「……は、ワヌレイに、クヴェルさんのところまで、行け、ですって?」
御輿から降りたリルの命令を受け、ワヌレイは青ざめる。青ざめるのはいつものことだが、今回はこの世の終わりを見た顔でなく、この世の終わりに押し込まれた顔だった。
「おまえは
それが、リルがトルカから先ほど受けた進言の内容。
兵として不出来なのが使えるという、無茶苦茶な話だった。
「可能性」
ワヌレイは、乾いた声で繰り返した。
「かか、可能性って言いました?」
「ああ。可能性だ」
「クヴェルさん一人に、一瞬で何人ぐちゃぐちゃにされたと思ってるんですか。都合よく自分を例外だって思えって?」
声が震えていた。
「ワヌレイだって無理です。いくらリル様の頼みでも嫌です。他のことならなんでもします。荷物持ちでも、伝令でも、囮でも、あとで怒られる係でも、なんでもしますよ」
ワヌレイは泣きそうな顔で笑った。
「──自分たちが行きます!」
割り込んで声を上げたのは、ワヌレイ隊のティシータだった。
「自分たちも兵としては不出来ですからね!」
ブーカも続く。
「いいでしょう。隊長だけに行かせるわけにはいきません。自分たちが道を開きます」
ハイカが、震えながら笑って言った。
「ちょ、ちょっ」
そんなワヌレイ隊の三人を前にして、さらに焦って視線を彷徨わせるワヌレイとは対照に、リルは冷徹に思考を走らせていた。
「許可する」
「え」
「ハイカ、ブーカ、ティシータ。ワヌレイに付き従い、道を開け。ワヌレイをクヴェル=ラヴェルまで届かせろ」
三人の顔に、隊長だけを死地に送らずに済む、という安堵が広がるのが見て取れた。
「待ってください。なんで、三人まで行くことになってるんですか」
ワヌレイの声は震えていた。
「おまえ一人では届かない可能性が高い」
「そういう話じゃないです。この子たちまで、死ぬじゃないですか」
「その可能性はある」
「何が可能性ですか! 可能性じゃないでしょう!」
ワヌレイの声が上ずった。息を吸う音が、笛でも鳴らしたみたいに細く高い。
「それともなんですか。若様は、ワヌレイたちに死ねって言うんですか」
「そうだ」
ぱくぱくと、ワヌレイは何度も口を開いて閉じた。
「嫌、です。行きません。命令でも嫌です。だって、ワヌレイだけじゃないじゃないですか。ハイカも、ブーカも、ティシータも、死ぬかもしれないじゃないですか」
「それでもだ」
「……冗談ですよね」
ワヌレイは笑おうとした。
「リル様。そういう、怖い言い方してるだけですよね。だって、リル様、優しいから、無理やり行かせることなんてしませんよね?」
リルは返事の代わりに、剣を抜いた。
金属の音が、短く響いて、剣先がワヌレイの胸元へ向く。
「これは頼みではない。命令だ。命令を聞けないのなら、ここで斬る」
再び、頭上で岩棚が光り、弾けて散る。
道化の術で逸らされる岩の数々は、前回よりも大きなものになっていた。
──現実を否認する時間も迂回する時間も、誰にも残されていない。
*
ワヌレイは、泣きも喚きもしない、凍りついた表情で歩いていた。
その後ろを、ハイカ、ブーカ、ティシータがついてくる。
「……どうしてついてくるんですか」
ワヌレイは、前を向いたまま言った。
「あなたたちは、名指されたわけでもないのに」
ついてこないでほしかった。
せめて一人で死にたい、と思った。
それは本心であり、そして、嘘だった。
赤譜が別に自分に効かない、とは限らないらしい。自分が改めて照準されれば、それは普通に爆破されうるのだという。
だが、三人がついてきて、前に出て、盾になるというのなら、自分が死ぬ確率は、だいぶ下がる。
臆病だから、自分が生還するための道を、誰よりも早く見つけてしまう。
そして、だからリルは三人の随伴を認めたのだ、とわかった。
「特にティシータさん。あなたは、前に死にかけたじゃないですか」
ミルグリファの毒。
喉が腫れ、息が細くなり、身体の中から少しずつ自分が遠ざかっていくような死に方。
ワヌレイは、それを覚えている。
「やっと助かったのに。ここでまた命を捨てることないじゃないですか」
「だからです」
その声は震えていた。しかし、その眼差しはまっすぐで逸らされることがない。
「あの時、私は何もできませんでした。惨めに毒で死にかけて、助けられて、寝ているだけでした。だから、今度は選びたいんです」
ティシータは槍を握り直した。
「作戦のために。リル様のために。もちろん、ワヌレイ隊長のためにも。べつに、死にたいわけじゃありません。でも、どうせ怖いなら、意味のある怖さの方がいいです。軍にいるかぎり、どうせ怖いことからは逃げられませんから」
ワヌレイはなんとか言い返したかった。ケナスがここにいたらなんと言うだろう? ご立派なことで、口ではなんとでも言える? 恐怖を塗り固めた美辞麗句にすぎない? これから自分が死ににいくのだと理解している相手に、そんなことを?
