1572年
徳川軍が浜松より出陣したころ遠江高天神城にて。
「降伏いたす」
「ありがたい。互いに無駄な血を流さずに済むからのう。何より、長年に渡りこの城を守備しておられた小笠原殿がこちらに来て下さるとは我らの勝ちに決まったも同然です」
武田軍約2万の猛攻の前に城将小笠原氏助降伏。
その二日前には高天神城と並ぶ徳川家の対武田家の最前線の拠点である掛川城が陥落し城主の石川家成が降伏を拒み切腹して果てている。
家成は家康の無二の忠臣と評される人物であり、かつては熱心一向宗の信者であったが三河一向一揆の際には本多忠勝らとともに改宗し家康の側に立っている。
なにより、家康が今川義元の人質となっていた頃より共に過ごした家臣であり、友でもあった。
そしてこの報告を天竜川の付近で聞いた家康は怒り狂っていた。
「小笠原氏助許すまじ。家成の死を無駄にしよって!」
「左様に」
「これはもはやただの防衛線にあらず、卑怯者小笠原氏助を討ち、武田を破り家成の仇を討つための戦となった。全軍、急ぐぞ!」
かくして、徳川軍は武田軍を破るべく天竜川を渡ることとなる。
***
「徳川め、天竜川を渡りよった。南下している馬場殿に天竜川を渡り、敗走する徳川勢を破るように伝えてくれ。景虎と定満の1万を前線に、私の5千を第二陣、幸隆と義昌、義光の5千を後備えとする。小笠原殿には道案内を頼みまする」
「はっ」
「御意」
武田軍、高天神より出陣。
数は約2万と伝えられる。
そしてこの戦は両軍にとって想定外の結果に終わることとなる。
***
暗闇の中を3騎の武者が駆けている。
その1町ほど後ろを100騎程の武者が追いかけていた。
「振り切れませぬ!」
「それどころか近づいておる!」
「急ぐぞ、殿にお伝えせねば」
3騎の武者の先頭に立つものの名を内藤信成。
徳川家康の異母弟にあたる。(家康の父である広忠が内藤清長の娘を孕ませたことが娘が別の男に嫁いだ後、出産したことで発覚し内藤清長が養子として引き取ったという経緯がある。そのため広忠が認知していたかは微妙というのが作者の感想)
一方、追撃する100騎の先頭に立つは長尾景虎。
齢40を越えながらその肉体は未だ衰えを見せず、信定曰く、『初めて会った時から変わってないよな。神性みたいなのは抜けてるはずなのに対して武力も変わらんし怖』とのこと。
この100騎の後ろからは宇佐美定満と長尾景勝の1万が1里ほど離れて追撃している。
この時の越後衆の速さは普段の倍ほどの速さであったと伝えらえる。
その理由として景勝は『叔母、いえ叔父上は信定様に久しぶりに頼られたのと、久しぶりに戦場に出れたことでテンションが上がっていたのだろうと思います』とどこかの世界線でコメントしたそうな。
これが一つ目の武田軍の誤算。
そして、もう一つが
「本多様!武田軍が追いかけております。急ぎ殿に報告を」
「信成、報告は任せた!面白いのが先鋒に居やがる。俺が相手取る!」
内藤信成の異様な速さと、本多忠勝という存在がこの場にいたことである。
「御意!死なないでくださいよ」
「俺を誰だと思っている、生涯無傷を信条とする本多平八郎だぜ!」
「心配はいらなかったですね。急ぐぞ!」
この開戦までの速さの結果、馬場軍は未だ徳川軍の背後に到達できていなかった。
***
「殿!これ以上進んではなりませぬ!武田の兵およそ1万がこちらに向かっています!」
「何だと!」
家康の側に控えていた石川数正が驚きの声を上げる。数正は掛川城の家成の甥にあたり、家成が掛川城に移った際に家成に代わる新たな西三河の旗頭となっている。
「…進むぞ、家成の仇を討つ」
家康が静かな声で言う。
「なりませぬ、敵は1万、それも武田の軍です。こちらは3千しかおりませぬ。負けますぞ」
「かつて桶狭間において織田信長は今川義元公を討った。その時の兵力差は今よりも多かったぞ」
「ここで奇襲が成功したとして、信玄はいません。敵は引きませんよ」
「それでもだ、幼き頃より支えてくれた友の仇すら取れずして、何が大名か、何が武士か!」
家康と数正が口論をしていると信成が口を開く
「なりませぬ、代わりに某が残ります。本多殿も戦っておられるのです。ある程度の時間は稼げましょう、数正殿、殿を連れて早く!」
「…御免」
数正が家康の馬の尻を叩き、強制的に退かせる。
「信成!生きて戻ってこい、お主は儂の弟じゃ!絶対じゃぞ~!」
家康の叫びに信成は涙を流しながら呟く。
「さらばです。兄上」
信成は戦場へと駆けていく。
その周りには家康の旗本の一部が共にあった。
***
武田軍先鋒と激突した本多隊は僅かな兵で奮闘したものの一人また一人と武田軍の攻撃の前に倒れていく。
しかし、そんな状況でも本多隊の前線は一歩も下がらず戦っていた。
理由は簡単、大将が戦っているから。
本多忠勝は長尾景虎との一騎打ちを行っており、その場には誰一人として立ち入ることが出来なかった。
敵も味方も自軍の大将を敵軍の中に残さないために奮闘していた。
(この男強い!押しているのはこちらなのに押し切れない上に少しづつ気迫が増している!)
