見て。橋を捨てて逃げた!」

 

 同じような言葉をディエゴは三度繰り返した。

 最初は橋の上で。次は戻り道で。三度目は旧巡礼宿の門をくぐった時。

 荷を運んでいた新兵は、素直に目を輝かせていた。

 ディエゴはその視線に気をよくし、血のついた槍を肩に担ぎ直した。

 

 橋を守っていた王家兵の足並みを、道化の術が狂わせた。

 そこで生じた隙を突いて、リル率いる隊が突撃した。

 制圧後、神殿騎士が橋にかかっていた足止めの約定を中和し、簡易結界を置いた。

 

「快勝快勝! 圧倒的だな、若様の軍は!」

「へっ。言っておくが、俺は前からこうなると思っていたぜ」

 ケナスも横から誇っていた。

 

「嘘つけよケナス。古砦に逃げ込んだときはしくじった、ついてくるんじゃなかった、って泣いてたじゃねえか」

「泣いてねえよ、それはワヌレイだっつうの!」

 

 新兵たちは笑った。中には、別に勝ち馬に乗りたかったわけじゃないけどなあ、とぼやく者もいた。

 少し前なら、王家兵と聞くだけで身を縮めていた者たちが、今はその名を笑いの対象にしている。

 リルは、その声を背に聞きながら、門の内側へ入った。

 

 勝った、という事実は、人の背を伸ばす。

 門をくぐる兵たちの足取りは、敗走のころとは違っていた。まだ鎧は揃っていないし、靴も悪く、槍の持ち方はちぐはぐで、荷駄は足りず、矢も布も薬も足りない。

 それでも彼らはもう、ただ逃げ延びた者たちではなかった。

 リルの指揮のもと王家軍相手に目覚ましい連勝を繰り返していた。

 

「ワヌレイは逃げたいですけど……」

 

 誰にともなく言って、戦場帰りで汗まみれのワヌレイが、井戸から水を汲んで口にして、その場にうぇ、と吐き出していた。このころにはティンドレットの戦いで受けた傷は、すっかり癒えていた。

 

「なんかやだな。別の井戸に行こう」

「あっ、ワヌレイ隊長!」

 

 ワヌレイは呼ばれて肩を跳ねさせた。

 ぎこちなく振り返ると鎧を着慣れていない様子の新兵が三人、彼女を見ていた。共に橋を奪取した兵たちだった。

 

「ハイカ、ブーカ、それにティシータ……あの、えと、隊長呼びは、その」

「さっきの側面回り、見事でした」

「リル様の背を守る時、ぜんぜん迷っておられませんでした」

「自分も、隊長の下でもっと戦果を挙げたいです」

 

 ワヌレイは青ざめた。

 

「やめた方がいいです」

「え」

「本当にやめた方がいいですワヌレイは怖い時普通に逃げたいですし足も震えますしだいたい帰りたいです」

「怖くても前へ出るということですね」

「違います。怖いなら前へ出ない方がいいと言っています」

「実戦的な教えだ……」

「どこが!?」

 

 兵たちは感心した顔でうなずいていた。

 

「うう、どうして……本当に怖いだけなのに……ワヌレイまたなにかやっちゃいましたか……?」

 

 ワヌレイは助けを求めて周囲を見たが、特に味方をしてくれそうなものはいなかった。どれほど怖がっていても、前線で敵の横腹に突っ込み、リルの背を守り、結果を持ち帰ってくる姿を兵たちは目にしていたからだ。

 

 ワヌレイの泣き言は、兵士たちの士気を下げず、むしろ高めていた。

 むしろ、彼女が怖がるほど、兵は安心と気概を己の中に見つけていた。

 

 怖がりながら戦える者がいるなら、自分たちが怖がるのも罪ではない、と。

 ワヌレイを一人で怖がらせないために、自分たちも前で戦おう、と。

 あんな泣き虫にばかり戦果を挙げさせているわけにはいかない、と。

 

 もちろん、ワヌレイはどれも嫌だった。

 

「それで、隊長」

「はい……隊長です……ううっ……」

「自分たちの目印をいただけませんか。ワヌレイ隊長と固まって動くなら、何かあった方がいいとトルカ殿が」

「トルカさん……!」

 

 抗議する相手はここにはおらず、ワヌレイは仕方なく荷から余り布を取り出した。古い外套の端を裂いた、ただの布切れだった。

 

「ええと。じゃあ、これを腕か胸に……でも、本当に嫌なら外してくださいね。ワヌレイ隊とか、別に……全然得意になってないし……恥ずかしいし……ていうか嫌じゃなくても外してください……」

