1595年 伏見武田屋敷
豊臣秀次の切腹により始めった『秀次事件』と呼ばれる一連の騒動により、秀次と親しかった大名たちは屋敷での謹慎を命じられていた。
武田信清もその一人であった。
そんな信清の許に2人の男が訪ねてきた。
「武田殿、徳川殿、この私とともに秀吉を討ってはくれぬか」
そう言い放つのは織田信雄、織田信長の次男であり、駿河駿府120万石を支配する。官位は内大臣。豊臣政権におけるNo.2である。
「太閤殿下を討つですと…」
徳川家康が目を見開き驚いている。
「その通りじゃ、秀次殿の切腹及びその一族郎党への処罰、断じて認めることは出来ぬ」
「…勝算は」
「既に大和郡山の増田殿、近江水口の中村殿、近江長浜の山内殿、近江佐和山の堀尾殿、丹後の細川殿、尾張清洲の三好殿らが賛同しておる」
名を挙げられたものの多くは秀次の家老である。
「7、8割は勝てるかな?」
「いや、秀吉を甘く見てはいかん、5割と言ったところになるのでは?」
「……しかし、秀吉の横暴にうんざりとしている者は多かろう。この信清。共に挙兵いたしましょう」
「…徳川家康も同じく」
「ありがたい」
「しかし、決行するのは早い方が良かろう」
「うむ、秀次の家老らの処罰が決定する前に急ぐとしよう」
この時、秀次の家老らの多くには処罰が下されておらず各々が謹慎している状況であった。
「しかし、名目上とはいえ立てる者を決めておかねば」
「それなんじゃが、秀次殿の長男である仙千代を京都所司代・前田玄以殿が保護しておる。これを新たな豊臣の当主とする」
この仙千代の母親は織田家臣・日比野下野守(実名不詳)の娘であり、信雄の養女として秀次に嫁いでいた。
(徳川よりは与しやすい)
(武田よりは戦いやすい)
各々の思惑があったのかは分からないが、3名の密談を続く。
これより一週間後、一部の大名が姿を消す。
そして、1595年8月2日。全国で反秀吉の火の手が上がる。
主犯と目されるは駿河内府・織田信雄、江戸大納言・徳川家康、会津黄門・武田信清の三名。
同時に挙兵したのは丹後12万石・細川忠興、出羽山形40万石・最上義光、土佐9万石・長曾我部元親。この他、秀次家老達。
開戦の火蓋を切ったのは武田軍による相馬攻めであった。
8月2日に開戦したこの戦いは僅か2日で相馬家の降伏で決着。
さらに8月3日には佐竹家前当主・佐竹義重がこれに加わり、親秀吉派の当主・佐竹義宣を追放する。
同じく8月3日、信州小諸5万石・仙石秀久が徳川秀忠が率いる1万を小諸に引き入れる。
真田昌幸嫡男・真田信幸がこれに合流し、沼田城が反秀吉に合流する。
ここに後に『文禄の騒乱』と呼ばれる戦いが幕を開けた。
***
1595年 8月4日 京都伏見城
「正則、直ぐに犬山に向かい兵を集めてくれ。私では近江を通ることすらできぬ。武に優れるお主にしかできぬことだ」
「ちっ、なんかむかつくけど、いいぜ。三成」
福島正則、尾張犬山へ帰還。
約6千の兵を集めるが美濃岐阜城主・池田輝政の謀反を受けて尾張を放棄。
清州で三好吉房の5千を撃破し、伊勢長島に撤退する。
豊臣秀吉の号令の下、蜂須賀・生駒・加藤・藤堂ら四国諸将の2万が長曾我部討伐に出陣、総大将は筑前・筑後の小早川隆景である。
対するは長曾我部元親の5千程。
しかし、ここで一つの裏切りが起きる。
藤堂高虎、反秀吉方へ。
この突然の裏切りによって秀吉方の加藤嘉明が手傷を負うなどの大敗を喫する。
***
1595年 9月12日 美濃国岐阜城
この日、岐阜城には反秀吉方の将の多くが集結していた。
「このまま美濃・近江を通り、瀬田にて秀吉との決戦を行いたいが」
「僅か一月で近江のほとんどが陥落と」
秀吉は僅か一月の間に近江を陥落させ、10万とも言われる大軍で関ケ原に布陣している。
「致し方なし、関ケ原で決戦とすべし」
「うむ、やるぞ!」
既に前田玄以もこれに合流し、豊臣仙千代を擁立した反秀吉方は約13万の軍勢で関ケ原に進軍する。
このとき、各地の戦況は以下の如く
信濃において親秀吉方・真田昌幸(2~3千)対反秀吉方・徳川秀忠・一条信龍・仙石秀久・真田信幸(2万5千)
北陸において親秀吉方・前田利家・青木一重(2万~3万)対反秀吉方・丹羽長重(5~8千)
飛騨において親秀吉方・前田利長(1万)対反秀吉方・金森長近・毛利秀頼(6~8千)
大和において親秀吉方・小出秀政・佐竹義宣(5千~8千)対増田長盛・浅野長政(8千)
四国において親秀吉方・小早川隆景・安国寺恵瓊・加藤嘉明・蜂須賀家政(2万)対反秀吉方・長曾我部元親・藤堂高虎(1万~1万2千)
丹後において親秀吉方・宮部継潤・大谷義継(6千)対反秀吉方・細川忠興・細川幽斎(3千)
九州において親秀吉方・加藤清正・立花宗茂・小西行長・伊集院忠棟(1万~2万)対島津義弘・島津義久(2万)
各所において一進一退の攻防が繰り広げられていたという。
***
そして1595年9月13日
霧が晴れる。雨が降る。雨が止む。
不安定な天気の中、総勢20万を超える軍勢が相まみえる。
(兄上、信繁、信廉、氏郷、駒、力を貸してください)
「突撃せよ!」
開戦の火蓋を切るのは武田家一門衆筆頭・武田信定。
ではなく
「進めぇ!皆殺しじゃ!」
「敵を討て!我らが殿のために!」
手に握るは名槍・日本号。秀吉子飼い一武勇を誇る古今無双の猛将、福島正則。
引き継ぐは戦国最強・赤備え。家康配下の赤鬼、井伊直政。
共に齢は30半ばといったところ。
若き猛将達の激突が開戦の火蓋を切る。
『関ヶ原の戦い』開幕
補足:蒲生氏郷は1594年に病死しています。そして信定君と氏郷は前話の後書きにあるように毎日茶を飲ませたと言われるくらいには親しかったそうです。
他にもいくつか展開は考えていましたが、最終的に秀次の死をきっかけにする反秀吉の反乱のような展開になりました。(秀次・駒姫生存ルートや秀次弟の秀勝・秀保の生存ルート、史実通りに関ケ原を行い家康と戦うルート、大阪城に三成などの豊臣恩顧の大名が籠るルートが候補にありました)
後、普通にここまで長く続くとは思ってもいなかったんですよね。(甲州征伐、小田原の陣で終わって生前を終わらせる考えや長篠で終わるルート、後は東北の伊達家が埋葬機関から援軍をもらってその埋葬機関の人物と相打ちなんかのルートもありました)
まあ、全部、プロットもない私の頭の中でなんですけどね。
ただ、本当にここまで生前編が続くとは思ってなかったです。
後数話で生前編が完結するはずなのでそれまでもその後もどうかよろしくお願いします
今後の生前編の展開
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史実通り(細かい部分は異なる)
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史実無視のオリジナルストーリー
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史実で起こった事件の大きい流れを変更