(こんの化け物がどこの誰だよ軍神の面影もないみたいなことを思ってた奴は、だが、おもしれえ!)
このとき忠勝の頭の中には人質であった主君とともに駿府にいたころ坊主が話していた話を思い出していた。
曰く、武田家には数多の化け物がいる。
曰く、中でも赤備え筆頭、飯富虎昌。赤備えの小男、飯富政景。夜叉美濃、原虎胤(1564年病死)。そして元軍神、長尾景虎。この4名が特に武に秀でる。
曰く、中でも甲斐の虎、武田晴信(現在は信玄)。軍神を撃ち落(堕)とした甲斐の狼、武田信定。鬼虎、小畠虎盛(1561年病死)。真の副将、武田信繁。この4名が用兵が上手い。
曰く、中でも隻眼隻腕の軍師、山本勘助。攻め弾正、真田幸隆。軍神の保護者、宇佐美定満。武田の外交僧、駒井高白斎(1563年頃病死)。この4名が儂に比する智将であろう。
そして、今、この瞬間、本多忠勝、数え25歳はとてつもない速度で覚醒していく。
僅かに、しかし、確実に長尾景虎を押し始める。
(あの方のために俺は戦う。家康様のために!)
「うおおおおお!」
「なっ⁉」
景虎が驚きの声を上げる中で一人の男が忠勝の背後より忍び寄る。
「これで、儂の武功じ……ゃ…?」
「どこまでも卑怯者だな小笠原」
小笠原氏助。高天神城城主にして武田家の先導を務めた男があっさりと内藤信成に殺害される。
しかし、この男の影響は大きく。
僅かに一瞬、忠勝の気が景虎よりそれてしまう。
「まずい!」
「おい!内藤なにすんだ!」
「お前はこれからの徳川に必要な存在だ!早う行け!殿の金剛の剣、いや槍よ!ここはこの内藤信成が承った」
信成は忠勝を突き飛ばし、景虎の前に出ると景虎に武田軍に僅かな供回りとともに突っ込んでいく。その数は僅か10騎程であったという。
───兄上、私は最後に弟と呼んでもらえたことが嬉しゅうございました。
兄弟が相容れぬことも多いこの時代、ましてや腹違いであり、幼き頃に兄に会ったこともなかったであろう弟が兄のために命を懸け、そして散るなど、ありえなかったであろう。この兄弟を除けば。
『お前が内藤信成か、後で儂の部屋へ来い』
『お主、儂の弟であろう。儂には分かるぞ。苦労を掛けたな』
───兄上、私は貴方の弟に生まれることが出来たことを誇りに思います。どうか、来世も貴方の弟に、できれば幼き日を共に過ごしとうございます。
内藤信成、一言坂にて討死す。 享年28。
37の矢傷、25の切り傷を負い、武田軍241を斬った末、仁王立ちで息絶えたという。
そして本多隊は
「武士の情けを心得ているお方とお見受けする、名を伺いたい」
「小杉左近にござる。儂の気が変わらぬうちに渡河されよ」
小杉左近なる武田軍の足軽大将が本多隊の戦ぶりに感動したことでこれを見逃し、帰還に成功した。
この小杉左近が歌ったとされる狂歌こそが『家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八』
一般に唐の頭とは家康が愛用していたヤクの毛の兜とされるが、他説として、内藤信成のことともされる。
実際にこの戦の際に内藤信成はヤクの毛の兜を被っていたとされ、後年、この時の兜が武田家家臣の長尾景勝より徳川家康に返還されたと伝わる。
この戦いで徳川軍は内藤信成という若き勇将を失い、武田軍は卑怯者、小笠原氏助を失ったと民たちは口々に言ったと伝えられる。
この戦いの数日後、武田信玄の本隊に加え、武田信定、馬場信春、飯富政景の各部隊が集結し、浜松に向かう。
前哨戦はこれにてしまい、ここより先は徳川家康、人生最大の敗戦である三方ヶ原の戦いへと向かうとしよう。
このとき忠勝の頭の中には人質であった主君とともに駿府にいたころ坊主が話していた話を思い出していた。
この部分の坊主は皆さんお馴染みなはずの今川家の例の黒衣の宰相です。
例の坊主は謎の超能力で景虎さんとかノッブとかの性別は知ってると思うの。
ちょっと年代が合わないかもだけど多めに見てください。
後、もちろん本多君は無傷です。安心してね!
小笠原氏助ファンの皆さんにはごめんなさい。
内藤信成は正史では家康が駿府で隠居するまで駿府城を任されたり、小牧・長久手とか関ケ原でも重要な拠点に配置されたりと信頼されていた人です。
ナレ死した石川家成は家康の忠臣で、跡取りに先立たれた結果、隠居後に藩主になったり、したのち死亡。本来なら無嗣断絶のはずだったけど特例で存続を許されたらしいよ(そもそも、甥の数正君は徳川の機密全部もって豊臣に裏切ったりしてるけど処罰されてない辺り、信頼されてたんだなあとなるよね)
年数を一気に進めるのあり?なし?
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あり
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なし