朝霧の中、黒地に銀の獣の旗が揺れていた。
かつて泥と雨に濡れ、敗走の中で垂れていた旗は今や高く掲げられ、丘の上から砦の内庭を見下ろしている。
竜殺しの勇名を聞きつけ、ティンドレットで合流した者。徴発から逃れ、リルの下で剣を取った農夫。王家軍から離反した下級兵。王家に家を焼かれた若者。
様々な出自を持つ、十二人よりも遥かに膨れ上がった数の彼らが、内庭に虫のようにひしめいていた。
リル=グレスが壇上に立つと、ざわめきは少しずつ収まっていく。
「聞け」
大きな声ではなかったが、兵たちは静まった。
咳も革紐の音も祈りの声も止まった。
「王家は我々を反逆者と呼ぶ」
リルの声は、冷えた朝の空気をまっすぐに割った。
見下ろすことにためらいや忌避はもうない。
かつてはその視線の高さだけで罪悪感や抵抗があった。それは今も消えたわけではない。
「そうだ。俺たちは王命に背いた。徴発に背き、王家の掲げる秩序に背いた。その通りだ。王家は我々を外法に堕ちた軍だと言う。犬星の道化を使い、神殿の手順を踏みにじり、戦場の定めを歪める者だと言う。だが問おう。王命とは何だ。民の麦を奪い、子供を兵に取り立て、井戸に毒を投じ、死んだ兵の名を帳の外へ捨てるものが王命ならば、俺たちはそれに背く」
リル=グレスは正当な統治者ではない。王冠もなく、座る椅子も玉座ではない。王家に連なる血ではなく、辺境の武門の出。神殿からの正式な承認もない。
だが、その場にいるほとんどの兵は、すでに彼をただの反逆者とは見なしていなかった。
「俺たちは清い軍ではない。これから先も、清くは進めない。敵を殺す。砦を焼く。兵糧を奪う。必要ならば、俺はおまえたちに決死の行軍を命じるだろう」
自分の言葉が静寂のうちに染み渡るのを待ってから、リルは再び口を開く。
「だが、意味のない死にはしない。俺は死んだ者の、救えなかった者の名を書き留める。おまえたちが王家の記録から消されても俺の帳面には残す。その痛みを背負う。その屍の上を俺は進む。この戦は楽な戦ではない。勝てると約束はしない。生きて帰れるとも言わない。それでもここに集う、王家に誇りを奪われた者たちへ告げる。俺たちは進む。毒で死んだ者のために。徴発で連れ去られた者のために。村ごと焼かれ罪人の名を着せられた者のために」
リルは拳を振り上げる。
「踏みにじられた者たちの名を、王の前に突きつける!」
少しの間のあと、内庭が割れたように声が上がった。
「リル様!」
「若様!」
「グレス!」
「王家を討て!」
「オディウムの首を吊るせ!」
「リル様のために!」
「新たな王のために!」
「リルの王国のために!」
槍の石突きが地を叩き、盾が鳴らされる。
声が重なり形を失い熱となって混ざり合うのを、壇上に立ったままのリルは浴びていた。
自分の言葉が、声が兵の胸を打ち、背を押し、足を前に出させている。
それは実に快かった。
*
その後の進軍は、速かった。
王家軍の側から見れば、リル軍は突然、別の生き物になったように見えただろう。
敵の兵糧は、倉庫ごと一夜で腐った。
倉庫番は扉に封をしたまま夜を越したはずだと証言した。鍵も破られていない。鼠の跡もない。毒を仕込まれていた形跡もない。だというのに、穀袋の中で麦が黒く濡れ、干し肉は緑に泡立ち、塩漬けの魚は水に戻ったように崩れていた。
砦の見張りは、夜明けまで昨日を見張っていた。
彼らは確かに街道を見ていた。敵影を見逃すまいと目を凝らし、交代の時刻を待ち、風の音に耳を澄ませていた。だが、彼らが見ていた街道は昨日の街道であり、昨日の雲、荷車、巡礼者だった。
その間に、リル軍の斥候は砦の裏手へ回り込んでいた。
密書は宛先を間違えた。
封蝋も筆跡も正しかった。伝令も道を間違えていなかった。
だが、書かれている宛名だけがどう読んでも、廃墟となったかつての修道院宛てになっていた。廃修道院には三十年前から誰もいない。伝令はそこまで走り、無人の門前で半日待った。