「自分たちは、リル様に命を拾われた身です」
ハイカも真剣な面持ちで言った。
「ですから、リル様の大義のために死ねるなら本望です」
「本望とか、簡単に言わないでくださいよ」
ワヌレイの声はかすれていた。
「だって本当はもっとやりたいことがあるでしょ。顔のいい男の人とか、優しいお姉さんに甘やかしてもらうとか、贅沢したいとか、お布団で寝てたいとか、そういうの」
「そうですね」
ハイカはくしゃりと笑った。
「でも、ここで自分が逃げたら、他の誰かが、そういうことができなくなるのかもしれません」
それがハイカである必要なんてないじゃないですか、とワヌレイは言いたかったが、言えなかった。気がつけば思うように言葉を口に出せない立場に追いやられている。リルやマル相手にはあんなに好き勝手言えたというのに。
「ワヌレイ隊長だって、そういう気持ちがあるから、今まで逃げなかったんでしょう」
「…………」
他の誰か、というほど、ワヌレイは漠然としていなかった。
「それに、泣き虫のワヌレイ隊長を、一人にはできないでしょ」
ブーカは、無理に笑みを作っていた。
「泣いてません」
「まだ、ですね」
「うう、隊長に失礼ですよ……」
「ええ、ええ。隊長は後ろで泣いてればいいんですよ。自分たちでクヴェルをやっつけますから。誰も死にません。完璧ですね」
ブーカは肩をすくめた。
ごめんなさい、と言いたかった。
自分が臆病で情けなくて死にたくないから、あなたたちを巻き込んだ。
迷惑をかけているし、きっと死なせてしまうと、詫びたかった。
だがそんな資格すらワヌレイにはなかった。
──いいんです。隊長のせいじゃありません。
そんな風に許されて、自分が少しでも楽になってしまうことが、ワヌレイには分かっていた。
だから、笑った。ひどく不器用に。
「……ありがとう」
三人は、少しだけ嬉しそうな顔をした。
それが、いちばんつらかった。
そして想像した。
リルは、ひょっとしたらこんな気持ちで、自分に剣を向けて命令したのだろうか。
ワヌレイ、ハイカ、ブーカ、ティシータ。
四人の背中が、隘路へ向かっていく。
誰も振り返らなかった。
その背中を見ながら、フェリペは、ふと、後世に残るであろう言葉を思った。
──勇者ワヌレイと三人の忠実な随伴兵は、命を賭してクヴェル=ラヴェルへ突撃した。
勇者ワヌレイ。
この戦いに勝つなら、虚名はいよいよ実名になってしまうだろう。
兵たちの恐怖、ワヌレイの拒絶、弾除け──そうした臭みをすべて消した、綺麗な言葉だった。
他人の人生を、それらしく飾る視線で見てしまう自分がいることにフェリペは気づいていた。
*
「勝てますか」
「勝つ」
術師同調を介した笛手ディーヌの問いに、クヴェル=ラヴェルは短く返した。
リル軍がこれ以上手をこまねくなら、頭上の岩棚を順に爆破し、崩落で隘路を埋める。
全滅などという都合のよい結果にならずとも、進軍は事実上不可能になる。
つまりは勝ちだ。
レドロネットは失った。赤譜も見せた。切り札はすべて切った。だが、向こうもそれは変わらないはず。
残る不確定要素は、犬星の道化。
王権神授の約定がある以上、外法への対処は可能なはずだった。
だが、あれで終わるような存在ではない。
警戒は続けるべきだ。
「クヴェル術監。やはり、あなたは下がるべきです」
太鼓手が言った。
「我々はともかく、あなたは替えが利きません」
「替えが利かないからこそ、先頭に立つ」
クヴェルは隘路の先を見たまま答えた。
「赤譜の実行役になれるのは、私だけだ」