「はい! 大事にします」

「あああああ」

 

 布紐を結ばれた兵のひとり──ティシータは、胸元を見下ろし、少しだけ背筋を伸ばした。

 

「自分、王家兵でした」

 

 ワヌレイはぎくりとした。

 

「え」

「下っ端です。村から出されて、槍を持たされて、誰かの麦を運ばされて……それが嫌で、逃げてきたんです」

 

 ティシータは、広場の方を見た。

 そこには飯の列に並ぶ難民やうずくまる怪我人や泣く子供、捕らえられた捕虜がいた。

 

「でも逃げた先で会ったリル様は、なら次はおまえが正しいと思うことをやれ。そのためにこの軍を使ってもいい、って。だから、自分はここにいます」

「……あの、そんな立派なところじゃないですよ。ワヌレイ隊は」

「はい。知ってます」

「知ってるなら入らない方が」

「でも、立派じゃない人の下につくほうが、安心するんですよね。自分が立派じゃないから」

「今ちょっとほっこりしかけましたけど、これでワヌレイがほっこりするのって何か違くないですか!?」

 

 あはは、と新兵たちは笑った。

 ワヌレイは、つられ笑いを我慢しようとして失敗して、変な顔になった。

 

 

 

 広場の端ではちょっとした騒ぎが起きていた。

 レビが、捕虜の王家兵へ短剣を向けていた。

 

「やめろ」

「王家兵です。殺さないと」

「レビ。おまえが王家兵に親を殺されたことは俺も知ってる」

 

 トルカは背後から近寄って、レビの手首をつかんだ。

 まだ子供の細い骨だったが、短剣を握る力は硬かった。

 

「だが、そいつは今殺す相手じゃねえ。少なくとも、おまえにそれを決める権利はない」

「きれいごとだ。殺すために戦争してるんだろ」

「違う。俺達は殺さずに済む場所を増やすために戦ってるんだ」

「……」

 

 レビは唇を噛んだ。

 

「見張ってろ。傷つけるな。若もきっと同じことを言うはずだ」

 

 トルカが去った後、不満げに短剣を下ろし、それを鞘に収める。

 捕虜は若かった。

 王家兵の革鎧は泥に汚れ、片頬が腫れている。鎧の端には祈り札がくくりつけられていた。名を聞かれると、しばらく黙り、それから小さく答えた。

 

「ペリソン。レイスカーデの南、カナイ村から来た」

「兵になった理由は」

「家に麦を残すため」

「それは奪った麦だろ」

「ああ、奪ったよ。麦も鶏も取った。逃げた男を殴った」

「なら死ねばいい」

「そうかもな」

 

 あっさりとした返事に、レビは言葉を失った。

 

「謝らないのか」

「謝ったって許してくれるわけじゃないだろ。意味なんてあるか?」

「ふざけてるのか」

 

 ペリソンは広場の方を見た。

 そこでは、王家に追われた者たちが飯の列に並んでいた。

 

「ふざけちゃいない。麦を食わずに死ぬか。隣の家から麦を取るか。戦場に行って麦を取るか。おれは、三つ目を選んだだけだ。だからってしょうがなかったとは言わない。麦を取るのは、そりゃ悪いことだ。取らずに済むなら、そうしてたに決まってる」

「……」

「で、おまえはおれを殺して、それで満足するのかよ?」

 

 レビは何も言えなかった。

 

 

 

 広場の別の端では、並ぶ難民たちの前、ジャドが鍋の前に立っていた。

 鎧を脱ぎ袖をまくり杓子を持っている。武家娘の姿としてはおそらく間違っていた。

 

 村を焼かれた家族、王家徴発から逃げた農民、親を亡くした子供。

 旧巡礼宿は、難民や棄民をも受け容れる避難所にもなっていた。弱者救済を掲げるリル=グレスとしては、これは当然のことだ。

 

「泣くなとは言わぬ」

 

 ジャドは、列の中で泣いていた老婆に言った。

 

「泣いても腹は減る。腹が減ったなら食え。食ったなら寝ろ。寝たなら、明日また泣け」

「また泣けってのかい」

「泣くことまで節約するな。貧乏くさいぞ」

 

 老婆は一瞬ぽかんとし、それから小さく笑った。隣にいた子供もつられて笑った。

 ジャドは満足げにうなずき、粥をよそった。

 

「よし。笑った者から多めに食え。泣くのも体力が要る」

 

 その近くで、アンドレイが白い札を広げていた。

 

「白手様の御加護を。旅の厄除け、戦場の矢除け、井戸水の清めにも効くと言われております。銅貨一枚で……」

「すまないね。銅貨はないんだよ」

 