矢は風向きを忘れた。
敵の弓兵隊は丘の上を取っていた。風は背から吹いて、射角も間合いも適切だった。
だが放たれた矢は、途中で自分が何に従うべきかを忘れたように、ふわりと横へ流れた。何本かは地面に突き刺さり、何本かは仲間の鎧や盾を叩き、一本は弓兵隊長の兜飾りだけを綺麗に持っていった。
裏切り者は、寝言で陰謀を喋った。
夜番の兵たちは、最初は冗談だと思った。
だが男は眠ったまま、隠した書簡の場所、合図に使う火の数、受け取った銀貨の枚数、裏門を開ける時刻まで、すべて正確に喋った。
翌朝、彼は青ざめて否定したが、寝台の下から銀貨が出た。
兵たちは、それを奇跡と呼んだ。
敵は、それを悪夢と呼んだ。
リルは、それを必要な禁じ手だと思った。
リル軍は勝利し続けた。
*
夜が深くなるころになっても、リルの天幕には灯があった。
明日の行軍路は決まっている。新たに加わった兵の仮登録も済ませた。神殿へ送る記録も確認した。
やるべきことはもうないというのに、リルは眠れず、すでに読んだ報告書にまた目を通していた。
王都外郭守備軍司令グラン=グレス。
リル=グレスが出奔した後も、変わらず王家への忠誠を誓い続けた男。リル軍の台頭、そしてクヴェル=ラヴェルの敗北を受け、王都防衛のため中央に急遽呼び戻された将官。
父親。
衝突は避けられない。その非情さをよく知っている。けして楽な戦いはさせてくれないだろう。
だが今のリルには、そんなことは
報告書を閉じても、眠気は来なかった。
その時、天幕の外に人の気配が止まった。
「リル=グレス殿。ユーレンスです」
「入れ」
垂れ布が持ち上がる。
一礼して幕内へ入ったユーレンスの手には灰白色の書状があった。
「神殿は、
「まあ、神殿が危険視しない理由はないだろうな。どうする。処罰が下るのか」
「現時点で神殿は、リル=グレスを聖なる王とは認めないでしょう」
「気の早い話だ」
まだ王都を占拠したわけでも、王位の簒奪を果たしたわけでもない。
誰もが、すでに大勢が決したと考えているということか。
「ただ、王家に代わり民を守る王位志向者として、その軍事行動を黙認する方向に動いています」
「黙認、ね。腐敗した王家を倒してもらい、その後は切り捨てるということだろう」
「そうなる可能性を否定はいたしません」
王権と外法の結びつきを公的に認めるわけにはいかないと主張する保守派は根強い。
一方で現実派は、皮肉なことに外法使いを擁するリル陣営のほうが真っ当という扱いをしている。帳外吏、毒、人体爆破。王家の取った手段は民の信頼を大きく損なっていた。
「おまえはどうなんだ。ユーレンス」
「あなたが民を守る王である間は、そのそばで見届け、記録します」
「ずいぶんと物わかりのいい。マル=シレスはおまえの信仰を否定する存在ではないのか?」
リルは、外法審問でユーレンスが道化に厳しい態度を取ったのを覚えている。
「神学解釈を揺るがす存在ではありますが、それと信仰は必ずしも結びつきません」
「ほう?」
「人のために神があるのではなく、神のために人があると私は考えています。王家と神殿が積み重ねてきた解釈が、本当に女神の御心に沿うものかを疑わなければならない」
「それは少し危険な発言だな」
「あなたほどでは」
天幕の外に意識を向けると、まだ兵たちがリルの演説を語っているのが聞こえてくる。
誰かがリルの言葉を真似て笑い、誰かが熱心に繰り返した。
「……犬星と結びついたリル=グレスこそが、腐敗しきった現オルディアス王家に代わる、新たな神話ではないかとも主張する一派さえ神殿にはいます」
「
「誰もが新しい風を求めています。外法を用いることすらあなたを支持する材料となっている」
「それについておまえはどう思う」
「聖王の欺瞞を砕くのは魔王しかいないという物語は、魅力的に感じる、とだけ」
「ユーレンス。結構いい性格をしているな」
「真面目なだけでは長続きしませんから」
ユーレンスは開いていた書状を畳むと、リルの卓の上に置く。