「ですが」
「仮に私が危機に陥った時は、私ごと爆破しろ。もしくは、一目散に撤退しろ」
「……」
「その二つ以外は悪手だ」
「……向こうに、動きがあります」
観測手が言った。
「来ます。四名」
「また、兵を無為に費やすか。くだらん」
クヴェルは、わずかに首を傾けた。
隘路の向こうから、四つの影が走ってくる。
「一名、音律の合わぬものがいます」
「恐慌か」
「おそらく」
全く知らぬ顔というわけではない。白縫い砦の共闘のさいに聴いた音が鳴っていた。
恐怖で足が乱れる兵など、珍しくもない。おどおどとした兵だったことを憶えているのだから、なおさら驚きはない。
魔人楽団には、それが先ほどまでと同じ突撃に見えた。
そのため、同じように終わらせようとした。
*
走る。岩場が白く光る。爆ぜる。
飛礫が雨のように降り注いだ。
ブーカとハイカが盾を上げる。盾面に石片が突き刺さり、金属が悲鳴を上げる。
足元が光る。
「右!」
誰かの叫び。
王道化同調による指示。
そして、ワヌレイ自身の、ただ死にたくないという本能。
踏めば死ぬ場所が、恐怖ゆえにはっきりと視えていた。
そのすべてが、奇妙にずれながらも、同じ方向へワヌレイ隊の身体を動かした。
踏むはずだった岩が爆ぜる。
その半歩手前で、ワヌレイは転がるように横へ跳んでいた。
笛手、太鼓手、弦手、観測手──クヴェル=ラヴェルの部下たちは、比較的安全な隘路を見下ろす岩棚や高台にいた。
だが、クヴェル自身だけは、隘路に立っていた。
白兵の危険を避け、後方から指揮を採る──というわけにはもういかない、というクヴェルの判断だった。クヴェルの部隊ではクヴェル自身が最強の術師であるため、少しでも精度を上げるために、彼女自身が突出する必要があった。
もっとも、突進するワヌレイにはそんな理屈はわからない。あそこまで近づければいい、という理解しかなかった。
笛の音が変わる。
胸の内側に、冷たい指が入り込んでくるような感触。
ブーカは内心では結構ワヌレイを馬鹿にしていた。
他二人には調子を合わせていたがそもそもワヌレイ隊に所属したかったわけではない。戦場の混乱で気がついたらなし崩し的にここに配属されていただけだ。人手が増えてきたんだからこんな足りないのを隊長なんかにしてないでもっと堅実な人材を据えろよ、と真面目に思っている。
──だから足りない分はほら、自分が埋めないとね。
「見るな!」
ブーカが叫び、大盾を構え、ワヌレイ隊とクヴェルの間に割り込む。
投射物ではないため、盾では術そのものを防げないが、遮蔽になり、視界を遮る。四人を一つのまとまりとして読ませない。
大盾が白く光り、次の瞬間には、ブーカの上半身が、盾ごと消し飛んだ。
下半身だけが、二歩進んでから倒れた。
赤い雨が、まだ温かいままワヌレイ隊に降り注ぐ。
それでも、ワヌレイ隊の動きは恐慌によって止まることはない。
王道化同調は、臆病な新兵三人を、あたかも命知らずの古参兵のようにしていた。
ハイカは、他二人がどうしてかやる気を見せていたから自分も列に加わってしまったものの、ワヌレイに負けず劣らず帰りたいなと思っているし、面白い人に面白いからってついていくのってよくないよなと思っている。ただ、時々あるのだ。ここだ、としか言えない瞬間が。
──なあに勝てばいいんだよ勝てば。勝てば全部チャラになる。
「死ねッ! クヴェル!」
ハイカは走りながら槍を引き絞り、乾坤一擲の投擲を放つ。
クヴェルの指が跳ねる。
槍は宙で爆ぜ、軸木と穂先の破片になってあえなく散る。届かない。