 母親らしい女が、申し訳なさそうに言った。

 ひび割れた指には泥汚れが残っている。

 

「……では、今回は特別奉仕です」

「いいのかい」

「よくはありませんな。信仰にも紙代がかかりますので」

 

 そう言いながら、アンドレイは札を渡した。

 白い掌と、細い糸の紋が刷られている。墨は少し濃く古い祝詞が小さく並んでいた。

 

「どこで仕入れたのです」

 

 背後からユーレンスの声がして、アンドレイは、札束を袖で隠すように持ち直した。

 

「巡礼商人からです。神殿正規品ではありませんが、古い祝詞を保っているとか」

「古いものが、常に清いとは限りません」

「新しいものが常に高いのは確かですぞ」

 

 ユーレンスは札を一枚取り、祝詞を読んだ。

 眉がかすかに動く。

 

「……王家寄りの古形のものですね」

「ありがたみがございますでしょう」

「詐欺師の好む言い回しです」

「神殿騎士様のお墨付きはいただけないと。わかりました、民間信仰として慎ましく配ります」

「売るのではなく?」

「売れるなら売ります」

「慎ましさとは……」

「利益率を下げることです」

 

 ユーレンスは深く息を吐いた。

 その間にもヨハンが通りがかって、アンドレイの売り文句に流されるまま一枚買わされていた。

 

 

 

 少し離れた場所で、ピートは木片を削って玩具を作っていた。

 周りには子供が三人、膝を抱えて座りその様子を物珍しそうに眺めている。

 

「見て、鳥だよ」

「飛ぶ?」

「飛ばないよ。僕が作ったやつだからね」

「だめじゃん」

 

 その代わりに、と部品を引っ張ると、かたかたと翼にあたる部分が動く。

 子供は木の鳥をためつすがめつした。

 

「……びみょー」

「正直だなあ」

 

 ピートが苦笑すると、別の子供が広場の方を振り向いた。

 

「犬耳の人、湯気で犬作ってるって!」

「犬?」

「動くの?」

「見に行こ!」

 

 鳥のおもちゃを掴んだまま去っていく子供たちの背中を見送る。

 まあいいか、とピートは思った。

 

「あの人が来てから、色々変わったなあ……」

 

 

 

 旧巡礼宿は、ただの軍事拠点ではなくなっていた。

 荷駄置き場があり、炊き出しの煙があり、神殿騎士ユーレンスの立会いで開けられた礼拝室があり、避難民が身を寄せる空き部屋があった。

 いま、バルトロメアが整えている施療所もそんな施設のうちのひとつである。

 

「寝台が足りませんわね~」

「嬉しそうに言うことか」

 

 立ち寄ったトルカが言うと、バルトロメアは手を止めずに微笑んだ。

 布が足りない分は床に藁を敷いている。

 

「忙しいだけです。嬉しくはありませんわ。これからもっといっぱい患者を診られるかと思うと興奮なんてしておりませんわ」

「なるほど充実してるってわけか。後半は聞かなかったことにしておいてやる」

 

 彼女は薬草の束を手に取った。

 指先で葉を擦り、匂いを嗅ぐ。

 

「この薬草、痛みを取り除く作用が少し強すぎますわ」

「そりゃいいことだろ」

「痛みは、身体がまだ喋っている証ですわ。わたくし、もう少しおしゃべりを楽しみたいですの」

「人間と喋れ、人間と」

「けど、傷や痛みと向き合うのが医療者の務めではなくて?」

「言い方がなんか嫌なんだよ」

 

 バルトロメアは上品に微笑み、薬草の束を別の籠へ移した。

 トルカはこいつ面の良さですべてを流そうとしているなと思ったが、言わなかった。

 

 

 

 塔の上では、サイモンが弓の弦を確かめていた。

 

「はあ、下、楽しそうっすね」

 その隣で若い新兵が、下の広場を見下ろして退屈そうに言う。

 

「下で笑う役は足りてる。おれたちは見る役だ」

 サイモンはにこりともしない。

 道。森の端。井戸。門。炊き出しの煙。そういったものを油断なく見張っている。

 

「サイモンさんって……リル様の軍に入る前は何をやってたんですか」

 新兵は少し背筋を伸ばして訊いた。

 

「それは命令か?」

「え?」

「命令なら教える。おれはかつて──」

「いや。やっぱりいいっす。何か怖いので!」

 

 新兵は手をぶんぶんと振った。

 サイモンは不思議そうに瞬きをして、それ以上は何も言わなかった。

 