「ですから、あなたもマル=シレスの扱いには慎重に」
「釘を刺しているつもりか。言われるまでもないことだ」
「ええ。近頃のあなたは少し危うい」
リルはそのたしなめを鼻で笑った。
「なあ。ユーレンス。俺が危ういままだったら止めるのか」
「……ええ」
「神殿に、今の俺とマルを、止めることができるのか?」
口角を吊り上げるリル=グレスに、ユーレンスは表情を硬くした。
「……今の発言は、記録しないでおきます」
「それは助かるな」
「悪い酒に酔うのも、ほどほどに」
ユーレンスは天幕を後にした。リル=グレスが残される。
姿が見えなくなってから、舌打ちした。
「酔わずにやっていられるか」
リルは酒杯を取った。
口に含むと喉が焼けて、腹の底が少しだけ温かくなる。
荒く息を吐く。
次にリルは女を呼んだ。身体を疲れさせれば眠れるのではないかと思った。
女は、軍営に出入りしている酒売りの一人だった。
安い香油の匂いのする女の笑い方は少し明るすぎるように感じた。きっと他の男にも、そんな風に笑うのだろう。
兵たちに酒を売り、洗濯仕事を請け、時には慰めを売る。
そういう女たちはリル軍が大きくなるにつれて、誰が呼び込んだでもなくいつの間にか野営地の端に小さな影を作るようになっていた。
「お疲れなんですね」
女は布張りの簡易寝台に座るリルの隣に腰を下ろし、慣れた手つきで杯を脇へ寄せた。
そして、リルの背を撫でる。
「大丈夫ですよ」
その声を聞いた瞬間、リルの腕が動いた。
鈍い音とともに女が倒れ、簡易寝台の端に肩をぶつけていた。
リルは自分の拳を見下ろす。一拍置いて、なんの罪もない女を殴ったのだと理解した。
「……出ていけ」
その声が、自分の出したものだとはにわかには信じられなかった。
卓の上に置かれていた革袋をひっ掴むと、中身を確認もせずに床に投げた。多すぎる銀貨の音がした。
女の顔を見ようともしなかった。
「それを持って、出ていけ」
女は震える手で袋を拾うと、頬を押さえながら天幕をあとにした。
女が出ていくのを見た夜番の兵が足を止め、すぐに何も見なかったように歩き去る。湿った土を踏む音が遠ざかっていく。
安い香油の匂いだけが狭い幕内に残っていた。
「……マル」
ちりん、と小さな音がして、幕内の隅に白と黒が立っていた。
いつ入ったのかはもう問わなかった。問えば答えるだろう。そして答えはきっと腹立たしい。
「お呼びにございますか、リル様」
「抱きしめられていろ」
「御意。では、たいへん珍妙な寝具となりましょう」
マルはそれきり黙った。
リルは腕を伸ばしマルを引き寄せる。
細い身体だった。人の形をしている。犬耳があり、髪があり、肩があり、体温のようなものがある。だがそれが本当に身体なのかなどと、今のリルには興味なかった。
マルは皮肉を言うことも、慰めることも、背に腕を回すことすらしなかった。
ただ、道具はそうあれかしとでも言うように、命じられた通りにそこにいた。
だから殴らずにすんだ。
それがどれだけ惨めなことか、できるだけ考えないようにした。
こういう気持ちになったとき、今まではまずはワヌレイのところに行ったものだった。
別に抱きしめたりしたかったわけではない。抱きしめてくれるわけでもない。
本当にそうだろうか。
困った顔をしながらも、こちらの背を撫でるぐらいのことはしたかもしれないし、自分はそれを心のどこかで期待して赴いただろう。
すでにいなくなった兵のことを考えてしまうのは、良いことだとはとても言えなかった。
ワヌレイは去ったのだ。
長い沈黙のあと、リルはマルを離した。
寝台から立つ。外套を掴んで羽織り、剣を取る。
天幕の合わせ目を開くと夜気が流れ込んだ。
リルは振り返らずに歩き出す。
道化はその背を見送りながら、少し前に見送った別の背中のことを思い出した。
*
一週間ほど前。
ワヌレイは、見送りにも別れにも向かない、半端な時刻にひとり砦を出た。
