1582年 2月24日信濃国鳥居峠
木曾義昌と馬場昌房らが奪取した鳥居峠に武田信定が到着、約1万の兵を率いていたと伝えられる。
この時、鳥居峠には織田方の織田有楽斎、稲葉貞通、丹羽氏次らの5千程が攻めていたが信定軍の到着を見て木曾谷に撤退する。
「小笠原の旧臣どもが謀反致しました」
「小笠原のか…」
かつての信濃守護、武田信玄に信濃を追われた小笠原家の残党が挙兵、これに対応するため馬場昌房が深志城に撤退した。
「ここに1千、追加で置いていく、木曾より来る敵は全て食い止めてくれ」
「御意」
馬場隊が抜けた穴を信定配下から1千を出し補填し、木曾隊は合わせ1千8百程で防衛にあたることになる。
しかし、魚津の戦いからこの鳥居峠の決着に至るまでの期間に更に武田家は窮地に追い込まれていた、2月18日より徳川家康が駿河に侵攻し、21日ごろにはその大半が陥落する。
一方で駿河においても山県昌満らが田中城などに籠り抵抗している。
関東においては武蔵北部を制圧した北条軍が更に北上し、厩橋城、国峯城、箕輪城を包囲、これに対して小幡信貞、北条高広、内藤昌月らが各々で抵抗する。
こうした状況下において3月2日、信濃国高遠城において武田家と織田家の戦が発生する。
後の世に言う高遠城の戦いである。
高遠城の城主は仁科信盛(盛信から改名)、武田信玄の5男である。
小山田昌成・大学助兄弟、渡辺照、諏方頼辰などが彼を頼り入城。
この他にも保科正直などが入城している。
その兵数は3千。
その後方には信盛の兄、諏訪勝頼が諏訪上原城より3千の軍を率い、高遠城の援軍に向かう。
高遠の北よりは武田信定が9千の兵で織田軍の付け城を攻撃し、高遠城の援軍に向かっていた。
この3部隊がこの高遠城の戦いにおける武田の全軍であり、その総数は1万5千に及ぶ。
対する織田軍は織田信忠を総大将に森長可、河尻秀隆、滝川一益など甲州に出兵している織田家の名だたる武将が集結し、その数は3万に及ぶ。
甲州征伐最大の戦い、高遠城の戦いが開戦する。
信濃国高遠城
高遠城の大広間に一人の僧がいた。
その僧は織田家からの使者であった。
「信長様は仁科殿のことを非常に高く買っております。降伏してくださるのであれば武田の名跡を継がせるとも……ひっ!」
先ほどまで流暢に話していた僧が刀を抜いた信盛を見て悲鳴を上げ、顔を青くする。
「よいか、坊主。俺は武田の一族だ!誇りがある。その誇りを汚し、俺に降伏しろというのか」
「い、命が大切なので…ひっ!」
「そうか、ならば貴様の命まではとらねえよ。顔が整ってんな。その顔が貴様の誇りか?ならばその誇りを俺が奪ってやる。俺の誇りを傷つけたんだ、それくらいされても文句ねえだろ」
「や、やめ……あ、痛い、痛い、こ、このようなことをして信忠様が黙っておると…」
「気絶しやがった、大学助。使者殿を織田の陣に戻してやれ」
仁科信盛を降伏させるために信忠が派遣した僧は耳と鼻をそがれて送り返されたのだという。
これを受け、信忠は総攻撃を開始する。
「全軍突撃!」
信忠の号令を受け、織田軍の兵士たちが高遠城に向けて進みだす。
天竜川に織田方の滝川一益、森長可が1万5千で布陣し、武田信定に備える。
一方、諏訪湖近辺に織田方の河尻秀隆が5千で布陣したと伝わる。
対する武田方は武田信定が天竜川の対岸へと進むべく兵を進ませるが、滝川一益配下の鉄砲隊によって川を渡ろうとした兵が射殺されていったことで、停滞。
織田方も森長可が武田軍に突撃しようとしたが武田方の弓隊に散々に叩かれ、停滞する。
この戦線は膠着し、本格的に動くのは二日目である。
一方、諏訪勝頼は3千の兵で河尻隊5千に攻勢を開始する。
こちらの戦線はこの日が最大の山場となる。