しかし勢いを失いきらなかった金属片が、クヴェルの羽毛に降り注いでぶつかり、その肩をわずかに沈めさせる。
ほんの一瞬、魔人奏者の動きが止まった。
だがそれだけだった。
ハイカの胸が、白く光った。
「あ」
間抜けな声を残して、ハイカは弾けた。
ティシータは、自分がちょっと馬鹿だという自覚がある。馬鹿だから王家徴発兵にされたし、馬鹿だからリルやワヌレイを信じてここまで来てしまったんだと思う。
──でも馬鹿でいいじゃないか。自分が信じるものに命をかける。それ以上に意味があることなんてあるのか。
「ティシータ、行きますッ……!」
血の霧の向こうから、ティシータが踏み込んだ。
剣を抜く。振りかぶる。届く。そう見えた。
高台から影が落ちる。クヴェル隊の中では最も近い位置にいた観測手。楽器を持たない彼が身を投げ出すように割り込んだ。クヴェルとの間に。
ティシータの刃は、観測手の肩に食い込んだ。
「どけ!」
ティシータが叫ぶ。
観測手は動かず、クヴェルもまた微動だにしなかった。
弦の鳴る音。
ティシータではなく、観測手の身体が、白く光る。
「まさか」
──こいつ、味方を。
ティシータのその驚愕は声にすることができなかった。
視界を遮るように割り込んだその身体は、クヴェルにとって、いま、もっとも鳴らしやすい爆薬だった。
至近距離で起きた爆発が、ティシータの身体を叩き潰す。
剣が宙へ跳ねた。
「あああああああッ!!」
味方の血と臓物を浴びながら、ワヌレイの脚も止まっていなかった。
絶命するティシータを視界の端に、大きく回り込むようにして、剣を構えて接近する。
クヴェルの指が再度弦を鳴らす。
赤譜。
だが音の入り込む場所は──大きく外れて、右腕。胸ではない。
ワヌレイの
恐怖で乱れ、拒絶で遅れ、生きたいという醜い願いで、最後まで揃わない。
肩から先が、爆ぜた。剣が回転しながら前方に滑り落ちる。
だが、まだ死んでない。
走りながら身を屈め、左腕で剣を拾う。
ほとんど錯乱しながらも、動きを止めず、獣のように低く地を這って、クヴェルへと迫る。
どの教本にもない動きだった。
クヴェルの両目が見開かれる。
靴底が地を蹴る。蛇が飛びかかるように、クヴェルに飛び込む。
「かはっ」
左腕の剣が、クヴェルの胸を深く抉った。
音が、止む。
「……クヴェル隊長ッ!」
「術監、今行きます!」
崩れ落ちるクヴェルの姿を目にした魔人楽団の面々が、演奏を止め、高台から飛び降り、次々に駆け寄る。
割って入り、クヴェルを救おうとしていたそこに、矢が降り注いだ。同じ規格の矢が、今度は宙で弾けることなく。
「あ」
「っ」
「が」
太鼓手が、弦手が、笛手が、全身から矢を生やしてあっけなく倒れていく。
弓兵隊が自分たちを囮にして距離を詰め、術が途絶えた隙に、自分の背後から矢を放ったのだと、この時のワヌレイは理解できていなかった。
ワヌレイの視界にあるのは、自分の身体の下に組み伏せられたクヴェルだけだった。
「……」
ようやく、クヴェルの表情をまともに見た。
人間を破壊しても眉一つ動かさないと思っていたその顔が、焦燥に彩られていた。
これから死ぬことへの恐怖ではない。
自分の選択が間違っていたことを突きつけられた時の失意がある。
その顔に、ワヌレイはどうしてかよく見覚えがあった。
その視線が、己を見ているのか、弾け飛んだ兵たちを見ていたのか、その背後で倒れていく楽団を見ていたのか、ワヌレイには分からなかった。
「すまない」
クヴェルの唇の端から血が零れる。
