1575年
武田信玄の死より3年が経ち、武田家はこの頃、最大版図を築いておりました。
その勢力は甲斐・信濃・越後はもちろんのこと、上野、佐渡、駿河のほぼ全てを保持し陸奥の南部(後の岩代)、出羽の南部(後の羽前)、武蔵の北部、遠江の東部と北部、美濃の岩村、越中の東部を保持し、日ノ本一の大名となっておりました。
一方で織田家は信玄の死後、浅井・朝倉の両家を滅ぼし、北近江、越前を新たに獲得しましたが越前に関しては一向一揆に奪われておりました。
そうした中で武田家で頭角を現したのは諏訪勝頼、武田信玄の4男である。
彼は未だ10代前半の当主、信義の名代として遠江や三河を転戦し、徳川方を大いに悩ませていた。
信玄の遺言により、信義の後見人を務める信玄の弟の信定は領地が越後にあることもあり、甲斐にいることも少なかったため影響力は低く、もう一人の後見人である信繁はこの頃は病がちになり、事実上の隠居となっていたことも勝頼の影響力が増加した原因だと言われている。
奥州においては、信玄の死後、再び敵対した伊達晴宗・輝宗親子が度々、武田領に侵攻し、その都度、一条信龍や最上義光らが対応していた。
1575年、武田家の命運を決める戦が起きる。
当主、武田信義自らが率いる約2万の軍勢が長篠に進軍、参戦するのは諏訪勝頼、飯富政景、馬場信春、武田信廉、内藤昌豊ら武田家の重臣の多く。
留守を守るは武田信繁、仁科盛信の両名。
同時期に伊達晴宗が1万の軍勢を起こし、会津へ侵攻したため武田信定、一条信龍らはこれに対応するためにこの軍勢には参加していない。
この報告を聞いた徳川家では
「信長様に援軍の要請を!」
「無理しても8千程ですが」
「長篠はどうなっておる!」
「裏切らぬか?」
「一度、武田を裏切っておる、そう簡単にもう一度あちらにはつかんだろ」
大慌てで戦の準備を行っていた。
「殿は?」
「いつもの仏壇のところじゃ」
酒井忠次が答えると同時に部屋の扉が開く
───殿、対武田で散った者たちよ、此度こそ武田を破ってまいりまする。
「皆の者、例え織田信長が来ずとも、出陣する、武田を討ち破るぞ!」
徳川家康、後の征夷大将軍となる男である。
「おお~!!」
「勝算はおありで?」
「勘じゃ」
「…ならば、我らの勝ちでございましょう」
長篠城近辺、武田家の陣
「長篠は小城、3日もあれば片がつく」
諏訪勝頼が静かに言う
「問題は織田が出るか、否か」
「織田が出たとして我らが負けないでしょう」
「お館様、徳川だけであれば、勝てましょうが織田も来るとなれば厳しい戦となりますぞ。織田は恐らく3万は動員してきましょう」
「こんなことであれば、もう少し多くの兵を出すべきでありましたなぁ」
「しかし、これ以上の大軍となれば補給が厳しくなりますからな」
「まだ織田が出てくると決まったわけではなかろう!」
この翌日、武田軍約2万が長篠城に攻撃を開始する。
武田軍が2万な理由。
信濃から三河への道の補給ではこれが限界。
対伊達のために越後・奥州の兵が使えない。
小城を一つ落とすだけのための戦いのため全力を出さないでいい。
字数少なめ。ここ最近、多かった反動のような気もする。
状況説明が少ないかも。
年数を一気に進めるのあり?なし?
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あり
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なし