1582年 3月9日
小山田信茂が守る岩殿城に武田信義が率いる2千の兵が向かっていた。
小山田信茂が信義を匿うのを買って出たためである。
「岩殿ならば1年は持ちましょう。その間に北陸・奥州のお味方が必ずや殿を救ってくれるはずです」
「ああ、だが、私のせいであまりにも多くの者が死んでしまった。小山田殿も受け入れてくれるかどうか」
「小山田殿ならば受け入れてくれましょう。約束もしておりますし、なにより彼の者の忠義は本物に」
信義を励ますのは長坂、跡部といった後に武田家の奸臣と評される者たちであった。
そんな武田軍の最前列は岩殿城に到着する。
「武田家家臣、大井義為に武田信義様の軍が到着なされた、開門していただきたい」
「我らは故あって、受け入れることは出来なくなりもうした」
「なんと…」
しかし、小山田信茂はこれを拒絶。
既に退路は断たれ、甲府を出たころ2千いた将兵は84にまで減り、田野という地にまで撤退することとなった。
そして、この地のすぐ近くにある天目山と呼ばれる地で武田信義が率いる武田軍と滝川一益が率いる織田軍の戦が起きる。
「お祖父様、父上。この地で甲斐の武田の家を畳み申すことをお許しください」
武田信義自害。享年27。
同地において、武田信義に最後まで付き従った跡部・長坂を始め、金丸・土屋・秋山の3兄弟、大井など84名悉く討死あるいは自害。
これに従った信義室など女性、59名も自害。
これにて、甲斐武田の本拠地である甲斐は陥落する。
その後、甲斐国内に潜伏していた武田信廉が捕らえられ、最後の最後に主君を裏切った小山田信茂らとともに処刑される。
以降も武田家の旧臣たちを武田信定、一条信龍らが率い、織田家やその周辺勢力と戦うが、真田昌幸の離反、織田信長の本軍の到着などによって3月中には信濃・上野から撤退を余儀なくされている。
「我ら山県に降伏せよというのか、裏切り者の穴山が!」
「ああ、その通りだ!武田は既に滅んだも同然、越後が残っているが何ができる。武田の旧臣には一人でも多く生きてほしい。せめて、裏切ったことへの信玄公への償いじゃ」
「ならば、一生償っていけ!我らの散りざまを見て、後悔に苛まれながらその生涯を終えるがよい!」
駿河国田中城、4月時点で唯一抵抗している武田家の駿河の拠点である。
そして、この城も徳川家康の手により既に陥落しようとしていた。
家康は武田の縁者や家臣を見つけ次第殺している信長とは対称的に一人でも多くの武田の家臣を自らの配下に加えようと動いていた。
「山県昌満、降伏はしないと」
「致し方ないか、攻め落とせ」
駿河国田中城陥落。
城将山県昌満討死。
この田中城の陥落をもって、甲州征伐は終結し、織田信長は配下の森長可に北信濃、滝川一益に上野、毛利秀頼に伊那、河尻秀隆に甲斐を与え撤退。
以降。1582年6月頃まで越後の武田信定とこれらの諸将に加え柴田勝家らが争うことになる。
徳川家康は新たに駿河を与えられることとなった。
1582年 3月28日 越後春日山城
この頃の越後には信濃・甲斐・上野から撤退した武田家の家臣らが集まっていた。
「信清、お前との親子の縁を切る」
「えっ!急に追放ですか」
武田信清、武田信玄の実子であり、武田信定の養子にあたる。
「違う違う、お前が武田の宗家の家督を継げ。兄上の子供で残ってるのがお前しかいないからな」
「葛山の兄上に諏訪の兄上の子の信勝の方が私よりも……」
「葛山の方は先日、信廉と一緒に処刑されたそうだ。小山田と共に裏切っていたらしい。信勝は母親が織田の娘だ、今の家中が認めんよ」
「海野の兄上なら!」
「僧籍に入っていた上に盲目、本人にも継ぐ気がない。何より年を食ってる。私はそろそろ隠居がしたい。信龍は若くない。信豊は知らん。信永も継ぐ気がない」
「一人だけ雑じゃないですか」
「あんな小諸に引きこもるような奴、私は知らん。安心しろ、うちの家督はお前の跡取り以外の息子か仙千代に継がせるし、なんなら私の代で終わっても問題ない」
仙千代は元の名を奥平仙千代、奥平信昌の弟であり、信昌の裏切り後、処刑されそうになったのをおふう共々信定が保護して現在は信定の養子になっている。
「分かりましたよ、継ぎます、継ぎますから扉の奥で聞き耳を立ててる輩は暫く減給にします」
「それはあんまりでは!」
「そうですよ!ただでさえ、金がないのに!」
「こんなことなら城から金を持ってくればよかった!」
扉から出てきたのは馬場信房、内藤昌月、高坂昌元(信達)、武田四天王と呼ばれる馬場信春、内藤昌秀、高坂昌信の子である。
1582年 6月6日 越中国魚津城近辺
甲州征伐の序盤に武田信定に破られた柴田勝家はこの頃、越中富山城を奪還し、再び、魚津城を攻撃していた。
その数は4万と伝えられる。
これに対して、魚津城には中条景泰を始め13の城将とともに3千を超える兵で籠城していた。
これを救うべく武田方は武田信定が5千の兵で魚津城付近にまで出陣したことで睨み合いになっていた。
この頃には森・滝川らの織田軍が越後に侵攻しており、これに武田信清以下武田の主力が対抗していたため魚津城への援軍は5千程になったという。
「織田信長、本能寺にて討死!」
「なんだと!」
「誰がやった」
「織田がか」
「信定様、御指示を」
「うむ、全軍突撃じゃ!信長の死を叫べ。柴田にも同様の報告が入っておろう。動揺するはずじゃ」
この予想は当たっており、柴田勝家も同日に信長の死を知ったことで撤退。
同時期には信濃・上野・甲斐の織田方の武将も撤退したことでこれらの地を巡り武田・徳川・北条による天正壬午の乱とよばれる争いが発生し、一部の学者はこの織田軍の撤退により、甲州征伐が終結したと主張している。
武田家を完全につぶそうとしたら会津まで行かないとだめだから仕方ないね。
本能寺が起こせないのは困るからね、武田が滅ばないのは仕方ないね。
昌幸君は個人的に領地が守りたい人というイメージがあったので岩櫃にそのまま配置。(織田家へ)(この世界線の幸隆は信濃に領地を持ってないなんて言わない!多分越後領は信綱の子供が継いでる)
次回で生前編は最後かな?その後で信定君の評価的なのをp〇xivで書いてという感じになる予定。もしかしたらもうちょい長くなるかもだけど。
年数を一気に進めるのあり?なし?
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あり
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なし