それが誰に向けられた謝罪の言葉だったのかは知りたくなかった。
「ああああああああああああ、ッ」
襤褸切れのようになった右腕からは血が流れ続けている。涙と鼻水で息が詰まる。
残った左腕にありったけの力と体重を込め、剣をさらに奥に押しこむ。
クヴェルが、声の代わりに、ごぼり、と血を吐き出す。
剣を引き抜く、振り下ろす、引き抜く、振り下ろす。
滅多刺しにする。
憎しみゆえではなく、怖かった。
「死んでっ、死んでっ、死んでっ、死んでよっ」
──再び動いて、自分を爆ぜさせることが。
再び口をきいて、聞きたくもないことを口にされることが。
だから何度も抜いて、刺して、また刺した。
途中から、クヴェルは動くことをやめていたが、ワヌレイはやめなかった。
──やめられなかった。
気がつけば、兵士たちが、自分とクヴェルを遠巻きに取り囲んでいた。
──ワヌレイさんが、クヴェル=ラヴェルを、討った……
誰かがそう呟いた。
クヴェル=ラヴェルの血が、手にべっとりとついている。
全身は、弾けていった仲間の血で濡れていた。
顔を上げる。
近くにリルが立っていた。
血と煤に汚れ、御輿から降りて、こちらへ歩いてくる。
ひどく疲れて、傷ついた顔をしていた。
「……若様」
「……」
その顔が、今は無性に許せなかった。
「……し」
喉が震える。
「死んでよ」
ワヌレイは立ち上がろうとして失敗する。
膝をついたまま、リルを睨んだ。
「死んでよ、リル」
誰も動けなかった。地獄の谷の底から響くような声だった。
「あんた、あたしに何させたんですか」
声が裏返った。
涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま、ワヌレイは叫んだ。
「ハイカが、ブーカが、ティシータが死んだ。あたしを隊長って呼んだ子たちが、あたしの前で、あたしのために、死んだんですよ」
言葉が続かない。
息が詰まる。
「クヴェルさんだって」
ワヌレイは、クヴェルの死体を見た。
「殺したくなかった」
それは、兵としてはあってはならない言葉だった。
「できちゃった。できたら駄目だったのに。今、いま、ようやく、わかりましたよ、リル。あんたは──」
リルはうなだれない。
その先の、声にならない言葉は、ある程度察しがついていた。
それを先んじて言うこともできた。
そうはしなかった。
「なら、殺せ」
リル=グレスは、笑った。
ワヌレイの手には、いまだ剣が握られている。
立ち上がる。
引き抜かれた刃から、クヴェルの血が滴った。
荒く息を吐きながら、左腕で剣を持ち上げようとする。
髪を首の後ろで束ねていた紐はいつのまにか切れていた。
黒かった髪は真っ赤に濡れて、炎のように広がっている。地獄から這い出てきた悪鬼のようだった。
「俺を殺して、俺の志を、俺の役目を引き継げるというのなら。あるいは、すべて
誰も間に割って入れない。
ワヌレイの左腕が震える。
刃先が、一度、リル=グレスの胸を向いた。
「卑怯者」
そして、すぐに、萎えて下がった。
「卑怯者め」
崩れ落ちたワヌレイに、リルは手を伸ばさなかった。
赤い霧が漂う中、隘路に嗚咽を響かせるのを、冷たく見下ろしていた。
*
「随分と遠くまで来ましたね、僕たち」
「そうっすねえ。王都に手の届くところまで来ちゃったっす」
ヨハンとピートは、占拠されたボルトゥート砦へ向かう荷駄列の中にいた。
荷車には、矢束、乾肉、薬包、予備の靴、毛布といった物資が積まれている。
二人は毒事件のあと前線から離され、こうして後方に回されていた。