砦の門番は、彼女に何か言いたそうな顔をした。
けれど、何も言わなかった。ワヌレイも、何も。
軍籍と武具を返し、残ったのは、右袖の空いた古い旅装だけ。
門を出て街道に下りて、しばらく歩いてから、鈴の音が追いついてきた。
「連れ戻しに来たんですか?」
「そうしてほしいと仰るなら、そういたしますが」
ワヌレイは振り返らない。
背中越しのマル=シレスの声は、いつも通り丁寧だった。
「マルさん、ただ面白そうだから来ただけでしょう」
「ご慧眼にございます」
ワヌレイは今更、それに呆れも怒りもしない。
「いずこへ?」
「ラグティスの方面に。そこで何か働き口を探そうと思います」
渡された補償金でとりあえずは食うには困らないだろう。しかし、片腕を失った女にどのような働き口があるのか。マルはそこから先に考えを及ばせることはない。
「本当は若様を連れて逃げたかったんですよね、ワヌレイは」
「今更それが選べるようなら、あの人はあの人であることから、とっくに逃げられておりましょう」
「知ってます知ってます」
そこでようやく振り返って、軽やかに笑いかける。
「じゃあ、マルさん。一緒に逃げませんか?」
「私めが、あなた様と?」
「だってそうしたらリルは困ると思うから。あいつが困るの、面白そうだと思わない?」
マルは表情を苦笑の形にした。
「もはや敬称は不要ですか」
「もうあいつの兵士じゃありませんから」
往時のように、おどおどとした様子は見受けられない。しかし勇敢になったかというとそれも少し違うのだろう。単に、自分やリルに対して弱々しい態度を取る理由が彼女になくなっただけなのだ。
それから、マルは少し考える素振りをした。
「陛下未満の陛下を捨て、貴方様に傅けと」
主君を裏切り、勝ち戦を捨て、逃げた兵の隣で戯言を鳴らす道化。
それは実際、なかなか悪くない筋書きのように思えた。
伝説に残る裏切りとなるだろう。
そしてリル=グレスは、それでも進んでしまえるだろうとマルは思った。
確かに面白くなりそうな予感を覚えながらも、道化は首を横に振った。
「せっかくの申し出でございますが」
「うん、わかってます」
ワヌレイはマルがすべて言い切る前に返事をした。
「勘違いなさらないでほしいのですが──」
「マルさんだって、もう逃げられないんですものね」
肩をすくめる。
言葉が見つからないわけではなく、むしろたくさんあった。
ただどれも、道化の言い方なら、幕が上がっている間にだけ意味のある台詞だった。
「実に響く、含蓄のある言葉でございます」
「……
「完璧な意趣返しでございますよ、ワヌレイ様」
小さく拍手。
ワヌレイはそれに合わせて真似しようとして、片手では拍手ができないことに気づいた。
「興味本位で聞くんですけど、ひょっとしてマルさんならなくなった腕ぐらいなら生やせるんじゃないですか」
「ええ、まあ」
こともなげに。
「やっぱり。なんで言わなかったんですか」
「聞かれなかったからでございます」
「誰にも? バルトロメアさんもテオさんも?」
「ええ」
刺されて意識不明になった自分や焼き討ちで火傷を負った人々を見て、それを治せるかと、リルはマルに尋ねたらしい。
あれだって、よくよく考えてみればおかしな話だった。マルとは出会った時点で、兵士の中に負傷者がいた。ほぼなんでもできる相手に、その治療を頼んでもよかったのではないか。
「じゃあ、死んだ人を生き返らせることは?」
ワヌレイはもう自由なので訊いてしまう。腕がなくなった分、身軽だった。そしてその身軽さに、一抹の後ろめたさを覚えてもいる。
「それはさすがに……」
「できませんか」
「少々手間がかかります」
「……できるんですか」
「やってみなければわかりません」
「詐欺師の言い方です、それ」
うへぇ、とワヌレイは嫌そうな顔をした。
誰もそう訊かなかった理由は、さすがにワヌレイにもわかる。
火傷を治せるなら、欠けた腕も生やせるかもしれない。