 

 広場の中央ではマル=シレスが子供たちに囲まれていた。

 木椀の上で湯気が犬の形を取っている。

 犬は一度だけ尾を振り、ふっと崩れた。

 子供たちが歓声を上げている。

 

「マル=シレス」

 

 ユーレンスの声が飛んだ。

 

「術使用の事前申告は」

「泣いているお子様が一名。誠に深刻な国家危機でございましたので」

「申告はないんですね?」

「叱責はやさしくお願いいたします。子供が見ておりますので」

「子供に外法を見せるなと言っているのです」

「通常約定の範囲でございますよ」

「あなたが言うと信用できません」

 

 そこへテオも来て、怒った顔が二倍になった。

 

「今、湯気が犬の形を取りました」

「かわいらしゅうございましょう」

「かわいさを聞いていません。湯気に形状維持を約束させたのですか。それとも子供の認識を操作したのですか。前者なら構いませんが……」

「子供が泣き止みました」

「答えになっていません」

「世の中の大半の善行は、術師への答えになっておりませんので」

「あなたのそういうところが、本当に、腹立たしいッ」

「光栄でございます」

 

 ユーレンスは額を押さえた。

 子供たちは、その三人のやりとりまで芸の一部だと思って笑っていた。

 周囲にいた兵も笑った。ただ、子供ほどに混じり物のない笑い方ではない。

 

「あれが犬星の外法か」

「外法だろうが何だろうが、あれがいれば死なない気がする。拝んどこう」

「あの人のおかげで王家兵どもの足並みが乱れて、楽になった」

「王家軍の工作で落橋するのも防いだ」

「ん? それは若様の指揮のおかげじゃなかったか」

「あそこの神殿騎士殿の術が、足止めの約定を消したんだよな?」

「ともかくすごいのは確かだろ。竜を討てたのもあの人のおかげなんだよな」

「触ったら祟られるかな」

「犬耳か?」

「犬耳」

「やめとけ。触った騎士の指が全部なくなったって聞いたぞ」

「こええ。遠くから拝むだけにしとこ」

 

 マルはそれに気づいて、楽しそうに目を細めた。

 

「皆様。私めを拝む際は、できれば小銭を添えてくださいませ。信仰にも維持費がかかりますゆえ」

「外法を托鉢に使うな!」

 

 兵たちが笑う一方で、ケナスが面白くなさそうな顔でそれを遠巻きに眺めていた。

 

 リルの名が、兵に進む理由を与えていた。

 マルの外法が、勝てるという確信を与えていた。

 ワヌレイの泣き声が、怖がってもよいという許しを与えていた。

 そのどれもが自分の名ではない。

 

「犬耳が湯気を曲げりゃ聖人様かよ」

「戦場の守護神っすかね。犬耳の」

 近くにいたヨハンが言った。

 

「やめろ。余計むかつくだろ。はあ。槍持って前に立ってるのは俺たちだぞ。若様が命じて、俺たちが走って、俺たちが斬って、俺たちが血まみれになってんだ」

 ヨハンは三回ぐらい「そうっすね」を繰り返した。

「なのに、犬星様のおかげ。ワヌレイ隊長は勇敢。若様はすばらしい。俺たちは?」

「ただの古参?」

「一番損じゃねえか。気に入らねえ」

 ヨハンは笑ったが、ケナスは笑わなかった。不満をうまく言葉にできないまま、低く吐き捨てていた。

 

「書けば?」

 

 ケナスは振り返った。

 フェリペの声だった。難民や棄民の受入体制についてリルに具申した帰りに通りがかったのだ。

 

「何を」

「自伝」

「は?」

「後世に残りたいなら、自分で書くの。待っていたら“勇敢な兵たち”でまとめられます」

「解決になってねえだろ」

「かなり解決です。少なくとも、誰かに書かれるよりはまし」

「俺は字が得意じゃねえ」

「口述筆記という手があります。有料で請け負いますよ」

「アンドレイみたいなこと言いやがって」

「名誉には経費がかかるの」

「題名はどうすんだよ」

「『犬星様の陰で槍を持っていた男』」

「喧嘩売ってんのか」

「では『若様の軍における極めて重要な古参兵の記録』」

「官僚みてえで嫌だ」

「後世に残る文章はだいたい官僚みたいになるの」

「もっとこう、あるだろ。血とか槍とか、戦場とか」

「おお、書く気ですね。その意気」

「ねえよ!」

 

 

 

 そんな悲喜こもごもの声を、リルは城壁の上から聞いていた。

 