ヨハンは、できることならピートは故郷に帰るべきだと思っている。雨の中を敗走していたときと違って、一兵一兵が背負うものはそう多くなくなった。王家の徴発も退いて、少しずつ暮らしぶりもよくなっているはずなのだから。
じゃあヨハンさんも兵士を辞めましょうよ、と言い返されるのは嫌だったので、そう切り出すことはしなかった。
「ワヌレイさんが、クヴェル=ラヴェルを倒したとか」
「とっくに聞いたっすよ。勇者ワヌレイは周囲の兵士たちが爆死しても、腕が消し飛んでも怯まず、クヴェルを真っ二つにしたとかなんとか。流石に盛りすぎっすよね」
はは、と皮肉げにヨハンは笑っていた。ボルトゥート攻略戦の終焉から、一週間が経っていた。
「じゃあ、ワヌレイさんがむざむざ兵を死なせて高笑いするリル様に、剣を突きつけたって話は」
続くピートの言葉に、ヨハンは顔をしかめた。
「……さすがに噂話にしても趣味が悪くないっすか。何が起こったらそうなるんすか。ワヌレイの若様への距離感が変なのはまあそうっすけど」
「まあ、そう思いますよね。でも、ありえなさすぎて逆にありそうに見えませんか。確かめたほうがいいんじゃないですか」
「確かめるって、ワヌレイに? それとも若様に……?」
剣を突きつけたり高笑いしたりしたんですか、なんて訊くというのか。馬鹿げてるとヨハンは思った。
「……ワヌレイさんにはまだ会えてないんですよね。心配です。傷の具合とか。焼き菓子の作り方を教える、って約束もあるし。リル様は……砦で物資を待っているはずです」
坂を登りきると、ボルトゥート砦が見えた。
王家の旗は下ろされ、代わりにリル軍の黒地に銀の獣を描いた旗が、折れた櫓の上で風に鳴っている。
砦の前には、兵たちが集まっていて、その中心に、リル=グレスがいた。
「……!」
ヨハンとピートは息を呑む。遠目にも分かった。
額の横に、黒い飾りがある。
二人ともそれが何なのか、すぐにはわからなかった。
遅れて、それが角なのだと、理解した。
──討ち取ったヴォルグの角を削り、竜殺しの若君に相応しい角飾りを作るべきだ。
竜殺し称揚祝宴で、そんな冗談みたいな提案があった。
まさか本当に作られているとは思わなかったし、ましてや今それをリルが身につけているなど、想像できるはずもなかった。
「……
自分の口から漏れたその語を、ヨハンは笑うことができなかった。
己の押す荷車の車輪が、血で赤黒く汚れた石の上を越えていく。
ごとり、と軽い音がした。
・ボルトゥート攻略戦、開始。
・橋梁爆破により、先遣隊損耗。
・足場崩落により、損耗。
・夜間進軍中、爆破および転落により、損耗。
・レドロネットを始めとしたクヴェル=ラヴェル前衛術師隊、撃破。
・王道化同調、発生。
・以後、進軍継続。
・王命防線、到達。
・射撃失敗。弓兵隊、損耗なし。
・盾持ち突撃、失敗。
・側面奇襲、失敗。
・赤譜確認。
・白兵接近部隊、損耗甚大。
・ワヌレイ隊、四名突撃。
・ブーカ、死亡。
・ハイカ、死亡。
・ティシータ、死亡。
・ワヌレイ、クヴェル=ラヴェル殺害。右腕欠損。生存。
・ワヌレイ、リル=グレスに対し殺意を表明。実行には至らず。
・王家軍楽術監クヴェル=ラヴェル、死亡。
・敵防衛線、突破。
・ボルトゥート確保。
・死者数、重傷者数、戦線離脱者数、恐慌者数、錯乱者数、確認中。
・本作戦、成功。
*
戦いはまだ続いている。
そしてそれには、やがて、統一戦争という名がつけられることになる。
(拍動錯乱篇 おわり)