欠けた腕を生やせるなら、失われた命だって、ひょっとすれば。
死にたくない。
誰かを生き返らせたい。
なかったことにしたい。
誰もが抱いてしまう普遍的な願い。
それを叶えられる存在が目の前にいるとき、道を踏み外さずにはいられない。
いや、それこそ正しい道なのだと人は思い込む。
「やっぱり、代償とかあるんですか」
「ええ。ただし、魂とかそういうものでなく、世界を変える覚悟が」
「ぴんと来ない言い方ですね。ワヌレイにもわかる言い方にしてください」
「まず、傷が治ることはありえる嘘ですね。なくなった腕が生えてくることも、まあ、なくはないかもしれません」
「ええ」
「しかし人が生き返ることは、今の世ではありえない嘘となります。その矛盾をごまかすため、その嘘を主張し続ける必要があります」
「……ずっと?」
「ええ。その方が生き続ける限り、ずっと。もしそんな嘘を吐き続けることに疲れてしまったら、どうなると思います?」
「ちょっと想像したくないですね、それは」
一方で、それで済むとしたら安いものじゃないかと思ってしまう。
たとえばブーカを、ハイカを、ティシータを蘇らせることができるなら。
自分が一生、嘘を吐き続けるだけでいいのなら。
きっと、だから駄目なんだろうな、となんとなく理解した。
*
軍営から少し離れた谷底からも、月が見えた。
白い月は女神の片目であると、誰かが言っていた。その真偽を確かめようがないが、オル=ヴェガの片方の目と同じ色であることを、ふと思い出して月すらも嫌になった。
歩くリルのそばに護衛はない。
軍規以前に正気の問題だった。
戦でも酒でも女でも道化でも慰められないのなら、いっそその全てから離れてみてもいいかもしれないと思った。というのは後付けで、ただの逃避だった。いつものことだ。自分はもっともらしい理由をつけてすぐ逃げる。そんな自分を周囲は恐れを知らぬ覇王のごとく扱う。馬鹿馬鹿しい。
足がもつれ、よろめく。酒精があとを引いている。膝をつく。
みな俺の命令は聞いてくれるのに、俺の言うことを誰も聞いてくれない。
ワヌレイだって逃げ出した。
ワヌレイは言った。自分を使うリルを見たくないから離れると。だがワヌレイがいなくなればこうして他の誰かを使い潰して傷つけるだけだ。
ワヌレイはこうも言った。自分に、逃げて誰かに押し付けていい、と。
だが実際にはワヌレイが逃げたために、自分により大きい苦しみが押し付けられている。
ワヌレイ。おまえが逃げたせいで俺は女を殴ってしまったんだぞ。
自分でもすぐに明らかに間違いだとわかる思考だった。
それが一瞬でも走ったことを自覚して、胃の中から何かがせり上がった。
吐き出したものが、びしゃびしゃと、地面を汚した。
くそ。
潔く送り出したんだ。どうしてそれを最後まで演じようとしない。
自分は強いと思っていた。
剣に火に毒に爆発に陰謀に晒されて幾度膝を折りそうになっても、それでも立ち上がり信念を貫き通す力があると信じていた。
だが道を踏み外そうとした時、それを、本人も意識しないまま正していたのは、いつもワヌレイだった。命のやりとりで狂いつつある感覚を、泣いて喚いて異常だと教えてくれた。ワヌレイだけが自分を人間の形にとどめていた。
どうしてそれに気づかなかったんだ。
いや、気づいてもどうしようもなかった。
他に選べる道なんて、なかった。
岩壁に悪態をついて身体を起こす。
顔を上げるとその先に人影があった。
夜の谷底にまるで最初からそこに置かれていたかのように立っている。
吹き抜ける風に灰色の長い髪が揺れる。
手に持つ何かが月光を薄く返した。
鋏だった。
「あは。こんばんは、王様くん」
アル=デリアが軽薄な笑いを浮かべていた。
月に照らされて、影が長く長く伸びている。
「ひとりで夜歩き? 不良だね。神殿騎士に叱られちゃうよ」
「説教に来たのか……」
「ううん」
アルは鋏を鳴らした。
かちん、と乾いた音が夜に落ちる。
「処刑しにきたの」