 旧巡礼宿の内側では、人が動いている。

 飯が炊かれ、負傷者が運ばれ、捕虜が見張られ、難民が列を作り、子供が笑っている。誰かが誰かを叱り、誰かが誰かのために布を裂き、誰かが誰かのために水を運んでいる。

 リルの命じたことではなかった。

 

 戦いに犠牲がないわけではないし、それは記録している。戦の痛みを勝利の名のもとになかったことにはしない。

 ただ、自分ではない手が、自分の名の下で誰かを支えている。

 傷ついたものたちが、お互いに助け合うその姿は、自分が理想とする王国の縮図のようにすら映った。

 

 そのことを、ほんの一瞬だけ報いのように感じた。

 胸の奥を軽くするには早すぎるというのに。

 

 ちりん。

 

「おや。リル様、珍しく休んでおいでで」

 

 いつの間にか、マルが隣にいた。

 手には木椀を持っている。

 

「そんなに珍しいか」

「ええ。たいへん。気が緩んでおりますね。とても人間らしい。減点でございます」

「王としてか」

「いいえ。道化の見世物として」

 

 リルは口元を緩める。

 

「なら、今は減点されておく。少し、疲れた」

 

 マルは瞬きをひとつした。

 

「ではリル様。どうぞ疲れている王の真似をなさいませ。なかなか似合っております」

 

 木椀がリルに差し出される。

 薄い粥だった。まだ温かい。

 

「ユッカという難民の老婆が作ったそうです。ジャド様に元気づけられて鍋の前に立ってしまったとか。本人いわく、座っていると焼けた村のことを考えるので、豆を煮ている方がましだと」

「毒味は」

「ディエゴ様が三杯」

「なら大丈夫だな」

「ええ。あの方は毒より先に量で腹を壊します」

 

 くだらない冗談だった。それを許し、ゆるく笑うことが、ひどく久しぶりなように感じた。

 

「湯気で犬を作っていたそうだな」

「噂が出回るのが早い。リル様にもお見せしましょうか」

「俺を子供扱いする気か?」

「ええ、ええ。陛下未満の陛下がお望みなら」

「やめろ。するな」

 

 そっぽを向く仕草が、妙に子供っぽくなってしまった。

 最近、マルは露骨に命令に反したり敵兵の尊厳を弄ぶようなことはしなくなった。

 少なくとも、目につく場所では。

 先日の礼拝室でも、自分に従順な素振りを見せた。

 本人は相変わらず飄々とはしているが、外法審問の決定を彼なりに尊重しているのだろう。

 そうでなくては困る。それはいい。

 

 しかし、意味のない術の使い方をすることが増えた気がする。

 それも決まって、ユーレンスやテオの目が届く範囲で。

 悪趣味なことができなくなったから、鬱憤晴らしに堅物をおちょくっているだけ。

 そう言ってしまえばそれまでだし、おそらく実際そうなのだろう。

 

(そもそも、なぜあんなに趣味が悪いんだ)

 

 真面目な人間をからかうだけで済むのなら、人を石橋に閉じ込めるような真似はしないほうがいい。

 湯気で犬を作るだけで済むのなら、その方がずっとましだ。

 そう思ってしまう自分がいた。

 マルが無害にふざけている。

 子供を笑わせ、神殿騎士を怒らせ、術師を苛立たせ、自分はいつものようににこにこと笑っている。

 それが癪だった。癪ではあったが悪く思えなかった。

 いま口にしている、粥の温かさのせいということにした。

 

 そしてこの気の緩みを、リルは後に激しく呪うことになる。

 

 *

 

 夜、広場の隅。

 レビと交代し、ヨハンがペリソンら王家兵の捕虜たちの様子を見ていた。

 先ほどアンドレイから銅貨一枚で買わされた祈り札と、彼らがつけているものを見比べて、ヨハンはあることに気がついた。

 

 ──なんで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 妙な違和感があった。

 しかし、すぐに首を振る。

 

 ──アンドレイもフェリペも神殿騎士も何も言わないんだ。俺の気にしすぎだろ。

 

 だいたい、同じだったからなんだというのだ。

 たまたま同じ商人から買っただけだろう。

 祈り札に詳しいわけでもない。単に似てただけかもしれない。

 子供は寝静まり、捕虜も兵もようやく黙り、若様もやっと休めている。

 こんな夜に、根拠のない不安を増やしてどうする。

 それで終わりにした。

 

 兵の寝息。子供の寝返り。咳。火に薪の崩れる音。見張りの足音。

 旧巡礼宿には穏やかに、人の眠る音が満ちていた。

 

 井戸の底で、水だけが静かだった。

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