「食い破れ!貴様らには諏訪大明神の加護がある!」
「おお~!」
信仰の力という物は偉大なものであるただの農民を時には熟練の兵士にも勝らせ、時には空腹を我慢させ、植えることのない兵士とする。
突然ではあるが。
諏訪勝頼という男は武田家にとって忌み子であった。
信玄が滅ぼした家の娘との間に生まれた子。
彼を武田家中で当初より認めたのは父・武田信玄のみであった。
信玄の正室である三条の方や一部の譜代過労に至っては勝頼を見ただけで体調を崩す。
義信の死後には信玄は彼を当主にしようとしたしかし、他の者たちが反対した。
ならばと信玄は彼を孫、信義の後見人とし、織田信長の養女と結婚させた。
暫くは幸せな時間が続いた。
しかし、間もなく武田家は織田家との戦争に突入する。
その時には勝頼の隣には誰もいなかった。
妻は息子が生まれた時に死んだ。父の命令で今度は北条の娘を妻にした。
徳川との戦役の中で勝頼は頭角を現していった。
気づけば彼の周りには数多の友がいた。
父が死んださいに、叔父二人は隠居するつもりだった。
彼を認めないものがいることを知っていたが故に彼は彼らを頼り、無理を言って二人を後見人とした。
その後は叔父たちは後見人とはいえ表舞台から退いていた。
甥は若かった。
気づけば、勝頼が家中を仕切っていた。
故に、長篠の敗戦も、今の武田の状況も全て、勝頼の、いや私の責任だ。
「勝つぞ!」
こんなどうしようもない私についてきてくれる者たちがいる。
それだけで、その事実だけで。
私は、戦える。
諏訪の民たちよ、武田のために散った同胞たちよ……父上。
このどうしようもない私に力を貸してください。
「どうしたんすか、勝頼様。我らは嬉しいんでさぁ。一度は滅んだ諏訪の地に、諏訪の血を引く貴方様が守ろうと立ってくださることがぁ」
「おっとうのいう通りでさぁ。勝頼様は生きて下され。我らの死を糧にしても」
「諏訪のためです。武田のためではありません。しかし、貴方様が武田のために働くのなら儂らは武田のために働きましょう。諏訪の血を引く貴方様のために」
ああ、駄目だ。次々に死んでいく。
人が減る。
一人、また一人と武田のためではなく、私などのために死んでいく。
幼き日に母に言われたことを思い出す『貴方が継ぐことになる諏訪の当主は諏訪の民にとって神のような存在なのです。貴方の指示に従うでしょう。けれども、それは彼らの死は貴方の責任ということなのですよ。全て正しい選択をしろとは言いません、しかし、諏訪の民たちが守れてよかったと、貴方のためにい切れてよかったと言い切れるような人になりなさい』
ああ、母上、私は諏訪の民たちに誇れるような当主になれたでしょうか。
諏訪湖近辺の戦いにおいて諏訪勝頼討死。
「諏訪様!」
ふふ、諏訪と武田の血を継ぐ者は逃がした。
これで、何も問題ないですね。
諏訪四郎勝頼、諏訪湖にて討死。
織田方の河尻秀隆の本陣にまで迫り、秀隆に一太刀浴びせた後に絶命。
織田方、諏訪の抑え大将、河尻秀隆、討死。
織田・武田の両軍が大きな損害を出した高遠城の戦い1日目が終結する。
勝頼、結構好きなんですよね。
高遠城、何気に勝頼の居城だった時代もあります。
史実見ていて思うのは1582年の武田って詰んでるですね。
小山田・穴山・真田・木曾・仁科くらいしか知らねぇ~となって己の無知も同時に知りました。特に馬場の息子とか。
後、武田一族の信豊とか信廉、一条信龍くらいかな。
年数を一気に進めるのあり?なし?
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あり
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なし