酒で痛む頭に、その声は冗談のように響いた。
あまり驚きはしなかった。
いよいよ来るのではないかと、どこかで思っていた。
「俺より先に、オディウム王ではないのか」
「きゃは。罪人の分際で処刑のスケジュールを決める権利があると思ってる? ほんと王気取りでウケんだけど」
ちりちりと青い火の粉が舞っている。
「じゃあ先に切ろっか? オディウムを。で、あんたは空いたオディウムの玉座に座って、オディウムの真似事を続けるってわけ。ポストオディウムだね」
「誰が……」
「順調にこなせてんじゃん。オディウムの真似」
「な」
「人を騙して兵士を見捨てて村を焼いて酒に頼って女に頼って側近に慰めを要求して。あれ、自覚、なかった?」
「……」
「誰も教えてくれなかった? 外野のあたしですらわかるんだから、あの道化なら大大大爆笑案件だと思うんですけど~」
足元がふらついた。今度は酒ばかりのせいではなかった。
「俺は……」
グラン=グレスを嫌っていた。
必要な犠牲と称して、弱い立場の人間を顧みなかった父のことを。
オルディアス王家を、オディウム王を憎んでいた。
権力者としてすべてをほしいままにし、奪うことをはばからない者共を。
エル=グレスを許せなかった。
少しの人間を守って満足していた兄を。
「というわけで、
アル=デリアが鋏を横薙ぎに振るうと、彼女の姿が消えた。
気がついたときにはすぐに目の前。一瞬にして詰められる距離。覚えのある感覚。
(
距離という概念そのものを切られていた。
佩いていた護身用の剣を抜いて構えようとする。だがすでに刃が途中から消え去っている。切られた刃先が地面に転がっていた。
後退りした背中が、岩壁にぶつかる。
「ハイ終わり」
開かれた処刑人の鋏が、リルの首の横で岩壁に突き刺さった。身動きが取れない。まるで勝負になっていなかった。
「どーする。言い残すことは?」
間近で、にたにたとアル=デリアが笑っていた。
「いや、もういい」
「およ~?」
「殺せ」
本当に大切な人間に、取り返しのつかない傷を負わせた自分は、何のために生きている?
「……おい」
わかっている。それで歩みを止めるわけにはいかない。志半ばで散っていった仲間を無意味にしないためには、どんな手を使ってでもこの大願を成就させねばならない。
でも、今の自分は、傷ついて帰る場所がない。
耐えられない。
耐えられるはずもなかった。
「──ふざけんな! もがいてみろよ! 不服のひとつもあるだろ!」
アル=デリアの青き火がひときわ強く大きく燃え上がった。
それを前にしても、リルの答えは変わらない。
「……すまない」
罪人が、処刑人に詫びの言葉を口にしていた。
こんな風に死に場所を選んでいい立場ではない。
だが、誰も見る者のいない谷で、アル=デリアの冷たい刃は、ひどく魅力的に映ってしまった。
「そうかよ」
呆れたような気の抜けた声。
ふ、と周囲の岩場が夜闇に溶け込んで消える。
何か大きなものに挟み込まれ、身動きが取れなくなる。
ひどく巨大な誰かの指に、蟻のようにつまみ上げられていた。
「あんたに期待したあたしが馬鹿だった」
声が遥か遠く天上から響いて、そして首に、冷たい鋏の刃があてがわれていた。
「死ね、虫ケラ」
──ちりん。
リルを挟み込んでいた巨大な指が閉じる。
潰される。そう思った。
しかし鳴った音は肉がすり潰されるものではなく、ぱちん、という乾いた音だけ。
ぱちん、ぱちん、ぱちん。
無数の白い手袋が、闇の中で拍手しているのが見えた。
目に映る光景がもとに戻る。
鋏の刃は、すでに自分の首になかった。
アル=デリアは、現れた第三者を向いていた。
「……何しに来たの?」
「私の王には、まだ死んでいただくわけにはまいりません」
また鈴の音。
「負け戦の底で拾う札ほど、化けるものでございます」
白黒の髪。白い顔。赤紫の瞳。犬耳。
侍従と道化の混ざった、胡散臭く整った姿がある。
月の下に、マル=シレスが、完璧に微笑んでいた。